第五章 交わり始める事件
第五章 交わり始める事件
新宿歌舞伎町。
麗らかな秋晴れの下、とあるコーヒーショップのテラスでグレッグ=C=シーファスは、その色男ぶりが台無しになるくらいのしかめっ面を見せていた。
「たまにはコーヒーもいいものだと、ミシェルが言うものだから飲んではみたが、やはり口に合わん……」
グレッグは、憎らしげにカップの中の黒い液体を見つめる。と、若いウェイターがトレーに料理を乗せてやって来た。
「お待たせしました。BLTサンドです」
目の前に運ばれたBLTサンドを、またもやグレッグは憎らしげに見つめる。
「これもそうだ。なんだこの品の無いサンドウィッチは……フィッシュアンドチップスの方が、軽食としてどれだけ素晴らしいか……」
「なにをブツブツ言ってらっしゃるのですか?」
いつの間にか、横にはミシェル=シラカワが立っていた。
「やあミシェル。思っていたより早かったね。ロンドンからの日帰りは大変だったろう」
と、労いの言葉を掛けながらも、グレッグは振り向かず、コーヒーとBLTサンドを睨んだまま答えている。
「なに、たった今、アメリカ文化が肌に合わない事を再認識していたところだ」
「好き嫌いはいけませんよ――ウェイターさん、私にもホットコーヒーを頼むわ」
ミシェルの笑顔に、若いウェイターは顔を真っ赤にして「はい!」と、店舗内に駆け込んで行く。恐らく、他の客の注文など差し置いて一番に持って来る事だろう。
ミシェルは、グレッグと向かい合わせに座ると、A4サイズの茶封筒を差し出し言った。
「さて、グレッグ様、お仕事です」
その途端、グレッグは意気揚々とした顔をシェリルに向ける。
「と、言う事は、バーノン=カミングの消息を掴んだか…!」
「いえ、残念ながら」
あまりにもアッサリとしたミシェルの返答。グレッグは、ふてくされたようにテーブルに肘を付き、そっぽを向いてしまった。
「そういう事であれば、いくら愛する君の言葉とはいえ、今の私は仕事をする気にはなれない。ただでさえ、オフィスと共に地下に停めていた愛車のアストンマーティンは消滅し、敬愛する王室からは『経費を使いすぎだ』と言われて新しいオフィスは手配されず、頼みの綱だったミスター巌からは依頼を断られているのだ。その上、ロンドンまで調査に出掛け、手土産一つ無しでは……これでヤル気を起こせという方が無理な話だ」
要するに愚痴である。だが、ミシェルは明るい笑顔をもって口を開いた。
「誰が、手土産が無いと言いました?」
その瞬間、グレッグは目を光らせてシェリルに向き直った。
「先程も申し上げた通り、残念ながらバーノン=カミングの行方は未だ掴めません。しかし、ロンドンヒースロー空港の防犯カメラを調べた所、気になる人物が映りこんでいました。日本人の少年です」
「気になる点は?」
「この少年、出国する際にパスポートを提示しておりません」
当然ながら、ありえない事であるが、グレッグは驚きもせず、茶封筒の中の報告書に目を通しながら平然と答えた。
「別に珍しい話でもないだろう。能力で管理官の目を騙すなど、裏側世界ではよくある事だ」
しかし、不意にグレッグは報告書をめくる手を止めた。
「これは…!」
「その写真を見ていただければ、説明は不要でしょう。その日本人の少年は、あの事件の一週間後に出国しています。当たってみる価値はあると思いますが?」
「ミシェル、すぐに紗月町に向かうぞ!」
グレッグは、茶封筒を片手に立ち上がって駆け出した。
それを追うように、ミシェルも立ち上がる。
すると、そこに先程の若いウェイターがホットコーヒーを持って現れた。
「あの、ご注文の品なんですが……」
「ごめんなさい、急用が出来たの。お金はここに置いておくわ。おつりはチップで取っといて」
ミシェルは、テーブルに一万円置くと、グレッグが嫌ったBLTサンドを手に取った。
「これはもらって行くわね。私、大好物なの」
最後にミシェルは若いウェイターにウィンクを飛ばし、BLTサンドを片手にグレッグの背中を追いかけた。
若いウェイターは、店長に怒鳴られるまで夢見心地のままその場に立ち尽くしていた。
駿と武志は、驚愕の表情を作り、校舎内を駆け回っていた。
「なんだこれ……」
武志は、辺りを見回しながら顔を引きつらせて呟く。校舎内に居る全生徒と教師が、一人残らずその場に倒れこんでいるのだ。
「奈那っ! あゆ美ちゃん!」
駿は、必死に叫ぶ。だが、返事は無い。
「くそっ、どこにいるんだよ…! どうなってんだよ!」
「駿、落ち着いて。とりあえずみんな息はあるみたいだから。それより外に出てみよう。何かわかるかもしれない」
駿は頷き、二人は一階を目指した。
一階、下駄箱付近、そこから見える校庭も、やはり校舎内と同様の惨状であった。校庭に倒れている生徒達の中には、緑山や竹内の姿も見えた。駿は直ぐに駆け寄ろうとしたが、その時、正面玄関の前で倒れている女性が目に映った。
「マリちゃん先生!」
駿は直ぐに駆け寄り、その体を揺さぶった。
「先生! しっかりしてくれよ!」
高田真理子も、他の者達と同様、気を失っているだけのようではあったが、駿の声には一切反応を示さなかった。その横で、武志は辺りを見回しながら、冷静な疑問を口にした。
「ねえ、駿。どうして僕達だけ無事なんだろう…?」
「わかんねえよ、そんなこと!」
混乱した頭で叫ぶ駿。その時、再び悲鳴が上がった。
「イヤァー! あゆ美ちゃん!」
奈那の悲鳴であった。
「裏庭だ!」
駿は同時に駆け出し、武志もその後ろをすぐに追いかけた。
裏庭では、あゆ美が奈那を背中越しにして守るように、両手を前に突き出し黒く巨大な蛇の攻撃を防いでいた。
「お願い、早く逃げて。もう、もたない……」
ついにあゆ美は、力尽きたように片膝を付く。黒き蛇が、その巨大な牙を剝く。
と、そこに、駿たちが駆けつけた。
「二人とも無事か!」
駿は叫ぶが、同時に、奈那とあゆ美を襲っていた蛇に言葉を失った。さすがの武志も、顔を強張らせている。
そんな二人を見止めると同時に、あゆ美は叫んだ。
「二人とも、奈那さんを連れて早く逃げて!」
同時に武志は、奈那の元に駆け寄ろうとしたが、それより早く叫んだのは駿であった。
「そんなこと出来るかよ!」
駿は、拳を振り上げ、蛇の悪魔に立ち向かって行った。
「あゆ美ちゃんから離れろ、バケモン!」
「近付いてはダメェ!」
あゆ美が叫ぶ。しかし、駿の突進は止まらず、蛇の咆哮は駿を襲った。
「がっ! 耳が…!」
今まで聴いたことも無い大音響が響き、駿は思わず耳を塞ぐ。だが、響いているのは駿の頭の中であった。耳を塞いで、どうにかなるものでもない。
「なんだよこれ…!」
駿は苦悶の表情でひざまずく。
と、蛇は咆哮を止め、中空に舞ってとぐろを巻いた。そして、駿達を見下ろし「これは警告だ」と、全員の頭の中に聞き取れる声を発し始めたのだった。
「河本駿、浅井武志、増田奈那、汝ら三人はこれ以上、東間あゆ美に関わるな。東間あゆ美、汝、三人が大事なら我と共に来い。抵抗するなら、汝らその命無いと思え」
なぜ自分達が命を狙われなければならないのか?
なぜ友を失わなければならないのか?
この化け物は一体なんなのか…?
あらゆる疑問が脳内を駆け巡り、この人外が言う「命は無い」という言葉に全員が凍りついていた。
……ただし、一人を除いてだが。
「うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅるせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
あの大音響の攻撃をくらいながらも、駿は蛇が怯むほどの大声で怒鳴ったのだった。
「なんで、んなこと聞かなきゃいけねーんだテメエッ! あゆ美ちゃんは俺達の仲間だ! バケモンの分際でなめんなよっ!」
駿は、蛇に向かって強く拳を突きたてた。
その時、蛇のものではない、誰かの声が響いた。
「わからずや……」
蛇が再び襲い掛かる。今度の狙いはあゆ美であった。だが、それより早く駿は、あゆ美を守るように両手を広げ、蛇の前に立ちふさがる。
「させねえよ、バケモンっ!」
「だめぇーーーーーーーっ!」
あゆ美は叫び、駿の後ろからまた両の手を前に突き出す。黒き蛇は、壁にぶち当たったかのように空中に弾かれた。
駿は驚き、後ろを振り返る。と、そこには、息を切らしながら決死の表情を浮かべるあゆ美が居た。
「あゆ美ちゃん、今のは……」
だが、あゆ美は首を横に振った。
「私にも、判らないんです。ただ、守らなきゃと思ったら、反射的に……」
そこに、武志が奈那の手を引いて、駿とあゆ美の横を走り抜けながら叫んだ。
「駿! 詳しい話は後で聞こう! とにかく今は逃げるんだ!」
しかし、武志に手を引かれている奈那が後ろを振り返り、声を上げた。
「武志、ヒメが…!」
「大丈夫、みんな気絶しているだけだ。あの悪魔が何なのかは判らないけど、狙いが僕達やあゆ美ちゃんなら、みんなを巻き込まない為にも、今は逃げる方が得策だ!」
「……わかった」
奈那は強く頷き、同時に駿もあゆ美の手を握り締めて走り出した。
「でもよ、逃げるったって、どこへ?」
「もし、みんなの気を失わせたのがあの化け物の仕業なら、僕達以外の人間には見られたくないって事だ。とにかく学校を出て、人の多い場所まで…!」
駿が頷き、あゆ美は強く答えた。
「わかりました。それまでは私が何とかします」
力の限り走る四人。裏庭から校舎を抜け、無数の生徒達が倒れている校庭を駆け抜ける。
だが、黒き蛇は再び異音を発したかと思うと、まるで瞬間移動でもしたかのように一瞬で裏庭から校庭へと移動し、四人の上空に現れた。あらゆる音が凝縮されたような異音を発して獲物を狙う姿は、ガラガラヘビさながらである。
「我は音の悪魔、逃げる事はかなわぬ……」
四人の頭の中に、再び響く禍々しい声。だが、あゆ美の能力を警戒してか、うかつには近づけない様子であった。
四人の目の前に校門が見えてくる。と、校門を指差し、奈那が叫んだ。
「誰かが校門の前に立ってる!」
「逃げろアンタ! ここはヤベエ!」
校門に立つ何者かに駿も叫ぶ。だが、その何者かは微動だにしなかった。
そして四人は、その何者かを目の前にした時、一斉に足を止めた。
駿が、ありえない物を見る目で呟いた。
「あゆ美ちゃんが、もう一人……」
その人物は、ゆっくりと四人に近付いてくる。髪は短かったが、その顔は、確かにあゆ美。
しかし、発した声は少年のものであった。
「やっと逢えたね、あゆ美」
あゆ美と瓜二つの少年は、ニコリと笑う。
あゆ美は、頭を押さえ、呟いた。
「一騎……兄さん……」
奈那が驚いた顔で口にする。
「兄さんって…? あゆ美ちゃん、兄弟はいないって……」
あゆ美は振り返らず、自分が『一騎兄さん』と呼んだ少年から目を離せずにいた。
「力の封印が解けて、記憶も少しよみがえったみたいだね」
「封印……封印……」
あゆ美は、真っ青な顔をして頭を抱える。すると、『一騎』は、あゆ美を自分の胸元に引き寄せ、抱きしめた。
「この十年、永かった……ようやく日本に帰れたのが一ヶ月前。本当は、すぐに逢いにも行けたんだけど、僕の協力者がね、『確実に作戦を行うには、まずは用意周到な準備が必要になる。それが戦略というものだ』なんて言い出すものだから、その準備に一ヶ月も掛かってしまったんだよ。でもまさか、あゆ美の方から屋敷を出てきてくれるとは思わなかったけどね」
一騎は、本当に嬉しそうな微笑みをたたえる。
「しかし、いきなり曼珠堂に行ったのは予想外だった。おかげで少々、手をこまねく事になってしまったよ。いや、あゆ美が悪いんじゃないんだよ。悪いのは――」
「武志、どうなってんだ…?」
「わからないけど、嫌な感じがする……」
武志の中の武道家の血が、一騎は危険だとみなしていた。
それは、直ぐに現実のものとなる。
「――あのジジイ、巌のせいなのだから」
「じーちゃんのこと知ってんのかよ…!」
驚いた声を上げる駿に、一騎は氷のような眼差しを向けただけで何も答えなかった。その代わりに口を開いた相手は、上空にいた黒き蛇にであった。
「おい、役立たず。その三人を殺せ」
駿と奈那は顔を強張らせ、武志は殺気をこもらせた瞳で一騎を睨み、あゆ美は怯えた表情で一騎の顔を見る。と、同時に、また蛇のものではない声が響いた。
「そんな……だって……」
「聞こえなかったか? 僕は『殺せ』と言ったんだよ」
声は、まるで押し黙ったように、もう聞こえなかった。
「さあ行こう、あゆ美」
一騎はあゆ美の手を引く。しかし、あゆ美は叫ぶ。
「いやだ…! いやぁ!」
「あゆ美ちゃんを離しやがれ!」
駿が飛び出した。そこに奈那が叫んだ。
「駿! 後ろ!」
駿が振り向いた時、そこには、黒き蛇の巨大な牙があった。
「マジかよ…!」
駿が、自分の死を覚悟した、その刹那――
「失せろ!」
気合の声と共に、黒き蛇は塵のように風に舞い、跡形も無くなった。
「じーちゃん!」
校門の所には、いつもの灰色の作務衣にサンダル履きの巌が、片手をポケットに突っ込んだ格好で立っていた。
「駿、無事か? 聞きたい事は山ほどあるだろうが、それは後だ」
そして巌は、普段の好々爺からは想像もつかないような厳しい顔で一騎を睨んだ。
「驚きだな。よく、ここまで来れたもんだ、一騎……」
一騎は、にこやかな笑顔で返した。
「お久しぶりですね。僕の方こそ驚きですよ。よく、ここに居るのが判ったものだ」
「俺は、お前の力を封印した張本人だぞ? 何処に居ようと判る……」
「その割には、来るのが遅かったように感じます。歳と共に、力の衰えが見えますよ」
「仕方ねえさ、寄る年波にはかなわねぇ――」と、巌も笑って見せたが、次の瞬間、凄まじいまでの殺気を含んだ言葉を放った。
「――でもな、テメエのようなガキ一人殺すくらいの余力は持ち合わせてるぞ…!」
「怖いなぁ……」と、にこやかな笑顔は崩さないまでも、一騎は一歩後退りする。
「そう思うなら、あゆ美嬢ちゃんを放せ」
一騎はあゆ美の手を離し、あゆ美はすぐに駿の所に駆け寄った。
「なあ、一騎よ。あゆ美嬢ちゃんには二度と近付くな。それがお互いの為だ」
「お互いの為…? ――だと!」
一騎の顔から笑顔が消える。その瞳に込められた光は、憎しみと言うには有り余るほどの憎悪の炎だった。
「貴様らの都合で愛する妹と離ればなれにさせられ、イギリスなどという遠い異国の地に追いやられ、力は封印させられ、四肢の自由すら奪われた! あの六歳の頃より、東間家と貴様への復讐を忘れた日などは一日として無い!」
「やはり、変わらねえな……」
「当然だ! 僕の神通力に掛けられた封印は、僕に毎日地獄を見せたんだ! 自由の利かぬ体に涙を流し、這いつくばり、力を使おうとすれば、手足をもがれるような激痛に襲われた!」
「無理に力を使おうとすれば、待っているのは死だぞ」
「でも僕は、その死すら乗り越えたんだよッ…!」
巌は、もう何も返さず、一騎から目を離さぬまま駿に言った。
「お前はみんなを連れて東間の屋敷に逃げろ。フィールドはまだ完全じゃないが、その場しのぎくらいにはなる」
「なんだよフィールドって! わけわかんねーよ!」
「いいから早く行け。俺も一騎を何とかしたらすぐに行く」
巌は、一歩前に踏み出す。同時に、一騎も前に出る。
その時、校門から入ってきた黒塗りの車が二人の横に停まった。すると一騎は、元のにこやかな笑顔に戻り、巌に口を開いた。
「ここで決着をつけても良かったのですが、迎えが来てしまいました。決着は後日、という事で――あゆ美、すぐに迎えに来るからね」
一騎はそう言い残し、後部座席に乗り込んだ。と、後部座席には、もう一人。スーツ姿に帽子を被った男が居た。その途端、巌は驚愕の表情を見せた。
「バーノン=カミング…!」
声を上げて、巌は後部座席のウィンドウを叩く。
「一騎! その男に関わるな! その身を……世界をぶっ壊す気か!」
帽子の男、バーノン=カミングは、ウィンドウを少し開け、巌に言った。
「また逢おう、『妖刀』」
言いようも無いほどギラついたバーノン=カミングの視線を残し、黒塗りの車は急発進をして、その場を走り去った。
「一騎、これで良かったのか? 一応、バックアップの体制も整っていたぞ」
バーノンは、日本語を使い一騎に言う。一騎は、微笑みをたたえて答えた。
「構いませんよ、予定通りです。目的の物は手に入れました――」
一騎の右手に握られていたのは、あゆ美の長い髪の毛、数本であった。
「――あの男は、東間の屋敷もろとも葬るつもりです。その方が手っ取り早いでしょ?」
「私の言う『戦略』というものを、わかってくれたみたいだな」
「まあ、面倒なのも近付いていたみたいですしね。西新宿でビルごと消すのに失敗したまま放っておいたのは、やはり間違いでした……」
「気にする事は無い。奴はまだ、君の能力の秘密に気付いていない。どうとでもなる」
「頼りにしてますよ」
言いながら一騎は、あゆ美を抱き締めた時に手に入れた髪の毛を、嬉しそうに眺めていた。
黒塗りの車が走り去った後、すぐに一台のタクシーが校門の前に停まった。中から降りてきたのは、グレッグとシェリルであった。
「良かった。町に入った途端、この場所から異様な力を感じましたので、もしやとは思いましたが……とにかく、ご無事でなによりです」
と、グレッグは駆け寄ったが、校庭の惨状にすぐ足を止めた。
「……とは言っても、無事なのは、貴方達だけのようですね」
「ついさっき、悪魔を消した所だ。こいつも多分、お前さんの専門分野だろう」
「ええ、確かに魔術の匂いがします」
グレッグは、近くに倒れていた女子生徒の一人に右手の人差し指と中指を突き立てた。どうやら剣に見立てているようである。その剣に見立てた指で、まずは自分の体に十字を切り、それから女子生徒に向かって星形、五芒星を切る。と、その指先でそっと女子生徒の体に触れた。
「どうやら、眠らされているだけのようですね。命にも別状は無さそうですが、ただし、魂ごと眠らされているので、ほっといたら体が朽ち果てるまで眠り続けます」
「なんとかなるか?」
「この学校自体に、かなり強力な結界が張られています。恐らく、イメージで作り出した物ではなく、何らかの触媒を使った物理結界のようです。本来であれば触媒を壊すか、術者本人に術を解かせるのが早いのですが――そんな時間も無さそうです」
いつの間にか、救急車、消防車、パトカーと、あらゆる非常サイレンの音が段々と近付いて来ていたのがわかった。
「あのタクシーの運転手が通報してしまったのでしょう」
グレッグの後ろで、ミシェルが困った顔を作って言った。
「かなり簡易的な物になってしまいますが、やるだけやってみましょう」
そう言うとグレッグは、懐から装飾の施された銀のナイフを取り出し、校庭の中央に立つ。それから、取り出した銀のナイフを使い、校庭に円と、その円の中に五芒星を描き始めた。円の中には文字が書かれ始める。
「ヘブライ語…?」
武志が呟く。以前に読んだ古本の中に描かれていたのを思い出していた。
グレッグが校庭に描いた物は『魔除けのペンタグラム』と呼ばれる魔法陣であった。グレッグは、それを一分とかからずに描き終わると、その中央に立ち、銀のナイフを頭上にかざす。
と、同時に、グレッグの頭上には光の玉が出現した。
「なんだアレ…!」
駿は思わず声を上げ、武志、奈那、あゆ美の三人は、初めて目の当たりにする魔術という異能に声も無く驚いている。
「アテェェェ……」
グレッグの唱える呪文が大気を震わせる。続けて唱える呪文で、光の玉はグレッグの頭頂に吸い込まれ、同時に黄金の光が降り注ぐ。同じように右からも黄金の光が走り、グレッグの体全体には黄金の十字架が刻まれた。
グレッグは両腕を広げ、自分自身が黄金の十字架と化すと、最後の言葉を唱えた。
「この場に集いし悪霊達に告ぐ! テトラグラマトンの聖なる四つの神の御名において、汝ら速やかに退け――Amen!」
魔除けのペンタグラムが、眩いまでに黄金の光を放ち始めた。その光は、紗月高校全体を包み込み、まるで気泡が弾けるように舞い上がる。
が、それは一瞬の出来事だった。白昼夢でも見たかのような顔で駿は目をこすり、武志、奈那、あゆ美の三人も、何も言えず立ち尽くしている。しかし、次に起こった事実は確実に現実のものであった。
「あれ? わたし一体…?」と、まず最初に、グレッグが五芒星を切った女子生徒が目を覚ました。それを側きりに、校庭で倒れていた生徒達が次々と重そうに体を起こし始める。もちろん、その中には緑川や竹内、高田真理子の姿もあった。駿と武志、それにあゆ美が、安心した笑顔を見せた。
そんな中、一人飛び出して行ったのは奈那であった。
「ヒメ! ヒメ!」
奈那は、叫びながら校舎へと向かって行く。校舎からは、神崎織姫がふらふらとした足取りで出てきていた。
「ヒメ! 大丈夫? 痛い所は無い?」
奈那は、ふらふらとしている織姫の体を支える。織姫は、虚ろな目と声で答えた。
「奈那ちゃん、ヒメどうしたの…? なんか、記憶ないし……」
「良かったぁ……死んじゃったかと思ったよぉ……」
奈那は目を潤ませて、織姫の体を抱き締めた。
一仕事終えたグレッグは、「ふう……」と息を吐きながら巌の元へと足を運ぶ。巌は、心からの笑顔を持ってグレッグに声を掛けた。
「助かったよ。相手がどんな魔術を使っているか判らない限り、さすがの俺も手が出せねえからな。こういう時、魔術師は本当に助かる」
「憑依していたのが低級の夢魔ばかりだったので助かりましたよ。もう少し上級の悪霊だったら、こうはうまく行かなかったでしょう」
「それにしたって、敵の結界の中だっていうのに、魔法陣とカバラ十字だけでこれだけの数を一気に除霊するなんてな。さすがは『不死身の魔術師』だ」
「恐れ入ります」
グレッグは、いつものように紳士然とした笑みを浮かべた。
「じーちゃん!」
と、そこに、駿が怒りを満面に浮かべて祖父に迫り寄ってきた。駿にしてみれば、先程から訳の判らない事ばかりである。当然と言えば当然なのだが、祖父は白い物が混じった頭をかきながら、疲れるように呟いた。
「まったく、メンドクセェなあ……」
「なんだよそれ! ちゃんと説明しろよな!」
駿は祖父に怒鳴り散らすと、今度はグレッグにも怒鳴り散らした。
「やい、外人さん! アンタにもちゃんと、しっかり、きちんと説明してもらうからな!」
グレッグは、困ったように苦笑を浮かべた。
すると、そこに近付いて来たのは武志であった。武志は、小さく呟くように巌に言った。
「裏側世界……ですか…?」
グレッグとシェリルは驚きを隠せない表情を作ったが、巌だけは冷静だった。
「父親から聞いたか?」
「はい。詳しくは知りませんが、父が殺した相手も、そうだったと……」
「巻き込みたくはなかったんだがなぁ……」
巌は溜め息交じりに呟き、グレッグに言った。
「グレッグさんよ、お前さんの依頼、どうやら引き受けない訳にはいかなくなったようだ」
「我らの前に走り去って行った車を見ました。やはり、現れましたか?」
「ああ。俺がやるべき事と、お前さんの依頼は、どうやら初めから関係があったようだ」
グレッグは頷くと、あゆ美へと近寄り、口を開いた。
「失礼だが、名前を聞かせてもらいたい」
「……東間あゆ美と言います」
「それではあゆ美嬢、遺憾だろうが、どうやらこの事件は、君を中心に回り始めているようだ。知っている範囲で良い、聞かせてくれるね?」
「わかりました」
あゆ美は、強く頷いた。
その後、救急、消防、警察と、何台もの緊急車両が紗月高校の校門前に殺到した。救急隊員は、未だ体をだるそうにしている生徒に駆け寄り、様子を聞く。消防隊員は、すぐに校庭の周りや校舎に入り、火事になる雰囲気はないか調査を始める。そして警察官は、学校内に怪しい人物がいないか、事件の可能性はないかを捜査し始めた。その時には、グレッグ、ミシェル、巌の三人の姿は、すでに学校から消えていた。