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第四章 強襲

 十月上旬の月曜日。

 秋雨前線など、どこへやら。今日も紗月町の空は、感動すら覚えるほどの雲一つ無い青空が広がっていた。けやきや桜など、様々に植えられた広葉樹には小鳥達が羽を休め、そのさえずりが清々しい朝を彩っている。この町が都内だという事を忘れさせてくれるほどに、それは穏やかで気持ちのいい朝だった。

 ただし、この日に限っての曼珠堂だけは別ではあったが……

「駿さま! 駿さま!」

 か細い声を今にも倒れそうなくらい必死に張り上げながら、あゆ美は駿の部屋に飛び込んだ。

「駿さま! 申し訳ありません! 寝坊しました!」

 慌てきった様子であゆ美は叫んだ。

 だが、駿は布団を頭からかぶり、寝ぼけながらも余裕のある様子を見せる。

「……大丈夫だよ、学校近いんだから……」

 確かに近い。駿の通う都立紗月高校は、曼珠堂から歩いても十五分程度である。

「……で、いま何時…?」

「七時四十分です!」

「はい?」

「だから…!」

 あゆ美が言い直そうとしたところで、駿はベッドから飛び起きた。

「うっそだろーっ!」

 いくら近いとは言っても、すでにギリギリの時間である。悲鳴に似た叫びを上げる駿。しかし、次に上がったのは正真正銘の悲鳴であった。

「キャーッ!」

 二階の駿の部屋から一階の店の隅まで響き渡りそうな悲鳴を上げ、あゆ美は慌てて両手で顔を覆う。ベッドから起き上がった駿は、上半身裸、早い話がパンツ一枚であった。十六歳の男子としては、珍しくも無い寝姿ではあったが、まったく免疫の無いあゆ美にとっては、驚天動地の衝撃映像である。

 ……が、実は駿の目にも、まったく免疫の無い驚天動地の衝撃映像が映っていた。

「あ……あ……あゆ、あゆ、あ……あゆ……」

 白磁の壷のように白く美しい首筋から、流れるようなラインを描いて隆起した鎖骨。そこに掛かっているのは、レースで彩られた純白のブラジャーの紐。それは、小さいながらも、しっかりとした谷間を作っている乙女の恥じらいを守る為、たった一枚で奮闘している。

 さらにその下を辿って行けば、くびれた細い腰にチャームポイントのように付いたへそ。白磁の壷ような首筋にも負けないくらいに輝き誇っている長く美しい足。

 その二つの間にある物は、もちろん、光り輝く純白のパン……

「ふ、ふ、ふ、ふ、ふふふ、服ーっ!」

 あゆ美は、自分の姿を見直す。

 時間が止まる。

 あとは、お約束通りである。

「キャアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」

 今度の悲鳴は、紗月町の隅から隅まで響き渡るようであった。

「ごめんなさい! 私、時計見て、すぐに起き上がって、着替えようとパジャマを脱いで、だけど駿さまを起こさなきゃと思って部屋を飛び出して、それで…!」

 真っ赤な顔でその場にうずくまり、必死に早口で説明するあゆ美。

「いいから! 早く服着てきて!」

 あゆ美の下着姿に見惚れながらも咄嗟に後ろを向き、同じように顔を真っ赤にして叫ぶ駿の姿は、とりあえず紳士的だと褒めるべきなのであろう。

「はい! ごめんなさい!」

 あゆ美は慌てて駿の部屋を飛び出し、向かいの自分の部屋へと飛び込んだ。

 駿とあゆ美を起こそうと二階に上がりかけていた祖父、河本巌は、呆れた顔でその一部始終を見届けた後、「やれやれ……」と、呆れたまま再び一階へと戻っていくのだった。



 あゆ美が部屋を出た後、駿は携帯の時計を見直し、「ヤベェ! ヤベェ!」と、改めて取り乱した。

 脱ぎ捨ててあるワイシャツと学生ズボンを拾い上げ、慌てながら袖を通す。

 ふと、そのワイシャツの白に、先程のあゆ美の柔肌が重なった。

 ――なんか、宝石みたいだったなぁ……

 真っ白なブラに守られた小さな谷間。

 光り輝く純白のパン……

「だぁーっ! ヒーローがなにエロいこと考えてんだ!」

 とは言うものの、河本駿と言えど、十六歳の健康な男子高校生である。勉強机の上から三番目の引き出しの奥に大事にしまわれたH本は、誰にも秘密なのであった。

 ようやく着替え、カバンを手に部屋を飛び出す駿。と、同時に向かいの部屋のドアも開けられ、あゆ美が出てきた。その姿は、ただの夏用セーラー服が、何かの芸術品に見えるほどに美しかった。

 が、先程の事がある。駿は見惚れるヒマも無く、再び顔を赤くして目をそむける。

 もちろん、あゆ美も同様の仕草を見せいた。

「あ、あの、駿さま……あらためて、おはようございます……」

 いつも以上に、か細い声を出すあゆ美。

「い、いいえ、こちらこそ……」

 一体、何の返事やら……

「と、とりあえずさ、遅刻しちゃうから急ごう……」

「はい……」

 二人はまるで、中学生の初デートのような足取りで一階へと降りて行った。



「なんだよ、じーちゃん。なんで起こしてくれねーんだよ」

 居間で朝のNHKニュースを見ながら、ゆったりとお茶をすすっていた祖父に、駿は開口一番文句を言う。だが、巌は祖父の威厳を持って答えた。

「オマエ、俺と何年一緒に暮らしてるんだ? 俺をその辺の早起きジジィと一緒にするなよ」

「そうか、朝は苦手だったな……」

「その通りだ」と、呆れる孫に巌は胸を張った。それから、優しい笑顔をあゆ美に向けた。

「でもまあ、寝坊が出来るほど、あゆ美嬢ちゃんがこの家に慣れてくれたのは良かったよ」

「お心遣い、本当に感謝致しております」

 あゆ美は、巌に深々と頭を下げた。

あゆ美がこの家に来る事になって巌が用意した部屋は、亡くなった駿の両親が使っていた部屋であった。亡くなった後は物置となっていたが、片付ければ六畳ほどの広さがあり、これなら不自由もしないだろう、というのが巌の考えであった。


 ……が、しかし、東間家の人間に対し、それは少々甘い考えだった。


あの騒動の後、篠田は「それでは、のちほど……」という言葉通り、またすぐに曼珠堂へと現れた。今度は屈強な男達ではなく、使用人達十数名を引き連れ、4トントラックに乗ってである。もちろんトラックの中身は、あゆ美の身の回りの物であった。

「お嬢さま、ベッドだけは急遽クイーンサイズのベッドをご用意致しました。この家でいつものキングサイズのベッドは少々窮屈になるかと思いましたので」

もちろん、お金持ち使用の屋根付きベッドだ。

「ありがとう、婆や」

あゆ美はニコリと微笑んだが、当然、日本家屋の狭さなど、外の世界を知らないあゆ美が知るはずもない。ベッドどころか五つ持ってきていたアンティーク調の馬鹿でかいクローゼットも、全て店先の時点でアウト。入るわけがないのだ。呆れ返った顔で巌は篠田に言い、すぐに普通のシングルベッドと、普通のクローゼットを「一本だぞ」と、念を押して用意させた。

 篠田は「なんと狭い家だ!」と、ぷりぷり怒った。やはりこの乳母も『東間家の人間』という事なのだろう。


「とにかく、二人とも顔くらい洗って来い。したら仏壇に手を合わせた後、朝飯だ。台所におにぎりが作ってあるから、一個くらい食べる時間はあるだろう?」

「サンキュー、じーちゃん」

「ありがとうございます」

 駿は笑顔で、あゆ美はペコリと頭を下げ、二人は洗面所へと急いだ。

 そんな二人の背中を、巌はほほえましく見詰め、そのままテレビの横に置かれた仏壇へと、その顔を向けた。仏壇の中には、二つの位牌が収められている。駿の両親の物であった。

「まあ、賑やかなのも悪くねえな。まるで、お前達が生きてた頃みてえだ」

 火を点けたばかりの線香が、静かに煙をたゆらせている。

「安心しな。責任はとる……」

 巌は、ずっ、とお茶を一口すする。

 起きたばかりだと言っていた巌の作務衣の袖口は、なぜか朝露に濡れた土に汚れていた。



「入学おめでとう」

 曼珠堂の前で二人を待っていた武志が、あゆ美を見て最初に言った台詞であった。

「ありがとうございます、武志さま」

 本来であれば、二学期途中からの中途入学などありえない事なのだが、元々義務教育課程を自宅学習のみで修了させるという無茶苦茶をやってのける家である。都立の一高校を動かす事などわけのない事であった。

 もっとも、日曜日の学校で嫌々入学テストを行わされるハメになった校長と教頭は、すぐにもろ手を挙げて喜ぶ事にはなったのだが……

「昨日の電話で駿から聞いたよ。入学テスト、全教科満点だったんだって?」

「今まで、ずっと家にいましたから。勉強以外やる事が無かっただけです」

 感心している武志に、あゆ美は奥ゆかしく答える。そこにはまったく嫌味も自慢も無い。さすがは『お嬢さま』である。

「おかげで、しばらくは宿題に悩まされなくて済みそうだよ」

 そんな事をのん気な顔で言う駿。武志は、即座に駿に睨みをきかせた。

「だからって宿題は自分でやりなよ。この前だって、宿題教えてくれって言うから教えたら、結局は僕のノートを書き写していただけなんだから」

「わかってる、わかってる」

 駿のノン気な顔は崩れない。武志は溜め息を吐く。そんな二人の様子に、あゆ美は楽しそうな笑顔を浮かべた。

 それから、ふと、あゆ美は、外の世界で始めて出会った同姓の友達が見当たらない事に気が付いた。

「あっ……ところで、今日は奈那さんはいらっしゃらないのですね?」

「アイツなら、バスケ部の朝練だよ」

 駿の答えた言葉が聞き慣れないせいか、あゆ美は不思議そうな顔を作る。

「朝練…?」

「もうすぐ試合が近いから、もう学校行って部活してるんだよ。もっともアイツは、助っ人頼まれて色々と掛け持ちしてるけど。バスケ部が本命で、後はバレー部、テニス部、陸上部。母親がバスケの元日本代表なもんだから、やたらと運動神経が良いんだ」

「すごい! 奈那さんはスポーツ万能なのですね!」

「ただの運動バカなだけだよ」

 駿はケラケラと笑う。ここに奈那が居たら、どうなる事やら……

 住宅街のゆるやかな坂道からは、いつもの通り、とんがり帽子の時計台が見える。駿たちの通う都立紗月高校である。

 その時計台を見上げながら、あゆ美はまるで小さな子供のように目を輝かせた。

「ああ、本当に現実になるなんて……」

「やっぱり、初めての学校はドキドキする?」

 心の底から嬉しそうにしているあゆ美に、駿も嬉しそうな顔で言う。

「もちろんです」と、満面の笑みで答えたあゆ美は、「でも、それだけじゃないんです……」と、再び時計台に目を移して言葉を続けた。

「私、子供の頃からずっとあの時計台に憧れていたんです。ある日、婆やに尋ねたら学校だと教えてくれました。それ以来、自分の部屋の窓から、ずっと眺め続けていたんです。時計台のある学校……なんて素敵なんだろうって」

「そうか、あの篠田さんって人、そんなあゆ美ちゃんの気持ちもわかった上で、紗月高校を選んだのかもしれないね」

「そうかもしれません」

 あゆ美は、明るく武志に振り向く。

「あきらめなくて良かったな。あゆ美ちゃん」

 駿が笑顔を浮かべ、あゆ美に親指を立てた。

 あゆ美は「はい!」と、元気に答えたのだった。



 学校に近付くにつれ、紗月高校へと通学する生徒達がちらほらと見え始める。生徒総数、約九百人。都内では中堅クラスに当たる普通科高校である。

 すれ違う生徒達の中には、駿や武志が目に止まって「おはよう」と、声を掛ける者も少なくない。しかし、その後は、男子も女子も皆が同じ行動を取る。駿と武志の間に挟まれて歩くあゆ美に目を奪われるのだ。振り返りながら歩いて、人にぶつかってしまう者、自転車通学の者などは、電信柱にぶつかりそうになっていた。

「いやぁー、なんか、このまま学校に入ったらすげー騒ぎになりそうだな……」

 駿は苦笑を浮かべて言う。

「さっきすれ違った上級生も、いつからうちに芸能人が来る事になったんだって騒いでたよ」

 同じように武志も苦笑している。

 あゆ美は、思わず戸惑いの表情を見せた。

「あの……私、もしかしたら皆様にご迷惑をおかけしているんじゃ……」

 慌てて駿があゆ美に言った。

「違う違う! むしろ喜ばれてると思うよ」

「はぁ、そうなんですか……」

 あゆ美は不思議そうな顔を浮かべた。さすがは『お嬢さま』 その世間知らずぶりは、どうやら自分の持つ美貌への自覚すら無いようであった。

 校門が見えてくると、そこには三十歳手前くらいに見えるスーツを着たショートカットの女性が立っていた。「あっ!」と、駿が気が付いたような声を上げると同時に、女性は三人に近付いて来て、明るく挨拶してきた。

「おはよう、河本君、浅井君」

「マリちゃん先生、おはよう」と、駿。

「先生、おはようございます」と、武志。

 それから、先生はあゆ美に目を向けた。

「東間あゆ美さんね。今日からアナタの担任になる高田真理子です。よろしくね」

 高田真理子は、あゆ美に右手を差し伸べた。あゆ美も、その握手に答えた。

「東間あゆ美です。ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」

「さすがはお嬢さま、丁寧な挨拶ね。その右側に立つ男子にも見習わせてやって」

 右側に立つ男子とは、もちろん駿の事である。あゆ美は小さく笑い、駿は「ブゥー」と、声に出して口を尖らした。

「それじゃあ、先生は一度職員室に戻るから、河本君は東間さんに下駄箱の場所を教えてあげて。もう用意されてるはずだから。それから職員室に案内してあげて」

「はいよー」と、駿が手を上げて軽い返事を返した後、高田真理子はあゆ美に「じゃ、あとでね」と笑顔を向けて三人に背を見せる。

 と、その途端、高田真理子は安心した顔で、ゆっくりと大きな息を吐いた。

 ――マトモに会話が出来てよかったぁ……

 あゆ美の美貌は入学願書の写真で知ってはいたものの、やはり実物はオーラが違う。『自分は教師なんだ』という必死の支えが無かったら、きっと彼女は、ずっとファンだった芸能人にやっと会えたかのように棒立ちとなっていた事であろう。

 高田真理子が去った後、三人も校門をくぐる。いざ校庭に足を踏み入れると、あゆ美は更に嬉しそうな顔で時計台を見上げた。駿と武志は、そんな顔をするあゆ美を笑顔で見詰める。

 しかし、駿はすぐに、また誰かを見つけたような顔を作ると、左側に建てられた体育館の方へと駆け出したのだった。

「おーちゃん、おはよー」

 駿が声を掛けた人物は、ツインテールにした髪を黄色のリボンで飾った女子生徒だった。髪を揺らし振り返ったそのルックスは、あゆ美ほどではないにしろアイドルのように可愛らしい。

 開けられた体育館のドアの前で花のように立つその美少女は、少し驚いたような顔をして駿に振り返った。

「えっ? おーちゃん…?」

「そう、織姫だから『おーちゃん』だろ?」

「河本君、そのおーちゃんはちょっと……」

 声も小さめに、上目遣いで訴える美少女。しかし駿は、アッケラカンと言葉を返した。

「どうして? おっちゃんって呼んでるわけじゃねーんだから」

「でも、ヒメには、そういう風に聞こえるし……」

「考えすぎだよ、考えすぎ」

 伏せ目がちの美少女を前に、カラカラと笑う駿。まるでいじめっ子である。

 と、そこに、それを声を大にして叫ぶ声が体育館から飛んだ。

「駿! うちのマネージャーをいじめるなっ!」

 同時に、開けてられている体育館のドアから、もの凄い勢いでバスケットボールが飛び出し、駿の頭に直撃した。

「いってーなぁ! 別にいじめてねーだろ!」

「人が嫌がってる呼び方をするな! アンタは小学生か!」

 もちろん、声の主は奈那であった。奈那は、バスケ部のユニフォーム姿で仁王立ちしている。いつものポニーテールでキラキラと汗を光らすその姿は、いかにも健康的な女子高生という感じだったが、駿には『汗くさ女』という単語が浮かんできた。

 が、それを口にしたらバスケットボール弾の第二波の攻撃が来そうだったので、とりあえずここは口を尖らすだけにした。

「おはよう、あゆ美ちゃん」

 奈那はあゆ美に目をやり、一変して明るい笑顔を向けた。あゆ美も「おはようございます」と、笑顔で答える。それを、夢でも見ているかのように眺めていたのは、ツインテールの美少女だった。

「あっ!、ヒメ、紹介するね。この子は東間あゆ美ちゃん。今日から、うちの学校に通う事になったんだ。多分、クラスも一緒だよ」

「東間あゆ美です。よろしくお願いします」

「あっ、あの、神崎織姫(かんざきおりひめ)です。よろしく……」

 丁寧に頭を下げるあゆ美に、神崎織姫は夢から覚めたような顔で慌てて挨拶を返した。

 すると、あゆ美はその名前に感激したような口ぶりで言うのだった。

「織姫さん…? とても素敵なお名前ですね! 本当にお姫様みたいに可愛らしいし」

「いえ……そんな……たまたま七夕に生まれたから、親がそう付けただけで……」

 織姫は、嬉しそうにしながらも顔を真っ赤にする。あゆ美に言われたのだから尚更だろう。

 と、そこで予鈴のチャイムが鳴った。

「ヤッバイ! 早く着替えなきゃ!」と、奈那が声を上げ、同時に駿も「あゆ美ちゃん、急ごう!」と、駆け出した。

「武志、急ぐぞ」

「うん――神崎さん、あとでね」

 駿、武志、あゆ美の三人は、校舎に向かって猛ダッシュして行く。だが、奈那は一人、まだあたふたしていた。

「えっとえっと、ヒメ! アタシ、制服どこ置いたっけ!」

「更衣室でしょ」

 織姫は、とても楽しそうに笑った。



 あゆ美を職員室へと送り届け後、教室へと入った駿と武志を待ち受けていたのは、クラスの男子全員の質問攻めであった。言うまでも無く、皆が一様にしてきた質問は『あのハイパーな美少女はだれなのか?』という事である。そんなざわめきの中、高田真理子が東間あゆ美を連れて教室に入ってきた。ざわめきは、どよめきへと変わった。

「はいっ! 静かに!」と、高田真理子は声を上げて教壇に立つと、黒板に『東間あゆ美』と書き、あゆ美を紹介した。

「朝のホームルームを始める前に転校生を紹介します。東間あゆ美さんです」

「東間あゆ美です。皆様、よろしくお願い致します」

「東間さんは体が弱く、学校という場所に来るのは初めてなんだそうです。なので、みんなで学園生活の楽しさというものを教えてあげましょう」

 高田真理子の教壇に立つ姿は、若いわりには立派な教師ぶりだった。言葉にも、とても力があり、そのどんな生徒に対しても正直な姿勢は、生徒の信頼を集めていた。

 だが、次に放った言葉は、少々正直すぎた……

「それから、家の事情により、東間さんは現在、河本君の家で一緒に暮らしています。だからと言って、ひやかさないように」

 ひやかされる程度なら、まだ良かった。その言葉により、駿は、武志を除くクラス全員の男子を敵に回す事になったのだ。その上、高田真理子のはからいで、席まで隣同士となったのだから、尚更である。

 もちろん、得意げな笑みを満面に浮かべていた駿にも、責任の一端はあるが……

「世の中、何か間違ってる」「アイツ、この先、いい事なんか何も無いぞ」「誰かアイツを亡き者にしてくれ!」とまあ、こんな調子である。駿が、授業合間の休み時間のたびに、言われ無き敵意丸出しの視線を受ける事になったのは言うまでもない。

 更に女子は女子で、休み時間のたびにあゆ美の周りに集まっては、「東間さん、河本に何か弱みでも握られてるの?」「警察行くなら付き合うよ」「みんなで河本が東間さんに変な事しないように守ってあげようよ!」と、声を上げている。あゆ美は、しきりに困った顔を見せていた。

 そんな事がありながらも、駿はなんとか生きて昼休みを迎える事が出来た。

「ひっでーよな、アイツらぁ……」

 疲れきった顔で、駿は机の上にぐったりなった。そんな駿に、隣のあゆ美が申し訳なさそうな顔を作って声を掛ける。

「やっぱり、私、ご迷惑なんじゃ……」

「いやいやいや、そんな事ないって。アイツらは、ただ俺がうらやましいだけだよ」

 駿は微笑んで答える。そこに、武志や織姫と一緒に近寄ってきた奈那が、駿を指差してあゆ美に言った。

「そうそう。こんな風に調子に乗ってる駿が悪いんだから」

「はあ……」と、あゆ美は困惑した表情を見せた。

「まっ、とりあえずメシメシ! 今日は余計に腹が減ったよ」

 空腹が、なんとか駿を立ち上がらせる。すると、同時にあゆ美はカバンの中から、ハンカチで丁寧に包んだ弁当箱を駿に差し出した。

「これ、駿さまの分です。お口に合うとよろしいのですけど……」

「えっ? マジで! サンキュー、あゆ美ちゃん」

 今日、あゆ美が寝坊してしまった理由がこれであった。眠い目をこすりながら、遅くまで弁当を作っていたのである。

 飛び跳ねて喜ぶ駿。今現在、自分の置かれている立場というものをまたもや忘れている。

「やあ、河本君。一緒に昼食でも取らないか?」

 武志と同じくらい一緒によく遊ぶ悪友、緑川が、後ろから駿の肩に手を回してきた。

「俺も入れてくれよ。昼メシはみんなで食べた方がおいしいぞ」

 言いながら二人目の悪友、竹内もやってきた。

 当然ながら、悪友二人の笑顔は作り物。視線は弁当箱に、言葉には殺気がこもっていた。

 ――こいつらの前で弁当を開けたら……

 自分の口に一口も入る事無く、弁当箱の死骸が無残なまでに自分の足元に転がる様が、駿の目の前には浮かんだ。

 駿は、そっと武志のわき腹を肘でつつく。

 武志は、わかったように頷く。と……

「いち……にの……さん!」

 声を上げるより早く、駿は弁当箱を片手に一目散に逃げ出した。

 同時に武志もスタートをきる。

 だが、悪友二人も負けてはいなかった。それがわかっていたかのように、すぐさま怒号を上げて駿と武志に追いすがった。

「まてゴラァ!」と緑川。

「その幸せをこっちにもよこせ!」と竹内。

 二人の目は、まるで地獄の亡者のように血走っている。

「渡せるかバカタレ!」と、駿は弁当箱を大事に抱えながらも、凄まじい走りを見せている。

 追う者と追われる者。そのどちらも、今なら一○○メートル走の世界記録が出るのではないのかと思うほどのスピードであった。

 走り去って行った駿たちに、あゆ美は驚いたように呟いた。

「男の子って、いつでもお腹を空かしてるものなのですね……」

「アイツら、バカだから」

 奈那は苦笑を持って答えた。

「それじゃ、アタシ達は裏庭でゆっくりごはん食べよう」

 奈那は、笑顔であゆ美と織姫に言い、二人も笑顔を返した。



 そこには、暖かな日差しと、涼しげな風が青々と生い茂った芝生を揺らしていた。

 この都立紗月高校には、校庭とは別に、校舎を挟んだ反対側には、レクリエーション広場と名付けられた芝生の広場があった。様ざまな広葉樹が植えられ、ベンチなども設けられており、ちょっとした公園のようになっている。生徒達の心の安定を目的として作られた広場で、生徒達にも『裏庭』という呼び方で親しまれていた。

 その裏庭の木陰には、健康系美少女とアイドル系美少女、それに絶世の美少女の三人が、持ち寄ったお弁当を広げて腰を下ろしていた。まるで、木陰の花畑のようである。

「あゆ美ちゃん、学校には慣れた?」

 そう訊いたのは奈那であった。あゆ美は、本当に楽しそうな笑顔で答える。

「はい。同い年の人達と一緒にお喋りしたり、学んだりするのって、想像していた以上に楽しくて」

と、そこで不思議そうな顔を作ったのは、織姫であった。

「奈那ちゃんから聞いたけど、東間さんって、病気のせいで学校どころか、あの屋敷の外にすら出た事が無かったんでしょ? 体の方は大丈夫なの…?」

 するとあゆ美は、「それが……」と、何か躊躇するように口ごもった。しかし、ゆっくりとした口調で言葉を繋げたのだった。

「私……その病気のせいで六歳までの記憶が無いんです……」

「えっ? うそっ…!」と、奈那は声を上げ、織姫も驚きを隠せない様子で目を丸くした。

「実を言うと、その病気というのも自分自身よくわからなくて……これと言って痛い所があるわけでもなければ、薬を飲んでるわけでもありません。婆やに訊いても『次に発作を起こした時は命に関わる病気』としか答えてくれなくて、どんな病気かは、原因不明だとしか……」

「兄弟や、お父さん、お母さんは…?」

 奈那が驚いた顔のまま、そう訊いたが、あゆ美は浅くうつむき、首を横に振った。

「兄弟姉妹はいません。父も仕事が忙しく、まともに話せる機会がほとんどありません。それでも、一度だけ病気の事を聞いた事がありましたが、婆やと同じような事しか言ってくれませんでした。母は、私が記憶を無くす前に亡くなっていると、婆やに教えられています」

「なんか、東間さんかわいそう……」

 織姫は、まるで自分の事のように泣き出しそうな顔を作った。そんな織姫に、あゆ美は慌てるように明るい笑顔を向けた。

「いいえ、そんな事はありません。自分で言うのもなんですけど、私は幸せだと思います。家のお手伝いさん達は、皆よくしてくれますし、婆やも、普段はとても厳しいですけど、凄く私を大事に思ってくれている事は、わかりますから」

 しかし、あゆ美は「ただ……」と、言葉を繋いだ。

「……一つだけ辛いのは、私の手元に母の思い出が何も無いという事なんです。記憶に無い母の思い出があった所で私が辛いだけだろう、と、婆やは写真から全て燃やしてしまったようで……そんな時、古いお手伝いさんの一人がTHE.LITTLE.FIR.TREEという絵本を教えてくれました。その絵本は、記憶を無くす前の私の一番のお気に入りで、母がよく読み聞かせてくれた物だったと。その絵本を手に入れれば、もしかしたら母の記憶を少しでも思い出せるかもしれないと思い、屋敷を抜け出し、一番最初に目に入った『曼珠堂』に足を踏み入れたのです」

「なるほどねぇ……」と、奈那は頷き、それから明るくあゆ美に言った。

「でも、絵本の事は大丈夫だよ。駿はバカだけど、約束は絶対に守る奴だから。それに武志も付いてるしね」

「はい」と、あゆ美も明るく返事をした。

 が、あゆ美は「武志さまと言えば……」と、思い出したように不思議な顔を作った。

「うちの婆やが『浅井の人間』と言って、知っているような素振りでしたけど、浅井家というのは有名なのですか…? あの時に見せた体術も凄かったですし……」

 すると、奈那は言おうかどうか迷うような顔を作ったが、ゆっくりと、言葉を選ぶように騙り始めた。

「あのね、武志の家って言うのは――」

 奈那の話を最後まで聞き終えた時、あゆ美は言葉を失っていた。



 校舎の屋上では、駿が時計台の影に隠れて座り込み、もの凄い勢いで弁当を口の中にかき込んでいた。

「駿、もう少し落ちついて食べなよ……」

 並んで座る武志に呆れた顔で言われたが、駿は口に食べ物を一杯にほお張ったまま、飯粒やら煮物やら卵焼きやらを飛ばしながら叫んだ。

「でひゆかよ! いふ、あいふらにみふかるかわはんねーんら! いまのうひにふっとかねーろ!(出来るかよ! いつ、アイツらに見つかるかわかんねーんだ! 今の内に食っとかねーと!)」

「エサを取られそうになってる犬じゃあるまいし……」

 まあ、似たようなものではあるが。

「とりあえず、ノドに詰まらせないように気をつけなよ」

 と、言われたそばから駿はノドを詰まらせていた。武志が、すぐに自分のペットボトルのお茶を差し出し、駿はなんとか一息つく。そうして、ペットボトルを武志に返すと同時に駿は、ふとしたように武志に尋ねた。

「そういやオマエ、昼メシは?」

「あとでパンでも買ってくるよ。駿に付き合って、ここまで逃げて来るのに必死だったから買いそびれたよ」

 そう答えて微笑む武志だったが、駿の顔に笑顔は無かった。

「またパンか……俺、友達の親の事を悪く言うのは嫌だけどよ、でも、そこだけは何とか言った方がいいんじゃねえのか?」

「僕が、お母さんに作らなくていいって言ってるんだ。武道一筋のお父さんに代わって、お母さんが働かなきゃいけないし。苦労はかけたくないんだよ」

「だからよ、その父ちゃんだよ。俺が問題だと思うのはさ」

「仕方ないよ。お父さんは、武道を極める為に生まれてきたような人なんだから。そうじゃなきゃ、人まで殺せない……」

「武志……」

「お父さんが自分で言っているだけだから、信じていない人もいるけど、僕にはわかるんだ。『浅井流』っていう、人を殺せる技が染み付いている僕にはね」

 駿は、言葉無くうつむく。そして、手に持っていた弁当を武志に差し出した。

「食えよ。残りは全部やるから」

「いいよ。そのあゆ美ちゃんのお弁当、楽しみにしてたんだろう?」

「いいから食え。人間、とりあえず、うまい物食っとけば嫌な事は少しでも忘れられるから」

「……ありがとう、駿」

 微笑んで、武志は弁当を受け取った。

「なあ武志、俺はもちろんだけど、緑川や竹内も、オマエがどんな人間だろうと嫌ったりは絶対にしねえから、そこだけは安心しとけ」

 武志は、弁当を口にしながら小さく頷いた。


 ――『やっと逢えた。今行くからね……』


 突然だった。その感覚は、悪寒としか言いようがない。まるで、悪意のカタマリ……

 その違和感に、始めに気が付いたのは駿であった。直ぐに武志も、弁当と箸を置く。

「駿、なに、今の…?」

「わからねえよ……」

 駿が、不安な面持ちで答えた瞬間、悲鳴が上がった。どこから上がったかまではわからなかったが、奈那とあゆ美のものだという事だけはすぐにわかった。二人は顔を見合わせ、反射的に立ち上がると同時に駆け出した。



 裏庭では、織姫が倒れていた。いや、織姫だけではない。他に昼食や歓談していた生徒達全員が気を失っている。

 正気を保っているのは、あゆ美と奈那の二人だけ。しかし、気を失ってしまった方が幸せだったかもしれない。二人の目の前には、凄まじい異音を発している黒い蛇。

 形容でもなんでもなく、それは紛れもない『悪魔』であった。

 悪魔は、二人に襲い掛かろうと、更に大きく異音を発し、牙を剝く。だが、何かの壁に阻まれ近づけないようである。

 悪魔の前に立ちはだかっていたのは、両の手を前に突き出して立つ、あゆ美であった。

「あ、あゆ美ちゃん…?」

 突然襲い掛かった非現実的な光景に、体を強張らせている奈那。あゆ美は振り返り、そのか細い声を精一杯張り上げて叫んだ。

「奈那さん逃げてッ! 早くッ!」

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