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第三章 招かざる客

 その喫茶店には、美しいピアノの音色が響いていた。

 流れている曲は、ショパンの『ワルツ』

 スピーカーから流れ出ているとは思えないほどのその高音質は、きっと店主のこだわりなのだろう。

 この紗月町で、巌がもっとも立ち寄る喫茶店であった。

 秋晴れの穏やかな日差しが差し込む店の隅のテーブルで、ワルツの切ない音色に耳を傾けながら巌は、ベージュのソファにゆったりと腰を落ち着けてコーヒーを口に運んでいた。

 向かい合わせに座るグレッグの前には、イギリス人らしく紅茶が置かれている。しかし、口は付けた様子は無かった。

「ミスター巌。早速で申し訳ないが、時間がありません。本題に入らせてもらいます」

 言葉通り、本当に切羽詰っているのだろう。普段の紳士的な立ち振る舞いからは想像も出来ないほど、グレッグは険しい顔をしていた。しかし、巌の方はと言えば、相変わらずの調子でゆったりと言葉を返すのだった。

「その前にな……」

 言って、巌は斜め後ろを振り向く。

「そこの眼鏡美人のお嬢さん。そんな所に突っ立ってないで、こっちで一緒に座ったらどうだい? コーヒーでも紅茶でも、ここの味は俺が保障するよ」

「さすがですね。最初から気付かれていましたか……」

 店の中に居る数人のお客と店員、その誰にも気付かれる事無く、ミシェルは姿を現し、感嘆の笑みを向けて巌にそう言った。

 ミシェルがグレッグの横に座ると、直ぐに若いウェイトレスが「あれ?」という顔をし、慌てて注文を取りにきた。ミシェルはホットコーヒーを頼み、店員は、「かしこまりました」と、丁寧なお辞儀をしてカウンターの方へと向かう。

 ほどなくして、ホットコーヒーがミシェルの前へと運ばれ、ウェイトレスが再びカウンターに引っ込むと、それを見計らっていたように巌は、ミシェルに向かって口を開いた。

「若いのに、あれだけ己の気を消し、気配を絶てるとは驚きだな。達人域の気孔術だ」

 ミシェルは、掛けた縁なしのメガネを直しながら答える。

「恐れ入ります」

「名前はなんと言うんだ?」

「ミシェル=シラカワと言います。父は日本人、母がアメリカ人です」

「シラカワ? 白川と言うと、もしかして…?」

「はい。気孔術は父から学びました」

「やっぱりか。お父さんとは昔、何度か一緒に組んだ事があるよ」

「私も貴方の事は、生前、父から何度か聞かされました」

「生前? そうか……」

「父は、四年前に他界しました」

「人づてにだが、聞いているよ。気の毒にな……」

「裏側世界で生きる者の宿命です。仕方ありません」

「そんな台詞を眉一つ動かさず言えるとは、根性の方も座ってるようだな」

「恐れ入ります」

 続いて巌は、グレッグの方に目をやる。それを待っていたかのようにグレッグは口を開きかけたが、それを制するように巌は先に言った。

「おまえさんは、名乗らないでも判るよ、シーファス=C=グレッグ。色男のイギリス人魔術師が、西新宿で裏側世界専門の探偵をやっている噂は少し前から耳にしていたからな。まあ、それ以前に只者じゃない事くらいは、一目見て判ったけどよ」

「さすがは、ミスター巌」

 グレッグは、普段通りの紳士然とした笑みを浮かべた。

「しかしまた、どうして日本なんかに来た? 噂に聞く限りじゃ、『不死身の魔術師』なんて通り名が付けられるくらいの腕利きらしいじゃねえか。仕事に困るような事もないだろう?」

「その通りです。私は別に、日本で開業する為に来日したわけではありません……」

 再び、グレッグの顔が険しくなる。

「ほう……」と、巌も、まるで別人のように目つきを鋭くさせた。

「私は、ある事件を追って来日しました。探偵の守秘義務というやつで、現時点で事件の詳細を話す事は出来ませんが、これだけは申し上げておきましょう……」

 グレッグは、大きな息を吐くと、意を決したような顔つきで告げた。

「……このままでは、世界は滅びます」

「ハハッ、こいつはまた――二十一世紀にもなって終末論か?」

 巌は思わず笑いを零したが、グレッグの険しい顔は変わらなかった。

「笑い事ではないのです、ミスター。私の追っている事件には、ある男が深く関わっています」

「話せるか…?」

「話さないわけには、いかないでしょう――男の名は、バーノン=カミング」

 途端、巌は身を乗り出した。

「本当なのか…!」

「間違いありません」

「また、すげえ名前が出てきたもんだ……」

 巌は、そう言いながら力が抜けたように、またソファにもたれ掛かった。

「事の重大さが、お判りいただけたでしょうか?」

「ああ。奴が関わってるってんなら、信じられない話じゃない。しかしな……」

 言いかけて、巌は腕を組み、また少し身を乗り出して言葉を繋いだ。

「……今の俺には、関係の無い話だ」

「ミスター…!」

「大方、俺を頼りに来たのだろうが、裏側世界からは十年も前に引退している。今は、孫との静かな二人暮らしをしているただの老いぼれだ。貸せる力など持ち合わせちゃいない」

「しかし、世界が…!」

「それは、おまえさんたちで何とかしてくれ。そりゃあ、こっちに直接被害が及ぶようであれば、俺も黙ってねえが、その前に何とかするのが、おまえさんたちの仕事だろ?」

「つまり、ミスター巌は、今の生活が大切だと…?」

「その通りだ。駿はもちろん、武志君や奈々ちゃんも、俺にとっては宝だ。あの子たちが居る以上、俺は裏側世界に関わるつもりは毛頭無い」

 強い眼差しで、キッパリと言い切る巌。その眼差しに、グレッグは深い溜め息を吐き、「わかりました……」と言いながら、立ち上がった。

「すまねえな」

「いいえ、お気になさらずに。次に伺う時は、いい返事を期待していますので」

 巌は、思わず呆れた顔を作る。

「おいおい、そこまで流暢な日本語を喋っといて、まさか『毛頭無い』って言葉の意味が判らねえとは言わせねえぞ」

 するとグレッグは、先程の巌よりも強い眼差しを巌に向けたのだった。

「貴方も知っているはずです。あの世界に、引退の二文字など存在しない事くらい」

 巌は、険しい顔を見せ、黙ってグレッグを見詰める。

「一度でも足を踏み入れたならば、何処にいようとあの世界は必ず追ってくる。貴方だってすでに気付いているはずだ。あの美しい少女と、武志という少年。あんな二人が貴方のそばに居るというのが、いい証拠だ」

「武志君、白川の嬢ちゃんの気配に気付いたのか…?」

「一瞬、でしたがね」

「まったく恐ろしいな、家系ってやつは……」

「ご存知でしょうが、裏側世界は力のある者を引き込みます」

「させねえよ。あのお嬢さんは家に帰すし、何度来ても俺の返事は一緒だ」

「改めて、お伺いしますよ」

 そう言って踵を返すグレッグの背中に、巌は「チッ」と、舌打ちを送った。

 グレッグとミシェルが店から出ると、巌は疲れたようにソファに凭れ掛かった。と、そこに、先程の若いウェイトレスが巌の元へと来て話しかけてきた。

「お客さん、凄い知り合いがいるんですね。あの人たち、モデルか何かですか?」

「ロクデナシだよ……」

 巌は、つまらなそうな顔で吐き捨てた。



 曼珠堂の前には、黒いスーツに身を包んだ屈強な男たちが五人、打ち捨てられた人形のように坂道に転がっていた。

 五人の男たちを見下ろしていたのは、武志であった。

「悪く思わないでください、正当防衛です」

 無表情に、そんな言葉を男たちに告げる武志。

 だが、言われても男たちは、一人残らず、自分たちの身に何が起こったのかハッキリ把握できない顔をしていた。しかし、体に走る痛みと、容易に立ち上がる事が出来ない体が、それが現実である事を教えている。

 頭一つ分も小さく、見た目は十一、二歳程度にしか見えない童顔の少年に、自分たちが一瞬にして倒されてしまったという現実である。

 それは、一瞬の出来事だった。

 曼珠堂の店先で、五人の屈強な男たちに囲まれる武志。だが、先に動いたのは武志だった。

 まず一人目。武志は素早く相手の手を両手で掴み、手首を体の外側へとひねり上げて横に投げ倒す。その瞬間、武志は左手で相手の手首の間接を決めたまま、男の喉元に拳の一撃をくらわした。男は、喉元を押さえて、もう立ち上がる事は出来なかった。

 男たちは、その技に驚きながらも、その中の一人が武志に掴み掛かろうとした。だが、武志は流れるように綺麗な弧を描き、相手の背後を取ると、膝裏に蹴りを入れて相手に膝をつかせる。と、同時に、武志の手は男の額を掴んでいた。男が、恐怖に満ちた目をした時には、男の体はエビ反りに倒され、後頭部をアスファルトに強く打ち付けられていた。

 すると、残った三人は、まるで申し合わせたように、同時に腰から三段警防を抜き放ち、武志の頭に振り下ろした。しかし武志は、その冷静な表情を一切変えず、三本同時に振り下ろされた警防を左に移動してかわすと、まず左側にいた男の額を手の平で撫でるように真下に落とす。男の首は、細い針金のように簡単に折れ曲がる。そのまま男は、背中から倒れこんだ。

 そこに、次の一撃が武志を襲う。狙われたのは、頭ではなく、体の方であった。

 バットのスイングのような振りで、男は武志のわき腹、肋骨を狙う。

 しかし、武志は逃げる事なく、素早く自分の体を相手の懐に入れ、その勢いを殺すと、男に抵抗させる間も与えずに手首をひねり上げた。そして、そのまま勢いよく前へと腕ごと押し倒す。と、男はふわりと宙に浮き、一瞬の空中遊泳を体験した後、舞った体をもう一人の男へと激突させられた。

 仲間の下敷きになって倒れこんだもう一人の男の目からは、すでに戦意が喪失しているのが見て取れた。だが、武志は躊躇無く、その喉元へと右足を踏み落としたのだった。

 そこまでが、約十秒弱。武志が見せたその一連の動作は、まるで卓越した日本舞踊のように美しかった。

 もちろん、彼が主張している通り、これは正当防衛である。なぜなら、男たちの他にもう一人、道に転がっている者がいるからだ。

「まったくぅ、威勢良くかかっていったくせに、だらしないんだから。武志の方が、よっぽどヒーローらしいじゃん」

「うるせえ! ああいうのはヒーローって言わず、達人って言うんだ!」

 腰に手を当てて、呆れた顔で自分を見下ろす奈那に、駿は勢いよく言い返す。

 が、道に転がり、濡らしたハンカチを手にしたあゆ美に介抱を受けているのその姿は、随分と情けないものだった。

 店に押し入ってきた男たちの一人が、あゆ美を捕まえようと居間に無理矢理入り込もうとした時、駿はタックルで飛び掛かった。思わぬ駿の行動に、その男は店の外へと押しやられた。

 が、駿の見せ場はそこまで。後ろからやってきた別の男に襟首を掴まれ、力任せに引き回されると、充分に体重の乗った右ストレートが駿の顔面を襲った。引き回された勢いも乗って、駿の体は空気人形のように吹き飛び、もう立ち上がる事が出来なかった。

 あゆ美は悲鳴を上げて駿に駆け寄り、そこに武志が出てきたのだった。

「僕は、ヒーローでも達人でもないよ……」

 武志は、呆れた顔で頭をかいた。

 そんな時である。坂の上の方から人影が見えたかと思うと、その人影は、多少しわがれていながらも張りのある声を放った。

「SPが聞いて呆れるね。そんな子供に何も出来ないまま、よもや手加減までされるなんて」

 ゆっくりと近づいてくるその影は、顔全体にシワが刻まれた小柄な老婆であった。どこか言い知れぬ迫力を持ったその老婆は、武志を睨んだまま口を開いた。

「その技から察するに、浅井の所の跡取り息子だね」

「僕の家を知っているんですか? 跡取りになった覚えはありませんけどね」

「その割には、手加減できる余裕があるほどの技を持ち合わせているね」

「手加減しなきゃ、死んじゃいますから」

「浅井の人間が、また面白い事を言う……」

 老婆は苦笑を浮かべる。

 武志は無表情で、もう言葉を返さなかった。

「……さて、それではお嬢さま、屋敷に戻りましょう」

 そう言いながら、老婆が視線を移した人物は、あゆ美であった。駿、武志、奈那の三人は、驚いてあゆ美を見る。

 あゆ美は、駿の横で腰を落としたまま身を堅くさせ、深くうつむいていた。

「あゆ美ちゃん……」

 駿が、少し体を起こし、心配そうに呼びかける。だが、あゆ美は何も応えない。

「さあ、お嬢さま。もう、気が済んだでしょう。屋敷にお戻りください」

 老婆は、あゆ美の方へと一歩踏み出した。

 だが、あゆ美が声を上げたのも同時であった。

「婆や! 私は戻りません!」

 うつむいたまま叫び、それから顔を上げたあゆ美の瞳には、硬い決意の光が輝いていた。

「私は、ここにいる河本駿さまに教えられました。倒れる時は前のめりだと。私は外の世界が見たい、あきらめません。だから、何と言われようと私の気持ちは変わりません!」

「やれやれ……」

 老婆は、小さな溜め息を吐くと、まだ立ち上がる事の出来ないでいた男たちに厳しい声を上げた。

「いつまで寝ている! 自分たちの仕事をしなさい!」

 男たちは、よろよろとした足取りながらも、一人、また一人と立ち上がった。そんな男たちに、老婆は冷たい言葉で言い放ったのだった。

「浅井の人間が居る以上、もう手段は選ばんでよろしい。責任は私が持つ」

 同時に、男たちは一斉に懐に手を入れた。想像したくはないが、かなり凶悪な物を取り出そうとしている仕草だった。

 怯えた表情で、体を強張らせるあゆ美。それを見た途端、駿は体中に走る痛みを堪えて立ち上がった。

「あゆ美ちゃん、ここは俺に任せて逃げるんだ!」

 駿は、あゆ美を庇うように両手を広げる。

 そんな駿に老婆は、また冷たく言い放った。

「そういう事は、しっかり力を付けてから言うものだよ……」

 だが、駿は強い眼差しで言い返すのだった。

「うるせえ! 俺はこの子のヒーローになるって決めたんだ! 決めたからには、たとえこの身が朽ち果てようとも、俺はこの子の願いを叶える!」

「あの人、育て方を間違えたね……」

 老婆は、誰にも聞こえないくらいの小さな声で、ぼやくようにそう呟いた。

 その時だった。

「やめろ駿!」

 駿の背後から、しゃがれた声が上がった。駿が振り返ると、祖父、巌がこちらに歩いてきていた。

 巌は、続けて老婆に言った。

「篠田さん、あんたもそいつらを下がらせろ。浅井の人間を本気で怒らせるもんじゃない」

 巌がそう言って、全員は初めて気が付いた。武志の顔からは、その童顔が跡形も無く消え去り、目には恐ろしいほどの殺気がみなぎっていた事を……

「武志、落ち着いて……」

 すぐに武志のそばへと行った奈那は、そう言って武志の背中に手を当てる。武志の顔には、次第にいつもの十一、二歳にしか見えない童顔が戻り始めた。

 老婆、篠田は男たちに命じ、自分の後ろへと下がらせる。再び巌が口を開いたのは、それからだった。

「篠田さん、悪かったな」

「これはどういう事です? 事と次第によってはゆるしませんよ」

「だから、悪かったと、あやまってるじゃねえか……」

 先程までの冷たい表情とは打って変わって、怒りをあらわにした篠田に、巌は困った顔を作った。しかし、その視線は、すぐにあゆ美へと移されたのだった。

「さあ、あゆ美お嬢さん、悪い事は言わないから家に戻るんだ。それが自分の幸せでもある」

 そんな祖父の言葉に、駿はすぐに声を上げる。

「じーちゃん! なんだよ幸せって!」

 だが、巌もすぐに「お前は黙ってろ!」と、駿に怒鳴り返した。一喝された駿は、不満な顔をしながらも口を閉ざした。

「お嬢さん、あまりわがままを言って、周りを困らせるものじゃない。頭のいい君になら判っているはずだ。自分が屋敷を抜け出す事によって、どれだけの騒ぎになるのかという事くらい」

 あゆ美は、何も答えず、ただ顔を伏せていた。

 駿は、我慢が出来なくなった顔で、再び怒鳴ろうとする。だが、それを後ろから肩を叩き止めたのは、奈那であった。

「駿、もうやめなよ。あの子にはあの子の事情があるんだろうし、東間の屋敷の事情だったら、アタシたちが踏み込めるようなものでもないよ。またあの子に逢いたければ、こっちから行けばいいだけなんだからさ、ねっ」

 優しく諭す奈那を見詰めた後、駿は助けを求めるように武志を見る。しかし、武志も無言ながら、静かに首を横に振った。

 厳しい視線を向けたままの篠田という名の老婆。

 やんわりとした表情を作りながらも、強い目つきであゆ美を見詰める祖父、巌。

 そして、悲しげに顔を伏せたまま肩を小さく震わせるあゆ美。

 駿は、ついにこの住宅街すべてに響き渡るのではないのかと思うほどの大声を張り上げた。

「おまえら、アホかァァァッ!」

「駿さま……」

 あゆ美は、驚いたように顔を上げる。そんなあゆ美を自分の背中に隠すように駿は、更に大声を張り上げた。

「あゆ美ちゃんの体がどれくらい悪くて、家にどんな事情があるかなんて、俺は知らねーよ!だけどな、外の世界を見たいと思う事が、そんなに悪い事なのか! 望んでいる彼女にチャンスも与えず閉じ込める事が、本当に正しい事なのかよ! 冗談じゃねーぞ! だったら俺は、死んでも彼女の望みを叶えてやる! 地の果てまで逃げたって守りきってみせる! 彼女は、カゴの鳥じゃねえんだ!」

「駿、確かにお前の気持ちはわかるがな……」

 そう巌が再び諭そうした時、その声にかぶさる声が、すぐに上がった。

「わかりました」

 一同が一斉に見たその人物は、篠田であった。

「お嬢さま、いずれ迎えは寄越しますが、それまでは好きになさい」

 全員が驚きを隠せない表情を見せた。巌などは、口を開けたまま呆気に取られている。

「本当に? 本当にいいの…?」

「この婆やが嘘を申した事がありますか?」

 すると、あゆ美は恐る恐る篠田に言った。

「では、一つだけです。もう一つだけ、わがままを言っていい…?」

「なんです?」

「私、学校に行きたい。学校に行って、沢山の事を学びたいの」

 篠田は、少し考える様子をみせる。が、すぐに「いいでしょう」と、首を縦に振った。

「ありがとう、婆や!」

 途端、あゆ美は満面の笑みを浮かべて、まるで小さな子供のように篠田に走り寄って抱きついた。それからまた駿に走り寄り、手を握って感動に満ち溢れた笑顔を向けた。

「ありがとうございます、駿さま! 全て駿さまのおかげです!」

「俺は何もやってねーよ。全部あゆ美ちゃんが自分の力で勝ち取ったもんだ」

 と、カッコつけるものの、突然あゆ美に手を握られた駿の顔は真っ赤である。

 巌が、慌てた顔で篠田の横に行き、耳元にささやいた。

「篠田さん、本気か…?」

 すると、篠田も小声ながら、まるで文句でも言うような口調で巌に返した。

「巌さん、お孫さんの育て方を間違えましたね。貴方も若い頃、あの目をした時にはテコでも動かなかったものじゃないですか?」

 巌は、返す言葉も無い顔で、困ったように白髪交じりの頭をかいた。

「とりあえず、お嬢様は一時貴方に預けます。近々相談に伺おうと思っていた所でしたし」

 途端に、巌の顔が険しくなった。

「と、言う事は、やはり結界が弱まり初めているか…?」

「それだけではありません。もう一つ、悪い知らせがあります」

「なんだ…?」

「先月から、定期連絡が途絶えております」

「まさか…!」

「現地の人間の力を持ってしても未だ消息が掴めておりません。詳細を調べる為、旦那様もすでに発っておられます」

「そうだったか……」

「ご自分の最後の仕事の後始末、つけてくださいますわね?」

「ああ、もちろんだ――が、そうなると、やっぱり学校はマズイぞ。いつ狙われるか……」

「そこは、貴方の力を信じます。今まで子供らしいわがままなど何一つ言ってこなかったお嬢さまの起っての望みです……察してください」

 どこか悲しげな眼差しを向ける篠田に、巌はもう何も返さず、静かに頷いただけだった。

「お嬢さま、話はまとまりました。しばらくの間、お嬢さまのお世話は、ここの河本巌さまが見てくださるそうです。のちほど、身の回りの物も持ってきましょう。それと学校の手配は、週明けまでには何とか致します。河本駿らと同じ都立紗月高校が一番適当でしょう」

「はい。世話をかけます、婆や」

「それでは、のちほど……」

 篠田は、あゆ美に深々と礼をして踵を返す。と、去り際に巌の肩を軽く叩き、黒服の男達を引き連れるようにして坂の上へと去って行った。

 ――任せておけ。

 巌は、篠田の背中を力強い眼差しで見詰めた。

「それでは、改めまして――河本巌さま、駿さま、ふつつか者ですが、しばらくの間、お世話になります」

 深々とお辞儀をするあゆ美に、巌はまるで孫娘が出来たような嬉しさでニッコリと微笑む。

 一方、駿はなんだかデレデレと微笑んでいた。

「そ、そんな、ふつつか者だなんて……」

「別に、アンタの所に嫁に来る訳じゃないでしょーが」

 思わず呆れた顔で言う奈那であったが、

「うううう、うるせーな! そんな事わかってるよ!」

 と、言い返してきた駿が耳まで真っ赤にしているものだから、奈那は更に呆れかえった。

 と、不意に、曼珠堂の裏庭から、ピッピー! と、甲高い電子音が聞こえた。

「あっ、洗濯おわった」

 言いながら奈那は、駆け出そうとする。先程までの騒動など、どこへやら。全自動洗濯機が終わりを告げるアラームを鳴らせば、奈那の体は自然に動くのだ。この少女の家事仕事は、本当に板についている。

 だが、駿はそんな奈那の肩を掴み、引き止めた。

「ちょっと待て……」

「なによ? 早く洗濯物干さなきゃ生乾きになるんだけど」

「その前にだ。奈那、俺のパンツ、また勝手に洗ったのか…?」

「だからなに? 前にも言った通り、アタシは家じゃパパと弟のパンツだって洗ってんだから、アンタのパンツなんか、どうってことないの」

「父親や小学生のパンツと俺のパンツを一緒にするな!」

「じゃあ、どこがどう違うか言ってみなさいよ!」

 我慢しきれずに声を荒げた駿であったが、そんな風に怒鳴り返されると、駿は逆に困った顔を作ってしまった。

「その……あの……だな、つまりだ、年頃の女子が男子のパンツを洗うっていうのは……」

「気にしてもらわなくても結構です。アタシ、駿を男だと思ったこと一度も無いから」

「オマエ、そりゃ言い過ぎだろ!」

「言い過ぎも何も、事実なんだからしょうがないでしょ?」

 思わず言葉を失う駿を無視して奈那は、先程からの二人の会話に顔を赤くしているあゆ美に向かい、笑顔で言った。

「あゆ美ちゃんも、駿のことを男だなんて思わなくていいからね。コイツは男である以前に、ただのバカなんだから」

「オマエなぁ!]

「さあ、洗濯洗濯」

 またもや奈那は駿を無視して、急ぎ足で裏庭へと向かって行った。

「あ、あのさ、奈那はちょっとズレてるって言うか……なんて言うのかな……」

 駿はあゆ美に、何だか訳のわからない言い訳をする。

 あゆ美は、顔を赤くしたまま困った顔をうつむけていた。

「「やれやれ……」」

 巌と武志は、疲れた顔で同時にそんな言葉を呟いたのだった。

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