第二章 千客万来
道行く人々、皆が振り返っていた。
「すごい美男美女のカップル……」
「誰、あの人達? ハリウッド俳優?」
「モデルじゃない? 今から撮影じゃないの?」
土曜日の買い物客で賑わう紗月町駅前商店街のアーケードの入り口では、買い物客の間で、そんないくつもの小さな驚きの声が飛び交っていた。中には、その男女に見とれすぎて何を買いに来たのか忘れてしまう者や、そっと携帯電話のカメラを二人に向けている者までいる。
「まいったな……」
そう言ったのは、白人男性の方であった。
オールバックに決めた金髪をかき上げ、その端正な顔立ちを少しだけ崩し、流暢な日本語で溜め息交じりに呟く。
「これだから電車移動は困る。ここに来るまで注目されっぱなしだ」
「かと言って、車はこの前の戦いでビルごと消滅させられていますし、仕方ありません」
女性が、艶のある茶色のロングヘアをかき分けながら答える。どこか上品な色香を醸し出している縁なしのメガネを掛けたその顔立ちは、欧米人とのハーフのようであった。女性として完成されている流線型のボディラインを黒いスーツで包み、白人男性の横にしなやかに立っている。
「だから言ったじゃありませんか。グレッグ様のそのベルサーチのスーツは、調査業務には目立ちすぎると。似合い過ぎているのですから」
すると、グレッグ様と呼ばれた白人男性は、にこやかな笑みで答えた。
「英国紳士たるもの、いかなる時も身だしなみを怠るわけにはいかないよ。それに……」
「それに…?」
「ミシェル、君の美貌よりは目立っていないつもりだ」
「嬉しい。愛してます、グレッグ様」
ミシェルは微笑みをグレッグに投げかけ、そして二人は手を取り合い、瞳を輝かせて見つめ合った。
第三者が赤面しそうなくらいの愛を見せ合う二人。
この二人、その行動が自分たちを更に目立たせているところまでは、どうやら気付いていないようである。
「しかし、いつまでも、こうしているわけにもいかない。仕事が先だ」
「そうですわね」
「とりあえず二人では目立ち過ぎる。私の横に居られないのは寂しいだろうが、ここは我慢して影にでも入っていてくれ」
「残念ですわ。久し振りのデートでしたのに……」
と、答えると同時であった。ミシェルの姿は、一瞬にして買い物客の中に紛れ込んだ。先程まで目立っていたのが嘘のように、今は誰もミシェルを見ていない。人によっては、消えたようにすら見えたであろう。
その姿を見届けると、グレッグは内ポケットから出した手帳を開いた。そこには、紗月町駅を始点とした地図が記されていた。
目的地に記されていた名前は、曼珠堂。
「さて、仕事開始だ」
グレッグは、その一歩を踏みしめるように商店街の中へと足を進めた。
秋晴れと言うに相応しい青空が広がっていた。
暖かな日差しと涼しげな風が、すごしやすい気候を作ってくれている。この緑の多い紗月町の閑静な住宅街なら、そんな穏やかな日を更に楽しむ事が出来るだろう。散歩するのも良し、近くの公園のベンチに腰掛け、ひなたぼっこをするのも良し。日差しに照らされキラキラと光る美しい緑は、紅葉に変わる前の夏の残り香として人の心を和ませてくれる。
しかし、曼珠堂の店先に立つ初老の人物は、この陽気に誘われてひなたぼっこをしているわけではないようだった。
駿の祖父、河本巌である。
巌は、いつもの灰色の作務衣にサンダル履きで、白い物が混じった無精ヒゲをなでながら屋根に掛かった古びた看板を見上げて難しい顔をしていた。
「そろそろ、この看板も取り替え時か……」
巌は、どこか寂しそうにポツリと呟いた。
長年、風雨に晒されながらも、ここに店がある事を伝えてきた曼珠堂の看板ではあったが、今や、その名前もかろうじて読める程度。店が閉まっていたならば、営業しているのかどうかすら怪しい状態になっている。
「お互い、随分と歳を食っちまったなぁ……」
巌はまた、寂しそうに呟く。
と、そんな巌の背中に、優しく掛かる手があった。
「なに言っての、おじいちゃん。おじいちゃんは、まだまだ若いって」
「よう、奈那ちゃん」
奈那は、買い物袋を片手に提げ、明るい顔を巌に見せた。
「今時、六十代を老人なんて呼ばないよ。そりゃ、アタシや武志は、駿がじーちゃんじーちゃんって呼ぶからつい、おじいちゃん、なんて呼んじゃってるけどさ」
「かまわねえよ。年寄りには変わりないんだから」
そうは言うものの、やはり若いと言われた事が嬉しかったのか、巌は顔のシワをいっぱいに寄せて満面に笑った。
「あっ、ところで駿は?」
「駿なら武志君と約束があるとか言って、朝からどっかに出かけたよ」
「なぁんだ。せっかく人がお昼ごはん作りに来てやったのに」
奈那は、つまらなそうな顔を作った。そんな奈那に、巌は優しく微笑んだ。
「駿なら、もうすぐ帰ってくるよ。アイツは腹が減ると帰省本能が働くからな、それまで家に上がって待ってなよ」
「うん、そうさせてもらうね」
奈那は、ニコリと笑って答えると、
「じゃあ、駿が帰って来るまでに、炊事、洗濯、掃除と終わらせちゃうね」
そう言いながら、店先をくぐる。その背中に向かって祖父は、白髪の混じった頭をかきながら、申し訳なさそうに言うのだった。
「いつも悪いな。年頃の娘に、男所帯の家事なんてやらせちまって……」
しかし、奈那は振り返り、
「気にしないで。ご近所のよしみなんだから」
と、十六歳らしからぬ言葉で、十六歳らしい明るい笑顔を浮かべた。
「じゃ、お邪魔しまーす」
そんな慣れた調子で奈那は、店と居間を仕切る引き戸を開けて家の中に入る。その後ろ姿を、巌は和やかな笑顔で見詰めた。
その時だった。
「ごめんください、河本駿さまはご在宅でしょうか?」
か細い声が、店先から聞こえた。自分の孫を『さま』付けで呼ぶその丁寧な口調に驚きつつ、巌は声の方向に振り返る。すると巌は、更に驚きを隠せない顔を見せたのだった。そこに立っていたのは、昨日、店を訪れた美少女、東間あゆ美であった。
「君は…!」
「はい?」
あゆ美は、驚かれている事に、ただ不思議そうな顔をするばかりだった。
「だあーっ! どうすっか!」
紗月町住宅街の閑静さをぶち壊すような悲鳴。声の主は駿であった。
「どうするも何もないだろう?」
曼珠堂へと向かう坂道を並んで歩く武志は、呆れ返った顔で答える。
「あんな難物本を、おじいさんに相談も無しに引き受けちゃう駿が悪いんだから」
「だって、そこまでの物だとは知らなかったしよぉ……」
「それにしたって、思慮が浅すぎるよ……」
そう答えて武志は、大きな溜め息を吐く。だがそれは、今日で二度目の事であった。最初は、朝、待ち合わせの紗月町駅で、駿から探している絵本の詳細を聞いた時だった。
まず、武志にとって、洋書、という点は、特に問題では無かった。自分のレア本コレクションの中にも、いくつかの洋書は含まれている。
次に絵本というジャンル。しかし、これも問題ではない。このジャンルは、武志も好きだからである。何冊かレアな絵本も持っているし、持っている洋書に関しては、ほとんどが絵本だからだ。
では、どこが問題なのか?
「あのね、小さなもみの木と言えば、駿が子供の頃に読んだと言っていたマーガレット・ワイズ・ブラウン作の絵本が一番一般的なんだ。今も世界中で愛されているクリスマス絵本だからね。それ以外にも、同名の物はいくつか知っている。でもね、駿の言う絵本は、残念ながら僕は見た事も聞いた事も無いよ。この本の世界で、似て異なる物を探すっていうのは至難の業なんだよ……」
しかも、作者の名前は聞いた事もない。武志は、朝っぱらから吐きたくもない溜め息を腹の底から吐いていた。
そんな武志にしてみれば、何処に行こうがその絵本が見つからない事など、火を見るより明らかだった。しかし、駿は言ったのだった。いつもの調子で……
「そんなの、やってみなけりゃわからないだろ? 倒れる時は前のめりだ!」
もちろん結果は、言うまでもない。神保町の行く先々の古本屋の店主が言う台詞は、決まって同じであった。
『わからないなぁ、日本には現存してないんじゃない?』
その台詞を聞くたびに、駿の肩は落ちていった。
曼珠堂への坂道を進みながら、武志はまた呆れた顔で言う。
「前のめりは結構だけどさ、共倒れになる僕の事も考えてよ……」
「すまねえ……」
駿は、素直に謝りながらも、うな垂れる。そんな駿の姿に、武志は苦笑を浮かべながらも優しく言うのだった。
「まあ、昨日の電話でちゃんと確認しなかった僕も悪いんだし、おじいさんと、そのお客さんには僕も一緒に謝ってあげるから、とりあえず元気だしなよ」
「本当にすまねえ……」
駿は、更に深くうな垂れ、武志は苦笑を深めた。
そんな時である。武志の視線に、ある人物が目に止まった。
「こんな所に外国人なんて珍しいね」
「ホントだ」
うな垂れていた顔を上げ、駿も答える。
「スーツに金髪のオールバックか。外人ってカッコイイよな」
「うん」
そんな会話を交わしていると、二人はその外国人と目が合う。と、同時に、外国人は二人の下に近寄ってきた。
「そこの少年達。すまないが道を尋ねたいんだが……」
その途端であった。
「ア、アイキャントスピークイングリッシュ!」
そう慌てて叫んだのは、もちろん駿である。武志は呆れて駿に言う。
「この人、日本語で尋ねてるよ。しかも、かなり上手に」
「な、なんだよ、だったら先にそう言えよ」
駿は、笑ってごまかし、武志は更に呆れた。
「すみません、話の腰を折っちゃって……」
武志は、その外国人にそう謝ると、改めて口を開いた。
「それで、どこに行こうとしているんですか?」
「曼珠堂という名前の古本屋なのだが、知ってるかい?」
当然のように驚く武志の横で、駿はすっとんきょんな声を上げた。
「お、俺ん家!」
もちろん、外国人の方も驚いた顔を見せていた。
「なんだ、また奇妙な巡りあわせだな。それに、河本氏に息子が居たというのも驚きだ」
「いや、俺は孫だよ。父ちゃんと母ちゃんは、もう亡くなってるし」
「それは失礼した」
「それで、どっちに用事なの?」
「もちろん、ご存命している君のおじいさまの方だよ」
「よかった。じーちゃんなら、店に居るはずだから案内するよ」
「それは助かる。地図は持っているのだが、日本の道は難しくてね。困っていたところだ」
外国人は、明るい笑顔を駿に投げかけると、右手を差し出した。
「私の名はグレッグ=C=シーファスと言う。よろしく」
「俺は河本駿。じーちゃんに外人さんの知り合いがいたなんて、驚いちゃったよ」
「河本氏には、以前、電話で本を頼んだ事があってね。だから店に行くのは初めてなんだ」
そう答えながらグレッグは、駿と握手を交わし、それから武志にも右手を差し出す。
「それじゃあ、君は駿くんの弟といったところかな。よろしく」
グレッグのその言葉は、もちろん武志の童顔過ぎる童顔を見ての事である。
「すみません、僕、駿とは同じ十六歳なんですが……」
武志は、グレッグと握手を交わしながらも困った顔を見せた。グレッグも思わず慌てる。
「いや、失礼失礼。私はてっきり小学生かと……」
「気にしないでください。慣れてますから……」
とは言うものの、若干の落ち込みを見せる武志。横で駿がクスクスと笑っている。
「浅井武志です」
そう名乗って、武志は握手の手を離す。しかし、その後だった。武志は不思議な行動に出た。グレッグの横にも右手を差し出したのである。当然、グレッグの横には誰も居ない。
「あ、あれ? お一人でしたっけ?」
「そうだが…?」
「武志、小学生と間違えられたからって動揺しすぎだよ」
駿は、そう言って今度は大きな声で笑う。
武志は、「うるさいなぁ」と、口を尖らした。
にこやかな表情で、そんな二人のやりとりを見ていたグレッグだったが、心では驚きの言葉を呟いていた。
――この少年、わずかとは言え、気配を絶っているシェリルに気付いたか。良いカンをしている……
グレッグは、にこやかな表情の奥に、興味深く見詰める眼光を含ませた。
曼珠堂の居間には、少々妙な空気が流れていた。
居間より奥の台所で、手際よく昼食の準備をしている奈那。たまに、裏庭の方へ洗濯物を見に行ったり、二階に上がって掃除機をかけたりと、炊事、洗濯、掃除を同時進行でテキパキこなしている。
が、合間合間に居間をチラチラと覗いていた。
――紗月町に住んでる子かな? でも、あんな綺麗な子、この町に居たっけ…?
巌によって居間に通された東間あゆ美が、気になってしょうがないようであった。
その東間あゆ美は、座卓を挟んで巌と向かい合わせに座っていた。正座をするその姿勢は、とても美しく、もし着物でも着ていたなら日本人形と見紛うほどである。
ただ、その表情だけは、未だ不思議そうな顔をしていたのだった。なぜなら……
「あの……」
と、あゆ美が呼びかけても、
「すまん、ちょっと待ってくれ……」
と、巌はあゆ美の言葉を止めてしまう。先程からこの調子なのであった。ちなみに、今ので三度目である。
居間で、難しい顔をした初老の男性と、不思議な顔をする美少女が無言で見詰めあい、それをチラチラと覗き見るように視線を送る普通の女子高生。居間に流れる妙な空気は、更に深まってゆくばかりであった。まるで、このまま日が暮れてしまうのではないのかと思われるほどである。
しかし、十分ほど経ったところで、最初にその空気の流れを変えたのは、奈那であった。
「ごめんね、お客さんなのに、お茶出すの遅れちゃって」
奈那は、お盆にお茶の入った湯飲みを二つ乗せて居間に入り、そう言いながら一つをあゆ美へと差し出した。
「いいえ、おかまいなく」
あゆ美は、奈那に笑顔で答える。
続いて奈那は、巌にお茶を出す。
と、それを切っ掛けにでもしたかのように巌は、初めて自分からあゆ美に口を開いた。
「君、東間あゆ美さんだね?」
「はい、そうですけど……」
また、不思議そうな顔をするあゆ美。
すると、そこで声を上げたのは奈那であった。
「と、東間! 東間って、あの東間!」
しかし、巌は直ぐに「まあまあ、奈那ちゃん」と言って、奈那をなだめる。それでも奈那は、よほど東間という名前に驚いたのか、あゆ美を見詰めたまま茫然としている。
「それで、今日はなんでまた、うちみたいなサビれた古本屋に?」
「実は……」と、あゆ美は、探している絵本がある事、それで昨日ここを訪れた事、絵本を駿に頼んだ事などを話した。
「お約束の時間には早すぎましたが、今しか時間が取れなかった為、迷惑かと思いながらも、お伺いさせてもらいました」
「なるほどな……」
あゆ美の話を聞き、巌は、納得したように頷く。しかし、そんな巌とは対照的に奈那は、途端に心配した顔をあゆ美に向けたのだった。
「アイツ、もしかして、あなたに、ヒーロー力がどうとかって、力説しなかった…?」
あゆ美は、にこやかな笑顔で答える。
「はい。俺のヒーロー力を信じてくれと言っていました」
「あのバカ……」
奈那は、溜め息と共に頭を抱えた。
「ごめんねぇ。せっかくのお客さんだって言うのに、なんか迷惑かけちゃって……」
「いいえ、そんな事はありません。自分を信じるって、とても素晴らしい事だと思います」
「いいの、いいの。あんなバカに気なんか使わなくったって」
と、そこに、そのバカが帰ってきた。
「ただいまー」
「駿ッ!」
奈那は、怒号と共に店へと飛び出し、
「アンタ、なにお客さんに迷惑かけてんのよ!」
と、駿に迫り寄った。
「な、なんだよ急に……」
突然の奈那の剣幕に、呆気に取られつつ怯む駿。しかし、奈那は止まらない。
「ごまかそうたって、そうはいかないからね! たった今、あの子から聞いたばっかなんだから!」
「あゆ美ちゃん…!」
あゆ美は、すでに奈々の後ろ側、引き戸の所に立っていた。
「うわぁ、綺麗な子……」
と、見とれる声を出したのは、駿の後ろに立つ武志である。その横のグレッグも同時に、ヒュー、と、あゆ美の美しさに感嘆の口笛を吹いた。
あゆ美は、三人に笑顔で、軽い会釈をする。
「ヒーロー力はもういい加減にしろって、昨日言ったばっかじゃん! それでも昨日は、ちょっと言い過ぎたかな、と思って、今日はお昼ご飯をわざわざ作りに来てやったって言うのに早速これってどういう事よ!」
だが、奈那の言葉は駿の耳には届いていなかった。ふらふらとした足取りで奈那の横を通り過ぎ、あゆ美の前まで来ると、突然ひざまづき、土下座を始めたのだった。
「え? 河本さま…?」
「すまない、あゆ美ちゃん! 俺のヒーロー力が足らなかったみたいだ。せっかく俺の事を信じてくれたのに、俺は裏切っちまった。本当に申し訳ない!」
キョトンとしているあゆ美。
その代わりに奈那が、呆れた顔で腕組みをし、駿に言葉を投げかけた。
「つまりアンタは、この子に大見得切っといて、結局、注文はこなせなかったわけだ?」
駿は、土下座で顔を伏せたまま、無言で小さく頷く。
「そうやって、いい格好しようとするから、いけないのよ」
だが、あゆ美は慌てて奈那と駿に言った。
「いいえ、元はと言えば、私が無理を言ったのがいけないのです。河本さま、どうか顔を上げてください」
「いいのよ、コイツは。少し反省しなきゃ、すぐにまた調子に乗るんだから」
「でも……」
あゆ美は、困った顔を見せる。
すると、そこにグレッグが、微笑みを浮かべて入ってきた。
「まあまあ、お嬢さん。詳しい事情はわからないが、彼も土下座までして謝っているのだし、もうここは、許してあげたらどうだろう?」
グレッグは、奈那の目の前まで行ってそう言う。
駿の事で夢中になっていた為、今更のようにグレッグの存在に気づく奈那。顔を真っ赤にして、目前の色男に返した言葉は、こんなものだった。
「おうじさま……」
「ありがとう、よく言われるよ」
奈那は、耳まで真っ赤になった。
「それじゃあ、ここは私に免じて、いいかな、お嬢さん?」
「え、ええ、まあ……」
「よし、決まりだ。ようやく話が出来そうだな」
グレッグは、ホッとした様子でそんな事を言う。
それと同時に駿は、顔を上げると、思い出したように口を開いた。
「そうだよ、この外人さんさあ……」
だが、「わかってるよ」と、巌は駿の言葉を遮り、居間から店へと降りてくる。そして、グレッグの方へと足を向けた。
「聞くまでもないが、俺に用事があるんだろ?」
「当然です。ミスター巌」
「今日は、千客万来だな……」
「探している古本がありましてね、こうしてお伺いしました」
「古本ねぇ……」
巌は苦笑を浮かべた。
「駿、俺はちょっと、この外人さんと話があるから出てくる。店番、頼むぞ」
「う、うん……」と、戸惑いながら答える駿。
「あと、奈那ちゃん。悪いんだが、そこのバカがお嬢さんに失礼しないよう見張っててくれるか?」
「任せてよ、おじいちゃん」と、奈那はガッツポーズを作る。
「それから、お嬢さん」
「はい」
「探している絵本は、もう少し待っててもらっていいかな?」
「はい、かまいません」
笑顔でそう答えるあゆ美に、巌も笑顔を返した。
最後に巌は、武志の肩をポンと叩いた。
「武志君も悪かったな。駿に付き合ってもらって」
「いいえ、駿に付き合わされるのは、いつもの事ですから」
「探している絵本の事は、帰ったら話そう」
「楽しみにしています」
二人は笑顔を交わした。
「それじゃあ、行こうか」
巌は、サンダルの音をペタンペタン響かせながらグレッグと共に店を出て行った。
――注文の話なら、店でも出来るのになぁ……
祖父が出て行った店先を見詰めながら、駿は不思議そうな顔を作った。
「さて!」
奈那は、そんな声を上げて、パンと手を叩いた。
「あゆ美ちゃん、お昼まだでしょ? もしまだ時間があるなら一緒に食べない? おじいちゃんの分が一食残っちゃうからさ」
「ありがとうございます」
あゆ美は、とても嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「武志も食べてくでしょ?」
「うん、そうさせてもらうよ」
奈那を先頭に、あゆ美と武志も居間へと上がってゆく。
店の床に、ただ一人残される駿。奈那は、呆れたような顔で振り返って言った。
「なに、いつまでもカエルみたいな格好で情けない顔してんのよ。お腹すいてるんでしょ? 駿の分も、ちゃんと作ってあるから」
「ありがとう、奈那さん……」
駿は、今にも泣き出しそうな声を出した。
そんな駿に奈那は、溜め息と共に笑顔を作った。
居間の座卓に並べられた奈那の手料理。
メニューは、豆腐の味噌汁に芋の煮っ転がし、アジの開きの焼き物であった。
「なんだよ奈那、俺、肉が良いんだけど」
「文句言ってるわりには、ばくばく食べてんじゃん」
「奈那さまは、お料理が上手なのですね。このお芋の煮っ転がし、すごく美味しいです」
「あはっ、ありがとう。でも、奈那さまは止めてよ。なんか、くすぐったいよ」
「そうだよ、あゆ美ちゃん。こいつは奈那でいいんだから」
「こいつとはなによ! せっかく許してやったのに!」
「俺は、あゆ美ちゃんに謝ったんだ。奈々に許してくれなんて、一言も言ってない」
「超ムカつく…!」
「ムカついて結構、好かれようとも思ってねーよ」
「アンタ、殴ってやろうか!」
「おう、やってみろ!」
「二人とも、食事中!」
やりあう駿と奈那に、武志は一喝する。駿と奈那は、声を揃えて、
「「すみません……」」と、肩をすぼめた。
「ごめんね。僕たち、小さい頃から、こんな風に過ごしているからさ。気にしないで」
武志は、あゆ美にそう言うが、あゆ美は、楽しそうに笑いながら答えた。
「いいえ、私、こんな楽しい食卓は始めてです」
「そうか、良かった」
武志は、安心する笑顔を浮かべた。
その横では、まだ駿と奈那が睨み合っていた。
そうして食事が終わると、奈那はコップに全員分のジュースを持ってきて配る。それから、一つの提案をした。
「さてと、お腹も落ち着いた所で、改めて自己紹介しようか」
「賛成!」
と、無駄にテンションを上げているのは駿である。
「じゃあ、まずはアタシからね。アタシは増岡奈那、十六歳。本当に奈那でいいからね」
「僕は、浅井武志。こんな童顔だけど、僕も十六歳。将来は、図書館司書になりたいかな」
「はい! 次は俺、俺!」
「わかったから、早く言いなさいよ。うるさい」
「もう知ってるだろうけど、俺は河本駿。将来はヒーローになる事だ!」
「幼稚園児か……」
そう呟いて奈那は頭を抱え、同時に武志は深い溜め息を吐いた。
あゆ美は、そんな様子にクスクスと楽しそうに笑っている。そんな楽しげな笑顔を残したまま、あゆ美は相変わらずのか細い声で言った。
「東間あゆ美です。皆さんと同じ十六歳です。よろしくお願いします」
そこで、驚きを隠せない顔をしたのは、武志であった。
「東間って、あの東間?」
あゆ美が「はい」と、頷くと、続けて奈那も口を開く。
「そうそう、アタシもそれが気になってたんだよね」
ただ一人だけわからない顔をしているのが、駿であった。
「東間東間……なんか、聞いた事があるんだよなぁ……」
「アンタ、バカ? 何年、紗月町で暮らしてるのよ」
「バカとはなんだ! バカとは!」
奈那の呆れた言葉に、駿は声を上げて怒ったが、
「はいはい、話の腰を折らない」
と、武志は駿をなだめる。それから、落ち着いた口調で駿に説明した。
「この町で東間って言ったら、一つしかないだろう? この坂の一番上に構えた大きな屋敷」
駿は、「あっ!」と声を上げた。
「東間のお屋敷だ!」
この紗月町で『東間のお屋敷』と言ったら、タクシーの運転手が道の説明を受けなくても行けるくらい有名な屋敷であった。曼珠堂のあるこの坂の一番上に建てられており、敷地面積は、おおよそ一万五千坪。東京ドーム一個分が、すっぽり入るほどの広さである。その森林の豊かさに、初めて見る者は市民公園と間違えてしまうほどだ。そんな東間家の総資産たるや、千億とも二千億とも噂されていた。
だが、町との交流は一切無く、この町で東間家と交流のある者は一人としていなかった。
「すっげー! それじゃあ、あゆ美ちゃんは本当のお嬢様だ!」
「本当かどうかはわかりませんけど、家ではお嬢様と呼ばれています」
「やっぱりお嬢様だよ!」
駿の無駄に上がっていたテンションは更に上がり、
「なあ! すげえな武志!」
と、駿は武志の肩をバンバン叩く。
「わかった、わかった」
武志は、疲れた顔で答える。それからあゆ美に向き直り、落ち着いた口調で尋ねた。
「でも、あゆ美ちゃんって、何処の学校に行ってたの? 僕たち、あの屋敷に自分たちと同じ歳の子供が居たなんて、今初めて知ったよ」
そんな武志の言葉に乗っかるように、続いて奈那も口を開いた。
「そうなんだよね。ここって狭い町だしさ、あゆ美ちゃんみたいな綺麗な女の子が居たら、たとえ学校は違っても噂ぐらいは立つからさ。でも、そんな噂も聞いた事ないし、アタシ、それが凄い不思議でしょうがないんだよね」
するとあゆ美は、少しうつむき加減になって、か細い声を更にか細くして答えたのであった。
「私、生まれた時から体が弱くて、皆さんのように学校には行っていないんです。屋敷の外に出る事も禁じられていた為、義務教育は在宅学習という事で修了しています。だから、実を言うと、屋敷の外に出たのも、今回が初めてで……」
「えっ?」という声を出したのは奈那であった。
「それって、もしかして……」
「屋敷の外の事は、本やテレビや知っていました。でも、それらを知れば知るほど、外の世界への思いは募っていって……」
「つまり、黙って抜け出してきちゃったんだ……」
あゆ美は、とうとう無言でうつむいてしまった。
どうしたものかと、思わず奈那と武志は顔を見合わせた。
どんな理屈をこねようと、あゆ美は未成年者である。保護者の庇護の下に居るべきであり、その家の事情というものもある。何よりも、保護者が心配しているだろう。そういった思いが、奈々と武志の脳裏を駆け巡っていた。
そんな様子の二人に駿は、
「なあ、ちょっと……」
と、不満気な顔で口を開く。が、その言葉は、突然、店の方から響いてきた無数の乱暴な足音に遮られたのだった。
四人は同時に驚き、真っ先に駿が店へと飛び降りる。そこに居たのは、黒いスーツで身を包んだ、いかにもという風な屈強な男達が五人、無表情に立っていた。
「な、なんだよ、アンタら…!」
男達は、駿の言葉に誰一人として答えない。ただ、全員が居間に居るあゆ美に目を向けていた。あゆ美は、怯えるように奈那の後ろに隠れる。すると、後ろに居る一人が、耳に掛けたイヤホンに手を当て、スーツに付けたピンマイクに向かって表情の無い声を出した。
「目標、発見しました」
続いて、先頭の男が駿に静かに告げた。
「河本駿だな。東間あゆ美を引き渡してもらおう」
駿は、覚悟を決めたように強く拳を握り締めた。