エピローグ
紗月町のもみじが紅く色付き始め、イチョウの木がちらちらと黄金色の葉を散らす頃、新宿区の騒動は完全に収束していた。
日本政府の対応は、意外にも迅速であった。
新宿区を覆っていたフィールドの霧が晴れると共に、
「我が国を襲った新型ウイルスは、一時的に意識は失うものの死に至るものではなく、また、その寿命も短いと見られます。ワクチンの開発もすでに済み、事態は収束の方向へと向かっています」
と、首相は緊急声明を発表。同時に、ワクチンという名の栄養剤が日本全国にバラまかれた。奇跡的にこの騒動による死者は出ず、日本は平静を取り戻し、東京にも再び活気が戻ってきた。もちろん、新宿区が消失していた事など、一般の人間は誰一人知る由もなかった。
ただ、新宿区の内外で倒れていた人々が突然、一斉に目を覚まし始めた事には、市民も動揺を隠せなかった。事情を知らない者達が様々な憶測を飛ばしたが、いつしか人々はこの日を、
『奇跡の日』
と、呼ぶようになっていた。
その奇跡を生み出した少年の部屋には、日曜日の麗らかな午後の日差しが届いていた。
少し開いていた窓から、多少肌寒く感じる秋の風が吹き込む。その風に、半袖のTシャツを着ていた彼は、ちょっと身を震わせた。しかし、彼は、眉間に寄せた皺を和らげる事なく、親友が掲げる一枚のトランプの裏側を穴が開くほど見詰めていた。
「お前の頭の中が見えたぜ」
不意に彼は、ニヤリと笑う
「そのカードはスペードだ!」
彼は、トランプを指差して声を上げた。親友は、ゆっくりとトランプを返す。
「はずれ」
ダイヤのAであった。
駿はガックリと肩を落とし、武志は、そんな駿に呆れた顔を作った。
「振り子を使ったサイコキネシス実験じゃピクリとも動かず、この四種類のAを使ったテレパス実験でも、十回中、的中はゼロ。以前よりも酷いね……」
「武志、ちゃんと頭に思い浮かべてんのか!」
駿は不満げな顔で言うが、
「もちろん」
と、武志は頷く。その余りに素直な頷き方に、
「だよな……」
と、駿は更に肩を落とした。
武志は、疲れたように駿のベッドに体を放り出して腰掛けると、
「まったく、君ってやつは……」
と、更に呆れ返った顔を見せた。
「飛んでくる弾丸や襲い掛かるナイフを寸前で止めて、パンチ一発で人間を三メートル以上も殴り飛ばし、バーノンの記憶を全て読み取り、あゆ美ちゃんの力まで抑え込んだって言うのに、今じゃまったく何も使えないなんて……」
武志は、大きな溜め息と共に言う。
「その上、気が付いてなかったって言うんだから……」
椅子に座っていた駿は、ブラブラさせる自分の足を見詰めながら答えた。
「銃で狙われたのは憶えてるけどよ、弾は全部外れてると思ってたんだ。連中をブッ飛ばした時だって無我夢中だったから、全然記憶にねえし、バーノンの記憶を読み取れた時は、なんかこう、カンが冴えたって言うか、こんな事もあるんだなぁ、くらいにしかよ……」
「そんなわけないだろう……」
「あゆ美ちゃんの事だって、やっぱり無我夢中でさ、全然憶えてねーんだよ。後からみんなに話されて、俺の方が信じられねーよ……」
悔しそうな顔をする駿。あれほど欲しがっていた『ヒーロー力』が目の前にありながら、今では微塵も無く、記憶すら無いというのだから、まあ無理もない。
すると、武志は呆れた顔をイタズラな微笑みに変えて言った。
「駿らしいって言えば駿らしいけどね」
「うるせー」
そう答えながら、駿も笑顔を返した。
「二人とも、お昼ゴハン出来たよー」
一階から奈那の声が聞こえ、二人は居間へと下りた。
居間には、豚肉のしょうが焼きのいい香りが漂っていた。
「やったね! 肉、肉!」
と、駿は嬉しそうにテーブルを前にする。その右隣に武志も座る。と、エプロン姿の奈那が、おぼんにご飯と味噌汁を乗せて台所から姿を現した。
「さあ、食べよう」
言いながら奈那は、二人にご飯と味噌汁を配り、それが済むとエプロンを脱いで駿と向かい合わせに座った。
駿と奈那が向かい合わせで座り、その真ん中に武志が座る。この居間で食事をする時の三人の定位置。
「いただきまーす」
三人は、まるで小学生の給食の時間のように声を揃えた。
早速のように駿は、豚肉のしょうが焼きをほお張る。
「うめぇなー、やっぱり肉だよ」
駿は夢中になって食べた。
「少しは落ち着いて食べなよ」
と、武志が呆れた顔を作っても、やっぱり駿は止まらない。
「グレッグさんも、もったいねえよな。せっかくこんなウマイもん食わしてやるって言ってたのに、食う前に帰っちゃうなんてよ」
その駿の言葉に、奈那も口を開く。
「そうだよ。アタシも、まだヒメの事でお礼してないのに」
武志が、品良く三角食べをしながら言った。
「しょうがないよ、仕事なんだから。グレッグさんは、枢密院の不穏分子をあぶり出さなきゃいけないからね。本当に忙しいのはこれからだって言ってたよ」
紗月高校での戦いの後、バーノン=カミングはイギリス大使館を通じて本国に送還されていた。手足には五つの手錠が掛けられ、その上から拘束服を着せられて、チャーター機での送還であったが、言うまでも無く、それが人目につく事はなかった。
そのバーノンのイギリス本国での審問に際し、グレッグは重要参考人として神崎織姫を選んだのである。しかし、グレッグはもちろん、王家も織姫に罪を問うつもりは無かった。それは、グレッグが織姫を日本から連れ出す、ただの口実であった。
「しばらくは本国で私の下に置き、ほとぼりが冷めた頃、王家を通じて私が日本政府と話をつける。一年以内には、必ず神崎織姫を親元に帰す事を約束しよう」
いつものように、グレッグは紳士然な笑みを浮かべ、三人にそう約束したのだった。
「それよりも、おじいちゃんは、いつ戻ってこれそうなの?」
武志は、ふと箸を止め、心配そうな顔で駿に尋ねた。そんな武志とは対照的に、駿はまだガツガツと食べながら、「さあな……」と、判らない風に武志に答えた。
「あの事件のせいで裏側世界じゃ、政府がずっと隠してきた東間の力が公になっちまったらしいからな。しばらくは、その力を狙いに来る連中が後を絶たないだろうから、落ち着くまではあゆ美ちゃん達と一緒に身を隠すって、俺にも居場所を言わずに行っちまったし……まあ、隠れ家は、あゆ美ちゃんの父ちゃんが用意したみたいだし、政府も全面的に協力するらしいから、大丈夫なんじゃねえか?」
そこまで言い終わると、駿はご飯を口に掻き込み、「おかわり!」と、奈那に茶碗を出した。
奈那は、「はいはい」と、茶碗を受け取って立ち上がり、台所へと向かう。
と、駿は不満げな顔を作って声を上げた。
「それよりもあのジジイ、学校から帰って来た時と休みの日は必ず店を開けとけ、なんて捨てゼリフ残していきやがって。おかげでこっちは遊びに行くヒマもありゃしねえ!」
すると武志は、その言葉にホッとしたような笑みを見せた。巌が駿に、店を開けとけ、と告げたのは、そう長くはならないから店番をしとけ、という意味だと悟ったからであった。
そこに奈那が、ご飯を大盛りに盛った茶碗を駿に渡しながら訊いた。
「身を隠すのって、あの一騎も一緒なの…?」
そう、一騎は奇跡的に命を取り留めていたのだった。しかし……
「一緒みてえだな。じーちゃんは止めたらしいけど……一騎のやつ、頭の中身が六歳になっちまったからな……」
戦いの後、わずかに息のある一騎にミシェルが気付き、一騎はすぐに病院へと運ばれた。だが、病院のベッドで目を覚ました一騎の精神と記憶は、六歳まで退行していたのだった。あゆ美から流れ込んでいた力も止まり、元々持っていたテレパス能力すらも失っていた。
武志が言う。
「ビックベンや新宿区が自然に元に戻ったのも、そのせいだろうって、おじいさん言ってたね。きっと、全ては死にかけたショックによるものなんだろうね……」
「いや、そんなんじゃねえよ……」
――きっとアイツは、記憶も心も能力も、自分からそうしたんだ……
駿は、豚肉のしょうが焼きを口に放り込みながら感慨深い顔をしたが、そんな一抹の思いを口に出す事はなかった。
「……でも、まあ、あゆ美ちゃんも、あゆ美ちゃんの母ちゃんも幸せそうだったらしいよ。あゆ美ちゃんと一騎は、手を繋いで歩いたりしてたらしいから――十年も苦しんで、やっと手に入れたものなんじゃねえかな」
「そうだろうね」
武志は笑顔でそう答え、奈那も満面の笑みを作った。
と、その奈那は、何かを思い出したような顔をすると、なんだか嬉しそうに話し出した。
「あのさあのさ、アタシ思ったんだけど、おじいさんって若い頃、絶対あゆ美ちゃんのお母さんのこと好きだったよね? だって、戦いの時だって必死にあゆ美ちゃんのお母さん守ってたし……あっ、もしかしたら今でも好きなのかも! なんか素敵だなぁ……」
奈那は、久しぶりに女子高生らしい顔に戻り、女子高生らしく、そんな恋話を二人に振った。
武志は呆れた笑顔を浮かべる。
そして、駿は、呆れ返った顔を更に歪ませていた。
「あんな年寄りの恋愛想像して、何が面白いんだよ……」
「あーッ! そういう恋愛に冷めてる男って、女の子に嫌われるんだよ、駿」
奈那は口を尖らせたが、駿は気に止めない顔で言い返す。
「俺は別に、あゆ美ちゃんにさえ嫌われなけりゃあ、オマエみたいな怪力女に嫌われたって一向に構わねーよ」
「へぇー……」
怪力女。その一言にカチンときた。
「アンタねぇ! こんな余計な能力がついたの誰のせいだと思ってんのよ! 全部、グレッグさんから聞いてんだかんね! おかげでバスケじゃドリブルもロクに出来やしない! ちょっと力入れただけでボールが破裂しちゃうんだから!」
「おお! そりゃすげーな。この際だから砲丸投げの選手にでも転向したらどうだ? きっと金メダルが取れるぜ」
「砲丸投げの前に、アンタのこと紗月町駅まで投げ飛ばしてやろうか!」
「おう、上等だ!」
何かを投げ飛ばす前に飯粒を飛ばし合っている事に二人は気付いていない。間に挟まれている武志に、その被害が及んでいる事も……
「二人とも、食事中!」
「「すみません……」」
武志の一喝に、駿と奈那は声を揃えて肩をすぼめた。
――と、駿は一瞬、寂しげな顔を見せた。ここにあゆ美が居たならば、きっと楽しそうに笑うのだろう、と。あゆ美の部屋もそのままであったし、その寂しさは余計に募った。
そんな時だった。不意に、店先から声が聞こえた。
「河本さーん、お届け物でーす」
駿は跳ねるように飛び上がり、店先へと駆け出した。
店先に居た郵便局員が手にしていたのは、宛て先がローマ字で書かれている海外からの小包であった。駿は、サインをしてその荷物を受け取ると、早速のように包装を破き始める。
「ねえ、駿。それってもしかして…!」
後ろから武志が、目を輝かせて駿に声を掛ける。その童顔も相まって、武志の顔はまるでオモチャを前にした小学生のようであった。
「多分、間違いねーよ」
駿も嬉しそうに答え、包装紙の中から出てきた箱を開ける。と、そこには一冊の絵本が入っていた。
題名は『THE.LITTLE.FIR.TREE』
右下には『Ursula=Bloom』と記されていた。
「やっと届いたね」
奈那は、満面の笑みを見せた。
駿は頷き、絵本を見詰める。その向こうには、あゆ美の喜ぶ顔が見えるようであった。
了




