World end maneater
目を開けると薄汚れた布の天井が広がっていた。左右を見る。衛生兵らしき女がうつらうつらと船を漕いでいた。
「……己れはまた生き残ったのか」
吾妻雪見は左頬に触れた。砲弾が掠めてこそげ落ちていた肉は、一応皮が張っていて縫い合わされていた。吹き飛んだ腹も似たような処置で塞がっている。ひどく目立つし不恰好な傷が残ったものの、命を拾ったことに変わりはないらしい。
ユキミは別に命が惜しくはなかった。彼女自身の中で自分はもう役目を終えた命だったからだ。普通の人間はそれを子供を一人前に育てあげたことだとか、引退の年齢まで仕事の役職を全うしただとか、そういうことに求めるのだろうけれど。
――殺せ。
「……」
耳元で誰かが囁くような声がした。
――殺せ。殺せ。殺せ。我らからすべてを奪った薄汚い犬どもを殺せ。
それはユキミの父の声だった。
あまりにも的外れな幻聴にユキミは失笑した。もしも物心ついてすぐの頃のユキミならば、この声に任せてドグル族を惨殺していただろう。キャルト族は過去、ドグル族に酷い弾圧を受けていた。集団生活を嫌い、縄張りの中で伴侶と子供とだけ過ごす性質を持っていたキャルトは、集団で狩りをするドグルに対して抗する術を持たなかった。一方的にドグルはキャルトを駆逐した。
ユキミはそうしてドグルに駆逐された経験を持つ父母の元で、戦う術だけを叩き込まれて育った。あらゆる剣術に精通し、体術や詐術、暗殺術。ユキミは自分のすべてはドグル族を殺すためだけにあると教えられていたし、自分のすべての機能をそのために使えることに喜びを感じていた。
そのうち手足が伸びきり、ユキミが戦士として完成し、幾らかのドグル族を殺しているうちに、突然ドグルとキャルトは停戦した。和解した。ドグルの長は多額の金を積んでキャルトとの関係を修復しようと試みた。公式に謝罪してあらゆる罪を認めた。
当然そんな謝罪は突っ撥ねるのだろうとユキミは思っていた。だがそうはならなかった。キャルトの長は金を受け取った。謝罪の言葉を受け入れ、少しずつ互いが歩み寄っていく未来を望んだ。そうしなければ財政上の理由でキャルト族は滅亡しかねなかったからだ。
それでもなお報復を望んだキャルトの仲間達は、他ならぬキャルト達によって制裁された。当時はなんだそれは思ったものだ。ドグルを殺すことにしかなかったユキミの存在意義は、断たれてしまったのだ。これから自分は一体何をして過ごせばいいのだろうか。
ユキミは愕然とした。どうしてあの薄汚い犬どもが目の前にいるのに殺してはならないのだろうと困惑した。やることを無くして一日中間枕に顔を埋めていた。あまりにもやることがなかったので、外に出ることにした。街々を彷徨い、腕が立つことを認められ商人の護衛をやって日銭を稼いだ。そのうち大きな戦いがあることを知り、半ば死に場所を求めてその戦いに志願した。別に死にたかったわけではないが、死んでも構わないとは思っていた。やることが、やりたいことがなかったのだ。
そしてベルリアを中心とする悪魔との大戦争が始まり、結局ユキミは生き残った。
文字が書けないことが恥ずかしかったので学の街の学籍を貰って、勉強を始めた。しかしさっぱり授業の内容にはついていけなかったため、英傑の報酬で家庭教師を雇い、小学生くらいの内容から丁寧に教えてもらった。あまり深い内容になると小難しくてわからなかったが、一般常識程度は身に着けることができた。
学の街で生活しているうちに、十歳にも満たないキャルトの女の子が同い年くらいのドグルの男の子と並んで歩いているのを見つけた。女の子は熱心に男の子に話しかけている。頬が紅潮していて表情はやわらかく、きっと彼女は恋をしているのだろうと思った。
その瞬間、ユキミは自分の中でわずかに燻っていた報復の炎が燃え尽きたのを感じた。勿論ユキミはドグルが好きではない。死にかけのドグルがいて助ける手段と見捨てる手段があれば見捨てる方を取るだろう。だけど積極的に殺そうとは考えなくなった。あの少女の幼い恋をわざわざ妨害するような真似はしなくていいのではないかと考えるようになった。
――殺せ!殺せ!殺せ!
幻聴が続いていたが、ユキミはそれが自分の精神になんら変調をきたさないことを確認する。本当に自分は枯れてしまったんだなと自嘲気味な気分になる。それは子供の頃に熱中していた遊びを楽しめなくなってしまった気持ちに似ていた。
「おい、貴様。誰に喧嘩を売っているのかわかっているのか」
この幻聴は『声の魔法』だろうとユキミは推測した。おそらくは粛清教の有する数少ない魔法使いの内の一人。そしてこの魔法の使い手にはこちらからの“声”も届いているはずだ。
「丁度やることもなくなったところだ。貴様を探し出して一寸刻みして犬の餌にしてやるから覚悟しろよ」
ユキミは犬という言葉を意図して使った。キャルトと同じようにドグルに対しての因縁を持つ粛清教の構成員には、他の動物よりもこの方が反響が大きい。
声が止み、静寂が戻ってきた。
ユキミはまだ少し眠たかったのでもう一度瞼を閉じた。
いい夢が見られればいいなぁと思った。
そうして次に目が覚めたときには、その“声”の主のことなど綺麗さっぱり忘れ去っていた。




