Soul cradle
北西の街道に向かって出立する。
「お気をつけて」
レセナの『音の魔法』による声が鼓膜に届いた。純粋に心配しての声なのだが、どこか他人事のように受け取った何人かは顔を顰める。後方支援要員として換えの効かないレセナはどうしようもなく貴重な存在だった。ほとんどの魔法使いが戦場に投入されている中で、レセナほど安穏を貪っているものはいない。もっとも常に魔法を酷使しているレセナの疲労は戦闘要員と比較しても遜色ない、あるいはそれ以上のものだ。しかし彼女がそれを表に出さない性格であることがまた誤解を生んでいた。
「いつもありがとう。君も無理をしすぎないでね」
リビトのやわらかい声がレセナを労う。『偽の魔法』は『音の魔法』と同様に情報処理に脳を酷使するため、リビトにはレセナの疲労がよくわかる。
「またあなたは。わたくしは敵を増やしたくありません」
対してレセナの反応は冷たかった。意味がわからないリビトが小首を傾げる。
リビトは本人のあずかり知らぬところで、女性兵士から“空気の読める魔法使いランキング第一位”、“夫にしたい魔法使いランキング第一位”、“ぶっちゃけ抱かれたい魔法使いランキング第一位”と言った謎のタイトルを戴いている。リビトに抜け駆けで近づいた女は村八分に逢うらしい。魔法の性質上、レセナにはそれらの会話が丸聞こえなのだった。
実際その会話が聞こえているアストがいまにも歯軋りしだしそうな表情をしている。基本的にマイペースな性格をしている魔法使い達はそれほど気に留めていなかったが、この中では例外的にマイペースではないオルデンとヨフが苦い顔をしていた。ラーンスロットはローブを目深に被っているので表情がわからない。
馬の足で街道を行く。半日もいけば、悪魔のいる距離に辿りつく。ちなみにヴァストローデは訓練を受けた正規の軍人ではないため、リビトの馬の後ろに乗っていた。落ち着かない様子でリビトの服の裾を掴んでいる。オルガ族の性別は見目でわかりにくいため、こちらはアストの機嫌の悪さに関係していないはずだ。
「ところで相手が三体纏まっていた場合はどうするのさ?」
ヨフが訊ねる。
「ヴァストローデの霧と僕の幻で視界を切って強襲かな」
リビトが答えた。
「残りのことはユキミとレトがなんとかしてくれると思うよ」
「……」
「おう。何匹でも寄越せ。まとめて叩ききってやる」
レトはとびきり楽しそうな笑顔で答えたが、雪見のほうはあからさまに苛苛している。キャルト族とドグル族は仲が悪い。レトのほうは別に雪見に対して悪感情を抱いていないようだが、雪見はドグル族のレトが近くにいることがストレスなようだ。
リビトはため息を吐く。こんなバラバラのパーティで大丈夫なのだろうか。ヴァストローデを振り返る。リビトの幻と彼女の霧のコンボなら大抵の悪魔はなんとかできると思うけれど。ヴァストローデは焦点のあっていない目で空を見ている。オルガは陽光が苦手だという伝承があるが、どうやらそれは的外れなようだ。
しばらく馬の背に揺られていると、石造りの建物が見えた。悪魔に襲われて放棄せざるを得なかった関所だ。「レセナ、届いてるかい?」「少し精度が悪いですが、建物の中に一体います。関所沿いの川の支流近くにもう一体、それから……、みなさんの左上方に」羽のある悪魔が急降下してきた。羽のある悪魔――クロドだ。
ラーンスロットが背中から槍斧を抜き、馬の背中を垂直に蹴って跳躍する。突進してきたクロドが突き立てようとした爪の一撃を槍の柄で止めた。ラーンスロットがクロドの腕を掴んだ。一人分の体重の負荷に耐え切れず、クロドが失速、さらにそこへレトが飛び掛る。クロドが羽を畳み、失墜することでレトの斬撃をかわす。「手筈通りに」雪見、リビト、アスト、ヴァストローデ、ヨフ、ラクシェイムの六人を乗せた馬が、クロドを無視して関所のほうへ向かう。「関所の中にいるのがカーラントでしょう。彼は石の悪魔ですから」音の魔法を通じてアルディアルの声が届けられる。
「僕たちは川だね」
ヨフとラクシェイムが進行方向を変えた。
「武運を」
リビトが言い、ヨフは笑みで返した。
ヨフとその悪魔は想定していたよりも早い段階でぶちあたった。異変を嗅ぎ取ってあちら側からもこちらへ移動してきていたようだ。白銀の髪と灰褐色の肌を持つ不気味な悪魔だ。体躯は人間と変わらないが、人目でそれとわかるほど異質な気配を放っている。
弓手であるラクシェイムは川沿いのそれほど濃くない木立の中に隠れている。
「人間」
「うん、そうだよ。僕はヨゼフ。あなたは?」
あまり物怖じしないヨフはなんとなく返事をした。
「アグリシエル」
標的の悪魔に間違いないようだ。
「退け、ヨゼフ。大地の覇権を我らに明け渡せ」
「戦いをやめろってこと?」
「そうだ」
ヨフは困った顔で言う。
「僕にはそれを決める権利はないんだ。人間は君たちよりも役割分担が明確で、僕らは戦うことが役目なんだ。考えて決める役目を持ってるのは別の人なんだよ」
だけど少し考えて、続ける。
「でも聞いていいかな? どうして君たちは“大地の覇権”とやらを僕たちから奪いたいんだい?」
「人間では星の資産を正しく運用できないからだ」
「星の資産?」
「命、木々、土、この星の持つありとあらゆるものだ」
「ありとあらゆるもの」
「そうだ。ありとあらゆるものは悲鳴を挙げている。命は水の穢れに、木々は大気の穢れに、土は大地の穢れに。穢れは人が生み出す。人が大地の覇権を握り続ける限り、星は悲鳴を挙げ続けるだろう。やがて星の持つ自浄作用を越え、星は大きく形を変える。そのとき多くの命が巻き込まれる。死を迎える」
例えば工業廃水、大気中に放出される硫黄酸化物や窒素酸化物、重金属などによる土壌汚染について。しかしヨフはそれらの知識を持たない。単に人間の生活が悪魔には気に食わないと解釈した。
「難しくて僕にはちょっとわからないや」
「それもまた仕方あるまい。あなたが戦う役目を持つならば、俺はあなたを打ち倒し、考える役目を持つ人間に近づこう」
アグリシエルの持つ雰囲気が変わる。独特の気配がヨフの周りを埋めていく。「……っ?!」ヨフは弾かれたように後方に飛んだ。アグリシエルの持つ“気配”の正体は「匂い」だ。アグリシエルは『毒』の悪魔だった。気化した毒を大気中に放っていた。通常人間の嗅覚では気づかないほどの微臭だったので、ヨフが獣の魔法に使い手でなければこの初手で終わっていただろう。
(少し吸ったかな)
ヨフは肺の中の空気をすべて吐き出し、新しい空気を肺いっぱいに溜め込む。小さな体の内部構造を変化させ、ヨフの肺が大きく膨らむ。陸上最大の生物であるゾウの肺が莫大な量の酸素を溜め込む。手足は肉食獣のそれへと変化する。息を止めて、仕掛けた。
まっすぐな突進。アグリシエルは受け止めるように構える。接触する直前で足首の構造が変化。直線の軌道を予測していたアグリシエルが突然横にずれたヨフを見失う。まんまと側面をとったヨフは獣の爪を残して人間の姿に戻り、わき腹の肉を抉る。そしてまた最大速度で離脱。アグリシエルがそれを追う。ヨフの出せる最大の速度、四足獣の速度とほぼ同等の速さ。追いつかれる。灰色熊の腕を作ったヨゼフが反転しアグリシエルを迎え撃つ。
遠心力をつけて振るわれた大質量の腕をアグリシエルが自分の左腕を盾にして受け止める。抉られたわき腹から血が毀れる。アグリシエルの腕から折れた骨が突き出していた。いかに悪魔でもこの質量の攻撃は止めきれない。通じる。間合いから離脱しようとしたヨフの足取りが歪んだ。ヨフの腕にはわずかに爪のあとが残っている。アグリシエルが灰色熊の腕を受け止めた際に、逆の腕がヨフの手を掴み、突き立てた爪から毒を注入したのだ。
ヨフは即座に獣の魔法を立て直し後方に跳ぶ。アグリシエルがそれを追おうとしたが、熊の腕を受け止めた際に足にも衝撃があったらしい。たたらを踏んで追撃に失敗する。
ヨフは自分が受けた毒をテトロドキシンによるものだと直ぐに判断できた。植物由来の毒でなかったのは幸運だった。植物由来の場合、ヨフには毒の成分がまったくわからないため何をどうすればいいのかわからない。
とはいえテトロドキシンは青酸カリウムの八百五十倍もの毒性を持つ強力な毒だ。この毒素は、河豚や蛸などが持つ海洋性のもので、ヨフが注入されたのは6mgほど。これは致死量の三倍に位置する。ヨフは獣の魔法を活性させ破壊された細胞を新しい細胞に置き換える。間合いをとって気化毒から逃れ、体内の酸素を回転させる。
元々この毒を持っている河豚や蛸に体を変化させれば毒の被害は防げるが、海洋生物であるそれらは陸上での運動に適していない。この毒による被害を防いでも、戦えずに死ぬ。
「堪えるか。強いな」
体勢を立て直したアグリシエルが迫る。
気化毒の範囲に再びヨフが捉えられ、酸素の回転が滞る。
正面からの接触。アグリシエルがそれを選んだのは毒によって弱ったヨフならば正面からの筋力の衝突でも勝てると判断したからだ。アグリシエルの誤算は戦闘の経験が薄かったこと、そして“味方ごと敵を撃ち殺す”などという真似をするものはいないと信じていたことだった。ヨフが『獣の魔法』の膂力でそれに対抗し、アグリシエルの足が止まる。
ヨフの後方で隙を伺っていたラクシェイムが『貫の魔法』を使った。放たれた弓矢は、空気抵抗を貫いて高速で飛来し、ヨフの左肺を貫通し、アグリシエルの心臓の少し右を射止めた。ヨフの体を死角にしたため必殺の一撃だった。穴の開いたヨフが力なく崩れ、倒れかけたアグリシエルが血を流し名がら踏みとどまる。
ラクシェイムは駆け出した。この距離ではもうあたらないと判断した。ならば弓には意味がない。ラクシェイムは呼吸を止める。アグリシエルの放つ毒の霧の中に飛び込む。右手に剣を抜く。毒に侵されて、その毒を自浄する要の肺を失ったヨフはもう役に立たない。
助走を生かしてまっすぐに突きこむ姿勢をとったラクシェイムに、迎撃は間に合わないと断じたアグリシエルは防御の姿勢。ラクシェイムはわずかに笑みを浮かべ、左手の掌で剣の尻を叩いた。『貫の魔法』が発動した。押し出された剣がアグリシエルの顔面に高速で飛来する。アグリシエルは反射でそれを避けるが、予想していなかった攻撃に大きく体勢を崩す。短剣を抜いたラクシェイムがわき腹からそれを突きこんだ。切っ先が心臓に届く。剣の街の出であるラクシェイムは生物の構造上の急所をすべて把握している。抉りながら短剣を引き抜く。
「き、さま、は……」
「黙れ」
ラクシェイムは倒れた悪魔を恐ろしく冷たい目で見下ろす。
「化け物の分際で我々と口を聞こうとするな。俺は貴様が息をしているだけで虫唾が走る」
剥き出しの憎悪と怒りを吐きながらラクシェイムが軍靴を上げる。
死の床にいながらアグリシエルは少し笑った。はたして自分とあなたのどちらが化け物か? 味方を撃ち殺してまで目的を完遂する、この憎悪の亡霊こそがアグリシエルには化け物に見えた。
敗北した自分は冥府の底であなたの行く末を見届けよう。
憎悪に身を焦がす人中の化け物を哀れに思いながら、悪魔アグリシエルは鉄の靴底によって踏み潰されて死んだ。




