Judgement days
――クトゥルユーが岸を掴んだ。水の中から体を引き上げる。陸にあがり、仰向けに倒れた。体が重かった。疲労している。
「参ったな。人間もなかなやるものじゃないか。三年前ライベアスと戦ってるのを見て、ぼくなら楽勝で勝てると思ったのにな。あれは対ライベアスの戦略で戦っているから、ぼくなら勝てそうに見えたのであって、対クトゥルユーの戦略で戦えばこうなるわけか。人間というのは学習能力と戦術には恐るべきものがあるね……」
クトゥルユーは水のある場所で戦う限りは最強クラスの悪魔だ。今回は川からの距離がそれなりに離れていたとはいえ、決して不利を取るほどに水が少なかったわけではない。
苦戦した理由は一つだ。
単に相手が強い。
とくにレトレレットの身体能力とリビトの幻影のコンボは驚異だ。後者に攻撃の手を散らされ、薄くなった水膜は前者によって容易に突破される。単体では二人共クトゥルユーにはるかに劣る能力値だが、特徴をうまく組み合わせることで互いの弱点を補完している。
「しかし次は負けない。すでに彼らの魔法は見切った。ここは水場のすぐ近くだし、それにぼくにはまだ切り札はある」
「なにをぶつぶつと一人で喋ってるなの?」
ムルブルがクトゥルユーの顔を覗き込んだ。
「君は時々ぼくに対して雷のような言葉を向けるね。ぼくは時々君が将来どんな女性になるのか不安でならないよ」
「あなたのようにだけはならないなの。くだらない話はやめて建設的な話をするなの」
「……アルディアルたちはどうしているかな?」
「アルディアルは灯台の部屋で休んでるなの。ライベアスとディアルラはまだ目を覚まさないの」
「君の魔法はあとどれくらいで使えそうだい?」
「さすがにミスリルの壁を抜けるのはきつかったなの。回復するのは明日の昼になりそうなの」
「そうか。どうしてもあと一戦は交える必要がありそうだね。先にライベアスとディアルラをぼくの魔法で逃がそうか。さすがに四人運ぶのは厳しいから君とアルディアルはあとまわしになってしまうけど構わないかい?」
「大丈夫なの。ムルブルだって何の覚悟もなくあなたたちについてきたわけじゃないの」
「いい子だね。その覚悟、たしかに受け取った。きみのことはぼくが命に変えても守るよ」
「子供扱いはやめるの」
「ぼくからすればライベアスだってディアルラだって子供みたいなものさ」
ムルブルの『光の魔法』は攻撃力がまったくない。移動能力も意識を失っているもの、あるいは同意を得て魔力の共同を許したものにしか効果がない。
戦闘においては完全な足手まといなことはムルブル自身が一番よくわかっていたので、強くは言い返せなかった。
クトゥルユーが微笑む。
「ぼくはベルリアの時だって、それ以前だって最小限しか干渉しなかった。ただ見ているだけだった。戦って得られるものなどたかがしれていることを知っていたからだ。しかし戦わなければぼくらの利益は失われていく。いまこそ後の世代が勝ち取るために、このぼくもまた力を尽くそうじゃないか」
芝居がかった口調で言うクトゥルユーが、ムルブルにはなんだかとても儚く見えた。クトゥルユーは死を覚悟している。ムルブルよりもずっと現実的に。
「あなたこそ覚えておいてなの。戦うのに死ぬ覚悟なんて必要ないなの。ただ殺す覚悟があればいいの」
「ははっ。そうだね」
クトゥルユーの手足のように動いた水が、灯台の中からライベアスとディアルラを運び出してくる。水はそのまま川の流れに乗り、西に向かって流れていく。
「ぼくは歪んだ魔剣だ。だからただ殺す覚悟をしよう」
氷色の透き通った瞳がどこか遠くを見ている。少しずつ日が落ちていく。
「まだ時間があるだろう。ぼくは少し休むよ。ムルブル、君も休んでおくんだよ」
クトゥルユーが灯台の中に入っていく。
部屋の隅で眠っているアルディアルの向かい側に腰を下ろし、小さく寝息を立て始めた。
どれくらい時間が経っただろうか。
外は弱い雨が降っていた。ライベアスたちはすでに遠く離れた仲間の元にたどり着いただろう。クトゥルユーは多少ではあるが、自分の体が回復していることを確認する。傍らで彼の腕を握る少女に優しく微笑みかける。
「ムルブル、この部屋を出てはいけないよ」
「……来たなの?」
「ああ、馬の足音が聞こえる。大丈夫、ぼくは負けない。滅びの道を行く人間たちを正すために負けてはならないからだ」
向かいでアルディアルが失笑した。
「起きてたんだね。なにかおかしかったかな?」
「ああ、失礼しました。あなたたちは時々自分のことを公正明大な正義の使者のように言いますが、それが間違っていることに気づいていますか」
アルディアルが愉快そうに言う。
「どういうことだい?」
「あなたたち悪魔だって、自分の命が絡めばなりふり構わず汚れることができるのですよ。人間のように。意地汚く、欲望に剣を乗せて排他的になれる。自覚がなかったのですね。ああ、愉快です」
「一理あるのかもしれないね。ぼくらは正義の体現者になろうとしすぎている。その実、底にあるのはただの私怨かもしれない」
「クトゥルユー、あなたはライベアスよりも話がわかりますね。ライベアスならばきっと“それは我々に対する侮辱と受け取っても構わないだろうか?”、こう言っていたに違いありませんから」
「ぼくはぼくへの侮辱には寛容だ。しかしライベアスへの侮辱は許さない」
クトゥルユーが目端を鋭くする。
「だめですよ。心根の優しいあなたに殺気を見せて相手を威嚇するなんて真似は、根本的に向いていないのです。あなたはベルリアやライベアスにはなれませんよ」
「ならなければならないのさ」
クトゥルユーが部屋を出て行った。
蹄の音が灯台に迫っている。
「クトゥルユーはほんとうにお人好しですね……。疑うことを知らない」
「ムルブルもそう思うなの」
少女はくすりと笑ってみせる。
なにかと辛くあたっているように見えたが、結局ムルブルはクトゥルユーのことをすいている。その裏返しのようだった。しかしまあアルディアルにとってはそんなことはどうでもよかった。
「しかしだから足元を掬われるのですけどね」
アルディアルが立ち上がった。
「え、あなた……、怪我は」
「大方の薬品を使い尽くして治しました。元々ライベアスほど重傷ではなかったのですよ。ディべーロの鉄に酸で穴を開けて逃げ込んだので。といってもしばらく動けなかったくらいに損傷していたのは事実ですが」
ゆっくりとアルディアルが迫る。
ムルブルが壁に背をつける。彼女は戦闘能力が低い。半魔のアルディアルに対して、格闘戦ですら敵わない。逃げるべきだ。クトゥルユーを連れての離脱には足りないが、自分一人なら脱出できるだけの魔力はすでに回復していた。窓に向けて『光の魔法』を使い光子と化したムルブルの体が一瞬にして秒速三十万キロメートルまで加速する。窓の寸前で、ムルブルは天井に叩きつけられた。光子と化していたムルブルの体に物理的な威力は意味をなさなかった。が、衝撃で魔法がキャンセルされ、落下したムルブルが床に落ちる。
「な、どうして……?」
「“光は温度の違う空気の層を直進できません”。薬の魔法で鉄粉と水をちょいちょいっと反応させて発熱反応で窓の付近の温度を上げたんです。ワタシから逃げようとした際のあなたの反応は、容易に予測できましたから。おもしろいでしょう? 応用力の高さがこの『薬の魔法』の特徴です」
「クトゥルユー助けっ」
彼女の叫び声は火薬の爆裂に遮られた。
焼け焦げ、倒れたムルブルに向けて、念をいれるようにアルディアルはその小さな頭蓋骨を踏み潰す。




