1 . 愚者の庭園 【後】
風が香る、日が照らす。
赤銅色と鋼鉄の色が混じる巨大なアスレチックのような場所、彼が歩くそこは工場だ。
所々金属の塗装が禿げ、焼け焦げた後がそこかしこに見える。壁にも凹みやヒビが目立つが、不思議と落書きやタバコの吸い殻のような、ヤンチャ達が集まる場所にあるものがない。それどころか、ここからは人の気配は遠くにしか感じなかった。
鉄の階段を5階程の高さまで登り、壁の穴をくぐり抜けて反対側に出た後、今度は下っていく。遠く見える塔は空と海を貫くように、凛と立っていた。
「ここに来るのも何度目だったか……」
慣れた様子でスムーズに降りていく。テンポよく響く金属板を叩く音が楽器のようだ。
曲がり角の多い階段を下り、あと一階分で地面につく。向かう先はガラスで陽光が反射し、焼けた黒い影とサビの色を映し鮮やかな夕焼けの中のように錯覚する。
「…………え?」
その中に、影が見えた。そこは工場の中央付近まで入り込んだ先、彼だけが行き方を知っているはずの隠れ家のような場所だ。
(忍び込んで迷ったのか……?)
ゆっくりと驚かさないように残りの階段を進む。様々な方向から光が指すので影も伸びる、だから彼も今までその姿そのものを見ることはできなかった。
階段を降りて、少し進んで右を見る。
そして、彼女と視線があった。
風が吹く。振り向いたその顔、長く伸びた白銀の色をした髪はオレンジ色に照らされて黄昏のように変わっている。その下に隠れる思慮深げに閉じかけている瞳は美しい紫色をしていた。華奢で透けるような色の肌、まとわりつくただの布のようなワンピース。
彼は目を離すことができなかった。
高く見積もっても15、6が限界、女性らしさを強調する部分もほとんど成長していない。しかしどこか神聖さのような、不思議な何かがあった。
「だ――」
誰だ、そう言おうとした口が閉じた。彼女の方から突風が吹く、彼女の服もはためいている。
「………………あなたは」
澄んだ声だ。鈴の鳴るようなと表現する甲高いものではない。透明な風のような、清らかな霧雨を纏うような感覚に陥る声。
「あなたは、だれ」
少し震えた、離すことに慣れないような喋り方。
彼はその場にたったままで、語りかける。
「お、俺は、犹守要。かなめってのは重要の要の方一文字でかなめ」
「かなめ……」
また、風が吹く。今度は目を閉じずに彼女を見つめ続ける。
「君の名前は?」
「アルム」
息を吸う。
「アルム・フリージア…………そうよばれてたと、おもう」
沈黙が落ちる。
(思う、ってことは名前を普段使わないということか?偽名か何かかもしれない)
そう思うが、新門は世界との窓口のような役割も一部負っている。外人の娘が日本名を学校などで使い、本名は別ということも稀にある。
「えっと、君、どこから来たんだ?」
その問いに、少女は指をさして答える。要の方角、彼よりも高くをさしている。要が振り向き見たのは、塔。
(いや、塔から来るっていうのはおかしいだろう。あそこに学校とか娯楽施設は殆ど無かったと思うし)
ならば、と考えるのは方角。ここから塔は西に見える、しかし見た目からして西洋風といえる少女にそれは意味が無い。
「……塔から来たって?」
結局はそういうことになるのかもしれない。事実、要を見つめる少女は頷いた。肯定、観光地であり娯楽など展望台くらいしかない場所だがそこから来たのは事実らしい。可能性としては、見た目よりも思考が数段幼く今日行った場所を示しているだけかもしれないが。
「つぎは、わたしのばんね」
「順番制か。いいよ、質問でもお願いでもどんと来い」
朗らかに笑う彼に、少女は歩み寄っていく。ゆっくりと。
そして、手を伸ばせば触れる距離。見上げながら少女は言う。
「あなたは……願い。私の希望……」
不思議な言葉をつなげる。
「かなめに、助けてほしいの」
「…………助けて、欲しい……?」
その疑問が氷解する暇は、無かった。
「なっ!?」
辺りが一瞬で薄暗くなる。夜の闇よりは浅いが、暗闇に違いはない。何よりも、
(さっきまで晴れてたのにっ!)
空は分厚い雲に覆われていた。黒く、空の光を通さない雨雲。その中で唯一塔だけが光を残して立っている。
そして、先程まで要を見上げていた少女の視線が別の方向を向いている。光を放つ太陽を失った今、夕焼けの色の隠れ家は不気味なガラクタ置き場に姿を変えている。
その奥の、上だ。少女が見上げている視線の先、薄い闇の中にこちらを見下ろす影がある。屋上の縁に座り込んだ影は笑っているのか少し揺れている。
暗い中銀色の少女の髪と、要の胸元のペンダントだけが小さな明かりのようになっている。普通に見渡す分には問題無いが、6階それ以上の高さの人間の顔はさすがに識別できない。
「…………この子に用なのか?」
叫ぶほどではない大声で影に問いかける。
「聞こえてるなら、降りてくるなり返事するなりあるだろう」
その言葉が届いたのか、影は小さく背を逸らし、飛び降りる。小さく驚愕の色を顔に浮かべる要を他所に、ソレは物音一つ立てずに降り立つ。
姿は大道芸人のようだ。チェス板のようなマス目柄の帽子とマフラーに小物が沢山付けられたベルトを巻いた西洋風衣装。だがその顔には白い、笑みの形をした目と口の穴が空いたマスクがつけられている。
「二重に失礼をしたね。上から見下ろしてゴメンナサイ、素顔を見せなくてゴメンナサイ、だ。そして用事はキミタチに、だよ」
「たち?」
「そう、キミタチ、だ。キミたち二人両方に用事があるんだよねえボクは」
そう言って両手を上げて笑う。
「片方は私的で片方はお仕事なんだケド、ボクとしてはちょっとやることやったらちゃっちゃと帰りたいんだよねぇ。お仕事って言ったってボランティアみたいなものだし」
「仕事って……何なんだよ、お前は何をしに来たんだ」
「ああ、要クンはこれ、初めてなんだね。それで怯えているんだ」
両手を広げて、笑いながら近づいてくる。
そして、小さく背を曲げて要の顔の数センチ前まで仮面を寄せる。
「ボクの用事は簡単だ」
膝がめり込み、破裂音のように息を吐き出して崩れ落ちる。その頭を蹴り飛ばして、再び笑い出す。
「キミに知ってもらいたい」
アスファルトを滑った要の胸元を踏みつけ、少女の方を向く。
「そしてキミを連れて帰らなければならないんだ。今を逃せば長い時間手出しできないからね。まぁこれはできればでいいんだけれど」
胸部を圧迫され、呻く。息も出来ないのか苦しげだ。
しかし要はソレの足を掴み払うように退け、転がりながら抜け出す。膝をついて息を吐く。
「っはぁ……お前、何なんだ」
二度目の、滅多にすることのない質問を投げる。
「ボクかい? ボクの名を聞いているのかい?」
ソレは誇るように、自分を嘲笑うように両腕を広げ、空を仰ぐ。
「ウィル。『Will』。意思、決断。キミがこれからもっとも必要とするものだ」
雨音。数秒で視界を奪うほどの強さになる。
黒い、黒い、雨だ。油の気はなく、純粋な黒色の雨。
「キミをテストしてあげよう、負ければキミの運命は終わり、勝てば意思と決断の日々がこれから始まっていくのさ」
数メートルの距離を味わうようにゆっくりと、道化師は歩く。
「これが叫び、散らばり進み行く願いの道だ」
顔を上げる、その前には光。
瞬間、先程の蹴りの数倍の衝撃が襲う。勢いの落ちないまま濡れた壁に叩きつけられ、落とされる。
何をされたのか、ゆっくりと思考する余裕はない。視界は明滅し、目が押し出されそうな痛みもある。しかし、ゆっくりと立ち上がる。
「……当たってたな、占い」
胃の中身を吐き出す。表情は何一つとして変わっていないが、彼のとなりに張り付くように逃げている少女に向かって語りかけるように言う。
「心配、してるかはわからないけど。必要ないよ、これでもそこらの不良20人のしたことだってあるんだ。あの変なのなんてすぐ、追っ払ってやるよ」
黒い雫が伝う。もう既に真っ黒の水たまりもできている。その中に一歩を踏み出す。
「助ける! さっきのお願い聞いてやる!」
「余裕だねえ、まだ」
遠かった道化師が、瞬間に近づく。そしてまた同じ繰り返し。
「――――」
座り込むことすら出来ない。背中から血が流れる熱さを感じながら倒れこむ。
(気をつける前に、帰るべきだったかなぁ……)
視界が溶けていく。端に赤が見え始めたところで、意識を手放しかける。
「?」
その前に、痛みが消えた。目を開くと、コントラストもはっきりしている。
何が、そう重い体を起こすと、見えた。
道化師の前に、少女が立っている。風も無いのに、髪だけが揺れている。
「いたい――」
一瞬、何かが光った。そして、彼の目の前に何かが落ちてくる。
鈍色の金属棒だ。中間点に模様の掘られた、ペンサイズの金属。
手にとった瞬間、身体に痛みが走る。そして気づく、頭の痛み、自身の手が焼けていること、手にとったそれが白く輝いていることを。
(モノ、リス?)
「いたいよ、いたいっ」
「っ!!」
考えてすらいなかった。跳ねて起き上がり、少女の脇を抜けて道化師に殴りかかる。
「ヘェ」
「ぅ、おぉっ」
掠れた声で叫ぶ。突き出した左手は首を捻って躱される。その勢いのまま体を捻り、方向を変えて再び、今度は握りしめた右拳を振り上げる。
「バスタァァ!」
同じ、光が放たれる。仮面に触れるが、しかしすぐ脇に逸らされる。
だが、外したと思ったその時、衝撃が道化師を弾き飛ばす。階段の踊り場にうまく飛び込み、手すりを掴みながら起き上がった道化。
「……はは、皮肉だねえ。ちょっと予想外だなぁ」
少しだけ声は弱ったが、仮面に入ったヒビ以外は目立つ傷やよごれがない。
「この場所で、キミに殴られるなんて笑うしかないね。今回は予想外の道があったということでボクの負け。再び、けれど変わり行く日々を享受するといい」
「ま、待て!」
「悪役にそれは逃げてくれって言うようなものだよ? それよりも彼女を見ておくべきだと思うんだけれど、ねえ」
その言葉に弾かれるように、要は振り向く。
彼女は白い、輝きを発している。揺らめく炎のような輝きを、痛みに呻きながら。
「あ、あ、あぁぁぁっ!」
彼は見た。その光が空へ放たれる軌跡を。そして、その先。
「あれは……」
塔の上、放たれた光によって描かれていく巨大すぎる紋様。歪なモノだ、幾つかの円形に棒がついただけの、規則性すらない紋様。
空を仰ぎながら倒れていく彼女の背後にも、同じモノが見える。
「っ、危ないっ!」
飛び込んで、彼女の背に手をのばす。目は閉じられ、頬は紅潮している。
「だ、大丈夫……かい」
力なく項垂れる彼女は、何の反応も示さない。
「あ……」
そして、彼の体もまた限界が来ているのか視界がゆがむ。
* * * *
要は少女を背負い、暗い街を歩く。
足取りは重い。重さよりも痛みや倦怠感によるものだが、理由がなんであれ長くは持たないように見えた。
やがて雨も上がり始め、要が施設の前で立ち止まった時には、空はいつの間にか夜の闇に沈んでいた。
そして、彼の意識もまた、眠りの暗い闇の中へ。