かつてのある日
疲れきっていた。
降りしきる雨は現実とは思えない黒の色に染まり、空を覆う雲は夕焼けのように赤く照らされている。いつも見下ろしていた色鮮やかに輝くこの街も、今はただの灰色の墓標の群れだ。
まだ夜になって間もない時刻、だというのに周辺には人の気配がかけらもない。
代わりに遠くから聞こえてくるのは、連続する爆発音と人の悲鳴、聞きなれないサイレンの音も鳴っている。
「あぁ……」
声を出す代償に鉛を飲み込んだような倦怠感が訪れる。気分は悪くない、良くもないが今までに比べれば格段にましだろう。
けれど気分ではどうにもならないものもある。
雨の中をただの白い布切れ一枚を羽織っただけで、それもゴミだらけの小道を駆け抜けてきたのだ。体の状態は最悪だ。
今までは風邪も引いたことがない、怪我もせいぜい小さな切り傷程度だった。だから今の自分がどれほどの状態にあるかは曖昧な判断しかできない。それでも最悪だと思うのはやはり、そうとうなのだろう。
両足は肉が見える傷がいくつも刻まれ、何度もこけたせいで顔も腕も抉れができている。その上倒れ方が悪かったのか左腕は本来曲がらない方向へ曲がっていた。
もう立つこともできないだろう、しかし倒れてしまえば雨で衰弱した体は二度と立ち上がれない。それがわかっていたからどうにか大通りに面したビルの壁にもたれかかった。
座ることに体力が必要だなんて初めて知った。知識だけは豊富だと自負していたが、比較対象が少なかっただけだろうか。
思考を巡らせていないと横に倒れて雨水で窒息でもしてしまうのではないだろうか、そんな恐怖が首をもたげていたが今はもうどうでもいい。
知ることが全てだった、自身で感じる極小の感覚から空想するのが好きだった。しかしそれだけの人生だったのだろう。いや、他の事を思い出せないのだから「だろう」ではなく「だったのだ」だ。
何よりこの見たことも聞いたこともない《黒い雨》に打たれて、この命の灯火を消すのは悪くない。そうだ、重すぎる瞼を最後だと思って開くまでは『私』はそう思っていた。
「…………生きてるね」
綺麗だった。「嗚呼、美しい」それしか言葉が浮かばないほどだったのだ。
黒の中目立つ白銀の髪、恐ろしい程黒い瞳と対象な穏やかな微笑み。街灯が彼女の向こうにしか無いせいで顔の細部は見えなくとも、覗き込んできた顔に『私』は見惚れていた。
小さく吊り上げた両の口端をそのままに、彼女はじっと見つめて来ていた。
何か言わなければならない、少なくとも彼女が去れば『私』が生きるチャンスは無いだろう。そう考えられるほどには命への執着が生まれた。
「助けて」
発したことの無い掠れて弱弱しい声が、痛む喉から漏れ出る。彼女にこの声は届いただろうか、などと考える間もなく応えがあった。
「うん、いいよ」
微笑から笑みへと表情を変えた彼女は、黒く染まった布切れごと私を抱きしめた。
「大丈夫、助けてあげる」
これが初めて感じた温もりだった。人の温かさだった。
燃える音も、雨音も、空の赤さえも、彼女の白と黒に包まれた私には届かない。
まだ覚えている。触れる髪の細さ、肌の柔らかさと温かさ、優しげな声も彼女の何もかも。
消えずに残っている。
『私』のあの日の願いと意思は、この日に生まれたのだから。