空の子供(2)
トールが足かせを付けている理由を知ったのは、10歳を迎える直前のころだ。
声の大きな親戚が噂話に興じているところに、運悪く居合わせた。ただそれだけのこと。
「可哀想に」「足かせがないと、空に連れて行かれてしまう」「大地の子ではないのよ」「足かせなんかで縛りつけて」「でもそれしか方法が――」「定着しなかったてことは、生きるさだめではなかったんだろう」
真実を聞いても、トールはそれほど驚かなかったし、それほど悲しくはならなかった。
両親も姉も、友達もみんな自分に優しくて、トールが生きることを許してくれていた。定着させてくれていた。だから、自分は大地の子として生きようと決めた。
けれど今は、一日中ベッドの上で、重たい布団の中で(そうしないと体が持ち上がってしまうから)、目を閉じて考える時間が多すぎて、余計なことばかり浮かんでくる。
幼なじみは海に出てしまった。姉は結婚して、もう少ししたら子供を産む。
「タギィとの約束、守れなかったな」
港町で出会ったんだと幸せそうに結婚相手を紹介する姉に、反対する理由などなかった。
姉の夫は学者の息子で、港町の学校で先生をしていた。トールがほとんど寝たきりになった後も、いろんな話を聞かせに来てくれたのだ。
彼の興味深い話のなかで、トールのお気に入りはヘツリにまつわる考察だ。ヘツリは彼自身の研究内容でもある。
「ヘツリから流れてくる川の話をしようか。ヘツリから、崖から水が流れ出てくる場所があるんだよ。崖に向かって流れているわけじゃないんだ。変な話だろう? しかも、その川はずっと流れ続けているわけではない。時には水が涸れることもあるし、氾濫することもある。見たこともない植物の葉が流れてくることだって……。僕はね、ヘツリの向こう側には世界が続いてるんじゃないかって、思うんだ」
トールは彼に、タギィが自分を助けようとしてヘツリに落ちたときの話をした。彼は深く頷いた後、こう言った。
「ヘツリは、僕らを向こう側の世界に行かせたくないのかもしれないね」
「でもぼくは、ヘツリに呼ばれた気がしたんだ」
トール自身、あのときのことはよく覚えていない。けれどもこれだけははっきりと言える。ヘツリに呼ばれていたのだと。声を聞いたわけではないが、呼ばれていた。強引に手を引かれて連れて行かれたわけではないが、体が逆らえなかった。
彼ならその答えを知っているのではないかと思ったが、義兄は困ったように笑っただけだった。
喉が渇いて、トールはベッドからゆっくりと身を起こす。
筋力が衰えているせいで、上手く体を動かすことができなくなっていた。無理をして動かすと、脆くなった骨が簡単に折れてしまう。
壁づたいに廊下を歩む。姉の部屋の前を通るとき、母とルーシャの話し声が聞こえてきた。
「もうすぐね。おなかの子も順調ですって」
「そう……」
「どうしたの? 何か気になることでもあるの?」
優しい母の声。
ルーシャは、しばし逡巡してから重たい口を開く。
「……怖いのよ。もしも、もしも生まれてくる子が定着しなかったら――どうしようって」
不安でたまらないのだと、姉は涙混じりの声で訴える。一度、定着しない子を生んだことのある母へと。
「ルーシャ……」
親戚に何を言われても、トールは平気だった。
両親や姉が、定着させてくれていたから。
「定着しない子は、生きられないんじゃないかって……トールは、だってあの子は、あんな状態で生きてるって言えるの? 本当はあのとき空に帰してあげたほうがよかったんじゃ――」
空気を裂くような音が、ルーシャの言葉を遮った。母が手を挙げたのだ。トールはそれを確認する前にそっと、扉の前から離れた。そのまま足は外へ向かう。
久しぶりに踏む大地は、きちんと自分の足を受け止めてくれた。視線を落とした足首には、しっかりと鉄の枷がはめられている。これがなければ、大地との結びつきは簡単に消えてなくなってしまうのだけれど。
トールの足は、意識しないままに森へと向かう。ヘツリのある場所へと。
自分は悲しいのか、傷ついているのか、トールには分からなかった。
姉が、両親が、タギィが、トールがここで生きていくことを、定着することを望んだ。だからトールは生きてきた。走れなくても、オニごっこをできなくても、同年代の子供たちが海に出て、森で狩猟し、羊を追って勤めを果たす中、自分だけは一日中ベッドで過ごすことになっても。
いつもならば枝葉が邪魔する獣道。しかしトールの進む方向だけは、木々が道を開けた。
あっさりと森を抜け、ヘツリが目前に広がる。
こんなところに来て、どうしようというのだろう。
今回はヘツリに呼ばれたわけではない。トール自身が、無意識に足を向けたのだ。
ヘツリの向こう側に広がる霧の海。
そこに飛び込む勇気はなかった。
トールは片足ずつ靴を脱ぐ。重たい足かせを、外す。途端に身が軽くなった。
不自然につなぎとめられていた体が、大地から浮き上がる。
「トール!」
不意に飛び込んできた声。昔の記憶が混じり合う。あの時も、止めてくれたのはタギィだった。
変わらない、真っ黒に日焼けした懐かしい顔。
だけど今度は、止めてくれなくていい。
「タギィ、ごめん。約束守れなかった」
「なに言ってんだバカ!」
旅の荷物を投げ捨て、タギィが走る。
もう、手を伸ばして届く距離ではないのに。高く高く舞い上がって、トールの体は空に帰っていく。
「トール!」
眼下の幼なじみに、トールは笑いかけた。笑ったつもりだった。小さな雫が地面に落ちていって、自分が泣いているのだと気づく。
涙は、大地に落ちるのか。
「どうしてぼくは定着しなかったのかな。どうして、大地の子にはなれなかったのかな……」
答えは誰にも分からないと知っていたけれど、ずっと問いたかった。
誰かを問い詰めたかった。
「聞けよ! 問い詰めてやればいいだろっヘツリの使者を!」
タギィの力強い声が、空気をふるわせる。
もう、手を伸ばしても届かない。
だから、タギィは投げた。
空に――トールの外した、足かせを。
それは放物線を描き、狙いすましたようにトール目がけて飛んでくる。結びつけられたロープの端は、大地にいるタギィが掴んでいた。
トールには、飛んできた足かせを掴まないこともできた。
けれども、選んだのはトール自身。
もう一度、大地に戻ることを。
空に、帰らないことを。
タギィはローブをゆっくりとたぐり寄せる。
あらためて地上で向かい合った幼なじみにどんな顔を向けたらいいのか分からなかったので、トールは笑った。
「お前はいつも笑ってるんだよなな。辛いとかしんどいとか、今みたいな弱音も一回も吐かずに」
タギィは半ばあきれたように、ぶっきらぼうな口調で言う。
「だって、ぼくが笑うと、みんなも笑ってくれるんだ」
だからずっと笑っていたかった。笑っていなければいけないと思っていた。
涙を流したら、みんなが悲しむ。
「トール、俺は約束を守ったぜ。海のヘツリを見てきた」
タギィの言葉に、一瞬息を飲んだ。詳しい冒険話を聞きたかった。
しかし、その前に告げなければいけないことがある。
「……ルーシャ、結婚しちゃった」
「は!? うそ、だろ。信じらんねぇ……!」
怒られるかと思ったが、ショックのほうが勝ったらしい。
「でも、すごく良い人なんだよ」
トールの言葉も項垂れるタギィのフォローにはならない。
「それにね、もうすぐ……」
「トール! こんなところに居たのか」
もう一つ、大事なことを告げようとしたところで、第三者の声が割って入る。息を切らせて駆けてくる青年は、ほかの誰でもない、ルーシャの結婚相手だった。
タギィに紹介する間もなく、彼は続ける。
「大変だっルーシャが産気づいた。生まれそうなんだよ!」




