森のヘツリ
ある日の夕刻、いつものようにルーシャが弟を迎えに行くと、遊んでいる子供のなかになぜかトールとタギィの姿だけがなかった。
ほかの子に尋ねると、トールが森の奥へと入って行ったので、タギィはそれを追ったという。ルーシャもすぐに教えてもらった方角に足を向けた。
それほど深くはない森だ。猛獣がいるわけでもない。しかし、もうすぐ日が沈む。
それに、この森の向こう側には、「ヘツリ」があった。
むやみにヘツリに近づいてはいけない。子供のころからずっと、言い聞かせられてきた。
どうしてかは分からない。
一度だけ、12歳になったその日にルーシャはヘツリを見た。
この町では、12歳になると一人前の大人とみなされる。その証として、ヘツリの側に行くことを許された。
「ヘツリ」を見たと表現するのが良いのか、「ヘツリ」に行ったと表現するのが良いのか、ルーシャには判断がつかない。どちらも違う気がする。
ヘツリとは、終わりであり始まりである。
大地の終わる崖であり、大地の始まる突端である。
森を抜けた先にはへつりがあるだけだ。
切り立った崖の向こうには何もない。果てしなく空が続き、崖下は白い霧で覆われている。
空と霧の混じり合う場所は、ぼやけてよく分からなかった。
「トール……」
弟は、ヘツリに向かったのだろうか。
ルーシャはただ森のなかを急いだ。髪の毛に枝葉が引っかかるのを振り払って、眼前を塞ぐ木々をかき分けて。
「トール!」
聞こえてきたのは、タギィの声。
ルーシャが森を抜けた、ほぼ同時に。ルーシャは見つける。ヘツリに向かって歩く弟の後ろ姿を。そして、その後を追いかけるタギィの姿も。
トールはまっすぐに崖へと、ヘツリへと向かっている。何かに引き寄せられるように。
「タギィ! トールを止めて!」
ルーシャの叫びに、タギィは一瞬振り返る素振りを見せた。しかしトールの片足はもう、大地から一歩、外に出ていて――。
「トールっ!」
倒れ込むように前へと傾くトールの体。
かろうじて、タギィの手が服の裾を掴むことに成功する。
けれども強引に引っ張られた服が、無惨にも引きちぎれてしまうのを、ルーシャは見た。
再びヘツリの向こう側へと傾きかける弟。
ルーシャの目の前で、落ちる弟。それを追って、タギィがもう一度手を伸ばした。
今度はかろうじて手を掴む。
しかし、崖っぷちに立つタギィの足元は、その重さに耐えられなかった。
足元が崩れ、バランスを失ったタギィは、しかし落ちてしまう前に、自らが落ちる反動を利用してトールの体を投げるようにして地面に引き戻した。軽いトールの体は簡単に、崖の上へと投げ返される。
一瞬の出来事に、ルーシャは何が起こったのか理解できなかった。
弟は地面に尻餅をつき、呆然と、ヘツリを見ていた。
タギィが、代わりに落ちて行った、崖の向こうを。
「……タギィ!」
崖の向こう側を覗き込んでも、広がるのは真っ白な霧ばかり。
トールの体を抱きしめて弟が無事だったことを確かめながら、ルーシャは泣いた。
一体、どれくらいの時間そうしていたのだろう。
みんなに知らせなければ。
日が暮れる前に。
「トール、トール?」
呼びかけても返事のない弟は、こちらに焦点を合わせることはなく、まだヘツリの向こう側を見ていた。
「……タギィ?」
弟の小さな唇が、求めるように名前を呼ぶ。
「タギィは……」
ルーシャには何も応えられなかった。しかし、
「タギィ、どうしたの?」
もう一度、弟が発した声はすでに正気を取り戻したもので。だからこそ、まるで本人に話しかけるかのようなその言葉が信じられなかった。
弟の視線の先は、ルーシャの肩越しに向けられている。
「どうしてそんなところにいるの? タギィ」
重ねて問う弟の無邪気な声に、ルーシャは、恐る恐る振り返る。
ヘツリの向こう側に果てしなく続く空と白い霧を背に、少年が立っていた。
先ほどヘツリの向こう側に落ちたはずの少年は、大地にしっかりと足を付けている。真っ黒に日焼けした顔をきょとんとさせて。
「なにびっくりした顔してんだよ、トール。ルーシャも」
タギィは何も覚えていない様子で、姉弟にいつも通りの笑みを向けた。