定着の儀
弟が生まれた日のことをルーシャはとてもよく覚えている。ルーシャはまだ9歳だった。
子供部屋にまで響いてきた大きな泣き声。ルーシャは眠い目をこすりながらベッドを抜け出て、廊下に出た。小窓から差し込む薄明かりが夜明けが近いことを教えてくれる。
ルーシャは冷えた廊下を裸足で進んだ。半開きになった扉から漏れてくる赤子の声に引き寄せられるように。
彼女の手が、そのドアノブに触れたときだった。
左横を温かい風が通り抜けた。ちょうど、人ほどの体温の。
ルーシャは振り向いた。が、隣には誰もいない。歩いてきた廊下の先にも。
しかし、彼女が部屋の中に視線を移すと、居た。
ベッドの上の母、その腕に抱かれた赤子、傍らには父と、町唯一の助産婦。
それからもう一人。
黒いローブに身を包んだ背の高い人物が、ゆっくりとベッドに近づいていく。その人の顔はフードに隠れていて、ルーシャには見えなかった。どこか不気味な雰囲気に、少女は少々気後れする。
しかしベッドの上の母は顔を上げ、突然の訪問者に、にっこりと笑いかけた。
「おはよう、ヘツリの使者さん。ルーシャの時と同じ方ね」
母の口から出た言葉に、ルーシャはフードの人がなにをしにやってきたのかが分かった。
「ヘツリの使者」は「定着」にやって来たのだ。昔からある誕生の儀式。
ヘツリの使者が行う定着を経てようやく、赤子は「大地の子」となる。
2年前に隣の家のタギィが生まれたときも。9年前にルーシャが生まれたときも。もっと前に、両親やそのまた両親、そのまた両親が生まれたときにも、「ヘツリの使者」はやってきた。例外なく。
「お願いします」
母は、ヘツリの使者へと赤子を預ける。母の手が放れたとき、赤子はふわりとわずかに浮き上がったが、ヘツリの使者は慌てる様子もなく慣れた手つきで赤子の体を腕に抱いた。
まだ定着していない赤子は、大地との結びつきが弱いから、しっかりと掴まえておかなければすぐに空に連れて行かれそうになるのだ。
ヘツリの使者の腕のなかで、赤子は相変わらず泣いていた。
「大地の子よ、君を迎える」
ヘツリの声は低く、人とは思えぬ響きを持っていた。人の、頭のなかに直接入り込んでくるような。
ルーシャは思わず両手で耳を覆い音を遮断した。しかし、ヘツリの声はしっかりと聞こえてくる。
「ヘツリの数だけ、ヘツリの代わりに、わたしが祝そう。1の種、2の芽、3の枝、4の葉、5の花弁、6の果実、7の種、8の芽、9の枝、10の葉、11の花弁、12の果実、二度重ねればもう十分。6つの大地に根を張るだろう。大地の子よ、君を迎える準備は整った」
ヘツリの代わりに、使者からの祝福を受けて赤子は大地の子となる。
そのはずだった。
「なぜだ……」
困惑した声は、ヘツリのもの。
「1の種、2の芽、3の枝、4の葉、5の花弁、6の果実、三度重ねて迎えよう。大地の子よ……大地の子よ!」
ヘツリの使者は荒々しく唱える。彼は、明らかに取り乱していた。
母の顔も不安そうなものになる。
「なぜだ、なぜ……」
ヘツリの使者は赤子の顔を見つめたまま自問する。
「どうした? 何か起こったのか? なあ、一体……」
父が全員の疑問を代表して口を開いた。
「定着しない」
それが使者の答えだった。
「この子は、大地の子ではない」
意味を理解する間も与えず、使者が続ける。
母も父も助産婦も、扉の向こうのルーシャも、放心するなか、使者の手から放れた赤子がゆっくりと天に上っていく。使者が腕の力を緩めたのか、たまたま緩んだのか。大地に定着していない赤子は、部屋の天井まで見る見る浮き上がり、ゆらゆらと天井に額を擦りつけながら泣いている。
「どう、して?」
はるか頭上に行ってしまった赤子に手を伸ばし、嘆いたのは母。
「そんな……」
まだ泣いている赤子を抱く機会もないまま、目を背けたのは父。
半分ほど開いた窓から入るわずかな風が、カーテンを揺らす。空への道を、風が赤子に教えたのか。
赤子はゆっくりと、水面をたゆたうように窓辺へと流れて――。
母の手は赤子に届かない。父の目は赤子を追わない。
「――待って!」
ルーシャの声は、赤子の泣き声よりも大きく、部屋のなかに響いた。
「ルーシャ!」
悲鳴のような母の声。
ルーシャは飛んだ。ベッドに足をかけて。空に行こうとする赤子を、止めるために。
赤子に飛びつくようにして、腕のなかに掴まえる。床に着地したとき強かに壁に肩をぶつけたが、あまり気にならなかった。
初めて抱く赤子は、やわらかくて、温かくて、壊れそうで怖かったけれど、しっかり抱きしめていないと空に連れて行かれてしまうから。
ルーシャは赤子を抱きしめたまま、顔を上げた。ヘツリの使者をキッと睨みつけ、
「この子はっ、私の弟よ!」
この日、ルーシャは決めたのだ。たとえ大地の子でなくとも、自分が弟を守るのだと。