そのさん
夢現で、口に水分が流れてきた。それから、ゼリーみたいなものが流し込まれているので、目を開けたら、花月の顔があった。
「おはようさん・・・ていうても、真夜中やけどな。」
「・・・うん・・・・」
「腹減ってるやろ? とりあえず、ゼリー食べ。ほんで、本格的に目が覚めたら、うどん食べさせたるからな。」
「・・・うん・・・」
出張から帰ってきた花月は、ほぼ一日、やりまくってくれた。いや、誘いはしたが、そこまでしてくれ、というた覚えはない。ただ、この二週間の記憶というのが、すっぽり抜け落ちたように思い出せない。たぶん、何にも考えてなかったのだろうな、と、自嘲するしかない。
壊れていると自覚したのは、たぶん、花月と出会ってからだ。いや、それ以前には感情が欠落しているな、とは思っていたが、それほどとは思っていなかった。
カタンカタンと台所で音がしている。うどんでも煮ているのだろう。マメだと思うが、あれも一種の病気かもしれない。たかだか、一日や二日、メシを食わなくても人間は死んだりしないのに、食べないと鬼神も真っ青なほどに怒るのだ。
トイレに行こうと思ったが、腰がだるくて起き上がれない。下半身の感覚が、あやふやすぎて、起きたところで、そのまんま倒れそうだ。
「・・ぉーぃ・・・・」
叫ぼうとしたら声が枯れていた。ベッドの下に落ちている本を、苦労して掴んで、それを扉に投げた。ぼぉんと鈍い音がして、それから足音が近づいた。
「なんや? 」
「・・・トイレ・・・」
ああ、と、花月が肩を貸してくれてトイレまで運んでくれた。
「腹下してないか? 」
「・・・いいや・・・洗ろうてくれたんやろ? 」
「一応、洗ろたけど、時間経ってからやからな。途中からゴム使うたし。」
「・・・なら大丈夫や・・・ていうか、加減してくれ。そのうち、ヘルニアになりそうや。」
「はははは・・・せやな。」
文句を言っても、相手は堪えている様子は皆無だ。用を足して、連れ戻されてから、うどんを食わされた。食べたくない、と、拒否しても無理矢理、ねじ込まれるので、途中で諦めて口を開いた。ちょうど、満腹した頃に、お茶を飲ませてくれるのが、慣れというものなんだろう。
「クスリいるか? 」
「・・・ん?・・・・眠い・・・・」
「さよか。」
ずるずると、花月が、うどんを啜っている音がして、なんだかんだと出張の苦労について語っている。植林した苗を鹿に食われて、やり直しさせられたり、熊が出たとかでパトロールに行かされたり、都会では考えられない仕事ばかりだ。
「ほんでな、梅雨時分にも、マッタケが生えるらしいわ。」
「・・・ふーん・・・・」
「おみやげに、山菜と、干した岩魚とか貰ろたから、明日は山菜ごはんにするで。」
「・・・うん・・・」
「二週間は長かったわ。」
「・・・せやな・・・なあ、花月・・・」
「ん?」
「・・・俺・・・・二週間・・・何してたか思い出せへん・・・・・もう、あかんわ。」
「それは、どういう意味の『あかん』なんや? 水都。」
「・・・おまえおらんと・・・壊れ具合が激しなって・・・時間も何も・・・わからへんのや・・・消えることがな・・・・あるんやったら・・・早めに言うてや?・・・・」
花月がいなくなったら、俺は盛大に壊れてしまうだろう。それは、生きているだけの状態なので、至極、楽な生き方ではあるだろう。だが、以前は、ちっとも感じなかった寂しい気分をくれるような気がする。誰かと結婚しても、それは消えないのだと思う。これは、となりで、うどんをかっ食らうヤツがおるからこそ、感じなくてよいからだ。それぐらいは、壊れている俺でも、わかる道理だ。ひとりで、ベッドで目が覚めて、なんだか恐慌に陥りそうになった。今まで、そんなこと、感じたこともなかったのだから、そういうことだろう。
「あほ、もう、寝てまえ。」
「・・・なんでやろな?・・・・」
「んなこと、わかりきっとるやないか。俺が嫁にしたからや。」
「・・・ああ・・・そうか・・・納得や・・・・なあ、花月。」
「ん? まだ、なんかあるか? 」
「・・・もう一回・・・頼むわ・・・」
「え? 珍しいことを言う。」
「はははは・・・ほんまやな・・・」
ぐだぐだに疲れて眠りたいというのではなくて、ただ、体温があると感じていたかった。ちょっと、待て、という声で、うどん鉢を花月は運んで行った。元気やなあーと、俺は、おかしくて笑いつつ、待っていた。
・・・・籍入れるのは勘弁やけど、体温は欲しいなあ・・・・
そんな、身勝手なことを考えていたら、となりに体温ができた。もう、腰も足もぐだぐたなので、されるがままになるしかない。
平たい胸が重なって、心臓の音が響いている。以前、女とやってた時には、それを嬉しいなんて感じたことはない。
さすがに、体力限界まで追い込んだら、死んだように寝て起きなくなった。こちらは、午後近くに目が覚めたが、水分だけ補給してやったら、また、こっくりこっくりと寝ている。夕方には、目を覚ますだろうから、晩飯の支度をしつつ、家事をこなした。誰もいなかったので、部屋は汚れていなかったが、それでも、掃除機ぐらいはかけておく。三時ごろに買い物に出ようとしたら、ぴんぽーんと呼び鈴が鳴った。
「あれ? 」
「荷物運んできた。」
大きな紙袋をふたつ持った千佳ちゃんだった。どうせ、まだ起きないだろうが、部屋に上げるのは気が退けて、紙袋だけ受け取った。
「水都は? 」
「死んだように寝てる。・・あの・・・よかったら、茶でもしばかへんか? 俺、買い物に出るつもりやったから、なんか奢らしてもらう。」
「あげてはもらえへんわけ? 」
「わざわざ、忘れさせてんのに、思い出さすような真似はしたない。」
「なるほど。ほな、奢って貰おうか。」
納得はしたらしい千佳ちゃんは、それ以上に無理強いはしなかった。寝室の水都に、買い物に出ることだけは告げて、財布を手に外へ出る。本日も、車だった千佳ちゃんに、近くのスーパーまで乗せて貰った。スーパー近くのファミレスで、お茶にする。気の利いたカフェとかあればよかったが、うちの近所には、そういう小洒落た店はない。適当に注文してから、俺は、礼について尋ねた。千佳ちゃんのところで、寝泊りしていたのだから食費とか、いろいろと金はかかっているだろう、と、思っていたからだ。けれど、千佳ちゃんが言うには、食事が、ほぼ外食で、それは、水都が出していたから、別に、金銭的には必要ない、とのことだった。
「気前のええ兄ちゃんやなあーと思ってたんよ。」
「そしたら、どうしたらええ? ガソリン代ぐらいでええか? 」
うちまで、何度か往復してもらっているから、ガソリン代ぐらいは払おうか、と、言ったら、それも却下された。
「お金はいらんよ。まあ、二週間、それなりにおもしろかったから、それでチャラでええんとちがう? 」
「そういうもんなん? 」
「そういうもんでしょう。普通、遊びでやってる時に、必要経費請求するようなことは、ないからな。」
「俺は、そういう遊びはしてないんで、ようわからんのよ。」
「そら、あんた、気良しのあんたでは、やったら、即結婚とか言いそうやもんな。・・・まあ、そういうのは、忘れてくれたらええし、水都が、何も覚えてないんやったら、それでええんと違う? 」
すっかりと、水都は二週間の記憶を飛ばしている。何をしていたか、わからないと言うのだから、千佳ちゃんのことも忘れているだろう。
「薄情な人間やと思わんといてな? あいつ、壊れてるから。」
「それは、おとついの夜に、イヤというほど理解した。で、あんたが、ものすごく冷静なんが、不思議ではあるけどな? 」
「え? 」
「だって、浮気されてさ、それで、その相手に冷静に、かかった費用の支払いを申し出てるって・・なんぼほど、冷静なんよ? 普通は怒るやろ? 」
「いや、これが男とやったら、そうなるんかもしれへんけどな。あいつも、男やし、たまには、やってみたいと思てもしゃーないとは思ってるから。」
女性とやってみたいと言われたら、はい、そうですか、と、俺は素直に認められる。俺では、相手にならないのだし、本来の行為としては、そちらが正しい。だから、それをやりたいと言われたら、止める理由はないからだ。
「つまり、浮気には該当せぇーへんと? 」
「せぇーへんやろうな。だいたい、あいつ、俺に向かって、ソープで抜いて来い、とか、いつも言うてるからなあ。」
「ふーん、そういうもんなんや。勉強になったわ。」
「ほんま、自分、動じひんな。」
「それなりに場数は踏んでるから。ほほほほほ。」
ネコの人は、初めてやったけどね、と、千佳ちゃんは大笑いして、やってきたデザートプレートに手を出した。適当に、それを摘みつつ、「それでやな。」 と、千佳ちゃんは、さらに笑った。
「水都もすごいけど、あんたも、すごいと言えばすごいで? わかってないみたいやけど。」
「そうか? 」
「だって、普通、私の名前とか素性とか確かめるやんか? それやのに、あんた、一言も尋ねてないんやで? 」
「そうやったかな? 千佳ちゃんが言わへんから、ええんかと思ってたんや。」
「ほら、そこや。あんたも水都も、そういうとこ似てるんちゃう? 他人に関心ないやん。」
そう言われても、ピンとくるものではない。元々、俺は、煩わしい人間関係は面倒なので、適当に距離のある付き合いをしたいほうだ。それには、あまり他人に深入りするようなことは尋ねない。千佳ちゃんが、どういう仕事をしているか、なんてことは、この際、関係ないし、本名がわかったところで、意味がないと思っていた。
「そういうもんやろ? 」
「普通は、そうではない。」
「なら、俺も変わり者ということでええわ。」
「充分に変わり者やわ、ネコの旦那。」
「おおきに、褒め言葉として受け取っとくわ。・・・あの、俺、そろそろ出てもええかな? あんまり遅くなると、あほが慌てるんで。」
小一時間くらいは、大丈夫だと思うのだが、ボケている俺の嫁は、俺の言葉を理解したかどうか微妙だ。さっさと帰らないと、また、ふらふらと出て行きそうだ。一応、そこの支払いよりは、かなり大目の金額を、レシートの上に置いた。いらない、と、言われても、ガソリン代ぐらいは出しておこうと思った。
「律儀やな? 」
「びっくりさせたお詫びも兼ねてる。ほな、これで。」
「ネコの人によろしく。それから、もし、また出張するんやったらな、これ、携帯やから。ネコの世話くらいはしたげる。」
コースターに、すらすらと書かれた一連の数字は、千佳ちゃんの携帯ナンバーだった。だが、それは、「ごめん。」 と、返した。
「これはもらわれへん。もう、出張とかないはずやし、何度も、こんな真似させるわけにはいかへんから。・・・ていうかな、ちゃんとした付き合いを考えや、千佳ちゃん。こういうのは、よくないで? 」
「じじむさい。」
「それが普通や。ほな、ほんま、おおきに。」
これで、逢うこともない相手だ。よくもまあ、こんな女を引き当ててきたもんだ、と、水都のナンパに驚く。でも、こういう人だったから、余計な煩わしさはなかったともいえる。お礼を言うと、俺は振り返らず、さっさとファミレスを出て、スーパーに向かった。水都の様子では、そんなに量は食べないだろうが、せっかくだから、山菜のまぜごはんを作ってみるつもりだった。
「出かけてくるで。」 と、ぼんやりした脳みそに響いていたが、ほとんど聞こえていなかった。時間的に買い物だろうとは、起きてから気付いた。そろそろベッドは飽きたので、居間へ移動した。そこで、こたつの横に置かれている紙袋に目がいった。
・・・ん?・・・
どう見ても、俺のスーツとワイシャツで、なぜ、こんなものが紙袋に詰められているのか、少し考えた。
・・・え?・・・
二週間という時間を忘れたと思っていたが、思い出せば、それなりに蘇ることはある。家に帰るのが億劫で、千佳の家に転がり込んだ。そこまで思い出して、ここに、その時の衣装が戻って来ている事実に、顔が青褪めた。
・・・バレてる・・・・というか、どうなって、俺は、ここにおるんよ?・・・
千佳の家に居候していたのは、はっきりしている。満足できないながらも、やることはやっていた。それが、どうなったら、ここにいられるのか、今ひとつ理解できなくて、そこへ座り込んだ。
・・・千佳は?・・・
よくよく考えたら、なぜ、花月が、俺を探せたのかも疑問だ。行きずりの千佳の家なんて、花月は知らない。スーツの一番上には、俺の財布とか定期券とかが、ご丁寧に載っかっている。だが、これは現実だ。千佳とやったのでは、到底、痛まない場所が痛いのだから、昨日の出来事は本物だ。
・・・とりあえず、千佳と連絡とらなあかんのちゃうか?・・・
しかし、なのだ。千佳の連絡先なんて、俺は知らない。家の場所はわかるから、それなら、直接、確認して来るほうがいいか、と、服を着替えようと部屋に戻った。
入れ替わるように、花月が玄関から入ってきたので、もう一度、部屋の外へ顔を出した。
「おう、起きたか? 」
花月は、何も変わっていない。いつものように、スーパーの袋を手にして笑っている。
「・・あのな・・・」
「うん、なんや? 」
「俺、女の家におったはずやけど、なんで、ここに帰ってるんやろ? 」
紙袋を指し示して、俺は花月に尋ねた。指差す方向を目にして、花月も、「あっ」 と、声を出した。それから、残念そうに、「思い出したか。」 と、言い出した。
「思い出すも何も・・・おまえ、なんで、俺を探せたんよ? 」
「いや、あちらさんから返品依頼が来たから引き取ったんや。」
「千佳が? 」
「そう、その千佳ちゃんが、『なんで求婚されなあかんのじゃあっっ』 と、うちの家に抗議に来やはった。」
「あ? 」
「それで、俺が引き取りに出向いて、千佳ちゃんに配送してもろた。さっき、その服を、千佳ちゃんが、さらに届けてくれたわけや。以上。」
「そんなん知らん。」
「そら知らんやろう。おまえ、俺が出向いたら、『あんた、誰?』って言いやがったくらいや。」
花月の言葉に、さすがに、自分の記憶を疑った。まさか、そんなことを言うはずがない。だが、同居人の顔は真顔で、事実であると訴えている。
「なんで? 」
「まあ、しゃーないやろ? 俺がおらんから、俺自身を抹消したんやと思うで、おまえの脳みそ。・・・しかし、よう、あんな女、ひっかけたな? おまえのナンパ技術に感心したぞ。」
怒っている様子ではない。呆れ果てたという顔で、スーパーの袋から荷物を取り出している。冷蔵庫に、とりあえず、荷物を整理して、パタンと扉を閉めた。
「水都、女とやりたいというのは、当たり前のことや。せやから、それについては、俺は怒るつもりはない。だいたい、おまえが俺に対して、『ソープへ行け。』 と、言うてるんやから、そういうもんやろう。」
ただ、求婚はいただけへんよ、と、低い声で言って睨まれた。
「求婚したんか? 俺。」
「うん、十日ぐらいで求婚したらしい。・・・遊ぶのは、かまへん。せやけど、それ以上はあかん。おまえは、俺の嫁に永久就職してるから、それは認められへんからな。それだけは覚えとけよ、水都。」
真剣に、俺の前に立って花月に告げられた。謝るのが正しいと思うのだが、俺には、その記憶がない。
・・・そのままほっといたらよかったのに・・・・
そう呟いたら、ぺチンと軽く頬を叩かれた。
「何度も言うてるやろ? それで、千佳ちゃんが、求婚受けて結婚してくれて、おまえは、ほんまに幸せなんか? 違うやろ? おまえ、千佳ちゃんに興味なんかないやんけ。ただ、千佳ちゃんが嫁という立場にいる人という認識であって、好きとか傍におって欲しいとかでもないやろ? そんなん、千佳ちゃんにも失礼やし、生まれてくる子供にも迷惑や。・・・おまえは、俺の嫁で、俺が、ずっと傍にいて欲しいと願ってるから、この形でええねん。わかったな? それだけは忘れんでくれ。もし、忘れても確実に思い出させて連れて帰ってくる。なんべんでも試したらええわ。俺は、それでも諦めへんからっっ。」
真剣に宣言されて抱き締められた。強すぎて、肺が圧迫されて苦しいほどだ。
・・・あほなやつ・・・わざわざ、厄介ごとを引き受けるようなもんやのに・・・・
壊れている俺は、何度でもやるだろう。やっても、覚えていないし、たぶん、その場合、花月の顔すら、綺麗さっぱりと忘れてしまうのだろう。お互いに、それで別れたら、すっきりするだろうに、花月は、それはしないと言う。変わった男やと思っていたが、これほどとは思わなかった。
「おまえ、あほやろ? 」
「おまえほどではないわ。」
水都の言葉と態度は違う。抱き締めた身体は、細かく震えて、そして、俺の背中に手を回している。どうあろうと、おまえは、俺が必要やと思っているんなら、それでええ。奥底の水都は、それを望んでいるのだと、俺は知っているから、どういう態度であっても、怒るつもりはない。
「千佳ちゃんに言われたけど、俺ら、似たもの夫夫らしいで? 」
「どこがじゃっっ。俺、おまえみたいに、しつこないわっっ。」
「いや、そこやない。おまえも俺も、他人に無関心らしいわ。」
「・・・ああ・・それはそうかもしれへんな・・・」
他人と認識しないのは、俺にとって水都だけやし、水都にとって俺だけということだ。だから、それでいい。
「メシ食うか? 」
「・・うん・・・」
いつものように、ふたりして食事の支度をした。また、いつもの生活に戻る。それが、延々と続けば、問題はない。
永遠なんてものはない。
だが、続けることはできる。
続けていれば、それなりに永遠に近いものになるのだはないかと思う。
まだ、始まったばかりだから、お互いに、他人ではないという認識さえあればいい。




