「処刑台に立つ聖女、まさかの隣国王子に略奪される。偽者の悪事を全部バラしたら、国ごと詰んでたんだけど
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聖堂の鐘が、朝の光の中で澄んだ音を響かせていた。
クレアは、祭壇の前に膝をつき、静かに祈りを終えたところだった。窓から差し込む光が、石床に色とりどりの模様を落としている。扉の外には、すでに長い列ができていた。病を抱えた老人、熱を出した赤子を抱く母親、怪我をした職人。誰もが、彼女の手が触れることを待っていた。
「クレア様、おはようございます」
神殿の下働きの少女が、笑顔で駆け寄ってくる。クレアは、その頭を軽く撫でた。
「今日も、たくさんの人が来ているのね」
「はい。昨日治していただいた粉屋のおじいさんが、もうすっかり元気になって、パンを配りに来ていました」
クレアは、微笑んだ。この静かな暮らしが、ずっと続くのだと、疑ったことはなかった。
その均衡が崩れ始めたのは、ある秋の日のことだった。
「聖女様。……新しい方が、いらっしゃいました」
応接の間には、見知らぬ娘が座っていた。艶やかな金の髪、自信に満ちた微笑み。
「イザベラと申します。……クレア様と同じ、癒しの力を授かりました」
「それは……よかった。共に、この地を癒していきましょう」
クレアは、素直にそう言った。イザベラは深く頭を下げ、涙ぐむような仕草さえ見せた。けれど、その日を境に、何かが少しずつ、狂っていった。
イザベラの「奇跡」は、瞬く間に評判になった。枯れた畑が一夜で花を咲かせ、重い病人が起き上がって歩き出す。人々は、噂を聞きつけて、次々とイザベラのもとへ集まるようになった。クレアの前の列は、日に日に短くなっていった。
「近ごろは、イザベラ様の方が、力が強いのではないか」
誰が言い出したのか、そんな声が、神殿の廊下でささやかれるようになった。孤立は、静かに、しかし確実に進んでいった。かつては毎朝挨拶を交わしていた神官たちが、目を合わせなくなった。神殿の重要な決定は、いつしか、クレアのいないところで話し合われるようになっていた。
決定的な出来事は、冬の初めに起きた。
クレアが定期的に癒しに訪れていた、ある伯爵家。そこの五歳になる子息が、夜半に高熱を出し、意識を失った。子息の寝室から、クレアの聖印が刻まれた薬瓶が見つかった。
「私ではありません。私は、そんなものを渡した覚えは」
伯爵家に仕える、見覚えのない侍女が、震えながら証言した。
「わたくしは、見ました。……クレア様が、深夜、坊ちゃまのお部屋から出ていかれるのを」
証明する術は、どこにもなかった。審問の最後には、イザベラ自身が、涙を浮かべて進み出た。
「クレア様のことは、今でも、姉のように慕っておりました。……信じたくありませんが、証拠が、これほどまでに」
「クレア・ミラベル。汝の罪、明白なり。聖なる力を悪用し、罪なき子に呪詛をかけた大罪により、火の刑に処す」
判決が下されたとき、クレアは、不思議なほど、静かな気持ちだった。地下牢の格子の向こうで膝を抱え、遠く鳴る鐘の音を、ただ聞いていた。誰も、助けには来ない。そう、思っていた。
処刑の鐘が、三度鳴った。
石畳の広場は、人で埋め尽くされていた。クレアは白い処刑衣を纏わされ、階段を一段ずつ上らされていく。冷たい石の感触が、素足の裏から伝わった。
「クレア・ミラベル。汝は聖なる力を偽り、罪なき子に呪詛をかけた大罪により──」
声は、最後まで届かなかった。
群衆の後方で、悲鳴が上がった。馬の蹄の音。黒い外套を纏った騎士が、馬を駆って処刑台へと一直線に向かってきた。
「その処刑、待たれよ」
仮面の下から発せられた言葉に、神官の顔が青ざめた。
「この娘には、正式な裁判が与えられていない。異端審問の手続きに不備がある。──これは、両国の条約に反する」
騎士はクレアの縄を一息に断ち切り、彼女の体を馬上へと引き上げた。クレアは、抵抗する力さえ残っていなかった。ただ、遠ざかっていく処刑台を、夢の中の景色のように見ていた。
「……揺れる。舌を噛む。もう少し、しっかり掴まっていてくれ」
馬上で、騎士がそう言った。低いが、思いのほか若い声だった。クレアは、言われるままに、彼の外套の裾を握った。指先が、震えていた。
夜が更けた頃、一行は国境沿いの古い館に落ち着いた。暖炉の火が、ようやくクレアの体温を戻していく。仮面を外した騎士は、思いのほか若かった。彼は、無言のまま、自分の外套をクレアの肩にかけた。
「……ありがとう」
「礼はいい。それより、足を見せてくれ。石段を裸足で上ったのだろう」
クレアが戸惑う間もなく、彼は膝をつき、彼女の足元をあらためた。指先が触れるたび、クレアは思わず身を引いた。
「大したことはありません。それより、あなたは」
「アルヴィンだ。……名乗るのは、もう少し後にさせてほしい」
彼は、水と布を持ってきて、クレアの傷ついた足を、丁寧に洗った。誰かにこうして触れられるのは、久しく忘れていた感覚だった。クレアは、その手つきの静かさに、思わず涙がにじむのを感じた。
「なぜ、私を。名前も知らぬ相手だったのに」
「見過ごせなかった。それだけだ」
アルヴィンは、それ以上を語らなかった。クレアも、それ以上を求めなかった。ただ、暖炉の火を見つめながら、これまでのことを、静かに話し始めた。半年前、イザベラが現れたこと。じわじわと居場所を奪われていったこと。身に覚えのない毒殺の疑い。弁明の許されなかった審問。
アルヴィンは、黙って聞いていた。話し終えたクレアが、ふと顔を上げると、彼はひどく静かな怒りを湛えた目をしていた。
「……そんな顔をしないで。あなたが怒ることではないでしょう」
「見過ごせと言われても、無理な話だ」
彼は、短くそう言っただけだった。その一言に、クレアは、なぜか、この数か月で初めて、安心して息を吐けた気がした。
それから毎晩、アルヴィンは、クレアの話し相手になった。彼女が悪夢にうなされる夜には、扉の外に気配だけを残して、朝まで座っていた。ある朝、クレアがそれに気づいて、思わず笑ってしまったことがあった。
「……眠れなかったのですか」
「別に。見張りだ」
「見張りにしては、椅子の跡が、頬についていますよ」
アルヴィンは、珍しく言葉に詰まり、そっぽを向いた。その様子が、あまりに彼らしくなくて、クレアはもう一度、小さく笑った。長い間忘れていた、屈託のない笑い方だった。
ある日、彼女が厨房で果物の皮を剥こうとして、指先を浅く切ってしまったことがあった。アルヴィンは、その小さな傷に、まるで大怪我でも見るような顔をした。
「……このくらい、平気です」
「平気な顔で血を出す人間がいるか」
彼は、慣れない手つきで布を巻きながら、ひどく真剣な顔をしていた。クレアは、その不器用な優しさに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「あなたは、私よりよほど過保護ですね」
「そうかもしれない」
彼は、悪びれもせずそう答えた。その率直さが、クレアには、どんな甘い言葉より嬉しかった。
夜、暖炉のそばで彼が居眠りをしていることがあった。クレアは、そっと自分の肩掛けを、彼の肩にかけてやった。目を覚ましたアルヴィンは、それに気づくと、少しだけ耳を赤くした。
「……次からは、起こしてくれ。あなたを風邪引かせるつもりはない」
「あなたこそ。私を助けるために、いつも無理をしているのに」
二人の間に流れる沈黙は、もう気まずいものではなかった。むしろ、言葉にしなくても伝わるものが増えていくような、そんな時間だった。
「証明する方法が、一つだけある」
ある夜、アルヴィンが言った。
「神殿には、古い掟がある。聖女の力の真贋を問う声が上がったとき、両者を『試しの間』に立たせ、力を示させる儀式だ。偽ることのできない場だと聞く」
「イザベラが、それに応じるとは思えない」
「応じざるを得なくする。私の国と、そちらの神殿の間には、まだ有効な条約がある」
「あなたは、それを、私のためだけに動かすつもりなのですか」
クレアが尋ねると、アルヴィンは、少し困ったように視線を逸らした。
「理由は、他にもある。だが……今、それを話すと、あなたが余計な気を遣うだろう」
「では、いつ話してくれるのです」
「すべてが終わったら」
そう言う横顔に、隠しごと以上の、何か静かな決意のようなものがにじんでいた。クレアは、それ以上を聞かなかった。ただ、その言葉を、大切に胸にしまった。
それから半月、アルヴィンは動いた。検証の場を整えるだけでなく、イザベラに脅されて偽証していた者たちを、一人ずつ、丁寧に保護していった。証言を強要された薬師、書き換えを命じられた書記官、口を封じられていた侍女。誰も傷つけず、罰することもせず、ただ「もう怯えなくていい」とだけ伝えて回った。
同時に、アルヴィンは、隣国の商人網を使い、イザベラがこれまで裏で動かしていた金の流れを、静かに洗い出させていた。買収の記録、偽の聖印を彫らせた職人への支払い、そして、伯爵家の侍女への口止め料。すべてが、細い糸のように繋がっていた。
「これだけ揃えば、もう、彼女に逃げ場はない」
アルヴィンが、集めた書類の束をクレアに見せながら言った。
「あなたは、いつも、こうして先の先まで手を打つのですね」
「あなたを、二度と傷つけさせないためだ」
その言葉に、クレアは、思わず頬が熱くなるのを感じた。
検証の日、大聖堂には、両国の代表と神官、そして噂を聞きつけた民衆が詰めかけていた。イザベラは、以前と変わらぬ自信に満ちた顔で現れた。クレアの姿を見つけると、一瞬だけ、その笑みが揺れた。
「まだ生きていたのね」
「ええ」
試しの間の儀式は、単純なものだった。聖なる泉の水に手を浸し、力を示す。偽りは水に映らない、と伝えられている。
イザベラが先に進み出た。泉に手を浸す。水面は、静かなままだった。何も起こらない。
「……緊張しているだけです。少し、お待ちを」
彼女は、何度も試みた。額に汗をにじませ、水面を睨みつけるようにして。けれど、水面は、ただ彼女の顔を映すだけだった。
やがて、神殿の書記官が進み出た。
「申し上げます。この半年の奇跡の記録には、不自然な点が、複数、確認されています。聖女イザベラ様の指示により、事後に書き換えられた箇所が」
薬師が続いた。
「私は、彼女に命じられ、病人の症状を偽装する薬を調合していました。……脅されていたのです。家族を、人質のようにされて」
最後に、あの侍女が進み出た。声は震えていたが、視線はまっすぐ、イザベラに向けられていた。
「伯爵家の子息の件も、私が偽証しました。聖印は、イザベラ様の指示で偽造されたものです。本当に子息に毒を盛ったのは──イザベラ様ご自身です」
聖堂内が、水を打ったように静まり返った。
「デタラメよ! この者たちは、私を陥れようと」
イザベラの声が、上ずった。
「では、この金の流れは、何だと説明するつもりだ」
アルヴィンが、静かに歩み出た。手にした書類を、神官たちの前に広げる。
「隣国の商人を通じて、お前が支払った金の記録だ。偽の聖印を彫った職人、口を封じた侍女、証言を強要した薬師。一つ残らず、名と日付が記されている」
イザベラの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「そんな……いつの間に」
「お前が、この娘を陥れることに使った時間、私は、お前の足元を静かに崩す時間に使っていた。それだけのことだ」
その声には、怒りというより、静かな断罪の響きがあった。証言はすでに、一つの筋書きとして揃いすぎていた。イザベラに付き従っていた者たちの何人かが、静かに目を伏せた。誰も、彼女をかばおうとはしなかった。
クレアは、静かに泉へと歩み出た。手を、水に浸す。
水面が、淡く光を帯びた。誰かが息を呑む音が、聖堂中に広がった。光は、ただ美しいだけではなかった。その場に立つ神官の一人が、思わず胸を押さえた。長年隠していた、亡くした娘への悔恨。クレアの力が、無言のうちに、その傷にそっと触れたのだ。彼は、涙をこらえきれず、その場に膝をついた。別の場所では、幼い頃から己の力に自信を持てずにいた若い神官見習いが、光に包まれた瞬間、初めて涙を流した。誰も、クレアに何も命じられてなどいなかった。それでも、力は、そこにいるだけで、本物だと証明していた。
クレアは、勝ち誇ることも、イザベラを責める言葉を発することもしなかった。ただ、静かに手を引き、頭を垂れた。
「私は、ただ、本当のことが知られればよかった。それだけです」
イザベラは、その場に崩れ落ちた。
「どうして……どうして、あなたは、いつも」
声にならない声で、そう呟いた。地位も、信仰も、彼女を支えていたものが、音もなく崩れていくのが、誰の目にも明らかだった。神殿はその後、正式にイザベラの資格を剥奪し、毒殺未遂の罪も併せて裁かれることとなった。
聖堂を出ると、外はすでに夕暮れだった。アルヴィンが、静かに隣に立った。
「これで、良かったのか」
「ええ」
クレアは、初めて、心から微笑んだ。
「誰かを傷つけるためじゃなく、ただ、本当のことが、光の下に戻ればよかったの」
「私は、隣国の第二王子だ。身分を隠していたのは、他国の宗教問題に、王族として直接関わることができなかったからだ。だが、もう隠す必要はない」
クレアは、驚かなかった。どこかで、そうではないかと感じていた気がした。
「では、あの日、椅子で夜通し見張っていた王子様は、いったい誰の許しを得ていたのでしょうね」
「……その話は、もう忘れてくれ」
珍しくうろたえるアルヴィンに、クレアは、くすりと笑った。
「これから、どうするの」
「あなたが望むなら、聖女の座に戻ることもできる。だが、もし、望まないなら……私の国で、共に新しい道を歩んでほしい。聖女としてではなく、一人の人として、私の隣で」
夕陽が、聖堂の尖塔を、静かに赤く染めていた。半年間、力のために生き、力のために追われた日々が、ゆっくりと過去のものになっていくのを感じながら、クレアは、長い間、その光を見つめていた。
「……力のためではなく、私自身を、見てくれる人と」
彼女は、ゆっくりと、アルヴィンの手を取った。
「そちらを、選びたい」
アルヴィンは、少しだけ、安堵したように息を吐いた。それから、彼女の手を、そっと握り直した。壊れ物にでも触れるように、それでいて、二度と離さないというように。
「なら、もう、震えなくていい。誰も、あなたを傷つけさせはしない」
二人は、夕暮れの中を、並んで歩き出した。もう振り返る必要のない道を、まっすぐに。
*
それから一年が過ぎた。
国境を接する小さな町の外れに、一人の女が流れ着いていた。かつて聖女と呼ばれた面影は、もうどこにもなかった。粗末な布をまとい、市場の隅で洗濯女として働くイザベラの姿を、誰も気に留めなかった。
「ちょっと、あんた。手が遅いよ。それじゃあ日が暮れちまう」
雇い主の女将に怒鳴られ、イザベラは、荒れた手を止めることなく、ただ俯いていた。かつて、金の刺繍の入ったドレスを纏っていた指は、今では冷たい水に晒され、ひび割れていた。
夜、狭い部屋の隅で、イザベラは膝を抱えていた。あの日、聖堂で崩れ落ちてから、何もかもが変わった。資格を剥奪され、罪を裁かれ、実家からも縁を切られた。行く当てもなく、名を変えて、こうして流れ着いた町で、ただ生きているだけの日々。
風の噂で、クレアが隣国で幸せに暮らしていると聞いた夜、イザベラは、初めて声を上げて泣いた。悔しさなのか、羨望なのか、自分でも分からなかった。ただ、確かなことが一つだけあった。
あの光は、本物だった。
自分がどれだけ言葉を飾っても、どれだけ多くの人を欺いても、あの泉の前に立ったとき、水面は何も映さなかった。あれ以上に、明白な答えはなかった。
「……あなたには、遠く及ばなかった」
誰に聞かせるでもなく、イザベラは、そう呟いた。それは、憎しみでも、言い訳でもなく、ようやく彼女がたどり着いた、ひどく静かな敗北の言葉だった。
翌朝、イザベラは、いつものように市場へ出た。冷たい水に手を浸しながら、ふと、遠くの空を見上げる。かつて自分が奪おうとした光は、もう、彼女の手の届かない場所にあった。それでも、彼女は、その日も、一枚、また一枚と、洗濯物を洗い続けた。誰に讃えられることもない、地道な一日を。
罰は、誰かが与えたものではなかった。彼女自身が積み上げてきたものが、静かに、しかし確実に、彼女のもとへ返ってきただけだった。
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