ひとくちサイズのチョコレートケーキ
画面を見つめたまま、ノートパソコン横の紙コップに手を伸ばす。
想像以上に軽い。試しに口に当てて傾けてみるが、やはり空だった。
集中が途切れ、画面から目を離す。あたりの雑音が急に大きくなる。
日頃よく利用する近所のオープンカフェで作業を始めて、かれこれ一時間。
画面に真剣に向き合ったが、言葉通り、ただ向き合っていただけだ。開いている執筆ソフトには、数行の文章しか打ち込まれていない。
確かに、カップのコーヒーはいつの間にかなくなっていた(コーヒーの味は覚えていない……)が、それは作業に集中していたからではない。何度もコーヒーを口に運んで、集中できないことを誤魔化していたら、あっという間に空になってしまったというだけのことだ。
僕は地元でフリーライターをしている。
先月、地元情報誌を出版している会社からの仕事が入った。地域活性化のために、県内で働く若者を取材して記事にしてほしいというものだった。
幸い、取引先の会社が新入社員への取材を快諾してくれたので、午前中に取材を終え、こうして記録した内容をまとめているところだ。
取材を受けてくれた新入社員さんたちは、みんな流暢に受け答えしてくれた。自分の住む地域のためにこうしたいとか、将来的なビジョンがどうとか。その意識の高さに驚いた。自分が20代の頃、こんなにハキハキと考えを話せただろうか。
それをそのまま記事にしてもいいくらい、整った答えだった。
ただ——彼らの話は、整いすぎていた。
素晴らしいことを言っているのに、どうも、彼らの話に熱を感じないのだ。取ってつけた感がある。
「まぁ、こっちの引き出しかたが悪かったのかもな……」
画面を見つめながら、ぼそっと呟いた。
他の所にも取材に行くべきか。もういっそのこと、この記録をAIに投げて、「いい具合に調整して」と指示して終わりにしてしまいたい。
まったく頭が回らない。どうしよう……
空のカップに目をやる。
コーヒーをお代わりしてもう少し粘るべきか、ここで潔く諦めて店を出るか。重要な決断に迫られている。
「あの……」
はっとして、顔を上げる。そこには、若い女性店員の顔があった。
「明日から新しいケーキが販売されるんですが……その、えっと……」
尻すぼみに声が小さくなる。見ると、彼女の持っているトレーには、一口サイズにカットされたチョコレートケーキが、小さなテイスティングカップに入って乗っている。
「あ、試食……ですか?」
「はい、甘いのとか食べます……か?」
自信なさげに聞いてきた。表情もこわばっている。初めて見る顔だから、最近入った新人さんだろう。
さっと店内を見渡す。平日の昼過ぎというのもあって、客は僕以外には数組だけ。しかし、トレーの上のケーキは、明らかにそれよりも数が多い。人数をちゃんと確認せずに、用意してしまったのだろうか。
「あ、まぁ。はい」
「よかったら、食べてみてください」
そう言って、テーブルの端ギリギリにそっと試食のケーキを置いた。慣れない仕事に、よほど緊張しているのだろう。
「どうも」
そう言って軽く頭を下げると、ミッションを達成したことで安心できたのか、ようやく彼女の顔に笑みが浮かんだ。最初の印象とは異なり、朗らかで明るい雰囲気すら感じられる。
「今日のコーヒーとの相性もいいんですよ。コーヒーの苦みとチョコの甘みがうまく調和して。ぜひ、一緒に食べてみてください」テーブルのカップを見ながらそう言って、彼女は去っていった。
僕はしばらく、テーブル端の小さなチョコレートケーキと、空のカップを交互に眺めていた。
なぜ、彼女は僕がコーヒーを注文したことを知っているのだろう?レジをしてくれたのは他の店員で、そのとき近くに彼女はいなかったはずだ。
あと、正直なことを言うと、僕は甘いものは食べない。というか苦手だ。しかも、見るからに甘そうなチョコレートケーキ。
しかし、あの状況でいらないとも言えなかった。
——まぁ、なんにせよ。おかげで、決断はできた。
僕はカップをゴミ箱へ捨てた。財布とスマホ、今日のレシートを手に、もう一度レジに並ぶ。
「すみません、コーヒーのお代わりをください」レシートを見せながら注文する。
「お代わりですね、180円です」一度目のレジをしてくれた店員さんと、同じ人だった。カウンター内に試食をくれた女性店員の姿はなかった。
コーヒーを受け取り、席に戻る。熱々のコーヒーを冷まそうと、蓋を開ける。すると、香ばしい匂いに包まれた。
ケーキをすぐにコーヒーで流し込めばいけるだろう。程よく冷めたところで、まずはコーヒーを一口。これで舌をコーティングする。
次にチョコレートケーキを少しだけかじる。一気に入れたほうが良かったかもしれないが、無理をしてむせたくはなかった。二、三回咀嚼して、すぐにコーヒーで口を満たす。
口の中で溶けたチョコとコーヒーが混ざる。そして、ゆっくりと喉を通っていく。
「……あ、美味しい」
思わず声が漏れていた。
チョコの甘みがコーヒーの苦みによって中和され、うまく調和していた。舌に甘いものが残り続けるような感覚もなく、むしろ、鼻から抜ける香りが心地よい。
続けてもう一口。今度は舌の上で転がすように味わう。
うん。やはり美味しい。甘みと苦み、どちらが強く主張するでもなく、口の中で手をつなぎ合っている。なるほど、彼女が言っていたのはこういうことだったのか。
気づくと、試食のケーキを完食していた。
美味しいケーキとコーヒーのおかげで、取材のまとめ作業も捗って——とはならなかった。
そう都合のいいことは起こらない。しばらく格闘を続けたが、結局ほぼ進まなかった。
むしろ、いまの僕の関心は、口の中で起こったあの体験のほうだった。あんなのは初めてだ。
「ケーキはいかがでしたか?」
帰り際、後ろから声をかけられた。振り返ると、あの『試食店員』が箒を持って立っていた。
「すごく美味しかったです、次来たときは買いますね」
笑顔でそう言って、すぐに自分が嫌になる。
どうせ買わないくせに、と。
確かに美味しかったし、なんなら感動した。それは嘘ではない。——でも、買わない。僕は甘いものとは無縁の人間だ。こびりついた固定観念はそう簡単には覆らない。
それでも、取り繕ってやり過ごすことが当たり前になっている。今朝の新入社員の顔が頭をよぎった。
「気に入ってもらえてよかったです」
僕の上辺の言葉とは反対に、彼女は屈託のない笑顔を見せた。……ちょっと心が痛い。
「今日のコーヒーとの相性がすごくいいから、一緒に味わってもらいたくて」
ふと、その言葉で思い出した。
「あ、そうそう。なんで僕がコーヒーを頼んでたってわかったんですか?カップってどのドリンクも同じデザインですよね?」
「あ、それは……」彼女は恥ずかしそうに目を逸らした。
「コーヒーの香りがしたので、つい……」
「香り……ですか?あのときすでに飲み切ってたんですけど。まぁ、お代わりしたので、一緒に楽しめましたが」
「そ、そうだったんですか!すみませんっ、追加注文させちゃって!」彼女は慌てて頭を下げた。
「いえいえ、おかげで美味しくいただけたので。でも、よくわかりましたね」
「飲み終わったあとでも、カップに香りは残ってるんです。私、昔から鼻がよくて」
「この子、すごいんですよ」試食店員の後ろから、商品棚の整理をしていた別の店員さんが顔を覗かせた。僕がここに通い出したころからいる、ベテランのおばちゃん店員だ。
「香りを嗅いだだけで、何十種類もある、うちのコーヒーの銘柄当てられちゃうんです。そんなこと、うちの店長にだってできないのにねぇ」おばちゃん店員は笑いながら言った。
「香りだけで!?すごい才能じゃないですか!」
褒められ慣れないのか、僕の言葉に彼女は顔を赤らめた。
「いえ、それだけですから。私、集中力がなくて仕事中も失敗ばかりで……。さっきも、試食の数を間違えてケーキ切っちゃったし……」
あの試食の数は、やはりそういうことだったのか。
「気にしなくていいのよー、そんなこと他の人がフォローすればいいんだから。ねぇ?」おばちゃん店員は僕にそう聞いてきた。いいことを言ってるとは思うが、聞く相手を間違えている。
「でも……」彼女は自信なさげに下を向いた。
とりあえず、助け舟を出したほうがよさそうだ。
「コーヒーのお話してくれているとき、すごく楽しそうでしたよ。聞いていてこっちも心地よかったし、本当に相性がよかった」
これは紛れもなく本心だった。
「あ……ありがとうございます。お客様にそう言ってもらえたの、初めてで。うれしいです」そう言って頭を下げる彼女の目は、微かに潤んでいた。
「マキちゃん、よかったわねー」おばちゃん店員も、もらい泣きしそうになっている。
店を出て、駐車場に停めてある車に戻った。
エンジンをかける前に、最近の仕事のことを振り返った。取材が立て続けに入っていたが、正直、どれも相手の顔色をうかがうような対話しかしていなかったように思う。
「こっちから少しでも本心を入れて対話すれば、もっと相手のことが理解できたのかもな……」
少し考え、今朝の会社へ電話する。
「お世話になります。今朝はありがとうございました。それで、もう少し詳しくお話を聞いてみたいと思いまして。できれば、もう一度取材をお願いしたいのですが——」
「もちろん大丈夫ですよ。明日の13時はいかがですか?」
「それはぜひ!よろしくお願いします」
電話を切って、ほっとする。
忘れないうちに、スケジュール帳の明日の欄に取材の予定を書き込む。
「あ、そうだ」
取材の予定の上に一言、書き加える。
『手土産に、新発売のチョコレートケーキを買っていく』




