閲覧履歴の果てに
タケシこと斉藤健司、28歳。中堅IT企業のシステム開発部に勤める彼は、平日の夜九時を過ぎたオフィスで、一人キーボードを叩いていた。フロアの照明は半分ほどが落とされ、他人の気配のない静寂が、無機質な機械音だけを響かせている。
定時で帰る同僚たちを羨ましく思うこともあったが、家に帰っても、することといえばコンビニ弁当を温め、一人で画面を眺めるだけだ。それならまだ、仕事をしている方が気分が紛れる。彼はそう自分に言い聞かせた。
タケシの人生は、何一つ特別なものがない。いや、特別でないことを、彼は何よりも強く望んでいた。目立たず、波風を立てず、誰にも深く関わらず、ただ静かに生きていきたかった。
しかし、それは現実の彼に与えられた役割だった。インターネットの世界では、まるで別人だった。
仕事用のパソコンの隅で、こっそりと匿名掲示板を開く。そこには、日頃の鬱憤や、上司への不満、誰にも言えないような暗い悩みが羅列された、タケシの「裏の顔」が広がっていた。
「あー、また部長に企画書突き返されたわ。あいつ絶対俺のこと嫌いだよな」
「わかる。マジでわかる。あいつの顔見てるだけで吐き気する」
彼は自虐的な書き込みをするたびに、ほんの少しだけ心が軽くなるのを感じた。誰も自分のことを知らない。ここでは、本当の自分でいられる。そう信じていた。
その日の夜も、いつものようにキーボードを叩いていた。ふと、スマホが鳴る。親友のケンジからだ。
「タケシ、まだ仕事?早く帰ってこいよ。飯でも行こうぜ」
ケンジは、タケシにとって唯一、心から付き合える友人だった。彼の前では、無理に明るく振る舞う必要もなかった。しかし、ケンジからの誘いは、いつもタケシの心の奥底にある**「孤独」**を突きつけるようで、少しだけ重かった。
「ごめん、もうちょっとかかる。また今度な」
そう返信して、彼は再びパソコンに向き合った。
翌朝、タケシは奇妙な違和感に襲われる。通勤電車の中、何気なくスマホのブラウザを開き、昨日の閲覧履歴を確認した。そこに、見覚えのない痕跡があることに気づく。
『自殺 楽な方法』
『飛び降り 痛み』
『安眠剤 致死量』
彼は昨夜、確かに仕事に疲れて、心の奥底にある「消えたい」という感情を検索した。しかし、これらのキーワードは、彼が検索したものではなかった。もっと直接的で、具体的な検索履歴が残されていた。タケシは慌てて履歴を削除した。
その日以降、奇妙な出来事は頻繁に起こるようになる。
会社のパソコンで、業務とは全く関係のない、不気味な心霊動画が自動的に再生される。慌てて閉じようとすると、画面に表示された動画のタイトルが、タケシが大学時代に書いた**「卒論のタイトル」**に変わっていた。
家に帰って、スマートスピーカーに「今日の天気は?」と話しかけると、なぜか不気味な女性の声で「あなたの死に場所は雨が降るでしょう」と返答される。
タケシは、自分のデジタル上の情報が、何者かに覗かれているのではないかと疑い始めた。
ある夜、タケシは意を決して、パソコンのセキュリティソフトをすべて確認した。ウイルスは検出されない。履歴は定期的に削除している。それでも、不可解な痕跡は増え続けていく。
その夜、彼は自分の部屋の鏡を見て、凍り付いた。
鏡の中の自分の顔が、一瞬、歪んだように見えたのだ。それはまるで、誰かの**「嘲笑」**のようだった。
「気のせいか…」
彼はそう呟いたが、心臓は激しく鼓動を打っていた。
その週末、タケシは親友のケンジに連絡を取った。
「ケンジ、ちょっと相談したいことがあるんだ」
ケンジは快く引き受けてくれた。久しぶりに会ったケンジは、いつも通り明るく、タケシの心の重さを和らげてくれた。
「タケシ、最近なんか変だぞ。顔色悪いし、ちゃんと寝てるか?」
タケシは、ここ数週間に起きた奇妙な出来事を、ケンジに打ち明けた。閲覧履歴の痕跡、スマートスピーカーの不気味な返答、そして鏡に映る歪んだ顔。
「それって、もしかして…ハッキングとか?」
ケンジは真剣な表情でタケシの話を聞いていた。しかし、タケシは、ケンジの言葉がどこか遠くに聞こえた。心の奥底で、彼はケンジすら信用できなくなっていた。もしかしたら、ケンジこそが、彼を追跡している**「見えない誰か」**なのかもしれない。
タケシの疑念は、次第に肥大化していく。
会社のトイレで、同僚たちが彼の噂をしているのが聞こえた。「タケシって、なんか最近おかしくないか?」「あいつ、もしかして病んでんのかな」
彼は、これもすべて「見えない誰か」が仕組んだことではないかと疑った。彼らの会話は、まるで彼がネットで書き込んだ悩みを、そのまま代弁しているかのようだった。
タケシは精神科医の診察を受けることにした。
カウンセリングルームで、タケシは医師にこれまでの経緯をすべて話した。医師は穏やかな表情で彼の話を聞き、こう告げた。
「斉藤さん、それは**『被害妄想』**の典型的な症状です。デジタルタトゥーが精神的な負担となり、それが現実の事象として現れているのかもしれません」
医師の言葉は、タケシをさらに絶望させた。彼は、自分の恐怖が、単なる妄想に過ぎないと言われたのだ。しかし、タケシは確信していた。これは妄想ではない。これは、彼にしか見えない、新しい種類の恐怖なのだと。
タケシは、すべてのデジタル機器を捨てることを決意した。
スマホ、パソコン、スマートスピーカー、タブレット。すべてをゴミ袋に詰め込み、部屋の隅に置いた。これで、彼は「見えない誰か」から解放されるはずだった。
しかし、夜が来るたびに、恐怖は新たな姿で彼を襲う。
深夜、誰もいないはずの部屋から、微かに囁き声が聞こえる。それは、彼が過去に閲覧した、マイナーなホラーサイトのBGMだった。
窓の外に目をやると、一瞬だけ、人影が立っているように見えた。彼は慌ててカーテンを閉めたが、次の瞬間、カーテンの隙間から、その影がこちらを覗いているような気がした。
そして、最も恐ろしいことは、彼の精神が次第に蝕まれていることだった。彼は、自分の思考すら、見えない誰かに支配されているような感覚に陥った。
「タケシ、まだ大丈夫か?」
ケンジからの電話だった。
タケシは電話に出ない。ケンジはきっと、「見えない誰か」の手先だ。彼はそう確信していた。
タケシは、自分の人生が、過去にネットに吐き出した**「言葉」や「感情」**によって追い詰められているという、究極の恐怖に直面していた。そして、この恐怖は、これからさらに加速していく。




