線の先の自分
風が少し冷たい午後、アリナはコートの中央でラケットを握りしめていた。試合開始のホイッスルが鳴る。周囲の観客は勝敗を待ち望んで、息をひそめている。だが、アリナの心には「勝つ」という言葉はほとんどなかった。
「勝ち負けって、意味あるのかな」——アリナは静かに思った。子どもの頃、父が言った言葉が蘇る。
「人生は点数で決まるものじゃない。線の引き方に意味があるんだ。」
試合が始まると、体が自然に動き、ラケットがボールを打ち返す。力まず、ただ自分のリズムで、ボールと対話するように。相手が強打しても、アリナは恐れず、逆に楽しむように返した。観客の歓声も、勝利への期待も、耳には届かない。
「スポーツって、誰かに認めてもらうためのものじゃないんだ」——アリナは気づく。
ヘラクレイトスの言葉が頭をよぎる。
「同じ川に二度と入ることはできない。」
今日の一球一球も、昨日や明日とは違う。勝っても負けても、コート上の瞬間は二度と繰り返されない、ただの「今」でしかないのだ。
試合は結局、アリナが僅差で負けた。周囲の歓声と拍手が耳に届く。普通なら悔しさに胸を締めつけられるところだが、アリナの胸は軽かった。今日、自分の体と心が織りなす動きの美しさに満足していたからだ。勝ち負けは過ぎ去るものに過ぎず、自己表現の一瞬こそが、自分だけの意味なのだ。
試合後、ラケットを肩にかけながらアリナは微笑んだ。
「勝ち負けより、私の線の引き方を楽しむ方が、ずっと面白い。」
風が吹き、落ち葉がコートの上で舞う。その一瞬一瞬が、アリナの線の一部になった。