君に、あの夏を返しに行く
夏なんて大嫌いだ。
蒸し暑くて、すぐにシャツは肌に張りつく。
それなのに、父さんと母さんは毎年、俺を田舎のじいさんの家に預ける。まるで恒例行事みたいに。
山に囲まれたこの土地は、都会より多少は涼しい。
けど、この異常気象の中でクーラーなしは、もはや拷問に近い。
ああ、都会のマンションでガンガン冷えた部屋が恋しい。あの快適な部屋に戻りたい。
「湊斗〜、おーい、湊斗〜」
玄関の方から、じいさんの声がする。
どうせ「ゴロゴロしてないで買い物でも行ってこい」とか、そんなところだろう。わかりきってる。
ちなみに、ここから最寄りのコンビニまでは、自転車で約三十分。
じいさんはそれを“すぐそこ”と呼ぶ。価値観の差って恐ろしい。
「おーい、こんなとこで寝転んでたのか。……買い物でも行ってきたらどうだ?」
やっぱり、的中。
「えー、遠いし、暑いし、いいよ……」
「そんなことを言わずに。ほれ、アイスでも買ってこい。小遣いやるから」
そう言ってじいさんは、小銭を入れた巾着袋を差し出してくる。
まるで俺を小学生くらいの子どもだと思ってるかのように。
……もう高校生なんだけどな、俺。
そろそろ“扱い”を見直してほしい。
ところどころ亀裂が入り、白線すら消えて見えなくなっている道をチャリをこぐ。
山間の村だから、山を越えないとコンビニにはたどり着かない。
蝉はミンミン、ジージー鳴いて五月蠅いし、入道雲は大きすぎて腹が立つ。
「あっちぃ……」
じいさんのママチャリは年期が入っていてこぎにくい。最悪だ……。
横を時たま通りかかる車を妬ましく感じながら必死に坂道をチャリに乗って走る。足はパンパンで筋肉痛確定コースだ。
ようやく坂道を登り切ると、変な達成感までこみ上げてくるからおかしなものだ。
「えーっと道は……確か」
いつもの道はまっすぐだが、暑さで気分を変えたくなった湊斗は別の道を選択した。
それはすぐに後悔へと繋がった。
「こっち遠回りじゃん」
コンビニに着く道はやはりいつもの道が一番近道だったのだと思い知らされる。
「えー、最悪なんですけど」
悪態をつきながらではあるが、元来た道を引き返す気にもなれず湊斗はそのまま走った。
しばらく行くとバス停がある。白いワンピースを着た一人の少女が座っていた。
田舎に珍しい可愛らしい雰囲気の少女だ。休憩がてら声をかけて見たくなった。
「隣いい?」
「……えぇ」
少女は近くで見るとどこか青白く、透き通るような雰囲気がある。そして、バス停の中は思いのほか涼しい。
「バス待ってんの?」
「……えぇ」
「ふーん、この辺のバスって三時間に一本なんだ? 次の便は……二時間後か」
湊斗が思わずそうつぶやくと、隣にいた少女が小さく首を傾げた。
「大丈夫……慣れてるから」
その返事に、湊斗は「地元民、強いな」と感心する。が、同時にふとした違和感が胸をかすめた。
屋根だけのバス停なのに、妙に涼しい。日差しは強いはずなのに、ここだけ風が抜けるように心地いい。
少女の肌は驚くほど青白く、真っ白なワンピースが風に揺れるたび、足元がかすかに透けて見える。
——まさか。
「ねえ、君……もしかして、幽霊だったりする?」
湊斗の問いに、少女はわずかに目を伏せて、ぽつりと答えた。
「……ええ」
「マジ?」
「うん」
「……で、逃げないの?」
彼は肩をすくめて笑ってみせる。
「いや、むしろ。この涼しさ、天国級なんだけど。猛暑日には、こういう怪談的な避暑もアリかも」
少女は、何かを思い出すように、小さく笑った。
「……みんな、私が見えると怖がるのよ? 怖くないの?」
「うーん、君、俺を呪い殺したりする?」
「……しませんが」
「じゃあ別に怖くない。俺には、この異常気象のほうがよっぽど恐ろしいね」
幽霊の少女は、ぽかんと目を見開いたあと、明るく笑った。
「ふふふ……変な人ね」
「……あー、この暑さが悪いんだよ。正常な判断なんて、もう無理」
「幽霊を冷房扱いするなんて、あなたぐらいよ?」
「こんな素晴らしい冷房なら、むしろずっと取り憑いててほしいくらい」
「取り憑いててほしい……本当に変な人。まるで――」
ふいに、少女の顔から笑みが消えた。
「どうした?」
「今……何かを思い出せそうだったの。私が、成仏できない理由……」
「成仏ねぇ。――したいの?」
少女は、静かにうなずいた。
「よし。冷やしてくれたお礼に、探してやるよ」
「え……?」
「一緒に探そう。君が成仏できない理由!」
――
湊斗の自転車の後ろには、少女がそっと腰かけていた。
背中に触れる彼女の冷たい気配は、高原の風のように心地よい。灼熱のアスファルトを走っているはずなのに、まるで別の世界にいるかのような涼しさだった。
「ねぇ、どこに行くの?」
「ん? 聞き込みだよ。君、あのバス停にいたろ? だったら、あのバスに何か関係あるんじゃないかって思ってさ。市営バスだよな? 昔の記録が市役所に残ってるかもしれないし」
「市営……市なのね……」
少女の呟きは風にさらわれ、湊斗の耳には届かなかった。
やがて、小さな市役所の建物が見えてきた。
年季の入った外壁と、夏の陽射しに色褪せた看板が、ここが田舎の行政機関であることを物語っている。
「着いたぞ。行こう」
湊斗が手を差し出すと、少女は一瞬だけ戸惑い、それから静かにその手を取った。
指先は氷のように冷たいのに、なぜか温もりのようなものがそこにあった。
自動ドアが開くと、ひんやりとした空気が二人を迎え入れる。
掲示板には、夏祭りのポスターや防災訓練の案内に紛れて、色褪せた行方不明者のチラシが何枚か貼られていた。
「すみません、ちょっとお伺いしたいんですけど……」
湊斗は窓口の若い女性職員に声をかけた。
「昔、このあたりでバスの事故とか事件って、ありませんでしたか?」
女性職員は少し首を傾げた。
「最近の記録には見当たりませんね……私が働き始めてからは、そういう話は聞いたことないです」
そのとき、背後から通りかかった年配の男性職員が足を止めた。
「バスの事故って……五十年くらい前にあった、あの町営バスのことかもしれんね」
「町営……?」
「ああ。今は“市”になってるけど、昔はここいら全部、いくつかの“町”に分かれてたんだよ。平成の大合併で市になったのは二十年くらい前かな。君の世代じゃ知らなくても無理ないな」
少女の肩が、ぴくりと揺れた。
その瞬間、湊斗は肌に感じる空気が少し冷たくなったような気がした。
「その事故って……どんな内容だったんですか?」
「詳しくは資料室に残ってると思うが……確か山道でブレーキが壊れて、崖から落ちたとか。小さな路線だったから報道も少なかったが、亡くなった子どももいたと聞いてる」
男はふと、少女のほうに目を向けた。
眉をしかめるようにして、じっと見つめる。
「……ん? 君、どこかで……」
少女の瞳が大きく見開かれた。
まるで深い湖の底から何かが浮かび上がってくるような、そんな表情だった。
「いま……少しだけ、思い出しそう……。バスの中にいた……制服……誰かの名前が……」
彼女の手が、ぎゅっと湊斗の袖をつかむ。
「……大丈夫。ゆっくり思い出そう」
湊斗はその手を、そっと包むように握り返した。
――
湊斗は、新しく移転したばかりの市立図書館にいた。
以前の古びた建物とは違い、ガラス張りの外観が光を取り込み、館内はまるで温室のような明るさに包まれている。
天井が高く、木材を多用した内装が静けさの中に柔らかな温もりを添えていた。
閲覧席の奥、資料コーナーの一角。
湊斗は黙々と新聞の縮刷版をめくっていた。
「……あった! これだ!」
ページの端に指をかけ、目を走らせる。
『町営バス、山道で転落 五名死亡』
白黒の写真に、くしゃくしゃになったバスの車体と、急な山の斜面が写っている。
「ブレーキ故障……乗客は高齢者三人、通勤途中の男性一人……そして……」
湊斗の手が止まった。
「女子高生が一人。名前は……佐竹幸恵、十六歳」
隣に佇む少女が、わずかに揺れるように震えた。
「……幸恵……君の名前……?」
少女は数秒沈黙したのち、ふっと息を吐き、ぽつりと答えた。
「……思い出した。私、佐竹幸恵……俊彦さんに会いに行く途中だったの。病院に入院してたの、彼……」
言葉の途中で、涙が頬をつたった。
その涙は、確かに“今ここ”にあるように見えた。
「じゃあさ、その俊彦さんに会いに行こうよ! 五十年前なら、生きてるかもしれないし!」
湊斗が勢い込んで言うと、幸恵は首を横に振った。
「……あの人、肺炎だったの。もう長くないって言われてた……きっと、もう……」
その瞳は、すでに覚悟を決めた人のものだった。
「じゃあさ、お墓でもいい。せめて、君の“想い”を届けられる場所があるかもしれない。苗字、覚えてる?」
少女は少し首を傾けた後、静かに答えた。
「……前川。俊彦さんの苗字は、前川」
その名前を聞いた瞬間、湊斗の顔色が変わった。
「……え? 前川? それって……」
自分の苗字と、まったく同じだった。
図書館の静けさの中、蝉の声さえ遠ざかって聞こえる。
まるで、現実が一瞬だけ揺らいだような気がした。
前川という苗字は、珍しくはない。
この辺りではよくある名字だ。……けれど、本当に偶然だろうか?
「……俊彦さんは、どこに住んでたか覚えてる?」
「確か……楝山村。山のふもとの村だったわ」
その言葉に、湊斗の脳裏に一瞬で地図が浮かんだ。
——じいさんの家だ。
「……じいさんに聞く! 行こう!」
湊斗はほとんど反射的に、幸恵の手を取って図書館を飛び出した。
自転車にまたがり、ペダルを力任せに踏み込む。坂道を下り、風を切り、村道を走る。
空はすでに茜色から藍色に変わり始め、虫の声が遠くに響いていた。
完全に日が暮れたころ、二人は祖父の家にたどり着いた。
「じいさん! いるか!?」
玄関の戸を開け放つと、居間からのそりと姿を見せた老人が眉をひそめた。
「なんだ、騒々しい……アイスは買えたのか?」
「ま、まあそれは置いといて! じいさん、“前川俊彦”って知ってるか!?」
息を切らしながら叫ぶと、祖父の目がわずかに見開かれた。
「俊彦……? 知ってるもなにも、わしの弟だよ」
「……え?」
一瞬、耳を疑った。
「嘘……だろ?」
「仏間に遺影があるだろ。あれが俊彦だ」
言われるまま仏間に駆け込み、座敷に足を踏み入れる。
静かな空気の中、掛け軸の脇に飾られた白黒の遺影。
十代半ばと思しき青年が、あどけなさを残したまま穏やかに微笑んでいた。
「……俊彦さん……」
隣に立つ幸恵の声が震える。
次の瞬間、ぽたりと涙が畳に落ちた。
「……マジかよ……こんな偶然、あるか?」
ただアイスを買いに行っただけだった。
それなのに、出会った幽霊は、大叔父の恋人だった——?
「じいさん、俊彦さんって……いつ亡くなったんだ?」
「肺炎だ。風邪をこじらせて、病院に運ばれたが……そのまま帰らなんだ。確か、十六の時だったか」
「……俺と同い年……」
胸の奥で、何かがそっと軋む音がした。
「墓、あるんだろ!? どこ!? 案内して!」
「うちの裏山にあるだろ。……けどもう夜だぞ。行くなら明日にしとけ」
祖父の静かな声に、湊斗は言葉を飲み込んだ。
ふと隣を見ると、幸恵が仏壇の前に静かに座り込み、俊彦の遺影を見上げていた。
「……俊彦さん……」
ぽつりとつぶやく声は、懐かしい人を呼ぶように、やさしく、切ない。
その目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
まるで五十年という時が、今になって決壊したかのように。
湊斗は、胸がぎゅっと締めつけられるような思いで立ち上がった。
そして、祖父の方へ詰め寄る。
「じいさん……俊彦さんが、最後にいた病院って……どこ?」
「ん? そりゃあ町の総合病院だよ。今でいう市立総合病院になっとる」
「……何階の、何号室?」
「はぁ? 五十年も前のことだぞ。そんなもん、いちいち覚えてるかい」
「……そっか。……でも、行ってみる」
「おい、行くって、どこへ?」
「病院だよ!」
「病院? 今さら何しに——」
湊斗は、自転車の鍵を握りしめた。
「……俊彦さんに会いに、だよ」
――
真夏の夜道を、湊斗は全力で自転車を漕いでいた。
背中には、幽霊の少女・幸恵がそっと乗っている。
夜風に汗が冷え、空気はひんやりとしていた。
けれどその涼しさは、幸恵の存在がもたらすものだった。
——もし、あのバス停に幸恵が囚われていたように。
俊彦さんもまた、病院に囚われていたとしたら?
二人は、五十年もの間、すれ違い続けていたのだとしたら——?
「……まだ、間に合うかもしれない」
そんな想いが湊斗の足に力を与えていた。
総合病院の建物はすっかり新しくなり、かつての面影はほとんど残っていない。
それでも、あの想いだけは、どこかに残っているはずだった。
「幸恵さん、着いたよ。……俊彦さん、まだここにいるかもしれない」
病院を見上げながら尋ねると、幸恵は静かにうなずいた。
「二階……。昔は二階が病棟だったの」
湊斗は幸恵を連れて、病院の裏手に回り込んだ。
明かりの灯った守衛室の前で立ち止まり、ガラス越しに軽くノックする。
中にいた守衛の男性が顔を上げ、こちらに気づいてドアを少し開けた。
「どうした?」
「すみません、昼間に外来で忘れ物をしたみたいで……。少しだけ探させてもらえませんか?」
守衛は少しだけ眉をひそめたが、すぐに穏やかな声で応じた。
「忘れ物なら、総合窓口に届いてるかもしれないな。確認はした?」
「いえ、さっき気づいたばかりで……。もし見つからなければ、明日あらためて窓口に行きます」
守衛はひとつ頷き、時計をちらりと見て言った。
「面会時間はまだ大丈夫だな。外来のフロアだけなら構わない。ただ、診察室の中には入らないように」
「はい、ありがとうございます!」
深く頭を下げて礼を言うと、湊斗は幸恵の手をそっと引いて、静まり返った病院の廊下へと足を踏み入れた。
夜の病院独特の静けさが、不思議な緊張を伴って二人を包む。
(……俊彦さん。出てきてくれ)
湊斗の心が強く呼びかける。
——そのときだった。
「……幸恵? ……幸恵なのか……?」
声がした。
振り向くと、薄ぼんやりと浮かび上がる一人の青年。
やせ細った病院着の姿、けれどその顔立ちは、仏壇の遺影にそっくりだった。
「俊彦さん……!」
幸恵が、はっと息をのむ。
「ごめんなさい……あの日、私、行く途中で……」
「いいんだ。兄から事故だったと聞いたよ。……僕のせいで、君は——」
「違う!」
幸恵は、はっきりと首を振った。
「あなたのせいなんかじゃない。……私は……あなたに会いたくて……」
俊彦は、そっと手を伸ばした。
幸恵も、その手を取る。
二人の手が触れ合った瞬間、体が淡く光を放ち、輪郭がゆっくりと薄れていく。
「……君が、兄さんの孫だよね? たまに墓参りに来てくれてた」
「……うん」
湊斗は、こみ上げるものを押し殺して頷いた。
「ありがとう。君のおかげで、ようやく……僕たちは未来に進める」
幸恵は振り向き、ふっと微笑んだ。
「……ありがとう、湊斗さん」
その声は風に溶け、ふたりの姿と共に夜の静けさへと消えていった
――
「忘れ物、あったかい?」
守衛さんが、ややあきれたように声をかけてきた。
湊斗は軽く会釈して、静かに頷いた。
「ええ。……とても大切なものが、見つかりました」
「そりゃ良かった。気をつけて帰れよ」
「ありがとうございます。お騒がせしました」
病院を出た瞬間、夜なのに蒸し暑い空気がむわりと身体を包んだ。
「あっちぃなあ……」
額をぬぐいながら見上げた空には、満天の星。
夏の大三角がくっきりと瞬いている。
そのときだった。ふわりと、冷たい風が頬をなでた。
まるで——誰かが「ありがとう」とささやいたような気がした。
「……よかったな」
誰にともなく、湊斗はぽつりと呟いた。
その声は、虫の声と一緒に夜空へと溶けていった。
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