07
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同日 同刻
/結界封印都市ヒモロギ 第三結界柱付近
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鬼と異なり、〈アマテラス〉には人と同じ緋色の血が通っていた。
負傷した左足と消滅した左腕。既に霊気で応急処置はしている。
それでも傷口から幽かに漏れ出た鮮血が、曲芸的に跳び回る〈アマテラス〉の軌跡をヒモロギの大地に書き連ねていた。
(次はどっちだ⁉)
『左。あ、ちがう。上にいった』
(クソッ!)
間一髪のところで上体を逸らし、敵の攻撃を躱す。
いや。
厳密に言うとヒミコの目には――〈アマテラス〉の目には、果たして本当に回避できたのかわからない。
わかりようが、ない。
何せ敵の姿が見えぬのだから。
『ヒミコ』
(なんだ⁉)
『こんどは後ろから、きてる』
(このガキ! そーいうことはもっと早く言いやがれ!)
だが、ハクには何故かそれが見えるらしい。
曰く、ないはずの右腕の付け根から、途方もなく巨大な蛇が生え出ているとか。
巨大な蛇。おそらくは〝龍蛇〟だ。以前の敵と同じく。
理屈はまったく追いつかぬが、此度の禍ツ忌ノ鬼は不可視のそれを持つらしい。
その上、
(チッ、かすったか!)
悪辣さはこの上なく強化されている。
〈アマテラス〉の纏う装甲と一体化した巫女装束。
その長い袖が突如として消滅した。
敵の龍蛇に触れただけでこうなってしまうのだ。
(クソが!)
ヒミコは右へ大きく跳躍し、鬼との距離をとった。
敵は龍蛇の巨体を持て余したのか、数秒の時間的猶予が発生する。
(どうする――⁉)
この間、ヒミコは思考を高速回転させた。
(今のままじゃ逃げてるだけだ……いや、それすら危うくなってる)
如何せん、ハクの覚束ぬ助言だけでは打てる手に限りがあった。
(敵の姿が見えねー……そうだ、それが一番の問題なんだ。そこさえ何とかなればやりようはある。そのためには――)
ヒミコが必死に考えを張り巡らしていたその時、
「っ⁉」
突如として高鳴る胸の鼓動。
(ク、ソ……! また、かよ……!)
『ヒミコ? どうしたの、ヒミコ』
ハクの出現で収まっていた情動。
自分が自分でなくなるような違和感。
よりにもよってこの瞬間で再発した。
「欲シイ……」
(ちがう)
「欲シイ、欲シイ……」
(ちがう、ちがう!)
「アイツガ、欲シイィヨォォオオォォオオッ!」
(ちがうちがうちがうちがうちがう! ちがうッ!)
『ねえ、ヒミコってば。どうしたの。〝ほしい〟って、なに。〝あいつ〟ってだれ』
ハクの声が遠ざかる。
いや、ちがう。離れているのは自分だ。
自分の心が、身体から離れつつある。
この機械仕掛けの身体から。
……自分。
……自分の、心。
獄炎の如き憎しみと恨みを意思の力で焼き入れし、刃と変えた心。
その心が。
塗り替えられていく。
抑えようのない情欲に。
果てのない欲望に――。
「欲シ「 てめェエは黙ってろォォォオオオォォオォオオオオッ‼ 」
ヒミコは。
躊躇いもなしに御幣で自らを傷つけた。
失われた左腕。その切断面に容赦なく霊気を纏った幣串を突き刺し、グリグリと掻き回す。
想像を絶する痛み。
当然だ。今のヒミコは〈アマテラス〉と神経を共有している。
その神経を自らの手で蹂躙しているのだ。
「ガアァァアアアアァァァアアアアアアアァアァアッ!」
生じる苦痛は筆舌に尽くし難い。
だがその苦しみが、痛みが、辛うじてヒミコの自我を現世に留めた。
己が己である限り、ヒミコのなすべきことはただ一つ。
「ウァァァアアァァァァアアアアァァアアアアッ!」
ヒミコは、〈アマテラス〉は、敵目掛けて飛び掛かった。
まるで不可視の大蛇のことなど忘れたかのように。
痛みを理性で失した蛮行か?
「そこかァァァアアアアア!」
否、違う。
ヒミコはどこまでも冷静だった。
左腕。
自ら痛めつけ、再び夥しい出血を始めた左腕。
それを利用した。
まるで打ち水のように血を撒き散らし、その消失跡から敵の姿を見出したのである。
触れるだけで何もかもを削り取る龍蛇の姿は、あたかも暗がりに灯した蝋燭の如し。
これならば。
よく見える。
(とった――!)
ヒミコは皮一枚で龍蛇を避け、禍ツ忌ノ鬼の本体へ御幣で斬り掛かった。
血に塗れた紙垂が勢いよく宙を舞う。
「な」
次の瞬間――――――〈アマテラス〉はこの世から消滅した。




