3.
愚か者、吠える。
そうして、エミリアが胸やけと胃もたれに苛まれつつもベッドに潜り込んだ頃。
ブライアンは、行きつけのバーの片隅で大変ご機嫌に過ごしていた。
最終的にものすごく愛らしくツンギレたエミリアに追い出されはしたものの、昨夜から今日に渡ってしっかり彼女と過ごせたことで、ブライアンはこの上なく満ち足りていたのだ。
エミリアは可愛い。何もかもが可愛い。小柄な癖に案外な力持ちで、勝ち気で、騎士と言えば聞こえは良いが要は荒くれでしかない男にも真正面から渡り合ってくるエミリアの魅力たるや、ブライアンにとっては破壊的と言っても過言ではなく、彼女を思い返しているだけで肴も無いのに酒が進むと言ったらない。
残り少なくなったグラスに溜息を吐き、仕草でお代わりを要求すると、すっかり馴染みになった店の主がカウンターの向こうで呆れたように肩を竦めた。
辺境都市に来てから知ったこの地特有の蒸留酒に、ブライアンはすっかり嵌っていた。
見た目はさらりと透明感があり、口当たり良く、フレーバーは芳醇。その独特な香りが鼻に抜けた後にがつんと来る、腹の底を焼き払う感覚がどうにもこうにも堪らないのだ。まるっきり何処かの誰かさんを彷彿とさせて痺れるうえ、色味までそっくりなのも好ましかった。グラスに注いだ時の華やかな金茶色と、ボトルの中にある時のこっくりした琥珀色は、まさにエミリアの瞳と髪の色である。
手櫛で梳いた時に彼女が見せる笑顔を思い出して緩む顔の前に置かれた新しいグラスは、水の入った小さなコップをお供にしていて、ブライアンはちょっと首を傾げた。そんな気遣いをされるほど呑んでいる覚えは無い。
「あんた今日は箍が外れてる感じがする。でかい声で歌い出されたりしちゃたまんないから、ちょいと醒まして頂戴」
「へえ? 俺、そんな感じするんだ?」
仏頂面の女主人の言葉に、ブライアンは素直に水を呷った。
「お気に召さなきゃ、脂下がってるって言っても良いよ。普段だって調子は良いけど、今日は特に酷いね。帰還できるのがそんなに嬉しいかい」
「いや別に? というか、あっちに戻らなくて済めば一番良かったんだけど、まあ、そこまで都合よくはいかなかったな、残念ながら」
「戻らなくて済めば?」
器用に片眉を上げる女主人にへらりと笑って見せたブライアンは、水が入っていたコップを頬に当てて目を細めた。冷たくて気持ちいい。という事は自分で思っているより酔いが回っているのかも知れない、と苦笑しつつも、今日のコレは祝杯だからと己に言い訳をする。まだもう少し、この幸運を祝いたい。
「俺さ、転属希望が通ったの。で、めでたく辺境騎士団に配属が決まったのは良いけど、手続きだの向こうの生活を引き払うだので、どうしても一回戻らなきゃいけないのがもう面倒で面倒で」
「あんたも物好きだこと。何でまた花形騎士団を抜けて、わざわざ田舎に来ようってか。給料だってあっちの方が高いだろうにさ」
いい? とばかりに細巻き煙草を掲げて首を傾げて見せる女主人に、ブライアンは鷹揚に頷いて見せた。ブライアン自身は吸わないが、人の嗜好を否定するほどの忌避感も無い。
良い音を立ててマッチを擦り、婀娜な仕草で吸いつけた女主人は、注意深くブライアンを避けて煙を吐いてから、もの問いたげな流し目をくれた。
「ま、そりゃ給料はね、正直、向こうが高いけどさ。俺、対人より対魔獣の方が向いてるから。ぶっ放してぶった斬って終いの方が性に合ってるってのが判ったのと、何よりもさぁ」
突然、よりいっそう相好を崩したブライアンに、女主人は露骨に身を引いた。
「どーうしても逃がしたくない子が居てさ。かっわいいの。絶対一緒になりたくて、転属希望が通らなかったらいっそ騎士を辞めてこっちで仕事探そうとも思ってたんだけど、通ったからさ」
「そりゃまた入れ込んでることで」
「もうどうしてくれようってくらい可愛いんだよ。騎士団の食堂で働いてる子なんだけど、もうとにかく天使。いや女神。出してくれるメシは旨いし、あの食堂はあの子で持ってると言っても過言ではない」
「はあ? いくら食堂の子ったってあんた、その子が全部作ってるわけでも無かろうに」
半目で言って来る女主人に、ブライアンは拳を握ってカウンターをどかどか叩いた。
「いやあそれが聞いてくれよ、こっちに来たばっかの頃、演習で引っ掛かって昼飯に間に合わなかった事があるんだけど、その時に残り物のありあわせで良ければって作ってくれたメシがもう絶品で!」
「あんたそれ、よっぽど腹が減ってたんじゃないの」
ちがーう! とブライアンは拳を振り回した。
「食堂のオヤジが同じ事してくれた時もあるけど、全ッ然違ったの! リアの出してくれたサンドイッチの方が断然旨かったの!」
「判った判った煩い煩い」
嫌そうな顔を隠しもしない女主人は、今度は思い切りブライアン目掛けて紫煙を吹き掛けた。咽るブライアンを小気味よさげに見下ろして、女主人はカウンターの陰から透明な酒が満ちた自分のグラスを出して来た。
「それで? 逃せないのは判ったけど、向こうさんのご意向は? あんたみたいな頓狂な男、願い下げって言うんじゃないの?」
「生憎だな、ちゃーんとお付き合いまで行ったし、求婚だって滞りなく」
「ははあ成程。色よい返事を貰えたから、そんなに浮かれ腐ってるわけだ」
冷やかされようが揶揄われようが、今のブライアンは嬉しいだけである。
「いやあもう可愛いったら無かったなー。照れると暴れる子なんだけど、昨夜の求婚からこっち、ずっと心ここにあらずで、そのくせジタバタしてて、最後は追い出されちゃったんだけど、その時のパニック具合が可愛くて可愛くて―――って何だよ」
だから全開で惚気ていたのだけれども、傾聴している筈の女主人が途中から珍妙な表情になっていることに気付いて、ブライアンははたと言葉を切った。
「―――照れると暴れる?」
「構い過ぎると、そうなるね。そこも可愛いけど」
「で、プロポーズ後はずーっと気もそぞろで、最終的には追い出された?」
「うん。すんっげえ可愛かった。涙目で地団駄踏んでた」
「あんた。……それさあ。……いや、ええと」
女主人は煙草を捻り消し、酸っぱそうな表情のままグラスで口を湿してから、おもむろにブライアンに向かって身を乗り出した。
「参考までに訊きたいんだけどさ。あんた、どういうタイミングで、何て言って求婚したの?」
「仕事帰りに捕まえて、家まで行って、全身で愛を伝えてから口説いた」
「―――事後ってことかよ。で? 具体的には、何て言ったのさ」
「派遣期間が終わるし、転属決まったし、結婚するには良い潮時だよねって」
「一言一句違わず? そのまんま??」
いやに食い下がるなあと思いながら、ブライアンは顎を擦って記憶を引っ張り出す。何しろ昨夜は転属の辞令が無事に降りたことに浮かれ、これでエミリアと一緒になれると舞い上がり、若干逆上していたようないないようなで、自分の行動もうろ覚えである。だが、腕の中のエミリアに『潮時』に関して繰り返し訊かれた覚えだけははっきりとあるので、概ねの処に間違いは無―――
「―――転属の話をしていないかも」
「何だって?」
「派遣期間が終わるから潮時だよね、みたいな言い方をしたような気が……」
あやふやな口調でそう呟けば、女主人の口があんぐりと開き。
「―――あーっはっはっはっはは、バッカだねえ、あんたそれ誤解されてるんじゃないのかい!」
浴びせられた容赦の無い大爆笑に、ブライアンはきょとんとした。
「潮時って! 潮時って言ったのかよ! しかも言葉が足りないにも程がある。派遣期間が終わることしか言ってないなら、そんなものあんた、彼女は別れ話をされたと思ってやしないか? それなのに暴れたくなるまで構ったんじゃ追い出されるに決まってる。ダメだバカすぎて腹が捩れる」
「―――へ?」
女主人は今やブライアンの間抜け面を見ては、涙を拭き拭きひいひい笑っている。
「潮時って言ってからこっち、彼女の様子が変なんだろ?」
「うん? ……うん。いや、えっ?」
「なのにあんたは彼女が暴れたくなるまで構った、てことは、空気も読まずにひとりで良いだけ盛り上がって、好き勝手にイチャつこうとした訳だ?」
女主人の舌鋒がずぶずぶと突き刺さってくるが、茫然としているブライアンには為す術が無い。刺され放題である。
「ええーっと、あれ? いや、そうじゃなくて。そういうつもりじゃ」
「そんなつもりもこんなつもりもあるもんかい。あー可笑しい。賭けてもいいよ、彼女はあんたが別れ話をしておきながら、最後の最後に思い残すことなくヤっていこうとしてると思ったね、そりゃ。あはははははは、こんな間抜け、久々に見た」
「そんなバカな?! だってリアは」
潮時って言った? って小首を傾げて確認してから、納得したように口を引き結んで、それから確か、いつまでこっちに居られるのかを訊かれて、てっきり諸々の手続きの為に向こうと行き来する時間の事を言ってるんだと思って、そんな時間も離れがたいと思ってくれてるのかと舞い上がって、まずは休暇を取ってるから心配すんな暫くずっと一緒に居られるって言ったら真っ赤になってジタバタしだして、ああああ照れてて可愛いと感極まってぎゅうぎゅうしてたら抱き心地が好過ぎてうっかり寝落ち―――って、あれ?
「―――返事を聞いてなくないか、俺」
「はあ、笑い過ぎて化粧が撚れちまったじゃないさ。って何だい、その顔」
いきなりすとんと表情を無くして固まってしまったブライアンに、女主人は目を瞬いた。どうしたこの馬鹿、さっきまでのトンチキぶりを何処へやった。
「俺、ちゃんとした返事、聞いてない」
「あん?」
「プロポーズしたけど、したんだけど、そう言えばちゃんとした返事を聞いてない。あんまり可愛い反応するからてっきり承諾してくれたもんだと思ってたんだけど、いや、……えっ? そんな馬鹿な」
蒼白になったブライアンが頭を抱える一方で、女主人は腹を抱えながらカウンターの向こう側に姿を消した。可笑しいが過ぎて、立っていられなくなったらしい。足元から聞こえて来る遠慮会釈ない引き攣り笑いに抗議したくても、頭が真っ白とはこの事で、ブライアンはまともな言葉がひとつも出て来ない。
「えっ、そんな筈は。あれっ? 何で??」
「やめて頂戴、アタシを殺す気か! いやー天晴あっぱれ、阿呆もここまでくると清々しいやね! あらどうしたの、何処に行く気だい」
カウンターに縋りながら立ち上がった女主人はそのまま猿臂を伸ばし、血相を変えてマネークリップごと酒代を叩きつけて椅子を蹴ろうとしていたブライアンの襟元を引っ掴んだ。細腕の割には良い腕力で、鍛えあげられている筈のブライアンですら、一瞬、息が詰まりそうになる。まあ、頭は醒めたとはいえ躰は酒の影響が残っているからだろうが、それにしても流石は女独りで酒場を張っていられるだけの事はあるな、などとボンヤリ感心しているブライアンに、女主人はもう一杯、今度はでっかいジョッキに汲んだ水を突き付けてきた。
「いま何時だと思ってんだ。彼女はとっくにお寝んねしてるだろうが。叩き起こして大立ち回りにしたいってか? アタシャ一向に構わないが、やったら決定的に破局するだろう事は忠告してやろう」
―――確かに。
カウンターの後ろ、色とりどりに酒瓶が並んだ一角に、妙に趣味が良いというか高価そうな作りの置き時計があって、時刻は既に深夜も良い処。騎士団の食堂には腹っぺらしの男どもが早朝から押し寄せてくるため、そこで働く者たちは、交代でとはいえとんでもない時間から仕込みをしているのはブライアンも良く知っている。もちろんエミリアも例外ではなく、そう言えば朝が早いから今夜はちゃんと寝かせろと念を押された流れで追い出されたのだった。今、勢い任せに押しかけようものなら、間違いなく激怒するだろう。怒っている処とてブライアンにとっては可愛いだけだが、そういう話では無い。
片眉を上げた女主人の笑顔の良いことよ。
ブライアンはしおしおと座り直して、素直にジョッキを抱え込んだ。結露さえ浮かんでいるほどの冷え加減が、己の迂闊さに染みわたる。
水を啜るブライアンの総身には物悲しさが漲り渡り、まったき自業自得とは言えその姿は哀れの一言に尽きた。
そこへ容赦ない追い打ちの冷笑を浴びせはしたものの、面倒見の良い女主人は酒を片手に腰を据え、彼の溢す自己嫌悪だの恋人への恋情だの遠吠えだのに付き合ってやる構えを決めてやったのだった。
お酒は楽しく静かに呑みましょう。
本日14時に更新します。
よろしくお願いいたします。