1.
お目に留めて下さりありがとうございます。
全6話です。最後までよろしくお願いいたします。
「やっと今回の教練も終わりが見えて来たんだよね。だからリアとも、そろそろ潮時かなと思って」
互いに寄り添って、ひとときを過ごした後。
頬に乱れかかる髪をそっと除け、繰り返し撫でてくるその手つきとは余りにもそぐわない言い草に、半ば気絶しかけていたエミリアの目はこれ以上ないくらいパチリと開いた。
今週、エミリアは早朝からがっつり働いた。連勤のうえに、残業も請け負った。それで今日の夕方、やれ嬉しや明日は待ちに待った公休日だと浮かれながら退勤しようというタイミングでこの男に取っ掴まった時点で、もう彼女は疲労困憊と言って良かったのだ。
だからエミリアも最初は彼の誘いを撥ねつけた。今日はもう真っ直ぐ帰ってさっさと寝たいと、御用の程は明後日以降でと、そう言ったにも関わらず、それなら俺がいっぱい労わってあげるからとか何とか言いくるめられ、あれよと言う間に己の住まうアパートメントに雪崩れ込まれ、労わって貰うどころかメシフロ寝るのフルコースで男の面倒を見る羽目になってしまったのだから、そりゃあ一段落するなり墜落睡眠にも陥ろうというものだが、しかしさすがにこの言い草は看過できない。
「―――今、何て?」
「あ、寝てた? ごめん、起こす気は無かった。寝て寝て」
そう言いながらブランケットで包み込もうとしてくる男の手を、エミリアは払いのけた。
傍らできょとんとしているこの男は、騎士と言っても魔術師寄りで、戦闘職の割に線が細い。もちろん、力任せに圧し掛かられたら逃げられないが、日常生活でのちょっとした動作を一時食い止めるくらいなら、常日頃から重量物を扱い慣れているエミリアには楽勝である。
「あんなに疲れて眠いって言ってたのに。今朝も早かったんだろ、もう寝よう?」
「誰の所為で余計に疲れたと……いや、それはともかくブライアン、今言ったこと、もう一度言って?」
両腕を彼の上体に突っ張り、目を眇め、エミリアは剣呑そのものの声を出したつもりだったのだが、何故かそれを目にしたブライアンは小さく口元を綻ばせた。それから、あっさりエミリアの抵抗を突破し、彼女を引き寄せ、自分の躰で包み込む。
「だから、あとちょっとで教練期間が終わるんだよね。いやあ、ついこの間ここに来たと思ってたけど、振り返ってみるとあっという間だったなあ」
リアには随分助けて貰ったなあ助かったよ、とか何とか言いながら額に唇を圧しつけてくるのはともかくとして、いや、エミリアが確認したいのはそこじゃない。
「……潮時って言った?」
「うん? うん」
「潮時」
「そう。潮時かなって」
「なるほど。潮時ね」
「……どうしたのリア、顔が怖いよ」
心外そうに覗き込んでくるブライアンの瞳はいつもと同じ澄んだ水色で、濁りも曇りも無くて綺麗なものだ。ましてや未練らしきものなど、影も形も見えやしない。
その事実に、エミリアは柄にもなく少々傷ついた。
そりゃあエミリアだって、ブライアンがこの街に居られるのは僅かな間だという事は知っていた。
彼はもともと首都の騎士団の所属で、選抜されて辺境都市に訓練しに来ただけの、謂わば身元が保証された流れ者の一種だというのを承知の上で、エミリアは彼と親密な関係になった。誰に強制された訳でも無く、自分で決めたのだ。―――いや、まあ、だいぶブライアンから強引に押し切られたような記憶が無いでもないが、だとしても、最終的に期間限定の関係であろうことを理解して受け入れたのはエミリアなのだから、いざ『元居た処に帰ります』と言われたくらいで凹んだりしないくらいには腹を括っていたつもりだが、いやでもしかし、ものには言い様というものがあるだろう。
潮時、って何だ。しかも、君とも、ときた。もうちょっとこう、エミリアに気を遣った言い方は出来ないのか。その言い方ではまるっきり、やるだけの事はやり終えてもう用済みだからこの土地もろとも捨てていく、みたいに聞こえるではないか。
「……いつまでこっちに居るの?」
しかも、ようやく絞り出したその問いかけに返ってきたのがまたとんでもない返答で。
「実はもう撤収自体は始まってるんだよね。俺はギリギリまで残りたいって希望を出してるけど、そのうち戻ってあれこれ片付けなきゃなんだけどさ、まずは」
取り損ねてた休暇をここで消化することにしたんだよ、だからリアとゆっくりたくさん過ごせるよ、何がしたい? などと頭の沸いたような事を垂れ流しながら頬を擦り付けてくるブライアンをぶん殴らなかった自分を、エミリアは腹の底から自賛した。
ぎゅうぎゅうに抱き込まれて物理的に手も足も出なかったと言うのは置いておく。そんなことより今ここで問題にすべきは、好き放題にやらかしてくれた末の寝物語に雑にも程がある別れ話を持ち出しておきながら、最後の最後までもれなくエミリアを消費し尽くしてから帰ろうという、ブライアンの性根である。一体全体それはどういう了見か。エミリアの作る物はひとかけ一滴たりとも残さず腹に収める男なのは知っていたが、まさかエミリア本人をも余すところなく食っていく気だとか、どんな鬼畜だ。肝心の残り時間を明確にしないあたりも腹が立つ。
―――人を何だと思っているのか、この野郎。
エミリアを抱え込んだまま、いつの間にやら幸せそうな寝息を立て始めているくそったれ男の腕は、少々もがいた処でビクともしなかった。歯ぎしりしながら遠慮なしの力技で抜け出そうと試みたが、奴の手足が雁字搦めに絡まっているため、悔しいかなどうにもならない。
「……んん、なに……ふ、はは、かっわ…………」
ムキになって暴れてやったら、譫言みたいな寝言と共に下敷きにされて息が詰まった。この位置から抜け出すのは、さしも力持ちを自負するエミリアにだって至難の業である。というか絶対ムリ。なので、せめてもの腹いせにとエミリアは目の前にある綺麗に筋肉が乗った肩口に噛み付いてやったが、ブライアンは唸り声と共に身動ぎしただけで、全く目を覚ます気配も無い。……騎士の癖に鈍感すぎないか、この男。夜営中、敵に奇襲されたらどうする気だ。
すーかすーかと安心しきったような寝息がエミリアの肌を擽る。
「―――ほんと、腹立つ」
このまま奴の腹積もり通り、都合の良い女扱いに甘んじるのは、余りにも悔しかった。たとえ、全くつり合いが取れていない関係だと判っていたとしても、だ。
エミリアは、自分が絵に描いたような田舎娘であることを知っている。それでも裕福な家の生まれならまだ話も違っただろうが、あいにく日々食い扶持稼ぎに奔走せねばならないバリバリの庶民である。当然ながら流行を追いかけるような余裕は無く、首都のお洒落で垢抜けた女性に慣れた騎士から見たら、素朴で物珍しくて摘まみ食いには良いけれども食いでは無いからすぐ飽きるおやつ、みたいな扱いをしても許されると思われても仕方ないくらいの存在なのかもしれないが。
―――せめてもうちょっとくらい心の籠った別れ話にしてくれても、バチは当たらないでしょうよ。
エミリアは深々と溜息を吐いて、ブライアンの緩み切った寝顔を見やる。……幸せそうな顔しやがって。そんなに帰還が決まったのが嬉しいか。まあ嬉しかろう、もともと腕に自信があって、こっちでも実績を上げた。魔獣相手に大暴れしていたそうだから、さぞや箔も付いただろうし、帰ったらきっと昇進だってするんだろう。良いところのお嬢さんとのご縁だって、ありまくりに違いない。そりゃそんな明るい未来が見えているなら、もろもろ身綺麗にしておくに越したことがないのは判るけれども、だったらそれこそ立つ鳥跡を濁さずで、意地汚い真似なんかしないでとっとと帰れと心底思う。
「……あったまきた。あんたなんか、こっちから願い下げよ」
漏れ出た呟きはエミリア自身の耳にも痛みに掠れ、そして充分ドスが効いていた。
不用意な発言で足を掬われることってあるよなあ、と思ったのが切っ掛けで書き始めました。
口に出す前に一呼吸って、とても大事。