最終話
終 幕
教会の入口から眺めると、空がピンク色に霞んで見えた。
日本に戻って来た父親と入れ替わりに、洸は神学校へ行くことになった。三年間の寮生活を経て正式に牧師の資格を取るのだという。
「画家になるんじゃなかったのかよ」
隼人の問いに、洸は真面目な顔で答えた。
「諦めたわけじゃない。でも親父に言われたんだ。『売れない絵描きと掛けて牧師と解く』って」
「その心は?」
「どちらも本業だけでは食べていけない」
笑っていいのか、いけないのか、さとみには分からなかった。洸が行ってしまう。当たり前のように三人で笑い合えた日が消えてしまう。
「夏休みには戻って来るよ」
そう言って洸は、隼人がするように、さとみの頭に手を置いた。長い指が優しく髪を掴む。さとみは小さな声で「うん」とだけ答えた。
杣木監督と結子の結婚式は、この教会で挙げることに決まった。
──洸くんが戻って来るまで、挙式はお預けだね。
挨拶に来た監督が、少々困ったような顔で笑っていた。
映画は日本でも公開され、素晴らしい興行成績を上げた。結子には様々なオファーが殺到し、その経歴も次第に明らかになっていった。公表された火傷の痕も、彼女の価値を下げるものとはならなかった。冬月結子は、押しも押されもせぬ大女優となったのだから。
──留年せずに、三年でちゃんと戻って来てね。あんまり遅くなると、結婚式までに、お腹が大きくなっちゃうかもよ。
結子の冗談に洸たちは動揺し、監督はハンカチで汗を拭いた。
洸の指が、さとみの髪を一筋持ち上げる。指先に摘まんだ桜の花びらを風に放ち、洸は目でそれを追った。
アトリエにあった肖像画は、完成させて結婚祝いにするのだそうだ。
──幸せな表情に直さなくちゃね。
そう言って笑った洸の顔は、少しだけ寂しそうに見えた。
洸の初恋は終わった。あの時の涙は、失恋の悲しみではなく安堵の涙だったのではないかと、さとみは思う。結子が幸せであることが嬉しくて、洸は泣いたのではないだろうか。
洸を乗せたバスが白い排気ガスを残して走り去っていく。珍しく車通りがない公道に、桜の花びらが散っていた。
「あ~、仕事行きたくねえ。サボりたい」
腕時計を見た隼人が、嘆くように天を仰ぐ。
「行かなきゃ。お客さんが待ってるよ」
さとみが言うと、隼人は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうだ。さとみん、同伴するか? 奢るぜ」
困ったものだ。
──隼人をよろしくね。
帰りがけ、結子は、さとみにそう耳打ちした。
──あの子、あなたのことばかり話すんだもの。
私たち、親友なんです。そう答えたものの、少々頬が熱くなった。
隼人が親指で「行こう」と合図をする。
「行かないよ~だ」
あかんべーをしたさとみを見て、隼人は声を上げて笑った。さとみも笑いながら空を仰ぐ。風に運ばれてきた花びらが数枚、目の前を通り過ぎて行った。
「じゃあな。また週末に」
「うん。土曜日にね」
次の公演予定は夏だ。仙太郎の台本はまだ執筆中で、配役すら決まっていない。けれど何故か、稽古場には誰かしら人が集う。演劇という小さな魔法を作り出すために、彼らは非日常を追い求めるのだ。
西の空に夕焼けが広がろうとしていた。
風が吹き、花びらが舞う。
さとみは深呼吸をして、春の夕方の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
完




