第14話
水槽の中の女
取るに足らないもの。目に入った途端、脳が即座に不要の判断を下し、速やかに記憶から消し去ってしまう、そんな惨めな存在。己自身もその一つであると疑わない薄汚れた中年男が、草むらで小さな動くものをみつける。打ち捨てられた人形にも見えたそれを、彼はそっと手に取る。長い黒髪と白い肌を持った美しい人形。しかし両手に載るほどのそれは、微かに息づいていた。
翅も言葉も持たない妖精を、彼は水槽で飼い始める。
妖精は魅惑的な眼差しで彼を誘い、男は僕のようにそれに仕えた。やがて男と妖精の間には通じ合う何かが生まれる。しかし、これは男の思い込みに他ならない。妖精は言葉を持たないのだから。
妖精の眼差しが男を惑わせる。どうにもならない思いを抱えたまま男は部屋に閉じ籠り、世間から切り離された二人の世界に耽溺する。
「はあ……」
画面を見ながら、さとみは溜息をついた。脱いでも完璧だ。こんなに美しい人が世の中にいるなんて信じられない。妖精に取り憑かれた男の気持ちが分かる気がした。それほどまでに、結子は美しかった。
杣木耿彦監督『水槽の中の女』。世間を騒がせた問題作である。今どき珍しいフィルム作品であった為、小さな映画館でしか上映されなかったにも関わらず、それは大きな反響を呼んだ。妖精を演じた冬月結子は経歴がすべて伏せられており、謎めいた美貌に映画界は沸いた。直接性的なシーンがなかったにも関わらず、彼女の裸体と、男が泡の付いた化粧筆で妖精を洗ってやる場面がエロティックだということで、劇場公開後にR指定が付いたことでも有名だ。
ある日、やむを得ない事情で出掛けることになった男は、後ろ髪をひかれながら部屋を後にする。酸素供給を確認し、小さな食器に飲み物と菓子を入れて。水槽の蓋に鍵をかける男を、妖精は不思議そうに見ていた。
男が戻った時、妖精はいなかった。蓋は壊され、水槽の中には砕けた菓子が散乱していた。
男は狂ったように妖精を探し廻る。呼ぶ名すら付けないままに消えてしまった存在を求めて、すべてを投げ捨て、地べたを這い、うめき声を上げながら。汚れ傷付いた男は、人々に嘲笑され忌み嫌われ、それでも執拗に妖精を探し続ける。
──どこにいる。どこへ行った。
十年の歳月が流れ、年老いた男は漸く妖精の居場所を突き止めた。廃墟にも見える古い研究所に忍び込んだ男は、遂に探し求めた存在と再会する。小さな瓶に詰められ、標本となったそれと。
男は捕えられ、幽閉される。冷え冷えとした白い壁が、すべての想いを拒絶する。喚いても叫んでも音は壁に吸い込まれ、静寂だけが男を包んだ。
けれど記憶を消される寸前、男は鍵を破り、妖精が入った瓶を手に脱出を試みる。灰色のリノリウムの廊下を男は走る。無機質な照明がそれを追い、彼はとうとう追い詰められる。銃弾が男の心臓を打ち抜き、その手から瓶が滑り落ちる。砕け散る硝子の欠片とホルマリン液の飛沫の中、宙を舞う妖精。ふと目を開けたそれは、蠱惑的な微笑を浮かべ、そして粉々に崩れて消えた。
窓の外が真っ暗になっているのに気付き、さとみは手を伸ばしてカーテンを引いた。ベッドに横になり、両手で瞼を押さえて眼を休める。今日は朝から部屋に籠り、すべての杣木映画を見返した。結子が出演する前の二作品と、出演するようになってからの三作品。webで公開されていなかった短編『水槽の中の女』は、夕方になってからDVDをレンタルした。あと見ていないのは日本未公開の新作映画だけだ。
杣木監督は『杣木組』と呼ばれる少数精鋭のスタッフだけで撮影を行う。撮影現場がマスコミに公開されることはなく、極秘のうちに行われるのだという。主演を務める冬月結子の素性は未だ明らかにされておらず、すべてが秘密のベールに包まれている。名前以外に唯一記載がある出身地の欄には、遠く離れた県の名前が書かれていた。結子は過去を消したかったのだろうか。幸せだった子供時代に別れを告げ、帰る場所を封印してまで、彼女は何を望んだのだろう。
映画を見直して気付いたが、結子は二作目以降の映画では一度も肌を見せてはいない。脱いだのは『水槽の中の女』だけだ。それでも、そのイメージは強烈で、見る者は結子に妖艶なオーラを感じずにはいられない。
だが、それだけではない。結子の演技は独特だった。サブリミナルのように挟まれる、役柄とは違う表情。淑女の役であっても、時折り何とも言えない色気が漂い、逆に、悪女の顔の裏に見える儚さ可愛らしさに、愛おしさすら感じさせるのである。どんな人生を歩んで来て、どういう物の考え方をするのか、人物のバックグラウンドが垣間見えた。スクリーンの中に存在するのは、『女』という記号ではない。意思も感情もある生きた女性なのだ。
「凄いな」
女性を主人公にした作品を書きたいと思った。一日中どっぷり浸った杣木映画に影響されているのは認めるが、追随ではない。さとみ独自の切り口で新しいものを作り出したい。
「意気込みだけじゃ、どうしようもないけど」
さとみは、今日何度目かの溜息をついた。




