第二話 出発までの経緯
ヒューバート王の案内でチャールズは町の宿へと移動し、そこで事情を聞くことになった。
町の中でも最も格の高い宿の、最も上等な部屋――豪華で美しい長椅子に腰かけ、対面にヒューバート王が座る。
部屋には、別途客がいた。マリアの夫にしてクラベル商会のヴィクトール・ホールデン伯爵とその息子クリスティアン。それから伯爵の従者ノア。彼らも、マリアを心配しているらしい。
「クリフォード・ヘンシャル侯爵を覚えているだろうか。父の旧い友人だったが」
「ああ……名前はおぼろげに……。その言い方だと、彼は亡くなったのか」
ヒューバート王が頷き、説明を始める。
「十日前、彼が亡くなったことを知らせる手紙が城に届いた。かなりの高齢だったし、父の晩年にはすでに病で目を患って杖が手放せないような状態で、城での仕事は事実上引退していたような人だ。特に不審はないと思う」
そうだろうな、とチャールズも同意した。
ヒューバート王とチャールズの父親と年が近かったはず。生きていれば、今頃父は七十歳――となれば、ヘンシャル侯爵も、迎えが来てもなんら不思議のない年齢だろう。
「直接の関りがあった相手ではないが、父の友人だ。僕からもお悔やみの言葉ぐらいは伝えるべきだろうと考えて」
「それで、代理でマリアがヘンシャル領へ行ったってことか?」
先代国王グレゴリーの実の息子ヒューバート、チャールズ以外でその役目を務める人間となれば、やはり愛妾だったマリアが適任である。それも特に不思議でも何でもない話だ。
……それで、ヘンシャル領へ行ったマリアが、一週間も帰ってこない。
「彼女から手紙は届いているんだ――少し滞在が延びると。元気そうにはしているみたいなんだが」
懐から手紙を出し、ヒューバート王はチャールズにそれを差し出した。
手紙をざっと読んで……チャールズも、文面からはマリアが何か困難に直面した様子はうかがえないことを感じた。
長椅子に座らず二人の近くで控えていたホールデン伯爵が、口を挟む。
「その筆跡は間違いなく妻のものです。彼女は我が商会で書記をやってきましたから、彼女の筆跡を見間違えたりはしません」
「ジェラルドも同じことを言っていた」
宰相ジェラルド・ドレイク――マリアは彼の秘書も務めてきていたから、ジェラルドもマリアの筆跡を見極めるぐらいのことはできた。
その二人が間違いないと断言するのだから、この手紙は間違いなくマリアが書いたものなのだろう。
無事なのは良かったが……。
「クリフォード・ヘンシャルって、どんな男だったんだ?」
「僕も詳しくは。マリアのほうが父を介して面識があったぐらいで……ジェラルドも、父親のニコラス・フォレスターと交流のあった相手だから、少し教えてくれた」
マリアがヘンシャル領へ出発する前のこと。クリフォード・ヘンシャルの訃報を受け取ったヒューバート王は、宰相と彼女に相談していた。
「ずいぶんとお懐かしい名前ですこと。私としては、失礼ですがまだ生きてらっしゃったのですか、というのが正直な感想ですわ」
「オルディス公がそう思われるのも無理はないことかと。グレゴリー陛下ご逝去の後、城を出てヘンシャル領で隠遁生活を送ることとなりましたが、先王陛下御存命の頃からすでに病で目を患い、城では引退したも同然の扱いでしたから」
マリアと宰相ジェラルドの言葉に、そうか、とヒューバート王が相槌を打つ。
「僕は直接の関りのない相手だが、父の旧友だ。葬儀ぐらいは……と思うのだが、クリフォード・ヘンシャルという男は、どのような人物なのだろうか」
王の問いかけに対して意味ありげな間が空き、ヒューバート王は首を傾げた。
「……グレゴリー様にとっては、とても良いご友人だったと記憶しております」
ずいぶんと奥歯に物が挟まった言い方だ。目を瞬かせるヒューバート王に、宰相ジェラルドがわざとらしく咳払いする。
「これは我が父の評ですが……良き友の欠点をあげつらうのは気が進まぬが、夫として、父親としては出来の良くない男……だったそうです。奥方とは長きに渡って別居状態にあり、息子は……あまり評判がよろしくない」
そうなのか、とヒューバート王は目を丸くした。
「妻子に愛情はあるのですが、その表現の仕方が不器用な男だそうで」
「というより、男性にはありがちな独善的思考なのですわ。グレゴリー様もニコラス様も男ですから男同士の友情には差し障りはなかったのでしょうけど、妻の立場からすると無神経で独りよがりな考え方が許せなくなることもあるものです――子どもが絡むと、特に」
辛辣なマリアの評に、ヒューバート王はまたぱちくりと目を瞬かせた。男の宰相はいささか居た堪れないのか、またわざとらしい咳払いをしている。
「グレゴリー様御存命の頃、相談を受けたことがございましたの。なぜ妻は出て行ったのか、女の私の意見も欲しいと――あの方、生まれたばかりの子を奥方から取り上げた挙句、自分の姉に育てさせていたそうですわ。奥方は産後の肥立ちが悪かったので、赤ん坊の世話などとてもできぬと気遣って。抱くことすらさせなかったそうです」
マリアがやたらと憤慨しているが、どこに激怒ポイントがあるのか察しきれないヒューバート王が話を反芻していると、これだから男は、と言わんばかりの態度でマリアが続けた。
「……ヒューバート様。想像してみてください。オフェリアがエステル王女を生んだ後、オフェリアでは育てられないからとオフェリアに一切相談することもなく王女を勝手に私に渡したりしたら、オフェリアがどんな反応をするか」
「それは……きっとすごく悲しむだろうな。とても傷つくだろうし、いくら君たちが仲の良い姉妹だといっても、本当の母親を無視して独断で決めていいことじゃない」
「そうでしょう。実の姉妹の私たちであっても、なぜ母親の自分の頭を飛び越え、我が子を他の女に育てさせるのかとオフェリアは泣き叫びますわ。私も同じ母親だからその気持ちはよく理解できます」
なるほど、とヒューバート王もマリアが憤慨した理由をようやく察した。
仲の良い血の繋がった姉妹同士でも、母親を無視して他の女と我が子が親子ごっこをしているのは許せないものだ。それが……夫の姉など、論外に決まっている。
「ええ。夫にとっては気の知れた姉弟でも、妻にとっては赤の他人。奥方は、夫は自分を無視して、血の繋がった姉弟だけで家族ごっこをしたいのだと感じたのでしょう。それで、自分の居場所などないと思って出て行った――と、当時、ヘンシャル侯爵にも同じように答えしましたわ」
「それで、侯爵は?」
「ショックを受けておりましたが、ようやく答えが分かったと頷いて、妻に謝罪し、関係の改善を目指すとおっしゃってました」
でも、結局いまも別居状態のまま。
……あまりうまくいかなかったというわけだ。
「本当の問題は、夫婦関係が拗れたことで、親子関係も歪なものとなっていることです。これも私の父が語っていたことですが、それで自身の落ち度を悟った侯爵は、父親のせいで母親を失ってしまった息子を憐れに思い……かなり甘い態度を取ってしまったようです。甘いというか……」
「あれは一種の虐待でしょう。息子をわがまま放題、きちんと躾けることもなく放置して」
「それでも、クリフォード・ヘンシャル候がヘンシャル領から息子を出すことなく、領地も自身で治めていたので、いまのところは出来のよくない息子程度の評価に収まっております」
話を聞き、ヒューバート王は苦笑いする。
いまのところは大した問題児ではない――ただし、手綱を握っていた父親は亡くなってしまった。新たなヘンシャル侯爵となるわけだが、不安しかない……と。
「ですが、グレゴリー様にとって良いご友人だったことには変わりません。私としても、お花を手向けるぐらいのことはして差し上げたいのですが」
「うん……なら、やはりマリアに頼もうかな。僕の代理としてヘンシャル侯爵の葬儀に向かってほしい」
承知いたしました、と笑顔で頭を下げるマリアに任せ、ヒューバート王は通常の政務へ戻った。
そんな大した頼みではないだろうと思っていたから、ヘンシャル領へ出発するのを見送ることもなく……マリアの子どもたちから、母がまだ帰ってこないと困り顔で訴えられるまで、ヘンシャル侯爵の葬儀のことすらすっかり忘れてしまっていた。