桜色のカノン
「それじゃあ、来週までにこのプリントを提出するように」
クラス全体が放課後になっても、まだざわついていた。それは先程、担任が私達に渡してきた進路希望調査のプリントのせいだった。第一希望から第三希望まで自由に記入をしてよいとされるそれは何だか私達の目を無理矢理未来へ向けさせるみたいで、みな一様に不安と憂鬱な気分になっていた。
「花音はどうするの、これ」
私は親友の藤村花音の前に立つと、プリントをひらひらとさせた。花音は手元のプリントから視線を上げると、僅かに私と目を合わせ、そのまま少し上を向いてまた考え込む。
「どうしよっかねぇ。大体、三つも希望することなんて無いよねぇ」
色白の頬に美しく長い黒髪がさらりと流れた。おっとりとした口調そのままに目を細め、花音は頬杖をつく。
「私は一つも浮かばないんだけど、花音は何かあったりするの?」
「だって、就職か進学かの二択でしょ。働きません学びませんなんて無理だろうし、そもそも留学とかなんてしたくもないしねぇ」
「花音は頭いいから進学でしょ」
実際、彼女は優秀だった。弓道部で副部長を務めながら、成績も学年で二十位以内には入る。ちょっと天然入っている感じだけども、受け答えはわかりやすかったので、クラスの中でも人気者だった。
「うーん、多分そうかなぁ。どこで働きたいとか全然わからないからねぇ。でも大学に行っておけば、とりあえず四年間はまた答えを先延ばしにできるような気がするし、何より女子大生の私って格好良さそうじゃない」
にんまりと花音が笑顔を向ける。
「格好良いかは置いといて、とりあえず答えを先延ばしにできるってのはいいかもね。大学に行ったら就職とかも有利っぽいし、女子大生として遊べるってのはアリかも」
「でもみのり、こういうのはなるべく言いたくないんだけど、私大とかって大丈夫なの? あまり人の家の金銭事情に口を挟むつもりはないけど、国公立しかダメとかじゃないよね?」
「……それは帰ってから親と要相談するよ」
そうだ、幾ら私が希望したところで将来が絡むということは少なからず我が家の事情も絡んでくるわけだ。部活を決めるのとは違う。私が知らないだけでうちの経済状況がやばすぎて、そもそも進学なんて道の可能性もないかもしれない。そういえば私、ちゃんと親とお金の話ってしたこと無かったから、わからない……。
「でも、もしできるなら花音と同じ大学に行きたいな」
「それはもちろん私もそうだよ。みのりとまだ一緒にいたいなぁ。だから一緒の大学を目指してがんばろうよ」
「……なんて会話、去年していたよね」
「そうだねぇ……って、問題解けたの?」
私達は顔を上げる事無く受け答えをする。それが最近の日常。僅かに開いたカーテンからは夕闇に小雪が映える様子が見える。窓辺には少しだけ積りつつあるが、花音の部屋は蓄熱暖房機があるため部屋の中がじんわりと温かく、寒さは感じなかった。
「いや、まだ。そもそも、世界史って覚えにくくない? 花音のおかげで大分点数取れるようになってきたけど、人名とか年号とか覚えるのが難しくて」
「範囲が広い分、すごくマニアックな問題はあまり出ないから楽だよ。暗記も適当なゴロ合わせを自分で作ればいいしねぇ。例えば百年戦争を開始したエドワード三世が即位したのは一三二七年だけど、イミフな王様エドワード三世とかって覚えればいいんだよ」
「……十分マニアックな範囲だと思うけど。いやほんと、よくそんな暗記できるね」
「だって、世界史とかは答え変わらないから一回覚えたらいいだけだし」
事も無げに花音はそう言うが、私には理屈はわかっても理解はできなかった。どうしてもヨーロッパ、中東、アジア、たまに日本の人名や地名で頭が混乱してしまう。元々暗記がどうも苦手なため、いつもこの二人きりの勉強会では花音にいちいち覚えるコツを伝授してもらっていた。
「ごめんね、花音。足ばっかり引っ張っちゃって」
「そんなの気にしないでよ。それとも、今更世界史の受験をやめて別のとこにする?」
「なんでそんな意地悪言うのさ。そりゃあ、ダメダメな私だけど一生懸命がんばって花音と同じ大学に行きたいって想いは今も変わってないんだから」
顔を上げると、花音がにんまりと笑っていた。
「私もだよ。だから気にしなくていいんだからね。それにみのりが国語得意だから、私も教えてもらえて助かるし。特に古文漢文なんて目に見えて点数上がったんだよ」
「そこだけは何故か勝てるのが私も不思議だけどね」
花音と目を合わせて笑顔を交わすと、さて勉強とばかりにまた参考書と問題集に目を落とした。それ以上見ていると、頭の良い花音のことだ、私の心をも見透かしてくるかもしれないからだ。
私は目の前の女性、藤村花音に恋をしている。思春期には女性は同性を好きになりやすいと前に何かの雑誌で見た覚えがあるが、思春期を過ぎた十八の私は今なお彼女を好きであり続けている。長く伸びた艶の良い黒髪、眉根が下がった温厚な眼差し。唇は瑞々しくぽってりとしており、色白のため頬がほのかに桜色になっている。彼女はそれがコンプレックスだと言うが、私からすればとても可愛らしく、ドキドキする。ちょっと羨ましいくらいに豊満なバストに対し、三年間弓道部で鍛えて締まった身体がどこか不釣り合いにも見える。
花音とは小学生の時からの幼馴染だ。二年生の時に他県から引っ越してきた彼女は最初こそ人を寄せ付けないオーラがあったし、今とは別人のように愛想も無かった。それでも転校生が珍しかった私は彼女を半ば強引に誘って遊ぶうち、次第に笑顔になり、今のように穏やかでクラスの中心人物になるように成長していった。高校生になった時には立場が逆転しており、私はそんなにクラスに馴染める方ではなくなっていたが、花音はその人柄と距離感の取り方、それに容姿なんかでクラスの内外で人気者になっていた。
それに対し羨ましいとか妬ましいという感情は一切無かった。むしろ、そんな風になっても私との時間を一番にし、また私よりずっと頭がいいはずなのに私の希望する大学にも受験をしてくれる。私を気遣ってなのか何なのかわからないけど、こうして一緒に隣にいられるだけで今は幸せだ。
ただ、この受験が幸せの壁となる。私は花音が入っても不思議ではないレベルを受験しないとならなかった。
受かればそれでよし、でも落ちれば花音との距離は物理的にも離れてしまう。もし浪人して受け直したところで、私達の一年はきっと二十代や三十代のそれよりも大きいだろうから、きっと差が付いてしまう。そうなった時、隣に立てているのか全く想像つかない。だから何としても本番までに少しでも点数を伸ばして、合格を確実なラインにまで持っていかないといけないのだが……。
「ごめん、ここのとこなんだけど、どうやって花音は覚えたの?」
どうしても暗記は苦手だ。
それからしばらく二人で問題集を解いていたのだが、急に花音がぱたんとそれを閉じた。
「ところでさ、ごはん食べて行くでしょ。レトルトのカレーで良ければあるよ」
「ありがとう、いつも助かるよ」
気付けばもう夜の七時、頭も使っていたからお腹の減りもすごい。キリの良いところで勉強を一区切りつけると、私達はうんと伸びをした。長時間同じような姿勢だったから、身体が痛い。こればかりは幾ら一緒に毎日勉強していても慣れるものでは無かった。
「ううん、私の方こそ一人で食べてるとやっぱり寂しいし、みのりがいてくれた方が安心するから」
「あー、花音の両親忙しいもんね。医者と看護婦だから仕方ないよ」
幼い頃からの付き合いだったが、花音の両親が揃っているのをほとんど見た事が無い。ただ、稀に会うとすごく優しくしてくれるので悪い印象は無かった。
「うん。理解はしているんだけど、それでもやっぱり、ね。すごい貧乏とかしたことはないけど、他の家みたいに家族旅行なんてもちろんしたことないし、三人で出かけるなんて何年もないからなぁ。だから、みのりの家が羨ましく思うよ」
寂しげな花音の瞳は勉強疲れからか、うす暗いように見えた。笑顔ではいるものの、こうして家族の事を話す花音はいつも辛そうだった。
「うちは区役所勤めと半日勤務のパートだからねぇ。花音の家よりかは時間作れるのは確かだけど、でも旅行たってもせいぜい国内の温泉だよ。海外とか行ってみたいけど、うちじゃあ無理だなぁ」
「じゃあさ、いつか私とみのりで行きたいよね、旅行」
ふふっと笑う彼女を見てみると、私も自然に頷いていた。
「私も行きたいな、花音と。大学受かってバイトでもしてお金貯めたら、絶対行こうよ」
二人きりで旅行なんて、なんだか夢みたいだ。今は単なる願望だけども、それは手の届くであろう願望。何もオリンピックで金メダルが欲しいなんて思っているわけじゃない、世界一周したいわけでもない、ただ二泊三日でも一緒に旅行がしたい。それに、こういう話を花音からしてくれたのが嬉しい。私からなら、抱えている気持ちが大きすぎて変に思われる言動になりかねない。
「約束だよ、みのり」
「わかった。でも、どこに行こうか。どうせなら二泊三日とか、それ以上の長期にもしてみたいな。景色が良いとこでも、遊ぶとこが多いとこでも、どこでもいいんだけど、どこか考えている場所とかある?」
「んー、とりあえずお腹空いたからカレー食べてから考えようよ」
そう言われ、高揚した気持ちはすぐに空腹を思い出した。
それから九時過ぎまで勉強してから、私は家に帰った。まだ小雪が降っていたが、花音の家と私の家は徒歩十分くらいなので夜道もそう怖くない。花音は泊ってもいいといつも言ってくれるが、着替えも何も持ってきていないし、それに子供の頃ならともかく、今一緒に寝たりでもしたら自分の気持ちがどうなるかわからなくて、怖い。
帰宅してシャワーを浴び終えると私は自分のベッドに寝転がった。見慣れた天井がやけに落ちつく。中央に大きな電灯がある他には別に飾り気も無い白い天井、しかしそこは昔から私の夢想のキャンバスだった。いつもぼんやりと絵が見え、そしてそれはいつも同じではない。流れるようにアニメのキャラが崩れたような顔や劇画調の変なオジサン、どこで見たか忘れたくらい古い絵柄の女の子やクラスの男子女子などが浮かんでは消える。
そしていつも、花音の笑顔をそこに組み込もうとがんばるのだが、どうしてだろうか花音の笑顔はあんなにも好きなはずなのに浮かんでこなかった。一所懸命思い出しても、いつも笑っている花音ではなく真顔の彼女。一切の表情が消え、能面みたいな花音の顔しか思い浮かべる事ができないでいた。不思議だった。
時計を見ればまだ十時を少し回ったばかり。一生を決める受験勉強なのだからまだまだこれからとわかっているのだが、今日はどうにもがんばれる気がしなかった。一所懸命がんばって受かれば二人きりで旅行という大きなニンジンがあるとわかっていても、そのニンジンがどんなに美味しいものだろうと何よりにも先行して夢想してしまっているから勉強に集中できない。
二人きりで旅行、かぁ。誰も知り合いなんかいない場所で、花音と二人きり。宿の予約は事前に色々調べてできるとしても、当日行ったらあたふたしてしまいそう。でもきっと花音が手際よくやってくれるんだろうなぁ。仮にできなかったとしても、一緒に悩んであれこれ迷ってもいい。それも思い出だ。
お風呂はどうしよう。部屋風呂なんてちょっと恥ずかしくて無理だろうけど、大浴場なら一緒に入っちゃうかも。花音の裸なんて、そう言えばずっと見てないからまともに見られないかもしれない。小学生の時はそういうのも平気だったけど、中学くらいから性を意識してしまうと、距離を置いてしまっていたなぁ。でも旅行だし、一緒にお風呂に入っても何も不思議じゃないから、いいよね。
お風呂から上がったらご飯食べて、部屋でのんびりして、もしかしたらお酒とか飲んじゃったりして、それで酔いに任せてキスとか。ふざけた感じで、冗談交じりでなんかそういう風に誘って、ノリでしちゃうとかもアリだよね。花音も酔ってまんざらじゃなかったら、そしたら……するのかなぁ。そういうのも、ありなのかなぁ。
そこまで考えると心が耐えきれなくなり、一人で布団をかぶってじたばたした。枕に顔を押し付けては大声を出し、そうかと思えばがばっと起き上がってはすぐにまた布団に突っ伏し、とにかくじっとしていられなかった。そうして一頻り暴れると、すっと机に視線を移す。
「やるかな」
全ては受験に受からないと叶わないし、失ってしまう。たった五分でもいい、ちょっとでも勉強しようと私は机に向かった。
「いよいよ、明日だね」
「もう、なるようにしかならないよねぇ」
明日本番を目前にして、花音は私の部屋で勉強をしていた。花音に教わっている成果は間違いなくあり、模試の点数は伸びてきている。最終模試の判定も諦めた方がいいレベルから、多分受かるかもしれないというところまで来ていた。たくさん覚えた暗記もちょっとした衝撃で耳からこぼれ落ちてしまいそうだが、覚え方のコツを散々叩きこまれたのでかろうじて残っている。
ひたすら過去問を解き、苦手なところはこれでもかと初歩に立ち返り覚えなおした。おかげで問題集の答えもほぼ覚えてしまった。百点満点とはいかないし、不安や後悔も無いとは言えないが、私なりにやれるだけやった。あとは花音の言うようになるようにしかならないのだろうが……。
「あのさ、花音」
「ん、なぁに?」
問題集を閉じ、顔を上げると彼女もそれに倣った。いつものように穏やかな笑顔を向けてきている。
「もうね、ここまできたらバンバン点数を伸ばすってよりはいかに間違えないかだと思うんだよね。失敗しないよう、やるだけだと思うんだ」
「うん、そうだね。二人ともいっぱい頑張ったから、あとはミスらないようにするだけってのは正しいよ」
「それでね、花音」
私は机の引き出しの中から、事前に用意していたものを取り出した。
「これ、私から花音に今までの感謝の気持ちも込めたお守り」
すっと差し出された桜色の手製のお守りに花音は驚いた顔をしていた。
「えっ、感謝って?」
「いやぁ、花音頭いいのにずっと私の勉強見てくれたでしょ。正直、花音がそうしてくれなかったら、私きっとこんなにがんばれてなかった。こんなに成績伸びたのは花音のおかげだから、私も何か返したくて……だからね、お守り作ったの。花音が間違えませんようにって」
「そんなのいいから、年号の一つでも覚えなよ」
そう言いながらも嬉しそうにうつむく姿に、私の胸が一つ高鳴った。
「でもね、実は私からもみのりに渡す物があるんだ」
花音はそう言って鞄をたぐりよせると、中から一つのお守りを差し出してきた。それを目にした途端、私は驚きのあまり数瞬言葉を失った。
「ちょっと待って、まさかのお守りかぶりどころか、色も?」
彼女が差し出してきたのは私が渡したのと同じような桜色のお守りだった。もっとも、花音からの方が遥かに出来は良く、桜色の下地に青や黄色で施された花の刺繍が可愛らしく仕上がっている。
「私もみのりからお守りを渡された時にびっくりしたよ。まさか同じ色だとは思わなかったもん。だけど、何も話し合っていないのに同じものを用意するなんて、さすが私達だね」
「なんかここにきてこういうのが起こると、嬉しくなるね。しかも花音とだから、すごくいけそうな気がしてきたよ。もうさ、相性良すぎでしょ私達」
嬉しくなってテンションが猛烈に上がっていき、つい告白じみた言葉を言ってしまったが、この流れならいけると思った。でもそれはどっちにでも逃げられるような言葉。それでも私はこの機にと一歩踏み込んでおきたかった。
そして同じものを用意し合った奇跡に花音も嬉しそうに、恥ずかしそうに笑っている。あぁ、ずっとこのままでいたい。お互いのプレゼントを愛しそうに眺めながら笑い合うこの時間のまま時が止まればいいのに……。
「ねぇ、なんでみのりは桜色にしたの?」
やや落ち着いたトーンの花音の声に私の意識は急激に引き戻された。そして質問の意味と過去の自分の気持ちを結び付ける。
「いやまぁ、あれだよ、古いけどサクラサクってね。合格と言えば桜だし、それにかけてみただけだよ。本当は青系の方が気持ちは冷静になれるらしいんだけど、どうせ本番中は目に入らないだろうし、こっちのが可愛いでしょ」
「そうだね。うん、すごくいいと思う」
そう言う花音は大事そうに私からのお守りを掌の中に包み込んだ。
「じゃあ、花音はどうして桜色のお守りにしたの?」
「んー……みのりに一番似合うと思ったからだよ」
満面の笑みを浮かべる彼女を見ていると、心が嬉しさで悲鳴をあげる。と、同時に若干の切なさも感じるようになってきた。花音はいつも屈託の無い笑顔を誰にでも見せ、男女問わずに人気者だ。そんな人がモテないはずがない。不思議と花音に浮いた話は聞かないが、それでも今は彼氏がいなくても、いずれ誰かと一緒になって結ばれるとか考えると苦しさを覚える。
それでも今は、彼女の笑顔を一人占めしていたい。
「ねぇ、花音」
「ん、どうしたの」
私は全てを押し殺し、精一杯の笑顔を向ける。
「もし合格しても、できるだけ一緒にいたいな」
「そんなの当たり前でしょ、何をいまさらって感じだよ。どうかしたの?」
「だってね、大学生になるんだよ。花音すごく可愛いからすぐ彼氏とかできて、私といる時間も減っちゃうんだろうなぁって思うし、それに新しい友達とかも花音ならすぐできるだろうから、それで」
「何言ってるの、それを言うなら私もそうだよ。みのりすごく美人だから、すぐ彼氏とかできて逆に私がそうなっちゃうよ」
「……はい?」
一体花音は私のどこを見て言っているんだろうか。私は確かにずっと花音が好きで他の人に目が移った事は無いけど、それでも誰かに告白された事なんて無いし、私を好きだと言う噂も聞いた事が無い。花音に比べたら社交性も無いし、部活はテニス部だったから日焼けも取れずに浅黒い。顔にはメガネの日焼け跡も残っているから外せば若干パンダみたくなるし、胸も無ければ肉付きも良くない。鏡を見てもモテるわけないよなぁと思う日々なのに。
「いやいや、そう思ってくれるのは嬉しいけど、ありえないから。悲しいけどわかっているよ、客観的に見てモテないことくらい。余計な心配だよ、そこだけは」
「そうだといいんだけど」
「間違い無いから。言ってて悲しくなるけど、そういう話全然無いからさ。だから私の事は何も心配しなくていいよ」
「……んー、私も不安なんだよねぇ、未来に。何があるかわからないしねぇ」
ドキッとした。笑顔を浮かべながらも寂しげな瞳をしてそう言う花音にそんな不安があったのかと、改めて心を締めつけられた。何もかもが私よりも優れている花音でさえ、そんな事を思うんだって。
「未来って、花音でもそう思ったりするの?」
「もちろんだよ。色々これでも考えるんだよ。大学生になったらまた新しく人間関係築かないといけないし、勉強もどうなるかわからないし、学校の雰囲気とか要領もわからないままだし、数年したら就職とか人生設計とか……考え出したらキリが無いよねぇ」
「そっかぁ。私、そこまで考えてなかった。明日の受験で手いっぱいで、それより先の事なんて……やっぱ花音ってすごいなぁ」
慌てて花音はかぶりを振る。
「ううん、違うの、そういうんじゃないの。私はただ、みのりとずっと仲良くしていたいだけ。それだけの話なの」
「ありがとう。私もだよ」
もう一度もらったお守りに目を落とす。そしてその見事な出来栄えに感心し、舞台裏に思いをはせる。これだけのものを作るとなると、一日や二日でできるものじゃない。それに私との勉強もあったし、自分自身の勉強時間もあっただろうから、この受験期間に休む間もなく勉強と並行してやっていたのだろう。申し訳なさが芽生えたが、それ以上に私の為にやってくれていたことが嬉しかった。
「いやでもさぁ、明日で人生変わっちゃうんだよね」
カレンダーに目をやり、日付を確認するとしみじみと言葉が口をついた。同時にその意味の重さに気分が沈みかける。
「ほんとだねぇ。高校受験もそうだったけど、大学受験とかってもっと大きく変わりそうだよね」
「なんかさ、大人と子供の大きな境目って感じだよね」
「うん」
すっと二人とも問題集に目を落とした。大学の勉強はわからないけど、何だかこうした勉強は人生で最後のような気がした。そう思えばあんなに嫌だった勉強も、ちょっとだけ愛おしく思える。なんだろう、ここにきてもっと勉強していたい、ようやく楽しさに気付いたのに別れてしまいそうな寂しさは。
窓の外は風のうなりが強くなってきていた。荒れ始めた音が部屋に響き渡り、時折窓を叩く音もする。
「明日も荒れるのかな」
「今晩には収まるみたいだよ」
二人同時に窓の外を見た。とてもそうは思えない空模様だったが、近年の天気予報は精度が高いので、きっと予報通りになるのだろう。
「そっか、よかった。もしバスとか止まったら大変だもんね」
言いながら時計に目を向ければ、午後六時半になろうとしていた。
「それじゃ、大荒れになる前に帰ろうかな。花音とこれでもかって勉強したし、あとはもう体調を万全にして実力を発揮できるようにしておかないと」
「あれ、みのりもう帰っちゃうの?」
不安はやはり全部消しさる事は出来なかったが、それでも努めて明るく言ったつもりだった。しかし花音は意外そうに、不安げに呟き返してきた。その声色に私はドキッとし、私は彼女を見ると、何だか申し訳なくなりすっと視線を伏せた。
「え、うん。ほんとはもっと花音と一緒にいたいけど、明日の準備もしないとならないし」
「そうなんだ。……一緒にご飯食べたいと思ったんだけど」
花音も不安なのだろうか、すがるように見詰められるとそのまま帰られなかった。浮かしかけた腰を再び下ろし、腕を組む。
「でもなぁ、今日はお母さん張り切っていたし」
「あ、そっか、ごめん」
ばつが悪そうにうつむく花音が妙に小さく見えて、私は隣に座った。そして肩をくっつける。更にうつむく彼女からふわっといい匂いがした。
「ごめんね、今日は帰ってあげたいの。うちの親もすごく心配してくれて、応援してくれていたから」
「うん、わかってるよ。ただ、一人になっちゃうから寂しいなぁって思っちゃって、それで困らせるような事言っちゃったの。ゴメンね」
そっと花音が私の右手の甲に、左手を重ねてきた。柔らかく、温かく、ちょっとだけしっとりとしていて、そこから彼女の感情がじんわりと流れ込んでくるような気がした。私はそっとその上に左手を被せる。
「さっき言ったけど、明日が大人と子供の境目だと思うの。だから今日はまだ子供、親を大事にしたい。でも、明日以降はきっと大人。そうなれば、花音を優先するから」
「……ありがとう、みのり」
彼女の左手に力が入る。わたしはそれを優しく受け止めた。
「まぁ、どうしても寂しかったらご飯まで一緒にいてあげるよ。私は食べないけどいい?」
「いいの? ほんとに?」
ぱっと花音の笑顔が咲いた。
「あまり遅くまでいられないから、もうご飯にしようよ。すぐ食べられるのってあるの?」
「カレーならあるよ、何種類でも」
「花音のとこって何でお金持ちなのにレトルトのカレーばっかりなのさ」
それから私は花音の夕食が終わるまで一緒にいた。しきりに一人で食べるのは申し訳ないと言っていたが、出来あがった匂いに食欲をそそられたのかひどく舌鼓を打っていた。思わず私も一口もらおうかとすごく悩んだが、一口では済まなくなるのが目に見えていたから我慢した。
その間、受験の事は忘れてひたすら下らないお喋りに興じた。嫌いな先生のモノマネ、クラスの噂になっている恋愛話、面白いアプリの情報交換、最近ハマっているアーティストなど、話題があちこちに飛んで取り留めも無かったが、楽しかった。そしてその楽しい気分のまま、私は花音の家を後にした。本当はあんなに求められる花音の傍にいて全てを捧げてしまいたかったのだが、明日の事を考えると名残惜しいが受験に備えるのを第一と考えてしまっていた。
帰宅すると遅いと母親に怒られたが、父親がとりなしてくれたので、すんなりと夕食をいただくことができた。ハンバーグにミートソースドリア、マグロとアボカドのサラダと私の好きな物ばかりが並んだ食卓。それだけで両親の期待と心遣いが痛いほど分かった。明日は何としてもみんなを、自分を喜ばせないとならない。私は一応リラックスした笑顔を見せながら、事の重さを噛み締めていた。
夕食を終えると明日の用意があるからと早々に部屋に籠った。そうして受験票、筆記用具、各種参考書、手製のノートなどを鞄に収めて行く。そして最後の確認を終えると、私はベッドの端に座り、頬杖をつくように顔を覆った。そうして長い息を吐く。
怖い、とても怖い。明日は大丈夫なんだろうか。途中でおなか痛くなったりしないだろうか。ちゃんとしたつもりでも、何か忘れてはいないだろうか。もう心配で五回も十回も確認したけれど、それでも見逃していたらどうしよう。余裕でわかっていた事がわからなくなっていたら、どうしよう。
窓の外から聞こえる風のうなりが私の心を更にかき乱す。ただの風の音なのに私の失敗を願い、あざけり笑う悪魔の声のよう。不安を吹き飛ばすには勉強しかないが、目を閉じれば今まで覚えた事がどれも怪しく思えてくる。今から全てをやり直すわけにはいかない、下手にやれば余計にこんがらがるだろう。花音とあんなに勉強したのに……。
すっと立ち上がると私は鞄の中からもらったお守りを手にして、またベッドに戻った。花音が一生懸命作ってくれた、桜色のお守り。じっとしばらく見てから大切に両手で包み込み、寝転んだ。心なしか、温かくなれる。気のせいか、元気になってきた気がする。
きっと今頃、花音も怖がっているかもしれない。あんなに別れを嫌がった花音なんて、しばらく見ていないから余程の事だったのだろう。きっと私よりも色んな期待があるだろうから、不安でたまらないはずだ。本当は二人で一緒にいて、寄り添えればいいんだけれども、それは叶わないからせめてお守りだけでも感じていたい。
花音も私のお守りを手にして、同じように思ってくれていると嬉しいんだけど……。
あれからロクに寝る事も勉強する事も無く、朝を迎えた。一応横にはなって、時折夢を見ていたような気もするのだが、快眠には程遠く、なんだかぼんやりしている。本番当日がこんなコンディションだなんて、本当に私は弱い。そう言えばテニス部にいた時も試合前日や当日にはどこかしら体調を崩していた。損な人間だなぁ。
軽い朝食を終えると、何度も昨晩確認した鞄の中身を再度確認してから家を出た。軽く雪が積もっており、ぼーっとしながら歩けば転んでしまうかもしれない。今更落ちた滑っただなんて気にもしないけど、怪我してこれ以上気力体力が落ちるのは勘弁して欲しい。
「おはよう、花音」
待ち合わせていたバス停で花音を見つけると、混み合う人々の間を縫って傍まで近寄ってから軽く肩を叩いて挨拶した。真剣な眼差しで単語帳に目を落としていた花音は私に気付くと嬉しそうに笑ってくれた。
「おはよう、みのり。今日はもう大丈夫そう?」
「……ううん、なんかあんまり寝られなくて寝不足気味。花音はどうなの?」
私の言葉を受け、花音は苦笑した。そして使い古された単語帳を鞄にしまうと、軽く天を仰ぎみてから、私を見詰める。
「実は私もなんだよねぇ。あれから一人になったら不安になっちゃって、早く寝ようって思っていたのにしばらく過去問解いていたんだ」
「花音でもそうなるんだ」
きっとそうなんだろうなと考えてはいたものの、実際そうだったと聞かされると改めて信じられない。だって花音は今日受ける大学の合格判定値、常に余裕で合格のA判定をもらっていたのだから。そんな驚き目を丸くした私を花音はちょっとだけ拗ねた眼差しで見詰め返してきた。
「ひどいなぁ、私だって当然緊張するし、怖いよ。みのりも遅くまで勉強していたの?」
「ううん、どこやればいいかすらわからなくなって、とりあえず横になっていただけ。でも緊張して寝られなくてね」
「……大物になるよ」
ほどなくして到着したバスに乗り込み、試験会場を目指した。バスの中は見るからに私達と同じような受験生ばかりで、みな一様に緊張している。ちらっと見渡しただけでも、みんな私よりもできそうだ。つり革につかまりながらも単語帳に目を落とす人、落ちついた眼差しで外を眺める人、音楽か何かを聞いて目をつぶっている人、そのどれもが優秀に見えてくる。
次の停車場に停まると、更に車内は混み合った。元々そんなにスペースは無かったが、一気に身動きが取れなくなった。揺れ動く車内に押され、揉み合い、熱気が充満してくる。しばらく走り次の停車場に停まるが、もう満員と諦めて乗る人はいない。それでも僅かばかり流れ込んでくる外の冷たい風に救われた。
と、不意につり革を握っていない右手を握られた。突然の事に驚いたが、さすがにこの状況では一人しか無いだろうと、右隣に目を向ける。
「ごめんねぇ、なんか離れ離れになりそうで。それに、ちょっと不安だったから、つい」
私は言葉も無く握り返した。
試験会場にようやく着く頃には、二人ともぐったりしていた。時間にして三十分少々だったのだが、とにかくもう人が凄くて常に押しつぶされ酸欠状態になっていた気がする。これから試験を受ける調子ではないように思えたけど、それでも大学の正門を見ると気持ちも引き締まってきた。
「いよいよだねぇ、みのり」
「うん。二度も三度も同じ気持ちになりたくないから、この一発で決める」
「ほんとだねぇ」
そう、次にこの正門を仰ぎ見る時は晴れやかな気持ちで大学生になった時だ。
構内に設置された看板や見取り図などを頼りに、なんとか会場までたどり着けた。早めに家を出たおかげで、まだ開始時刻にまで余裕がある。周りを見渡せばそれでも七割ほど人がいて、大体が参考書などに目を落としていた。私と花音とは同じ教室だが、少し席が前後しており、隣同士と言うわけではない。普段の教室ならこんな時間でも傍にいて話し込んだりもしたが、もうそんな雰囲気ではなかった。周りと同じく、大人しく自分の机で参考書に目を通す。
しかしどうにも落ちつかない。時計を見れば開始まで三十分もある。大丈夫な気もするが、念の為にトイレに行っておこうと席を立つ。そして多分無いだろうと信じたいが、これまた念の為にと鞄も一緒に持った。出口の方へ向かうとすぐに席に座っている花音がいた。彼女はもう参考書を見ずに、ぼんやりと何か考え事をしていたみたいだったが、私に気付くなり手招きして呼び寄せてきた。
「どうかしたの?」
周囲に気遣い、顔を寄せてそっと聞いてみた。
「あ、みのりに渡したい物があったのを忘れてて、それで」
「渡したい物?」
二の句を継ぐ前に花音は鞄の中からすっとまた一つのお守りを差し出してきた。それはまた桜色を基調としたもので、今度は赤い糸で花びら、茶色い糸で枝など細やかな刺繍がされてあった。
「これ、本番用のお守り。前のは受験で慌てませんように、不安になりませんようにって願って作ったもので、こっちは願いが叶いますようにって作ったんだよ」
よくもまぁ、こんなにもマメにやるもんだと受け取りながら感心してしまった。確かに普段から花音はプレゼントのお返しや差し入れなどマメにやる方だが、この忙しいのによく二つもお守りを作ったものだと半ば呆れてしまってもいた。でも、これだって私を想ってくれてのことだろう。
「ありがとう、花音。私から渡せるものは何も無いけど、花音なら大丈夫だよね」
「うん、大丈夫。だってみのりから前にもらったから、あれで十分。ただ、これは本番用だからずっと持っていてね。みのりの不安も何も無くなるようにって作ったんだから」
「花音、ありがとう。本当に。ありがとうね」
私は花音の右手を両手で包み込むと、精一杯の笑顔を向けた。その柔らかくきめ細かい肌に触れていると、あれほど言葉で言い表せなかった漠然とした不安や恐怖で固くなった心が少し和らいでいくのを感じる。彼女も同じように返してくれたのを確認すると、時計を一瞥してからじゃあとトイレに向かった。あまり長くそうしていては、周りから奇異の目で見られるかもしれない。
時間にはまだ余裕はあったものの、トイレは長蛇の列となっていた。十分、いや十五分はかかるかもしれない。開始まであと三十分、十分前には席についていないとならないとして猶予は五分そこらかな、なんて逆算するとちょっとだけ焦ってきた。
ゆるやかに列が進む間、周囲をぼんやりと眺めていた。廊下には木製のベンチが幾つも置かれており、隅には灰皿も置かれてある。壁には巨大な油絵が飾られている。青年の躍動と名付けられたそれは誰の作品かわらないが、あまり好きにはなれそうにないタッチだ。大きな窓の外からは中庭が見え、きっと在学生だろう人達が思い思いに過ごしている。
私も春にはここの一員になりたい。花音と一緒にそこのベンチに座って授業の合間にお喋りしたり、中庭でぼーっとしたり、この巨大な絵の前で待ち合わせたりするのだろう。きっと二年生や三年生にでもなればそれが当たり前になって、でもその時には今と違う事でドキドキしたり、悩んだりするんだろうなぁ。
そのためにはこの競争に勝ち抜かないとならない。人生はいつもどこかでふるいにかけられ、一生懸命しがみついて残らないと良い未来が待っていない。運ももちろんかかわってくるけど、大部分は分析と対策と気持ちで乗り越えないとならない。私の前の人も、その前の人も後ろ姿だけで優秀そうに見えてくるけど、負けられない。私は、いや私達は春にはここにいるんだ。
ようやく自分の番になって個室に入り、用を足すと先程までの強い気持ちはどこへやら、急に不安になってきた。このドアを開けてトイレを出て、試験会場に戻れば自分の一生が決まる闘いが待っているんだと改めて思うと、怖くなった。たかだが数時間で人生のルートが変わってしまうなんて、あんまりじゃないか。やるだけやった、ここの大学の過去問はかなり解けるようになったからきっと大丈夫、そう自分に言い聞かせながらも、私は自然と先程花音からもらったお守りを握りしめていた。
トイレから出て会場に戻る途中、ポケットの中でお守りを強く握りしめ過ぎていたのか、くしゃりと音がした。壊してしまったかと思い慌てて取り出したが、特に壊れてはいなかった。刺繍もほどけていなければ、破れてもいない。安心してまたポケットの中に戻そうとしたその時、不意に違和感を覚えた。
もしかして、中に紙が入っている?
再びお守りを取り出す。桜色の柔らかな生地に赤や茶色い糸で細やかに施された刺繍。合格と正面に記されており、上部はピンク色の紐で結ばれている。私はお守りの端を指で強く押してみた。すると、またくしゃりと紙が潰れる音がした。
間違いない、中に何か入っている。
しかしお守りは開けたら効力が無くなるというのを以前聞いた事があるので、開けるのを躊躇した。折角花音が色々願いやら何やらを込めて今日の私の為に作ってくれたのに、私がそれを開けて駄目にしてしまっていいはずがない。ただでも、きっと紙が入っているだろうし、多分何か花音のメッセージが書かれているはずだ。知りたい、でも開けていいのかわからない。
三十秒ほど葛藤したが、結局好奇心には勝てなかった。私は邪魔にならないように廊下の隅に行くと、そっとお守りを開けた。紐をほどけば簡単に中を見る事が出来て、案の定白い紙が小さく折られていた。それを指でつまみ、意を決して開いてみる。
『ずっと好きでした。一緒に受かれば、付き合って下さい』
目の前の紙に書かれた言葉が頭に入らず、状況も呑み込めなかった。二度三度とその短い言葉を何度も反復していくうちに、ようやく少しずつ理解し、私はにやつきながら天を仰いだ。
ビックリしたぁ。私が花音に渡したお守りに忍ばせた言葉と一緒なんだもん。
もらったはずなのに、渡したのと同じ文面だったから状況が理解できなかった。ただ、筆跡が明らかに花音の字だとわかると、嬉しさが心の奥底からどんどん込み上げてきて、一体どこにそんなに抑え込んでいたのかわからないくらい溢れた。
叫び出して飛び跳ねて転げ回りたかったが、ここは試験会場、ぐっと抑えた。そしてそっとそれを元に戻すと、大きく深呼吸を一つしてから会場に足を向ける。まるで綿雲のような廊下を歩いているんじゃないかというくらい、足取りが軽かった。
会場の中はほぼ埋め尽くされており、開始十分前だったが異様な緊張感と熱気に包まれていた。最後の確認とばかりにみな参考書やノートに目を通している。この教室に何百人といるのにほとんど話声もしない光景が私にとっては異様で、足音さえも自然に気を使う。机にぶつからないように気を付けながら歩くと、やがて花音の背中が見えた。私はそこで歩みを止め、軽く肩を叩く。びくりとしたが私に気付くなり安心した顔を見せる彼女に私はそっと顔を寄せた。
「私のお守りも、もう開けたの?」
「とっくに、ね」
悪戯っぽく囁く花音の吐息がくすぐったかった。
ぽんと花音の背を叩くと、私は自分の席に歩き出す。今まで感じていた不安も、未来への憧れも、何もかも一切が小さくまとまり、自分の中に収まった気がした。先程までバラバラだった自分の気持ちが一つにまとまって、やっとここにきて覚悟が決まった。私は自分の席に着くと、そっと椅子を引く。
もう微塵も負ける気なんてしなかった。