お父様とお母様のお話
ミリアの父、マルクの昔のお話です。
「フン、お前のようなつまらぬ女、私以外に娶る者もおらんだろう」
男は言った。
「ええ、わたくし、貴方と婚約いたします」
女は、美しかった。おとなしい女には似合いのにぶいベージュ色の髪だと男は評していたが、陽の光の下に立つ女のその髪は、透き通るように輝いており、男が思わず目を細めるほど、美しかった。
マルク・ロスベルトは、こうして両家の親の意向通り、エリス・カーラーと婚約した。
◆
エリスは美しい女性だった。
マルクは女を見慣れてはいなかった。貴族として生まれた以上、社交の場に出ることは避けられなかったが、マルクは女とは最低限の挨拶しか交わさずに生きてきた。女は弱く、気持ちに揺らぎのあるよくわからない存在と思っていたからだ。
しかし、マルクの婚約者となったエリスは美しかった。
一目見た時から、マルクの胸はざわつき、勝手に体が火照り、耳までを熱くした。大したことのない女である。髪は長く伸ばしているが珍しい色でもない。年頃の令嬢であれば、手入れして美しくしているのが普通であろう。この女は、大したことのない女にすぎない、とマルクは己に釘を刺した。
マルクが出会ってきた誰よりも、エリスは美しく、そして柔らかな女であった。マルクがいつ目をやっても、エリスは微笑んでいた。それがまた、マルクの胸を高鳴らせた。
女とは、こうも美しく微笑むことができるのかと、マルクはその時初めて知った。
いや、『女』ではない。きっと、彼女が特別な存在なのだろうと思った。
彼女と、婚約者として出会うことができた自分はきっと幸運なのだろうと。
マルクはエリスを出会って、そう経たないうちに己に芽生えた恋心を自覚した。
自覚をしたところで、男はそれを女に伝えるすべを持たなかった。
いや、初対面で、いきなり愛を囁いたところで、軽薄だと思わせるだけだろう。だから、今ここで、この女性に対して甘やかな言葉を吐く必要はない。マルクはそう結論づけた。
だからといって、マルクは気の利いたことを言える男ではなかった。女というものを、マルクは知らない。何を言えばこの美しい人を喜ばせるのか、皆目検討がつかない。
そうこうしているうちにも、エリスはマルクに鈴の音を転がしたような声で軽やかにマルクに話しかけていた。生返事をしながら、マルクは心臓の早鐘に急かされながら、浮き立ち、煮えたぎる脳を必死に動かして、彼女に何を言えばいいのかを考えていた。
「フン、お前のようなつまらぬ女、私以外に娶る者もおらんだろう」
そして、出てきたものがこの一言だった。
マルクがこの日、まともに発した言葉といえば、この一言のみであった。
「……」
初めての顔合わせも終わる頃、マルクに何か一言をと促したマルクの父親は当然、周囲はみな固まった。
唯一、この瞬間も時が流れていたのは、彼と対面している彼女だけだった。
「ええ、わたくし、貴方と婚約いたします」
エリス・カーラーは、ミルキーベージュの豊かな髪を陽の光で輝かせ、ニコリとそれは美しく微笑み、彼を受け入れたのだった。
◆
エリスは、美しい。
家柄だって、申し分ない。
対して、マルクは取り立てて良いところのない男だった。家柄も、持っている領地があまり豊かな土地ではなく、不作に次ぐ不作で経済的には恵まれていなかった。せめて、領民の負担は減らしたいと税率を下げてしまった。ロスベルト家が誇れる点といえば、それくらいだろう。領主として領民からは慕われていた。
「マルク様の瞳の色はとてもきれいですね。アイスブルーの、涼しげな煌めきがわたくしは好きです」
「そうか」
エリスはそう言うが、目の色など、何色だろうが良くも悪くもないだろう。
それだけに、マルクはなぜエリスが自分のようなひねくれ者の婚約者に甘んじているのかが不思議でならなかった。
「マルク様。この道、わたくしには不安で……腕に掴まらせていただいてもよいでしょうか」
「……ふん。仕方がない。お前はドジだからな。いいか、しかし、まだ婚姻前の娘が異性にこのように身を寄せるなど、許されることではないのだぞ。わかっているのか」
「はい、わかっております。マルク様、ありがとう」
「……わ、弁えろと言っているんだ。いいか、安全面に問題がある状況であるがゆえ、特別に許可をしているのだ。はしたない奴め」
「はい。マルク様はお優しいですね」
「い、今が、特別だと言っているのだ!」
マルクがどれだけエリスに冷たく当たったとしても、エリスはそれを悲しむことも、咎めることもしなかった。
ただ、穏やかに笑うのだ。
エリスは十五歳の時に、精霊祭の精霊役に選ばれた。
それを聞いたマルクは、剣の特訓に励んだ。精霊役をエスコートする精霊騎士の座を争うトーナメントがあるからである。マルクは元々体格に優れている方だった。剣技はマルクに向いていた。あとはもう、必死だった。なんとかトーナメントを勝ち上がって、精霊騎士として彼女の隣をもぎ取った。
彼女の手を取るのを、誰にも譲りたくなかった。
精霊役の彼女は、やはり素晴らしく美しかった。
ある日、エリス・カーラーに高名な辺境伯から婚姻の打診があったと知らされた。
しかし、マルクが耳にしたときにはすでにその打診はエリス自身が断ったということだった。
「お前、バードゥン家から結婚の申し込みがあったそうだな」
「ええ、でも、もう断ってしまいましたよ。わたくしは、マルク様と婚約しておりますから」
次にエリスと会うときにマルクは聞いた。エリスは何てこともなさげに応えた。
「そうか」
エリスが何てこともない様子だったので、マルクもそのように返す。
マルクの胸を、ツンと何かが刺した。
しかし、マルクはそれを無視した。
本当は、そっちの結婚の方が魅力的なのではないかと思った。マルクがエリスであれば、辺境伯のバードゥン家を選ぶ。バードゥン家の方がはるかに家柄も良く、また令息も絶世の美男子で、領主たる覇気もあると聞く。
実の所、マルクはその令息がエリスに心底惚れていることを知っていた。きっと、彼の方が、自分よりも彼女を大事にしてくれるだろう。マルクのように、憎まれ口など叩かない。彼女の美貌を称賛し、思い遣り、労い、愛を囁くことだろう。
しかし、マルクはその思いを、己の中で芽生えた葛藤を無視した。間違っても、そんなことを言って「おっしゃる通りですね。では、今からそのようにします」と言われたくなかった。
マルクは、エリスを妻として迎えたかった。
つまらない男だ、矮小な男だと、エリスが冷ややかな目でも浮かべているのではないかと、恐る恐るマルクが横目で彼女を見やると、彼女は、今まで見た中でも一番ではないかというほど、なぜか嬉しげに微笑んでいるのだった。
マルクにはその理由は一生わからなかったが、しかし、そのときマルクは彼女にとって、『正解』の選択をしていたのだった。
◆
エリスは結婚後間も無く、息子を産んだ。大人しいがきれいな顔立ちをしている子だった。
マルクは仕事も忙しかったが、熱心に育児を手伝った。妻にまともに愛の言葉ひとつ言えない男が、産後の身すら思い遣らずにいるのは最低だと思った。もちろん乳母もいたが、夫婦二人で子どもに関わる時間をマルクは積極的に設けた。
歳を重ねてもマルクは愛するエリスに素直にはなれなかったが、マルクはマルクなりに、エリスを愛していた。このような自分と結婚し、子を産んでくれた彼女にマルクは感謝していた。
それに、産まれてきた子どもはとにかく、かわいかったのだ。
エリスは子どもをあやす夫を見て、とても幸せそうに目を細めていた。
その顔が美しくて、マルクはまた一段と子どもの世話に励んだ。
次に産まれたのは女の子だった。エリスとよく似た髪の色をしていた。成長するにつれ、彼女はエリスにどんどんと似ていった。
「でもね、眼の色はあなたと同じでとてもきれいなのよ」
あの子はお前似だ、とマルクが言うとエリスは決まってそう言って微笑むのだった。
◆
エリスは娘を出産した後から、頻繁に体調を崩すようになった。
そして、その娘がまだ幼いうちに彼女は寝たきりになってしまった。
「なぜ、私はお前に良くしてやれなかったのだろう」
独り言のようにマルクは呟いた。実際に、マルクは独り言のつもりだった。妻に聞かせるつもりはなかった。しかし、その言葉が、勝手に出てきてしまったのだ。
「どうして? わたくしは可愛い坊やにも、娘にも恵まれて、毎日、貴方の隣で楽しく過ごしておりましたのに?」
「私はお前に、愛の言葉ひとつ、まともに言わなかったろう」
マルクの吐露に、エリスはきょとんとした。
「お前はこんなにも美しくて、優しくて、素晴らしい女だったのに」
「ああ、ごめんなさい。あなたは、ずっとそれを気に病んでくださっていたのね。本当に、優しくて、可愛い人」
「つまらぬ意地を張って、自分の身ばかりがかわいい小心者なせいで、いつでも憎まれ口ばかりを。それでもお前は、いつも笑っていたから、それに甘えて」
最低な夫だった。マルクがそう言うと、エリスは悲しそうな顔をして、「いいえ」と首を振った。
「あなたのお気持ちはいつも伝わっておりました。わたくし、いつもあなたを可愛いと思っていたの。あなたほど愛おしい人はいませんわ」
子どもたちは別ですけれどね? とエリスは付け加えて、クスクスと少女の時と変わらぬ表情で言った。
「ひねくれ者のかわいい人。あなたのような人を愛せるのは、わたくしのようなものくらい。わたくし、それを誇っておりましたのよ」
「エリス……」
このやりとりから数日後、エリス・ロスベルトは帰らぬ人となった。
なぜ、私はこの人にもっと愛を語らなかったのだろう。もっと優しくしてやれなかったのだろう。
エリスはこんな自分を愛していたと言ってくれていたが、マルクは後悔した。
せめて、エリスの遺したこの子どもたちには、愛と優しさを与えたいし、またそれらをいつか出会う相手から受け取ることができる子にしたいと思った。
長男のクラウスには、自分のようにならないように、女性に対する接し方を学ばせよう。女性に甘やかな言葉をかけるのはけして恥ずかしいことではないのだと教えてやろう。
娘のミリアは、自分のような捻くれ者な男にはけして嫁がせないようにしよう。一生をかけて、心から愛し、素直な言葉を投げかけ、慈しんでくれる男が伴侶となりますように。女神様、どうか、この子を愛してくれる人が現れますように。それまでは、自分が命を賭けてでもこの子を守ろう。
マルクはそう誓うのであった。
かつて父がそうだった、という話です。
改めまして、最後までお読みいただきありがとうございました!
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