第二十七話 あなたのことが好きだから
「……ミリア、ごめん」
カミルの、低く掠れた声がした。
顔を上げる。涙に濡れた視界に、見慣れても見慣れても格好良くて見るたびにドキドキする男の子の顔が映った。
眉を下げ、悲しい顔をしている。
「俺、また……君を傷つけた」
「カミル」
「もう二度と、君を傷つけることは言わないと誓ったのに。……俺は」
そんなことはない。カミルは悪くない。
今こうして、傷ついているのは、カミルの方だ。私が、わがままだから、カミルが私を思いやっていってくれた言葉で、勝手に落ち込んで、みっともなくその様を目の前で見せつけて、嫌なやつは私だ。
「俺は、君に優しいことを言えない、思っている本当のことも言えない。俺は、狡い男で、どうしようもないバカだ」
そんなことを、カミルに言わせたくない。
私が首を振るのを、カミルの大きな手のひらが制した。
彼の手が、そっと頬にふれる。触れてから、カミルは手のひらではなく、手の背の方で私のほおを撫でた。
一瞬だったけれど、カミルの手のひらにはタコがあって、ざらざらと硬い感触がした。わざわざ背に変えたのは、だからだろうか。
もう精霊祭は終わったけれど、カミルはまだ剣の練習をしているのだろうか。
カミルの手の感触は優しく、くすぐったいけれど、心地いい。
「不安だったんだ。俺は、この立ち位置に甘えて、君が幸せになれる機会を奪っているんじゃないかと。君にはもっとふさわしい人がいるかもしれないのに、いや、きっと、君なら素晴らしい人と結婚できるはずなのに、俺が……君の婚約者であるために、ずっと、この立場にしがみついていて、君の邪魔をしているんじゃないかと」
「カミル、そんなことないわ、そんなこと、ちっとも」
「あの男の目を見ていたら、そういう不安が現実になった気がして、耐えられなかった」
カミルは語り出す。一度、口火を切ったら止まらないようだった。
カミルは、優しくて、繊細な人だ。
彼がずっと抱えてきた不安が、痛いほどわかって、私はそっと、頬に触れる手に自分の手を添えた。
「この六年間、俺はずっと幸せだった。誰にも、この幸せを奪われたくないと思って、俺は、君の隣を誰にも譲らなかった。そして、君の可能性を奪った。傲慢な男だ」
カミルは苦しげに、私を見つめる。
きれいなヘーゼルアイに映るのは、私だけだった。
「俺は、君が好きなだけの男でしかない」
私は、私は。それが嬉しかったのに。
私の隣に、カミルが居続けていてくれたことが。
他の誰でもなく、カミルがいれば、それでよかった。
もっと良い人が、もしいたとしても、私は私の隣にカミルがいたいと思っていてくれて、その通りに譲らないでいてくれたことこそが、幸せだった。
……だから、カミルが、その場所を、私の幸せのためなら譲ろうかという姿勢を見せたのが、ショックだったんだ。
「ごめんなさい、カミル。私、またわがままな子だった」
「ミリアは何も悪くない、だって、ミリアは、俺と結婚したいと、思ってくれてたんじゃないか。その気持ちが、悪いことなわけ、ないじゃないか」
カミルが言っていることは、そのまま、私の思っていることと一緒だった。
カミル、ねえ、あなたも、そう思っているんじゃない!
だったら、何を気兼ねすることだって、ないじゃない!
私はもう、泣き止んでいて、それでもカミルは私の頬に触れ続けていてくれた。
今はむしろ、カミルの方が泣いてしまいそうに見えていた。
どっちがどっちをあやしているのかしら、と思うと、思わずふふっと笑ってしまった。
「ねえ、カミル。私、あなたと結婚したい。あなたがいいの」
カミルが、掠れた声で「ミリア」と私の名前を呼んだ。
カミルは、本当は素直じゃなくて、照れ屋だ。
いくら普段、頑張ってデレデレしてくれていたって、本当はいつまで経っても、実はカミルはミリアに甘い言動をする時は恥ずかしいんだと、ミリアは、知っていた。
カミルの顔が真っ赤になっていた。目が、困ったように、そっぽを向こうとしては懸命に私の顔をみようとし続けようと、頑張っている。本当は、目を逸らしてしまいたいのだろう。
長めの瞬きを繰り返し、カミルの目線が安定してきたところで、私はニコ、と微笑んだ。
今の私ができる、とびきりの笑顔。
初めて会った時は頑張って笑ったのに、カミルにはつっけんどんに扱われて、悲しかったなあとふと思い出した。
「カミル。私、あなたが好きだから」
私は、初めてはっきりと「好き」という言葉を使った。
この言葉を言うのは、私たちの関係には、ふさわしくないから。
私たちは正式な婚約者という関係ではなかった。いくら、良好な関係を続けていても、まだお父様からはお許しもいただいてはいないし、こんな中途半端な状態で「好き」という言葉を使うのは、よくないと、きっとカミルも思っていたと思う。
カミルは私にどれだけ甘い言葉を吐いても「好き」とは、言わなかった。
それでも十分すぎるほど気持ちは伝わっていたけれど……けれど、うん。
「ミリア」
今まで聞いた中でも、一番、甘い声が耳に囁かれる。
さっき触れるのを躊躇した、カミルのタコのある手のひらが、私の両頬を包んだ。硬い手の腹の感触、だけれど、カミルの触れ方はとても優しい。
「俺も、ミリアが好きだ。大好きだ。……俺も、ミリアがいい」
私は、背の高いカミルを見上げる。カミルも私を真っ直ぐに見下ろして、見つめた。
ゆっくりと、カミルの顔が近づいてくる。
まさか、これは……!
身を強張らせ、瞳をギュッと瞑った私の額に、くすっと笑い声とともに柔らかいものが触れた。
「……ミリア、かわいい。本当に」
「かっ、かっ、カミルっ!」
俗に言う、額にチューだ。
カミルはハハハ! と声をあげて笑った。
そこで、カミル以外の笑い声もして、私はハッと我にかえる。
二人きりだけど、二人きりじゃないのだ。私たちが二人で会う時は、いつだって侍女か従者がそばに身をひそめて見守っていて……。
「ミリア、好きだ。本当はまだ早いけど、今日はいいよな?」
「も、もうおしまいっ」
「だって、もう言っちゃったんだから、ダメも何もないだろ。好きだ、大好きだ。かわいい。俺が何すると思ったんだ? ああ、かわいい」
「マチルダっ、助けてっ」
カミルはかわいいかわいいと好きだ、を交互に言いながら、犬みたいに私の額にぐりぐりと頬擦りした。
何かのたがが、外れてしまったみたい。
「お嬢様がカミル様とお会いしているときに、わたくしマチルダに助けを求めるのは初めてですね……」
部屋の隅でくすくす笑っていたマチルダが、一層愉快そうに声を転がして笑った。
◆
私たちはお父様の元に揃って伺い、自分たちの気持ちを伝えた。
私は今隣にいるこの人と、結婚するのだと。
そして、お父様はとびきりのお優しいお顔で微笑み、言ったのだ。
「もちろんだ。私は君を認めよう、カミル・ロートン。どうか、私の娘、ミリアの夫となってほしい」
私は、胸がいっぱいになって、はあ、と息をつく。
カミルの顔を見上げれば、カミルはこくんと頷いてくれて、私も、同じように頷く。
とうとう、私たちは本当の婚約者になるのだ。
「すまなかった、カミルくん。君を、もっと早くに認めてあげればよかった。そうすれば今回のことのように厄介な求婚などなかったのに」
「いえ、とんでもないことです。俺はこの六年間が幸せでした。俺は、この六年間をやり遂げたかった」
カミルは顔をくしゃ、とさせ、泣いているような、笑っているような、曖昧な表情で私を横目で見た。
「……そうでもないと、自信が、なかった……」
「カミル……」
お父様は、私二人を慈愛に満ちた瞳で見つめてくださっていた。
お父様は早速、私たちの正式な婚約の申請と、婚約を周知するため準備にとりかかった。
まだ、リュカ様の件があるから、実際に婚約を申請して周知するのはそれ以降のことになるけれど……。
リュカ様には次お会いするときに、結婚のお申し出は正式にお断りをさせていただくことと、その際には婚約者を連れて行くことをケイン様伝いにお願いした。