プロローグ 彷徨う蠍
食事をする。家の掃除をする。入浴をする。そして寝る。物心ついた時から彼女にとってソレは、そうした日常的な生活動作と何ら変わりないものだった。
自宅にある工房。まだ10歳に満たない幼い彼女の前には何十種類という様々な植物の葉や茎、根などが並べられている。そしてその手前には古めかしい乳鉢と乳棒。
家族達は彼女に作って欲しい『薬』の効果を伝える。彼女は頷いて大量の素材の中から、最もその要望に適した効果のある素材をいくつか瞬時に選び取る。それらの素材の正式名称は知らない。でも彼女には見ただけで『分かる』のだ。どれとどれを組み合わせれば一番効果的な『薬』が出来るのかを。むしろ他の人たちは何故見ただけで分からないのだろうと不思議だった。
そして彼女は乳鉢を使って素材をすり潰して『薬』を作る。これも何をどの程度混ぜ合わせれば最も効果的であるか、彼女には自然と分かっていた。
出来上がった『薬』を大人達に渡す。それで彼女の仕事は終わりだ。その『薬』をどうするのかは知らない。大人達は誰も教えてくれなかった。ただ『この世界を良くするために使われる』とだけ言われていた。
そんな日々が何年も過ぎた。彼女は大人たちに言われるままに、その要求通りに『薬』を作り続けた。しかし幼かった彼女も10歳を過ぎて成長してくると、徐々に何かがおかしいと気付き始める。
エジプトの首都カイロ。その日は学校の先生が病欠で休んだ為、予定外に早く授業が終わった。家に帰ると誰か来客がいるらしく、家族が応対していた。今日来客があるなどという話は聞いていない。つまり彼女には内緒であったという事だ。
何となく胸騒ぎがした彼女は、見つからないようにそっと部屋に忍び寄って耳を澄ませた。
『……例の薬は……』
『これだ。これで……バスタウィシーを……せる』
『お前の家の薬は……だ。報酬は……ポンドで。……の暁に……』
『ラシーダの……は保証する。必ずや……だろう』
「……!」
部屋の中の会話は不明瞭でよく聞き取れなかったが、どうやら父親が来客に対して彼女――ラシーダの作った『薬』を渡しているらしい。それと誰かの名前も出てきた。
来客が帰り支度を始めた様子に、ラシーダは慌てて隠れた。その後一旦外に出て、時間を潰したあとに再び家に帰った。あの来客が誰だったのか、ラシーダの作った薬をどうするつもりなのか、それを聞く事は怖くて出来なかった。
それから数日後、家のテレビではこのカイロから遠く離れたポートサイド市のバスタウィシー市長が急性の心臓発作で亡くなったというニュースが流れていた。
「……っ!!」
ラシーダは身体を震わせ、目を大きく見開いた。先日彼女が作った服用してから丸1日後に、自然に心臓の鼓動を止める薬を手渡した時に出てきた名前と一緒だ。あまり有り触れた名字ではない。これは偶然だろうか。
急激に嫌な予感がして動悸が早くなるラシーダだが、まだ子供に過ぎない彼女はそれを調べたり追求したりする事が怖くて何も気づかない振りをした。
何となく自分のやっている事が良くない事だと思い始めていた。その矢先の出来事だ。これによってその疑惑は更に強まった。だがまだ子供であり女であるラシーダに選択肢はなかった。
その後も家族の要求に従って『薬』を作り続けた。徐々に見え始めていた現実からひたすら目を逸らし続けていた。
おそらくは彼女の作った『薬』で亡くなったと思しき人々のニュースは、その後も幾度となく報道された。ラシーダも長じるにつれて世の中の事や政治などについても徐々に理解が深まってきた。彼女の『薬』……いや、毒で亡くなった人たちは、そのほとんどが現エジプト政府の要人や、その政府に協調する各都市の首長などである事が解ってきた。ラシーダは自らは意図せずに、この国を混乱に陥れるイスラム原理主義のテロリスト達に手を貸していたのだ。それが解ってきた。
やがて10代も後半の年齢になってきた彼女は、ついに意を決して家族にこの件を問い質した。
「お父さん。私の作っている『薬』……いえ、もうやめましょう。私の作っている毒薬。誰にどういう用途で渡しているの? ここ何年も色んな政治家の突然死が相次いでるけど、偶然じゃないわよね?」
夕食の席でそのように問うと、父の顔色が変わった。
「ラシーダ、お前は何も考える必要はない。ただ依頼通りに『薬』を作っていれば良いのだ。これは世の中を良くするためのものなのだ」
父は否定しなかった。だが彼女もそれだけで納得できるような年頃ではなくなっていた。
「何が世の中を良くする為よ! 死んだ人達はこの国を豊かにしようとしていた人達ばかりじゃない! それで危険なテロリストみたいな連中ばかりのさばるようになって……。この国をこんな風にしちゃったのは私達の責任じゃないの!?」
「黙れ! 知った風な口を利くな!」
父がテーブルを叩いて立ち上がった。母や兄弟達は父の言葉が絶対であり、父の癇癪を恐れて身をすくめている。
「私達が生きていく為に必要な事をしているに過ぎないのだ! 綺麗事だけでやっていけるほど世の中は甘くない!」
「生きていく為? 私が作った毒薬を売って散々儲けてきた癖に! それこそ綺麗事じゃない! 私はもう毒薬なんて作るつもりはないから! 今日はそれを言いたかったのよ!」
ラシーダがそう宣言すると、父は急にそれまで激昂していた表情を消して真顔になった。そしてその目が据わったように感じた。
「そうか。いつかはこの時が来ると解っていたが、それは今日だったか。ならば仕方あるまい。お前が商品を作る事を拒否するというなら、強引にでも作らせるまでだ。お前達、ラシーダを捕らえろ。地下室へ監禁するんだ。そこで薬を作らせる。薬を作らねば水も食事も与えんとなれば作らざるを得まい?」
父が嗤いながら他の家族に命令する。母や兄弟達が絶対者である父の命令に従って、何の疑問もなく立ち上がって彼女を拘束しようと迫ってくる。
ラシーダはその光景を見て、悲しみと諦念の笑みを浮かべた。実はこうなる可能性も予測はしていた。外れてほしかったが残念ながら当たってしまった。
「……残念だわ、お父さん、お母さん」
「何だと? …………お」
父が訝しげに眉を上げるが、その直後間の抜けたような声をあげてバタッとその場に倒れ伏した。本当に一瞬の出来事であった。母や兄弟達が驚く間もあればこそ、彼らも同じように前触れ無く急に眠ったようにその場に倒れてしまう。
「…………」
ラシーダは静かに父の元に歩み寄る。父も他の家族たちも穏やかに眠っているように見えた。しかし……よく見ると呼吸をしていない。彼女は屈み込んで父の頸動脈に手を触れる。脈は完全に止まっていた。勿論母や兄弟たちも同様だ。
ラシーダは夕食に彼女が家族に隠れて密かに調合していた毒を仕込んでおいたのだ。完全無味無臭で、効果の現れる時間を自在に調節できる猛毒。そして苦しませる事なく一瞬で死に至る。死後どれだけ検死をしても毒物の痕跡は消え去って発見できない。
彼女は結果としてこの毒で、多くの罪もない政治家達を毒殺してきたのだ。それを促してきた父達が同じ毒で死ぬことになるのは皮肉であった。解毒剤は用意してあったが、結局それを使う機会はなかった。
「……さようなら、皆」
ラシーダは悲しげにかぶりを振ると、生まれてから曲がりなりにもずっと一緒に暮らしてきた『家族』に最後の別れを告げた。荷物をまとめると、その夜のうちに生まれ育った家を後にした。そして翌日にはナイル川に沿って南へと下る長距離バスに飛び乗り、カイロから姿を消すのであった。
*****
そして時は流れ数年後。ラシーダの姿はエジプトの南部、ナイル川のより上流に位置するルクソールの街にあった。彼女はこの街で現在小さなハーブ専門店を開いていた。
カイロの高校を中退して逃げるようにこの街に移り住んだ彼女には他に何の技能もなく、結局幼い頃から培った技術と才能に頼る以外になかったのだ。とはいえどれだけ知識と技術があっても正式に薬剤師の資格を持っている訳でもないので、調剤薬局を開いたり働いたりする事も出来ない。
結果として彼女が最終的に選んだのがハーブ専門店という選択肢だったわけだ。毒と薬は表裏一体。勿論彼女の技能をフルに使用する訳には行かなかったが、効果を抑えめにしたハーブでも充分な効能があり、徐々に口コミで評判が広まって何とか食うに困らないくらいの収入は得られるようになってきた。
そんな矢先、彼女の身辺でまるで彼女を監視しているかのような怪しい男達の姿が散見されるようになってきた。
(ち……何だかきな臭くなってきたわね。父の『取引先』の連中かしら? 生きていく為には仕方なかったとはいえ、ちょっとお店を頑張りすぎちゃったかしら……)
評判が広がる事で有名になると客が増えるのはありがたいが、反面こういった招かれざる客の注意も引き付けてしまう。ラシーダが家族を殺害してカイロから飛び出して数年間、父の『顧客』達が彼女の行方を探していたとしても不思議はない。
彼女がラシーダ本人であると確信が持てたら、連中は何をしてくるか分からない。最悪強引に彼女を攫って毒薬を作らせるという事をしてくる可能性もある。父はラシーダの『レシピ』を厳重に隠匿していたので、この連中は結局それを見つけられなかったのだろう。
(……またどこかに逃げるしかないのかしら? でも奴らはどこまでも追ってくるでしょうね。どうしたらいいの?)
ここで逃げても結局同じ事が繰り返されるだけだ。生きていく為にはこの技能を使わざるを得ず、そしてそうなると危険な連中に居場所を嗅ぎつけられてしまう。彼女に安住の地はなく、一生逃げ続ける生活を送る事になる。
(何とかしないと……)
だが彼女1人で危険なテロリスト達と戦えるはずもない。先の見えない緩やかな絶望感にラシーダは悲嘆に暮れた。
そして……このルクソールの街に3人の外国人が訪れたのは、そんな矢先の事であった。




