プロローグ 女神の憂鬱
自室にある液晶テレビの向こう側では、去年制作されたばかりのボリウッド映画が放送されていた。画面の中では数人の美形俳優や女優が街で暴れ回る怪物と一進一退の攻防を繰り広げている。そして犠牲者を出しながらも大胆な作戦によって怪物を罠にはめて、遂に討伐する事に成功する。
そしてこれまでの戦いの中で次第に惹かれ合っていた主人公とヒロインはクライマックスで互いの想いを確かめ合い、怪物打倒後のエンディングで遂に結ばれる。2人が抱き締めあって熱いキスを交わすシーンでスタッフロールが流れる。
映画を見終わって彼女は溜息をついた。近年このインドでは映画産業が急速に発展しており、ムンバイには数々の映画スタジオが軒を連ね、今やアメリカのハリウッドに並ぶ映画の聖地としてボリウッドなどとも呼ばれ始めている程だ。
華やかな銀幕の向こう側の世界への憧れがあった。あの向こう側では彼女はなりたい自分になれる。無論彼女とてもう子供ではない。芸能界が華やかなだけではない事は知っていた。光が強い分闇も濃くなるだろう。相応の努力がなければ何もなし得ないだろう。
だがそれでも少なくとも今の彼女を取り巻く現状からは抜け出せる。そして自分が努力をして環境を変えていけるだけの余地がある。彼女にとってそれだけで充分だった。
彼女は再び大きく嘆息した。全ては夢だ。もしこうだったらという仮定の世界。虚しい妄想。考えれば考える程、今の環境との差が浮き彫りになって、むしろ緩やかな絶望感は増幅する。
その時部屋の扉がノックされた。彼女は急いでテレビを消した。
『お嬢様、ネルー首相とそのご子息が間もなく到着されます。応接の準備を始めさせて頂きたいのですが……』
メイドのアディティの遠慮がちな声が聞こえる。彼女の専属に付けられたメイドであり、今の彼女の悩みを知っている数少ない1人である。
「……分かったわ、アディ。すぐに行くからちょっと待っていて。精一杯飾り立てて、精々お父様と客人達を喜ばせてあげるとしましょうか」
彼女は皮肉げに口の端を吊り上げて、おかしくもないのに笑った。扉の向こうでアディティが困ったような何とも言えない溜息を吐くのが聞こえた。アディティに愚痴を言っても始まらない。
彼女は立ち上がると応接の準備をする為に自室を後にするのであった。
*****
「おお、シャクティ! ようやく来たか。もうすぐネルー首相とご子息のナラシンハ君が到着される。きちんとお出迎えするようにな」
「はい、お父様」
彼女……シャクティは、アディティを始めとしたメイド達によって華美なサリー姿に召し替えられており、彼女の人目を引く美貌と相まってまるでその場に光り輝く美しい一輪の花が咲いているかのようであった。
しかしその花の表情は派手な美貌には似つかわしくない程暗く打ち沈んでいたが、父親はこれから自分が主催するパーティーに気を取られて、娘のそんな様子には全くと言っていいくらい気付かなかった。
ムハンマド・ネルーはこのハイデラバードがあるテランガーナ州の州首相であり、実質的な最高権力者だ。実業家としても成功しており複数の大手IT企業の筆頭株主でもあり、巨万の富を築いていると言われている。そのネルーと親戚になれるかもしれない機会に、父のザキールはそわそわと逸り立っていた。
ザキールとて別に貧民ではないし、それどころか大きな飲料メーカーの社長であり、特に自身も開発に携わったボトルウォーター『デーヴァの恵み』が安さと味と清潔さをバランスよく保った飲料水としてインド南部を中心に大ヒットし、このハイデラバードでも有数の富豪となっていた。
だが元は貧民出身であり一代で成り上がったザキールは、上流階級ではどこまで行っても成金扱いであり、それ故に生まれながらに高貴な血筋とされる上位カーストに対する執着があった。
今夜のパーティーの主賓として招待に成功したネルー首相は、正にその上位カーストを象徴するような人物、家柄であった。ザキールは何としてもその血筋に食い込むつもりだ。そしてその為の道具が娘であるシャクティであった。
ネルー首相の息子ナラシンハを絶対に落とせと父親に命令されていた。ザキールのこのパーティーにかける意気込みは相当なものであった。
シャクティが物心ついた時には既に父は事業に成功しており、今のような成り上がりへの野心に燃えていた。彼女はその頃から父の道具として上流階級に嫁がされる事を運命づけられていた。ナラシンハは偶々それに選ばれただけだ。
シャクティはその後『上流階級に嫁いでも恥ずかしくない学問と教養を身に付ける為に』大学にまで進学する事になった。まだまだ女子の進学率が低いこの国で大学に進学できる女子はそう多くなく、その意味では彼女は恵まれているのだろうが、彼女としては本当に大学で勉強したくとも経済的な理由で進学できない女子に代わってあげたかった。
何の自由もなかった。子供の時から父親に人生のレールを敷かれ、その上に沿って歩いているだけだった。物理的には豊かな暮らしをしていても、精神的に彼女は常に困窮し続けていた。映画を見ている時だけが唯一現実を忘れている事ができた。
「旦那様、ネルー首相が到着されました」
「……!」
だがそんな彼女の物思いは容赦ない現実によって破られる。家令が来賓の到着を告げる。いよいよ来た。シャクティは激しく緊張する。
「おお、来たか! 外まで出迎えるぞ。シャクティ、お前も来い」
「は、はい……」
有無を言わせぬ調子の父親の態度にシャクティは頷く事しかできない。
屋敷の正門前に豪華なハイヤーが止まる。使用人たちが即座に駆け寄って車の後部座席のドアを開ける。そこから2人の人物が降り立った。1人はネルー首相だ。シャクティもTVや雑誌などで何度か見た事があった。そしてもう1人、若い男性がネルーの斜め後ろに並ぶ。間違いなくこの男性が息子のナラシンハだろう。
「……!」
シャクティは何故かそのナラシンハを見て息を呑んだ。年の頃は20代後半程だろうか。シャクティより10近く年上のようだが、その程度の年の差はこの国では珍しくない。
彼女がナラシンハを見て息を呑んだのは、彼が余りにも非人間的な冷たい目をしていたからだ。シャクティは生まれてこの方こんな目をした、そしてこんな冷酷そうな雰囲気を纏った人物を見た事がなかった。
「首相! 先日の地域経済振興フォーラムでお会いして以来ですな! 本日は招待に応じて頂き感謝しますぞ」
一方特にナラシンハの異常さに気づいていないらしい父は、上機嫌でネルーと挨拶を交わしている。ネルーも両手を合わせてお辞儀する。
「やあ、ザキール。こちらこそ招待してくれて感謝しているよ。君の主催するパーティーに呼ばれるのは、この州の政界でもちょっとしたステータスになっているからね」
「ははは、それは光栄ですな。……して、首相。そちらがご令息の……?」
ザキールは挨拶もそこそこに本題に関心を向ける。ネルーは苦笑しつつ後ろの若者を紹介する。
「ああ、長男のナラシンハだ。現在は私の補佐官をさせているが、ゆくゆくは政界入りして私の後を継ぐ事になるだろう」
「……! ほぅ……それはそれは。将来有望で素晴らしい事ですな」
まさに理想的な条件を揃えたナラシンハに、ザキールは目を細めて上機嫌に笑う。ナラシンハは黙って手を合わせて一礼する。今度はネルーがシャクティの方に視線を向ける。
「それで、ザキール。そのお嬢さんが噂の深窓の令嬢、『プラサードのマハヴィッドヤ』かな?」
「はは、そのような呼び名はこそばゆいですが……如何にも、娘のシャクティです。ほら、お二人に挨拶せんか」
父親に促されたシャクティは渋々前に進み出て、教育の賜物である洗練されたお辞儀で挨拶する。
「シャクティ・プラサードです。本日は我が家のパーティーにお越し下さいましてありがとうございます。今夜は存分にお楽しみ下さいませ」
「おお……これは噂に違わぬ美しさ。そう思わんか、ナラシンハ?」
シャクティの姿に目を細めたネルーが息子に振ると、ナラシンハは異様な目つきで彼女を見据えた後に頷いた。
「ええ、全くです、父上。彼女は……とても興味深い」
「……!!」
ここに来て初めて口を開いたナラシンハ。相変わらず彼女を食い入るような目つきで見つめている。しかしそれは女性としての彼女に興味を持ったというより、何か別の理由があるような気がしてならなかった。
ナラシンハの不気味な視線にシャクティは身震いする。
「さあさあ! 顔合わせも済んだ事ですしどうぞ中へ! おっつけ他の招待客達も到着するでしょう。それまでは応接間でどうぞゆるりとお過ごし下さい。シャクティに相手をさせますので」
「……っ!!」
相変わらずナラシンハの異様さには何も気づいていない父の言葉にシャクティは目を剥いた。
「お、お父様……!?」
「何だ、何か言いたい事でもあるのか?」
「……っ。い、いえ……」
この場でナラシンハの異様さに気づいているのは彼女だけらしく、元々彼等の接待を申し渡されていたシャクティとしては何も言えずに押し黙るしかなかった。
その後はパーティーが始まる前も始まった後も、ナラシンハが具体的に彼女になにかして来るという事はなかった。だが一度だけ奇妙な質問をされた。
「君は神から力を授けられたか?」と。
何のことか解らなかったので首を傾げると、ナラシンハはやはり意味深に「どうやら未覚醒のようだな」とだけ呟いた。それ以降はその話に触れる事もなく(表面上は)にこやかにパーティーを楽しむのみであった。
*****
そのパーティーがあった日から丁度一週間が過ぎた日の事。いつものように家の自家用車で大学まで送迎されている最中。
(……あれから何も言ってこないわね。あの男は何を考えているのかしら)
シャクティは車の後部座席で先週のパーティーでのナラシンハの質問と、彼の異様な雰囲気を思い返していた。その後何の音沙汰もない事が却って不気味であった。
「……いつもの道と違うようですが、どこに向かっているのですか? すぐに元の道に引き返しなさい!」
「……!?」
車に同乗しているメイドのアディティが鋭く運転手を詰問する声にシャクティは物思いから覚める。因みにアディティも同じ大学に通う学生であった。
だが運転手はアディティの詰問にも答えず、それどころか更にスピードを上げて建物が入り組んだ狭い路地裏に入り込んだ。そしてすぐに停車したかと思うと、まるで待ち構えていたように建物の陰から何人もの男達が現れて車に駆け寄ってきた。
「な、何!? 何なの……!?」
「……っ! お嬢様、お逃げ下さい!」
アディティが緊迫した声で促す。しかしシャクティはパニックになってまともに動けない。どのみち車を囲まれていて逃げ場はない。
2人はそのまま車から引きずり出されて、アディティは殴られて気絶してしまう。そしてシャクティは頭に布袋を被せられて後ろ手に縛られ再び引っ立てられる。
誘拐という単語がその時点でようやく彼女の脳裏に浮かんだ。運転手は買収か何かされていたようだ。しかし気づいた時にはもう手遅れであった。
(な、何? 何が起きたの……? 私、これからどうなるの……?)
為す術もなく誘拐犯達に引っ立てられながら、シャクティは混乱する頭でこれから自分の身に降りかかる事態を想像して恐怖に打ち震えるのだった……
そして……この街を3人の外国人の若者が訪れるのは、それから数日後の事であった。
次回は第1話 灼熱と混沌の街




