第11話 『嬋媛』のジルベール
スカイツリーの屋上部分。高度634メートルの『闘技場』において、天馬は激しい危機に陥っていた。
彼の周りを高速で飛び回る存在がいた。比喩ではない。翼が生えて自由自在に空を飛び回りながら、あらゆる角度から彼を攻撃してくるのだ。……狭い『闘技場』の範囲に縛られた天馬に対して。
『ははは! 哀れだねぇ! 大地と重力に縛られた存在というのは!』
「……っ!」
周囲を飛び回りながら天馬を嘲笑するのは、一対の翼が生えた黒く巨大な牡鹿。ペガサスの鹿バージョンとでも言うべき存在であった。ケルト神話の狩猟神ケルヌンノスのウォーデンであるジルベールの戦闘形態だ。
『神鹿の刺突角!』
天馬の後方、視覚からジルベールがその頭部の角を向けて突進してくる。凄まじい速度だ。そして恐らく威力も。
「ぬおぉっ!?」
天馬は辛うじて横に転がるようにして回避する。すぐに体勢を立て直して反撃しようとするも、その時にはジルベールは上空に飛び上がっていて手が出せない。フィールド条件が違いすぎる。
「くそが……!」
天馬の顔が歪む。それでも彼が万全の状態であれば、あの突進を躱しつつカウンターで斬り付けるといった離れ業も可能だったかも知れない。しかし今現在天馬の脇腹には、ジルベールとの相打ちで穿たれた大きな刺し傷が開いており、そこから血が止め処なく流れ出ている状態なのだ。傷自体の苦痛は勿論、出血による消耗が危険なレベルだ。
今すぐにでも全神力を集中させて回復に専念しなければ危険なくらいだというのに、当然そんな暇はなく重傷のままで戦闘形態のウォーデンとの戦いを余儀なくされている。いや、戦いではなく一方的に攻撃されているだけだ。
「ぬぅぅ……! 『鬼刃斬!』」
吐血を飲み込みながら強引に真空刃を繰り出すが、飛行するジルベールのスピードは速く、また自由自在な空中機動であっさりと躱されてしまう。
『ふふふ……大分辛そうだね。今すぐ死を受け入れれば楽になれるよ? いや、それとも君もウォーデンになるかだね』
ジルベールが飛び回りながら揶揄する。そう。実は今すぐこの苦痛や苦境から逃れる方法はある。それはこの大気中に漂う邪神の種子を受け入れて、自らも浸化種になる事だ。だがそれは天馬にとって死よりも受け入れがたい『完全なる敗北』を意味するものであった。
「抜かせ、クソ鹿がっ!」
天馬はその誘惑を振り払うように叫んで真空刃を飛ばす。だがやはり虚しく躱されて終わりだ。
『苦しく緩慢な死を選ぶか。誇り高いが愚かな選択だ!』
むしろ憐れみさえ浮かべたジルベールの声。それと同時に奴の立派な角が妖しい光を帯びる。そしてその角から無数の光線のようなものが放射状に射出された。
『神鹿の千光角!!』
無数の光線は放物線を描くような軌道で次々と天馬目がけて殺到する。
「うおぉぉっ!?」
天馬は驚愕して必死に身を躱すが、何と光線の束は天馬を追尾するように自在に軌道を変化させてくる。しかもいくつかその『束』からあぶれている光線もあり、それらも『束』とは独立した軌道で天馬を狙ってくる。
『束』を避けるのに必死でそれらの独立した光線にまで対処できず、それらを受ける度に小さな刺し傷が増えていく。最初から受けていた脇腹の傷もある為、最早天馬の体力も気力も限界に近づいていた。
『神鹿の刺突角!』
「……っ!?」
そこに再びジルベール本体が角を突き出して突進してきた。追尾してくる無数の光線を捌くのに精一杯だった天馬は、予想外の攻撃に対処しきれなかった。反射的に奴の突進は躱したが、それによって追尾してくる光線への対処が間に合わなくなった。
「ぐぶぁっ!!」
無数の追尾光線をまともに受けた天馬。神衣によって辛うじて致命傷は免れたものの、最初に受けた傷と合わせて凄まじいダメージを負って吹き飛ばされた。そのまま屋上の床に転がるが、余りにも傷が深く、さしもの彼も立ち上がる事が出来なかった。
「が……はっ……!」
『苦しいだろうね。安心したまえ。私は他のウォーデンと違って相手を無闇に甚振る趣味はない。仲間にならぬのであれば、このまま一思いに止めを刺してあげよう』
吐血して立ち上がろうともがく天馬の姿を憐れんだジルベールは、言葉通り一気に決着をつけるべく再び角を向けて突進の体勢となる。今の天馬にそれを躱す術はない。
「く、そ……」
『終わりだ、サムライよ!』
だが無情にもジルベールが翼をはためかせて一気に突進を開始する。そしてその勢いのまま角で天馬を刺し貫く。いや、貫こうとした。
『テラー……ニードル!』
『……!!』
その瞬間屋上部分の縁から、まるで獲物を狙う蛇のように鎌首をもたげてジルベールを迎撃する細長い物体があった。天馬に止めを刺すつもりで加速していたジルベールは、予期せぬ奇襲に回避が間に合わず、その細長い物体が僅かに身体を掠めた。
『ぬぐ……!?』
ジルベールが苦痛の呻きを上げる。その限界まで伸びた細長い物体は収縮して持ち主の元に回帰する。
「テンマは……殺させない! 私が、相手よ……!」
「ラシーダ!? お前……」
天馬は目を瞠った。彼も通ってきた屋上に続く業務用の階段部分にいるのは、高所恐怖症のために展望台に残してきたはずのラシーダであった。といっても血の気の引いた顔で、半ば四つ這いに近い姿勢でガチガチに身体を強張らせていたが。
「お、遅くなって、ごめんなさい。これでも、可能な限り、急いできたんだけど……」
どうやら天馬が出た後そう間を置かず、彼女も屋上に向かったらしい。しかし極度の高所恐怖症である彼女がここに辿り着くまでには相当の時間が掛かってしまったようだ。いや、辿り着けた事が奇跡ですらある。
「あなた一人を、ウォーデンと戦わせて……私だけ、縮こまってる訳には……いかないでしょ?」
「……!」
その思いだけでここまで昇ってきたらしい。天馬は言葉に詰まった。
『無粋な……。地に縛られ空を恐れるその無様で何が出来る? 決めた。君には私の角で刺し貫く栄誉は与えない。君が忌み嫌うこの天空へと放り出してあげよう。高度634メートルの感触を存分に味わいたまえ』
だが怒りを滲ませたジルベールの声が現実を思い出させる。天空を自在に飛び回るジルベールに対して、この狭い屋上フロアに限定されているだけでも不利なのに、ましてやラシーダは身体が硬直してまともに動くことさえ困難な状態だ。勝負にすらならないだろう。
「勝負? いいえ、勝負ならもう付いているわ」
だがラシーダは血の気の引いた顔で強張った笑みを浮かべる。本来は妖艶な笑みを浮かべようとしたらしいが上手く行かなかったようだ。そもそも四つ這いでガチガチになっている姿では何をしても様にはならないだろうが。
『戯言を! その階段ごと突き落としてあげよう!』
ジルベールが突っ込んでくる。ラシーダにはそれを躱すどころか、まともに受ける手段さえない。終わりだ。天馬ですらそう思った。だが……
『……っ!?』
ジルベールの動きが唐突に乱れ、鈍化した。必死に翼をはためかせて軌道修正しようとするのだが上手く行かないようだ。
『ぬ、ぬ……何だ、これは?』
「言ったでしょう、もう勝負は付いていると。あなたは既に私の毒に侵されているのよ」
『な、何だと……? 先程掠った攻撃か? だがあれはすぐに魔力で相殺できた。他には何も……』
驚愕と戸惑いに声を震わせるジルベール。その声も苦しげになり、動きは更に精彩を欠いていく。奴の身体に何か異常が起きているのは間違いないようだ。
「私が四苦八苦して、ここに昇ってくる間……。上で、天馬とあなたの強大な力同士がぶつかり合っているのを、探知して……何もしていないと、思った?」
『……!』
四つ這いのラシーダが片手に握ったままの『セルケトの尾』が再び鎌首をもたげた。
「この子の力で、作り出した毒素を希釈して……無味無臭の毒霧として、空に、撒き続けていたのよ。この毒霧は空気よりも軽い。この塔を囲む上昇気流に乗って、上空に溜まった毒霧の中で、あなたは飛び回っていた、という訳よ」
『ば、馬鹿、なぁ……』
天馬が人間体の彼を倒してくれたお陰だ。ようやく事態を悟ったジルベールだが、時すでに遅し。ラシーダの毒はマフムードのような耐久性に優れたウォーデンの戦闘形態をも殺す力がある。ましてやジルベールは機動性重視で耐久性はそこまででもないようなので、彼女の毒は致命的だ。
文字通り墜落するような勢いで屋上に落下する。勿論ラシーダはその機会を逃さない。
「無闇に苦しませる事は、私だって本意じゃないわ。これで、終わりにしてあげる。『テラー・ニードル・ラピッドファイア!』」
ラシーダの意思を受けた『セルケトの尾』が墜落したジルベールの元に伸び、その身体に毒針を突き刺した。
『オゴワァァァァァ……!! き、君達が何をしようと……【外なる神々】の復活は、止められん。束の間の、勝利を……味わい、たまえ……』
ラシーダの猛毒の前にただでさえ弱っていたジルベールは一溜まりもなく、断末魔の呪詛を残しつつ息絶えた。翼の生えた牡鹿の身体が消えていき、後にはジルベール本体の死体だけが残された。いや……
「まだだ……。『要石』を、破壊しねぇと……」
「テンマ! 無理しないで! 生きてるのが不思議なくらいの重傷なのよ!」
刀を杖代わりに立ち上がった天馬を見てラシーダが目を瞠る。だが彼はかぶりを振った。
「悠長に休んでる暇はねぇだろ。いや、休むのはこいつをぶっ壊してからだ」
そういって神力を練り上げ始める。彼だけに負担させる訳にはいかないと、ラシーダも四つ這いのまま神力を高める。
『鬼神三鈷剣!』
『テラー・ニードル!』
スカイツリーの屋上、その中央部分に聳える黒いモノリスに斬り付ける天馬。ラシーダも鞭を操作して毒針を『要石』に突き刺す。2人の神力を受けた『要石』に亀裂が走り、やがて粉々に砕け散った。
「ふぅぅ……流石に、ちっとキツかったな……。マジで助かったぜ、ラシーダ。しかし悪ぃがしばらくここでそのまま回復に努める事になるが大丈夫か?」
全神力を回復に充てる事で傷の治癒を促すのだ。ただそれにはしばらくこの場に留まる必要があり、ラシーダの精神状態が心配だ。彼女は嘆息した。
「ええ、まあ、仕方ないわよね。一刻も早く降りたいから私も手伝うわ。というか多分、私もう一人じゃ降りられないと思うし……」
天馬を助けなければという一心のみで下を見ないようにして上がってきたのだ(それでも相当の時間が掛かったが)。目的を果たして気が抜けた所で、ましてやどうしても下を見ざるを得ない降りで、展望台まで戻れる気が一切しないラシーダであった。
「ああ、大丈夫だ。俺が降ろしてやる。ここまで駆けつけてくれたせめてもの礼だ」
「ほ、本当によ? 約束は守ってね?」
苦笑するような天馬にラシーダは真剣な表情で念を押すのだった……