プロローグ 炎の少女
それはまだ彼女が10歳の時だった。両親と兄2人と彼女と家族5人で何かの映画を観るために映画館に出かけた。映画のタイトルや内容は覚えていない。彼女がまだ幼かったのもあるし、その後の体験が強烈であった為にすっかり記憶から抜け落ちてしまったのだ。
だが彼女はそれでいいと思っている。当然だ。その映画を思い出すという事は、家族が全員死んだ日を思い出すという事で、悲しく忌まわしい記憶として無意識に封印してしまうのも当たり前であった。
彼女が気がついた時には、周囲は全て赤とオレンジに包まれていた。映画館の建物が、劇場が、椅子などの備品が、そして何よりも人が燃えていた。炎に包まれた人々は狂ったようにダンスを踊っていた。その中には彼女の家族も含まれていた。
辺りは炎だけでなく煙も充満しており当時の幼い彼女には解らなかったが、火事では炎の熱や火傷よりも、むしろ煙による一酸化炭素中毒で亡くなる人の方が多いくらいであった。
だが……彼女は何故か無事であった。無事というよりも無傷であった。炎による熱からも、煙による酸欠からも何故か彼女は被害を受けなかった。
あり得ない話だ。炎は偽物などではなく、事実彼女の周囲では家族も含めた多くの人々が熱と煙によって次々と死んでいるのだから。
目の前で家族が焼け死んでいるのに、彼女は泣き出したりはしなかった。余りにも現実離れした光景に幼い脳が正確な理解を拒否したのだ。だがそんな彼女でも自分だけがこの地獄の中で全く被害を受けていない事がおかしいと感じる理解力くらいは残っていた。
その時彼女はふいに、目の前に誰かが立っている事に気づいた。炎と煙で顔はよく分からない。しかしかなり場違いで派手な格好をした女性だという事だけは解った。その女性もまた周囲の火事による被害を受けていないようだった。
女性は彼女に対して何かを言った。そして屈み込んで彼女を抱きしめてくれた。彼女はその女性が何者なのかも分からないまま、それでも本能的に理解した。自分が今周囲の熱と煙から守られて生きているのは紛れもなくこの女性のお陰なのだと。
その女性に抱きしめられて彼女は不思議な安心感を得た。そしてそのまま心地よい眠りに誘われて眠ってしまった。……この業火渦巻く地獄の只中で。
その後、映画館を包み込んだ火事は丸一日ほど経ってようやく消し止められた。最早生存者は絶望的と思われ、それでも職務として現場に踏み込んだ消防隊は、その地獄の火災現場の真っ只中で奇跡的に無傷のままスヤスヤと安眠する10歳の少女を発見するのであった。
*****
中国は四川省、成都市に住む少女、苏小鈴の朝は早い。平日はいつも朝5時半には起きて身支度を整えると、まずは朝の瞑想がある。それが終わったら住んでいる集合住宅から出て敷地内にある大広場で太極拳の鍛錬。これには他にも朝の日課としている同じ敷地内の集合住宅の住人たちも参加してきて、曜日によっては50人以上の大所帯になる事もしばしばだ。
他の殆どの人々にとっては只の健康体操である太極拳だが、小鈴にとっては体内の「気」を練り上げて調節する大切な鍛錬だ。なので敷地内の誰よりも早く広場に来て、そして誰よりも長くじっくりと鍛錬を行う。
それが終わるとようやく朝の日課終了だ。運動用のスポーツウェアを脱いで外出用の服に着替える。叔父と叔母が同居しているが、彼等が起きるのは朝8時も過ぎてからだ。小鈴は大学で使う教科書やその他の参考書、そして自身のメイク道具などを鞄に詰め込むと勢いよく家を飛び出した。
小鈴の住むマンションは武侯区にあり、彼女は同じ区内にある成都体育学院に通う大学生でもあった。通学途中にいつも寄っている屋台で買った肉包と茶葉卵を齧りながらバスで大学まで向かう。
そして大学の少し手前にある成都武侯祠の前のバス停でバスを降りる。これもいつもの事だ。武侯祠は中国だけでなく日本などでも有名な三国志の時代の英雄達を祀った祠であり、普段は国内外の観光客でごった返している。だがこの朝早い時間は別で日中の賑々しさとは全く異なる静謐さと、心地よい『気』が漂っているのだ。それが良くて通学の日はいつもこのバス停で降りて、武侯祠の前を通りながら大学まで歩く事にしている。
「……!」
(やっぱり……今日もだ)
いつもは心地よい筈のこの祠に漂っている『気脈』がここ最近妙に乱れている感じがしていた。前を通りかかると微妙な違和感を覚えるようになったのだ。折角の朝の散歩が台無しであった。だが……
(なんだろう……胸がザワザワする。何か……良くない事が起きてる。そんな気がするわ)
彼女が引き取られた叔父夫婦の家は道教を信仰しており、小鈴も引き取られてからは学生生活を送る傍ら、常に道士としての修行も並行していた。というよりそれを条件に叔父夫婦に引き取られたのだ。
実際に道士として修行をするようになって彼女も、この世には人智の及ばない現象や存在がある事も実体験として知っていた。
だが今まで経験してきたそれらの事象とは根本的に異なる何かが起きている。そんな予感を最近になって感じるのだ。
「小鈴、一生のお願い! 助けて欲しいの!」
その日の昼。大学構内のカフェテリアで友人の王吴珊と一緒に昼食をとっていると、急にその吴珊が大袈裟なくらい縋るような調子で拝んできた。小鈴は溜息を付いた。
「……高校時代からの付き合いだけど、この3年間で何度『一生のお願い』を聞いたっけかなぁ?」
「今回はホントのホントに一生のお願いなのよ! ほら、前に私が付き合ってた春成って男なんだけど……あいつが別れた後もしつこくてさ。今じゃ完全にストーカー一歩手前って感じで怖くて。でも警察に言って大事になるのも嫌だし……ね?」
吴珊が手を合わせて上目遣いに阿ってくる。小鈴はちょっと驚いて目を瞠った。
「はあ? 春成って、あの李春成の事? あんたつい先月その春成と一緒に云南旅行に行かなかったっけ? それがストーカーですって? 一体どうなってんのよ? そう言えばここ何週間か見ないと思ったら……」
「いやぁ、外見は結構良かったから付き合ってみたんだけど、全然つまんなくてさ。昆明でも私は『九味焼臘』の北京料理が食べたいって言ったのに、そんな高い所は無理だって言って安っすい火鍋の店に連れてかれたのよ!? それですっかり幻滅しちゃって、ね……」
まったく悪びれる事無くのたまう吴珊。小鈴は再び溜息を付いた。同じような事は過去何度もあった。吴珊は見た目が派手な美少女で本人も奔放な性格の為、こういった男女間のトラブルが高校時代から絶えなかった。そしてその度に『大事にしたくないから』という理由で小鈴に頼ってくるのだ。
吴珊に手酷い振られ方をしたと暴力的になる男性も多いので、そうなると幼い頃から道教の修行の一環で武術を学んでいる小鈴の出番という訳だ。トラブルメーカーの吴珊だが、何となく憎めない性格の上に腐れ縁という事もあって仕方なく手を貸している。
「はぁ……解ったわ。ただし本当にこれが最後だからね? もしこの次に何かあったらその時は自分で対処してよね?」
「……! ありがとう、小鈴! 流石頼りになる! 勿論もう迷惑は掛けないわ! 約束する!」
顔を輝かせて礼を言う吴珊だが、恐らく一月も経てばそんな約束をしたことすら忘れているだろうと解っている小鈴は嘆息するのであった。
吴珊が住んでいるマンションは青羊区の郊外にあり、夜になると人気が殆ど無くなる空き地や公園なども多い。ストーカーが活動するには絶好の立地条件という訳だ。そして……そのストーカーに対処するにもまた都合が良いと言えた。
夜になる人気の途絶えた道を帰路につく1人の女性。吴珊だ。しかし誰もいないかに思われた道に彼女以外の人物の気配が加わる。それは彼女の足音に合わせて荒い息遣いと共にどんどん吴珊との距離を縮めていく。そしてすぐ後ろまで近づくと手に持っていた刃渡りの長いナイフを一気に吴珊に向かって振り下ろし――
「把っ!」
「……!!」
しかし吴珊は素人とは思えないような体捌きでナイフを避けると、振り向きざまに回し蹴りを叩き込んできた。蹴りを食らった暴漢は倒れはしなかったものの明らかに驚いて怯む。
「……まさか問答無用とは思わなかったわ。しばらく見ない内に随分凶暴になったのね、李春成!」
「……! お、お前は……苏小鈴!? くそ、図ったな、あの女め!」
暴漢……春成が毒づく。吴珊に変装していた小鈴は臨戦態勢で構えを取る。いきなり後ろから刺そうとしてきた事からも、到底話し合いが出来る状態ではなさそうだ。
「邪魔するならお前から殺してやる。それでお前の首を塩漬けにして吴珊の部屋の前に置いといたらあの女、どんな顔するかな?」
整った容貌を憎悪と狂気に歪めながら春成が迫ってくる。明らかに正気ではない。いくら振られたと言ってもここまでなるものだろうか。だがそんな疑問を反駁している暇もなく、春成はナイフを振りかざしてきた。
「ちっ……!」
小鈴は思考を脇へ追いやり、とりあえずこの場を切り抜ける事を優先する。春成の動き自体は素人の物だ。小鈴は冷静にその軌道を見切ってナイフを躱すと、彼の顎に下から掌底を打ち当てる。
「がっ!」
春成が仰け反る。小鈴は流れるような動作で今度は仰け反った腹部に頂肘を打ち込む。そして相手が逆に腹部を折り曲げてかがみ込むと、その側頭部に至近距離の飛び膝蹴りを叩き込む。
「……!!」
春成は堪らずもんどり打って倒れ込んだ。手応えはあった。小鈴はふぅっと息を吐いて力を抜いた。
「ふぅ……これは警察を呼んでおいた方が良さそうね。吴珊には悪いけど騒ぎにしたくないとか言ってる場合じゃ無さそうだし」
春成は明らかに正気を失っているように見えた。このまま放置するのは危険だ。小鈴はそう判断してスマホを取り出すが……
――バンッ!!
「……っ!?」
突然、春成が起き上がった。起きたと言っても普通に起きたのではない。まるで固い地面がトランポリンでもあるかのように高く跳ね上がり、空中で身体を回転させながら地面に降り立ったのだ。
人間離れした挙動に小鈴は自分の目を疑う。
「な、何……!?」
『ヌフゥゥゥゥゥゥ……。憎イ……女ガ憎イィィ……!!』
突然起き上がった春成は白目を剥いたまま奇怪な声音で喋り……筋肉が肥大して手に鉤爪が生え、そして口が耳元まで裂けて不揃いな牙が生え並ぶ。同時にその身体から邪気が発散される。
「こ、これは……山鬼!? でも、こんな人里で……!?」
『ヌガアァァァァッ!!』
『春成』……いや、山鬼が咆哮と共に飛びかかってくる。これまでとは比較にならないスピードだ。
「くっ……!」
小鈴は辛うじて鉤爪が生えた豪腕の一撃を回避する。外れた攻撃が後ろにあった街路樹に辺り、木の幹が大きく抉られてへし折れた。あんな物をまともに食らったら一溜まりもない。
「把っ!!」
小鈴は再び、今度は『気』を乗せた打撃を山鬼に打ち当てる。連続した拳撃、そして蹴撃。だが……
『グゥオォォォォッ!!』
「っ!」
山鬼は打撃を受けてもお構いなしに豪腕を振るって反撃してくる。小鈴は慌ててそれを躱すと、後ろに飛び退って舌打ちした。
「ちっ……やっぱりまだまだ修行が足りないな! これに頼らないといけないなんてね!」
小鈴は素早く放り投げてあった自分の鞄に飛び寄ると、中から細長い鈍器のような物を取り出した。2つの棍が短い鎖で連結された梢子棍という武器だ。
山鬼が追撃に迫ってくる。小鈴は持ち手の長棍を操作して、連結された短棍を高速で旋回させる。
「ふっ!!」
そして山鬼が惑わされて動きが止まった所に、旋回の勢いも加味して短棍を叩きつける。
『ガァ……!!』
山鬼が怯んだ。この梢子棍はずっと修行で使ってきただけあって『気』の伝導率が非常に高い。武器と『気』、両方の威力を加味した打撃は山鬼のような妖怪にも有効だ。
山鬼が怯んだ隙にその懐に潜り込んだ小鈴は、持ち手の長棍をまるで拳の延長のように突き出す。
「砕破ッ!!」
長棍の先端を山鬼の腹に打ち付け、同時にそこから『気』を流し込む。
『ウゴァァァァァァ……!!』
山鬼は口からドロっとした黒い液体を吐きながら吹き飛び、地面に倒れた。今度は起き上がってくる気配はなかった。同時に肥大異形化していた身体が元の春成の姿に戻っていく。決着がついた事を悟って小鈴はようやく構えを解いた。
「ふぅ……今度こそ大丈夫よね? 全く、とんだストーカー退治だったわね。でも……人の多い街には現れないはずの山鬼が何で……。やっぱり何か変だわ。叔父さんにも相談してみよう」
これはここ最近感じている不快感や気脈の乱れにも関係している。小鈴にはそんな予感が拭えなかった。
彼女の予感は現実の物となり、やがて彼女は日本からの来訪者達との出会いを切欠にその運命を大きく変えられていく事になるのだが、勿論この時点ではそれを知る由もなかった……
次回は第1話 チート能力?