第1話 犯罪都市の洗礼
南アフリカ共和国の最大都市であるヨハネスブルグ。この街の近郊には国内最大の国際空港であるO・R・タンボ空港があり、南アフリカの空の玄関口としての役割を果たしていた。国外からの来訪者は、陸路以外は大抵このヨハネスブルグか南端にあるケープタウンのどちらかから入国するケースが殆どだ。
今回、小鈴達の目的地はこの国の東端近くにあるファラボルワの為、地理的に近いこのヨハネスブルグを入国地に選んでいた。
「ふぅ……ここが南アフリカ。アフリカって聞いて想像してたのより全然暑くないのね」
空港のターミナルビルから出てヨハネスブルグの街並みを見渡しながら小鈴が呟いた。
「そうね。緯度的にはむしろ南極に近い訳だし、そういう意味では北にあるエジプトの方が余程暑いかも知れないわね」
隣で同意するように頷くのはエジプト人のラシーダだ。エジプトも一応同じアフリカの中にあるが、気候は全く異なっている。
「まあ雨季と乾季の違いなんかもあるだろうから時期によるのかも知れないけど、少なくとも今の季節は過ごしやすそうだね」
もう1人のメンバーであるギリシャ人のぺラギアも興味深そうに異国の街並みを見渡しながら呟いている。
彼女達3人はギリシャで天馬達と別れて、北欧のスウェーデンに向かう彼等とは反対に遠い南の地であるこの国へと赴いたのだ。それまで未覚醒のディヤウスの大まかな居場所を教えてくれていた聖公会のジューダス主教が、今回は2人同時に未覚醒のディヤウスの居場所を感知したのであった。
天馬達一行の人数はぺラギアも含めて6人まで増えていた事もあって、探索効率を重視して二手に分かれる事になったのだ。そしてこの南アフリカ側を担当するのが小鈴、ラシーダ、そしてぺラギアの3人という訳だ。
小鈴が敢えて天馬と別チームに志願したのは、今一度自分を鍛え直すためであった。天馬は今や非常に頼りになるリーダー的存在となっていたが、それゆえに彼の側にいると小鈴は自分で考える事をやめてしまい、彼に依存してしまいがちになる事に気付いたのだ。
この先ずっと彼と一緒に居られるのであれば、或いは依存していても良かったかも知れない。だが……彼との別離はある日唐突にやってくる可能性がある。ギリシャでその現実を突き付けられた小鈴は、天馬に依存したままではこの先やっていけなくなるかも知れないと自覚した。
それゆえに今回の機会を利用して、敢えて天馬と別行動をとる事で自分を見つめ直そうと考えたのである。
ラシーダとぺラギアはそんな小鈴の決意を知って、彼女に協力したいと同道を申し出てくれたのであった。
「さて、とりあえず南アフリカに入国は出来た訳だけど、ここからはどうする? ファラボルワまで行くには国内線の飛行機か、もしくは長距離バスが一般的のようだけど」
ぺラギアが移動手段について確認する。ディヤウスはどんな文字も読めるし、どんな言語とも意思疎通できる特性があるので、現地での情報収集は簡単だ。おそらくターミナルビルの中で職員か誰かに聞いたのだろう。
「こうしている間にも邪神の勢力は拡大を続けているし、天馬達も任務を進めているはずよ。時間が惜しいし、ここは国内便を利用しましょう」
小鈴は即断する。ヨハネスブルグからファラボルワまでとなるとそれなりの距離があるし、バスではかなりの時間が掛かる。なのでここはやはり空路を使った方がいいだろう。
この空港は国際便が中心であり、国内便は専ら近隣にある別の小規模な空港が利用されるようだ。手っ取り早くタクシーを捕まえてその空港まで向かう事にする。
国際空港だけあって空港内はそうでもないが、ターミナルビルから一歩出るとやはり行き交う人々や様々な産業に従事する人々は、そのほぼ全てが焦げ茶色の肌をした現地のアフリカ人であった。それは当然タクシーの運転手にしても同じだ。
「ねぇ、お兄さん。ランセリア空港まで行きたいんだけど、問題ないかしら?」
ラシーダが暇そうにタクシーに寄りかかっていた運転手に、外面の良さを発揮して問い掛ける。運転手はその大きな目を更に丸くした。
「あ、ああ、勿論問題ないけど……あんた達だけかい?」
運転手は疑うように周囲を見やる。勿論他に連れなどいないので見るだけ無駄だ。
「そうだよ。私達だけだとなにか問題でも?」
「い、いや、勿論問題なんかないさ。へへ……どうぞどうぞ」
ぺラギアの言葉に運転手は卑屈な笑みを浮かべて座席のドアを開ける。トランクに荷物を積んで全員乗ると、タクシーが出発した。
国内便専用の空港は街を挟んで離れた場所にあるので、ヨハネスブルグの街中を通って向かう事になる。小鈴は何とはなしに車窓の風景を眺めていたが、中心街には立派なオフィスビルが立ち並ぶ近代都市の様相を呈しているが、通りを行き交う人々や車は街の規模に比してまばらである事に気付いた。
それにそんな僅かな人々もピリピリした空気を纏っているように見え、皆自分の用事だけをさっさと済ませて帰ろうと急いで歩いているような雰囲気の人間ばかりに見えた。
「何だか……大きい割にあまり活気のある感じの街じゃないわね」
小鈴が中国語で呟く。それは彼女が聞かせる気のない運転手には普通に中国語に聞こえるが、仲間達には勿論ちゃんと伝わる。ディヤウスのこの技能は、その言語の分からない人間の前で堂々と聞かせたくない話をするのにも便利だった。
「そうだね。この街はかなり治安が悪い事で有名だからね。経済が空洞化して限界まで落ち込んでいる事が原因なんだけど。皆その日暮らしで精一杯なのさ。どうしても荒んだ雰囲気にはなるよね」
「経済が空洞化? どういう事?」
ぺラギアの言葉に小鈴が問い返す。彼女は肩を竦めた。
「この国……に限った話じゃないけど、前世紀までアフリカには今よりもっと多くの白人達が住んでいたんだ。彼等が色んな事業を経営して経済を回したり、政治を動かしたりしていた。……現地のアフリカ人達を安く働かせる事によってね。で、その関係は常に人種差別政策と連動していたのさ」
「……! あのいわゆるアパルトヘイトってやつね?」
小鈴も少し前まで現役の大学生だったので、もちろんそれは知識として知っていた。ぺラギアは首肯した。
「そう。で、これも知識として習ったと思うけど、世界的に人種差別反対の機運が高まった事もあって、この国の黒人達はついに差別政策を撤廃して白人達を追い出す事に成功したのさ。彼等は念願だった自由を手に入れたんだ」
「でもその割には全然活気がないように見えるけど。アフリカの国も殆ど貧しいままだし」
アパルトヘイトが撤廃されてアフリカが白人たちの支配から解放されたという事までは歴史として小鈴も知っている。だが言われてみるとその後のアフリカに関しては、少なくとも学校の授業レベルでは殆ど触れられていなかったように思う。
ぺラギアは少し悲し気な顔になってかぶりを振った。
「勢いで白人達を追い出したのはいいけど、それまで国の政治や経済を回していたのはその白人達だったんだ。彼等を追い出して後に残ったのは、碌に政治や事業の経験もなく高等教育も受けていない現地民達だけ。これだけでもう何となく想像が付かないかい?」
「……! ああ、なるほど。そういう事ね」
確かに想像は付いた。それが現在に至るまでアフリカ諸国が発展できずにいる大きな要因の1つなのだろう。流石に何十年も経っているので現地のアフリカ人達も徐々に教育や経験を積んできているようだが、それでも政治経済の脆弱さは未だに克服できていない。
「でも……アフリカには手つかずの資源が大量に眠っている。貧しい現地国家がそれらを掘り出す術を持たないのをいい事に、白人に代わって経済援助をチラつかせて、私のいたエジプトも含めてアフリカ諸国に急速に食い込んできている存在がいるのよ」
それまで黙って話を聞いていたラシーダが、その大人びた美貌を曇らせて物憂げな溜息を吐く。小鈴はその横顔を見て、彼女が天馬と同じチームを選択しなかった事を内心で感謝していた。
「きゅ、急速に食い込んでいる存在? それは?」
話と関係ない事柄を思い浮かべてしまった小鈴は、意識を逸らす為にラシーダに問い返す。すると何故か彼女は若干言い辛そうな様子になった。
「それは……」
彼女が答え掛けた時、タクシーが急に停まった。特に信号がある訳でもない。いや、それどころか表の大通りからは一本外れた寂れた裏通りだ。話に集中していた為に気付かなかったがいつの間にこんな裏通りに入っていたのか。
「……なぜ急に止まったんだい? 信号もないし、前を人や動物が横切った気配もないけど?」
ぺラギアが目を眇めながら運転手に問い掛ける。すると運転手が振り向いた。その顔は下卑た欲望と悪意に歪んでいた。
「へへへ……女だけでこの街にノコノコやってきてタクシーに乗り込むなんざ、随分と不用心で平和ボケした女共だぜ。だからこれは……自己責任ってやつさ」
「……! なんですって?」
小鈴が目を瞠る。それと同時に、停車したタクシーの周囲をいつの間にか現れた複数の男達が包囲していた。この辺りの路地や物陰に潜んでいたらしい。明らかに偶然ではないだろう。
全員現地のアフリカ人のようで凶悪に目をギラつかせている。更にその手にはナイフや拳銃などの凶器が握られていた。
「ああ、そういう事ね。流石は悪名高いヨハネスブルグ。これ、私達じゃなかったら完全に詰んでたわよね」
ラシーダが納得したように頷いている。
「金目のものは全部剥ぎ取れ! あとは好きなように輪しちまえ! 抵抗するなら殺せ!」
運転手が外の男達に指示する。それを受けて男達が下種な欲望を滾らせながら包囲を狭めてくる。
「ふぅ……仕方ない。シャオリン、少し運動と行くか。ラシーダ、君はその運転手が逃げないように確保しておいてくれ」
「……! ええ、そうね。ぶちのめしてやるわ」
「解った、こっちは任せて」
ラシーダが請け負うと同時に、小鈴とぺラギアは一斉に両側のドアから外に飛び出した。まさか獲物の女性達が自分から飛び出してくるとは思わず、男達が一瞬呆気に取られる。勿論そんな隙を見逃す2人ではない。
「ふんっ!!」
「把ッ!」
彼女達の拳や蹴りを受けた男達が文字通り吹っ飛んだ。そして路地の壁に激突して、そのまま白目を剥いて気絶した。
「な、なんだ、こいつら!?」
「くそ! もういい、殺せ!」
思わぬ反撃に激昂した男達が凶器を振りかざして襲い掛かってくる。だがどれだけ凶悪でも、プログレスでもないただの人間などディヤウスたる彼女達の敵ではない。男達の凶器を躱し、反撃で次々と気絶させていく小鈴とぺラギア。
銃を持っている男達が躊躇う事無く2人に発砲してきた。だが小鈴は真紅の梢子棍……『朱雀翼』を顕現させて、全ての銃弾を弾き落とした。ぺラギアも光り輝く小盾『アイギス』を顕現させて銃弾を弾く。
ありえない現象に目を剥く男達をそのまま軽々とKOしてしまう小鈴達。これで襲ってきた連中は全滅だ。
「他に仲間はいないようだね。ま……普通ならこれで充分だろうからね」
「もう終わり? 碌に運動にもならなかったわ」
周囲を確認するぺラギアの言葉に、小鈴は『朱雀翼』を収納しながら鼻を鳴らした。いかにクズの犯罪者どもとはいえ、プログレスではないので殺す訳にもいかないし殺すまでも無いだろう。
しかしもしここにいたのが天馬だったら、今頃この男達の命はなかった可能性がある。彼は自分に敵対する者には誰だろうと容赦しない。そういう意味では彼等はむしろ運が良かったのだ。
「ひぃ!? な、何だ、お前ら、化け物か!?」
運転手が目を剥いて逃げ出そうとするが、その首にラシーダの『セルケトの尾』が巻き付いた。
「ぐぇっ!」
「あら、どこへ行くの、運転手さん? 私達はランセリア空港までお願いと言ったのよ? 職務放棄は頂けないわね」
首を絞める圧力に呻く運転手にラシーダはにっこりと妖艶な笑みを浮かべて促す。運転手に出来たのは、泡を吹きながら必死に頭を縦に振る事だけであった……