探偵のトラウマ
俺は船が嫌いだ。しかも俺が現在乗船しているような、大西洋を横断する大型客船は特に嫌いだ。
足元にしっかりした大地はなく、足の下は100マイル以上もただの水である。
こんなに具合の悪い状態はそうないだろう。それに、いくら20世紀も四半世紀過ぎたとはいえ、大海はいまだ未知の領域である。
この暗い暗海の底には何が居るものか、分かったものではない。
俺の名はジョージ ジョンソン。職業は探偵だ。
何の因果か大嫌いな船でイギリスくんだりまで行く羽目になってしまった。
その経緯はこうだ。ご多分に漏れず、探偵の俺の普段の日課は人の尾行だ。ほとんどが浮気調査などチンケな仕事ばかり。
しかし、今回の仕事は違っていた。浮気調査には変わりはないが相手はかなりの大物だ。
調査結果が黒と出れば、それをネタに離婚が成立、多額の慰謝料がその男の妻に入る。
依頼料も破格である。で、その男は何を考えてるのか、わざわざイギリスまで女を連れてご漫遊と来たもんだ。
俺も仕方なくこの船に乗ってるって訳だ。
俺は一番安い個室を取って乗船していた。大部屋はなにかとプライベートが侵害される。
俺のような仕事には向かない。
本当の事を言えばターゲットに近い最上級の部屋を取りたかったが、必要経費は後払いで俺には金が無い。そういうことだ。
調査のターゲットはウォール街の立役者、アンドリュー パーマーとその秘書だ。
奴らは最上級の個室を取っていた。潜り込むにはVIPが多く乗船しているせいで警戒が厳重、簡単には行かなかったが、実を言うと既に俺は証拠となる写真を手に入れていた。
まず俺は乗船クルーの制服をかっぱらい、高級エリアに侵入し、隣の部屋から天井裏へ。
船の天井はダクトが多く、腹ばいになれば、何とか人一人通れる広さだ。俺は8時間粘って、決定的な証拠をつかんだ。その後、6時間かかって自室に戻った。大変な苦労だった。しかし、これをアメリカに持ち帰れば必要経費別で5千ドルが転がり込む。
問題は、アメリカ-イギリスの往復の船旅が俺を待ってるってことだけだ。
狭い個室にいても気が滅入るだけだ。
少し気分転換に船内を歩いてみる。さすがに大型客船だけあり広くて豪華だ。海の上にいることを忘れそうになるが微かな揺れが俺の心にさざ波を立てる。
廊下の突き当たりのドアを開けるとそこは甲板だった。
引き返そうかとも思ったが、気になる事があり甲板へ踏み出した。
俺は恐る恐る海を見下ろした。何か嫌な予感がしたからだが、冗談じゃない。
とんでもないものが見えた。人影が船の外壁に張り付いている。
俺は思わず、船縁から飛びのき、デッキの壁に張り付いた。
やはり居たんだ・・・。これだけ広い海だ。半魚人の1匹や2匹居てもおかしくはない。
俺は意を決し、もう一度俺は船縁をのぞき込んだ。
やはり居た。しかも、少しづつ登ってきている。
どうする?
逃げても所詮船の上だ。逃げ場などない。
「おい、そこの・・・半魚人。」
俺は話し合いで、帰ってもらうことにした。
半魚人は俺の声が聞こえたのか、上を見上げた。
俺と目が合う。緑色の幕の張ったような目だ。
「言葉が解るか?」
半魚人は前よりも増して速度を上げ、船の壁を登り、とうとう甲板に到着した。
俺はヒップホルスターの拳銃を確認しながら、じりじりと後ずさりした。
「おまえ、言葉が解るのか?」
再度、俺は質問した。言葉が解らなければ話し合いなどはなからできない相談だ。
「アメリカ人か、英語なら得意だ。」
俺は目をむいた。半魚人が流暢なアメリカンイングリッシュを話したからだ。
「そう驚くな。私たちの生活圏は広いんだ。それに私を半魚人と呼ぶな、地上人。」
「・・・何と呼べばいいんだ。」
「人の名前を尋ねるなら、自分の名を先に名乗るのが礼儀だろ?」
半魚人は不敵に広い口の端を吊り上げた。俺はなんだか馬鹿にされているような気がした。
「・・・俺はジョージだ。ジョージ ジョンソン」
「ジョージね。私の名はスベラ。君たちの発音できる音にするとそうなる。」
「何をしに来た。この船に何か用か?」
「用がなければ来てはいけないのか?」
「お前はチケットを持っていない。無賃乗船になる。」
我ながら馬鹿な意見だ。
「この船はどこからどこへ行くのかね?」
「ニューイングランドからイギリス行きだ。」
「チケットはニューイングランドからイギリスまでの料金だな?」
「そうだ。」
「では、私には払う義務はない。途中で乗って途中で降りるからだ。」
スベラはそう言った。
「用がないのなら、さっさっと降りろ。」
「用がないとは言っていない。タバコを持っているか?1本くれないか?」
俺は警戒しながら内ポケットから紙巻きタバコの箱を取り出し、1本渡した。スベラの水掻きのついた指に触れないように気をつけながら。
「マッチ」
タバコを咥え、スベラは言った。
俺はマッチの箱を投げ渡した。
スベラは鉤爪のついた指で器用に火を付けると、うまそうに一服吸いこむと、腋の下にあるエラから煙りを吐き出した。
「水の中では、こいつが吸えないんでね。」
そう言うとスベラはまた、ゆっくりとタバコを吸った。
「・・・お前、もしかして、タバコを吸うために来たのか?」
「君は顔の割りに親切だ。タバコのお礼にこれをあげよう。」
タバコを吸い終わり、足で踏み消してスベラはそう言い緑色に輝く小さな珠を俺に渡した。
「この珠は幸運のお守りだ。私たちの世界では取るに足らないものだが、君たちの世界では破格の値で取引されると聞いている。」
スベラは船縁を乗り越え言った。
「それでは、タバコをどうも。」
言い終わると、スベラは真っ暗な海に飛び込み、消えていった。
俺は甲板にへたり込んだ。ほんの5分程の間だったが、右手に握った緑色の珠がある以上夢ではなさそうだ。
「やっぱり居たんだ。思った通りだ。」
俺は止めた息を吐き出すように呟いた。
悪い奴らじゃ無さそうだが、もう1度会いたいとは思わなかった。
世の中には浮気をする男、それを付け回す探偵、そしてタバコを吸う半魚人。いろいろな奴らが居るもんだ。
俺はイギリスからアメリカへは絶対、飛行機で帰ろうと心に誓った。