切り替え
本戦第二回戦、第六試合。
第一回戦でユウシアが戦ってから、二日後だ。
(……やっと)
やっと、戦える、と、ユウシアは控室で静かに拳を握る。
この試合は、第一回戦の第十一試合と第十二試合の勝者が戦う試合。つまり、ヴァイツとユウシアの試合なのだ。
普段は試合の直前まで誰かと話をしているユウシアだったが、今回に限っては、この部屋にはユウシア以外誰もいない。ユウシア自身が拒否したのだ。
「……切り替える」
何故そうしたか。ユウシアはその理由を口に出し、しっかりと意識する。
そう、切り替える。
この世界で、ファナリアで学生として過ごすユウシアではなく。
生前ソナリアで、暗殺者であったあの頃。“序列一位”と呼ばれていた自分に戻る。
「容赦はしない。慈悲はない。情けはかけない。一切の感情を捨て去り、ただ目的のために動く。それが暗殺者としての俺の姿……」
そう、自分に言い聞かせる。
「目的……俺のリルに手を出そうとしたヴァイツ。殺しはしない。それは出来ない。だから、死にたいと思わせる。死にたいと思う程痛め付ける。絶望させる。絶対的な力の差を見せ付ける。自分が今まで何をしてきたのか、それを思い知らさて、自分の行動を後悔させる。再起不能になっても構わない。死にさえしなければ……」
それはまるで、洗脳の如く。
自分の脳に“仕事”の内容を刷り込んで、ただそれを実行する人形と化す。
仕事に、余計な感情はいらない。余計な思考もいらない。与えられたミッションを完璧に遂行する、ただそれだけを考える。
いつしかユウシアの瞳からは、光がほとんど失われていた。纏う雰囲気もまるで別人だ。
彼はその後、椅子に腰掛けたままピクリとも動かす、試合開始を待ち続けた。
++++++++++
「…………」
闘技場にて。ユウシアは、ただ無言で、小さく俯いたまま立っていた。
その向かいにいるヴァイツは、そんな彼の姿に、自分との戦いを恐れているのだなどと思い込む。
「オイオイ、俺にこれまでの全てとやらを後悔させるんだろ? それともアレか? あんなバカみてぇな宣言して後悔でもしたか? ハッ、ちゃんと考えてものを言うんだったなぁ!」
ニヤニヤと笑って、挑発するようにペラペラと喋るヴァイツに、ユウシアはただ一瞬だけ視線を向ける。
「ひっ」
ただそれだけで、ヴァイツの口から小さな声が漏れる。水色の前髪から覗いたあの暗い瞳には、一体何が映っていたのか。ヴァイツに勝利するイメージ、ではないだろう。かと言って、負けるイメージでもないとヴァイツは思った。何も映っていない。それが正しいのではないか、と。
その雰囲気に耐えられなくなったヴァイツは、始めろ、という意思を込めてエルナに視線を送る。
『えーと、なんか変な空気ですけど……行きましょうか! それでは、第二回戦第六試合、開始ッ!』
「すぐに終わらせるッ!」
ユウシアから何か嫌な空気を感じていたヴァイツ。彼らしくもなく、早く試合を決めてしまおうとして剣を片手に走り出す。
しかし、その直後に気が付いた。
剣を持っていたはずの右手に、感覚がないことに。
「……?」
ヴァイツは思わず足を止め、首を傾げながら右手を見る。
――しかし、彼が自分の右手を見ることはなかった。
「……は?」
素っ頓狂な声を上げるヴァイツ。
――ない。
右手が、どこにも。ほとんど肩から、どこにも見当たらない。
混乱のあまり痛みを感じる間もなく、ヴァイツはゆっくりと顔を前に向ける。しかし、そこにいたはずのユウシアもまた、見当たらない。
深くなる混乱の中、ヴァイツは、観客からのワァァアア、という歓声……いや、悲鳴を耳にした。
思わず振り返るヴァイツ。
「なっ」
ユウシアは、姿勢を全く変えないまま、自分の後ろに立っていた。右手には漆黒の短剣。そして、左手には変わった形の武器を……いや。
(武、器……? いや、あれって)
「あ、あ、あぁぁ……」
声を上げるヴァイツには目もくれず、ユウシアは左手に持っていたそれを無造作に投げ捨てた。
「お、俺の、俺の腕がぁぁああああっ!!」
やっと現状に意識が追いついたのか、ヴァイツは痛みに顔を歪め、右肩を押さえながら叫ぶ。
そんなもの耳に入っていないかのようにゆっくりと振り返ったユウシアは、短剣に付着した血を振って落とすと、それを仕舞いつつ左手を霞ませる。
「――あ?」
叫んでいたヴァイツは、何かに気付いたかのように視線を下に向ける。
両足に、何かが刺さっている。
投擲用のナイフ、に見えた。それが、深々と。
「う、ご、かない……?」
たった一本ずつのそれに、足が地面に縫い付けられ、ピクリとも動かない。大した長さもないはずなのに、だ。
「な、なんでだよ……抜けろよ、オイ……」
必死になって引っ張るも、足が食い込んで痛みを訴えてくるだけで、ナイフは動かない。
ならば抜いてやる、と屈もうとしたヴァイツの視界に、ユウシアの足が入り、そして、消えた。
「ぎゃっ!」
ユウシアが足をどかした訳ではない。いつの間にかヴァイツの目は、空を映していた。
蹴られたのだ、と気付いたのは、勢いよく首が上がった反動で戻っていく視界の中に、足を大きく上げたユウシアが入り、それと同時に額を痛みが襲ったとき。
ヴァイツは痛む額を押さえようとして右手を失ったことを思い出し、左手で押さえようとして……左手も感覚がないことに気が付いた。
「ま、さか」
ヴァイツは呟きながら、左に目を向ける。
そこには、あるはずの左腕が、やはりなかった。
「は、ははは、は……」
痛みだとか、そういった感情を通り越して、笑いが込み上げる。
何だこれは。試合? ふざけている。こんなもの、一方的な虐殺だ。
ヴァイツは、目の前のユウシアであれば、この悪魔であれば命すらもあっさり奪いそうな気がして、そんなことを考える。
そのユウシアは丁度、上げていた足を下ろし、拳を握りしめるところだった。
消えるユウシアの右手。ヴァイツの左頬に走る痛み。吹き飛ばされた顔が右側を向ききらない内に、そちらからも衝撃が走り、今度は左側へと吹き飛ばされる。するとまた右側へと吹き飛ばされ、左側へと……その繰り返しだ。
殴られ続けたヴァイツの顔は、すぐに面影も残さない程に腫れ上がる。
しかし、それをやった本人は、無表情を変えずにただ淡々と拳を振るい続ける。
次第に、辺りに響く音に、肉の音ではなく骨の音が混ざり始める。
顔が膨れる程殴られたヴァイツは、頬や鼻などの骨が砕けるのを感じていた。
「…………」
ヴァイツはもう、何も喋ろうとしない。偶然か意識してのことか、口の周りは傷付いていなかったのに。
「……後悔、させる。死にたいと思わせる、力の差を見せ付ける」
いつしかユウシアは、自分の目的を口に出して繰り返すようになっていた。
十五年は、長かった。暗殺者だったユウシアを風化させるには、十分すぎる時間だ。
「……っ」
ユウシア自身も、自分が戻っていくのを感じていた。
いくら目的を繰り返して自分に言い聞かせようとも、それが頭の奥まで入ってこない。暗殺者の“序列一位”に戻れない。
「……もう、いい」
ユウシアは小さくそれだけ呟くと、ヴァイツの体を思い切り蹴り飛ばす。深く突き刺さっていたナイフが抜ける程の威力で放ったそれは、ヴァイツを遠くまで吹き飛ばすと、そのまま意識を失わせた。
「前世の俺は、もういないんだな……」
ユウシアは空を仰ぎながら、小さく呟いた。
本当は間に、ゼルトとか、二回目のアヤとかフィルの試合もあったんですけどね。全カットしてら思ったより早くなった。