進歩
ぐきゅるるぅぅ。
梨花の腹が盛大に鳴った。昼ごはんを食べていないのだから、当然だと言えた。
技師長が露骨に溜め息を吐く。
「休憩時に昼飯を食わなかったのか」
「……はい」
梨花は小声で頷いた。休憩時間を大幅にオーバーして寝ていたのだ。情けない気持ちになる。目からこぼれそうになる液体は涙ではない、きっと汗だ。梨花の黒縁メガネが盛大に曇るのも、きっと湿度がおかしいせいだ。
技師長が何やら仕事しているが、ロクに見えない。
技術や経験をものにする夢は、早くもつまずこうとしていた。
「梨花さん、手を出せ」
技師長が言ってきた。
梨花は素直にさしだす。すると、少し手のひらが重くなるのを感じた。
「これで昼飯を買ってこい。向かいにコンビニがある」
梨花は黒縁メガネの曇りが取れるのを待つ。手のひらに乗せられたものは、千円札であった。
「技師長!?」
「昼飯を食べないと集中できないだろ。さっさと行って来い」
「ありがとうございます!」
梨花は深々と頭をさげた。操作室を出て、病院の外へ急ぐ。
しかし、急ぎすぎるのは災いのもとで。
曲がり角で誰かとぶつかってしまった。病院内なので少しは気を使って走っていたのが功を奏して、尻もちはつかずにすんだ。ぶつかった事実は変わらないが。
「すみませんってあれ?」
「ああ、梨花!」
光輝だ。黒縁メガネを書けなおして確認したが、光輝だった。爽やかな笑顔で梨花を見てくれる。
「急いでいるみたいだね。どうした?」
「お昼ごはんを買いに行くの。急がないと!」
梨花が走り出すと、光輝が何故か一緒に走る。
「休憩時間じゃないのか?」
「休憩はとっくに終わっているの。でも、ずっと寝ちゃって……」
樹がお昼ごはんを食べずに働いているのに、休憩時間を大幅にオーバーして寝てしまったのだ。恥ずかしい行為だ。
しかし、光輝は屈託なく笑う。
「よほど疲れていたんだ! 頑張ったんだな~」
「うう……樹くんの方が頑張っていたよ」
「梨花だって頑張った! 樹くんはすごいけど、比べる事はない。自信持って!」
光輝の励ましは、梨花にとって心洗われるものだった。腹の虫が騒ぐのもあって、泣けてくる。
「ありがとう」
「また泣いてる。女の子は笑顔が一番!」
そう言って、光輝はハンカチを差し出した。鼻が垂れてる、汚す、と言って断ったが強引に顔を拭き始めた。互いに走りながらだというのに、器用なものだ。
病院の出入り口にあっと言う間についた。道路を挟んだ向かい側にコンビニがある。しかし、車の行き来が激しくて渡れない。
「横断歩道があるから、使おう」
光輝が指さす方向に、たしかに横断歩道があった。信号が変わるのを待つ。そこで梨花は気づいた。
あれ、これはもしかして事実上の二人っきり?
梨花の心臓がバクバクする。
光輝と何か話したい! 梨花は必須に話題を切り出した。
「きょ、きょきょ今日はいい天気だね」
「曇ってるよ」
黒縁メガネを掛け直す。落ち着いて空を見上げると、たしかにどんよりとした暗い雲が覆ってた。
会話はいきなり撃沈である。
光輝が心配そうに、梨花の顔を覗き込む。
「大丈夫? 辛そうだ」
「平気! なんでもないから」
「愚痴くらい言っていい。誰も聞いていないから」
「大丈夫、本当に大丈夫だから!」
恥ずかしくて体温が上がるのを感じる。逃げ出してしまいたい。しかし、本当に逃げたらお昼ごはんを買えなくなる。信号が変わるのを祈るばかりだ。
「信号変わらないなー」
偶然だろうが、光輝も信号が変わるのが遅いと感じているようだ。
ふと、自転車が二人の傍に止まる。おばあさんが乗っている。
「脳外の新しい職員さん? そこのボタン押さないと変わらないよ」
「ありがとうございます!」
光輝が瞬時に反応して、横断歩道の傍に立つ電柱に近づく。そこにはたしかにボタンがあった。『渡る方は押してください。信号が青になってから渡ってください』と赤文字で注意書きが添えられていた。
ほどなくして、信号が変わる。おばあさんは満足そうに去っていった。
「親切な人がいるね」
梨花が言うと、光輝が頷いた。
「よかったよかった。梨花の笑顔が見れてよかった」
「あ、ありがとう」
ほてりを感じたが、お礼を言えた。
進歩よ! 私は進歩したの!
梨花は踊り出したい気分であった。
しかし、本当に踊っていると信号がまた変わるので、さっさと渡る事にした。