休憩
階段を上ってドアを開けると、廊下を挟んで、ナースステーションがある。ドアの隙間から覗き見ると、看護師たちが慌ただしく行き来していた。点滴や生体情報モニターなど、梨花には扱えないものが並んでいた。
梨花は戸惑った。休憩所に行きたい自分は、場違いである。
「お、おじゃましましたー……」
そう言いつつ、ドアを閉めようとした時だ。
技師長に呼び止められる。
「梨花さん、まだ休憩に行っていなかったのか!」
梨花は両肩をビクッと震わせる。自分が何か悪い事をしたかのような、バツの悪さを感じる。
「す、すみません」
「休憩所はこの先にある。おかずもご飯もセルフサービスになっているから、取り忘れないように!」
「は、はい!」
本当にここを通っていいの? などと思ったが勢いに押されて通ることにした。
両足をガクガクさせながら、一歩ずつ進む。慎重に、周りに気を配りながら。
病室から出てきた患者さんに心配されたが、梨花は引きつった笑顔を浮かべながら通り過ぎる。
休憩所は思いの外広かった。天井は高く、清潔感がある。幾つもの白い長机に向かって椅子が並ぶ。
簡素なデザインだが、なんとなく落ち着ける。
梨花はようやく安堵の溜め息を吐いた。
「疲れた……」
思わず机につっぷす。一気に疲れが押し寄せてきた。
思えば、長い一日であった。遅刻寸前だったために全力で走ったし(結局は遅刻したが)、今まで触れた事のないMRIを一人で操作した。疲れない方がおかしい。
少しくらい寝てもいいか。誰が禁止しても、私が許す。
梨花は自分を甘やかして、眠りに落ちた。夢も見ないほど深い眠りであった。
そして時が経ち。
梨花は自分のお腹が鳴る音で目が覚めた。
「ご飯食べなきゃ……」
黒縁メガネを引き上げ、重いまぶたをこする。休憩所は梨花一人になっていた。
ふと、電話が鳴る。梨花はだるい身体に鞭打って、受話器を取る。
「もしもし、梨花です」
「梨花さん、まだ休憩していたのか!? いつ戻るつもりだ」
技師長だ。口調が荒らい。怒っているのは明白だ。
私、ご飯まだなんですけど……。
そう言いたいが、文句を言ったらますます怒るだろう。
梨花は努めて冷静な口調になる。
「ご飯を食べたら戻ります」
「まだ待たせるのか!? 呆れた!」
そして、電話は切られた。
梨花は何を怒られているのか分からなかった。少し寝ただけなのにと思いつつ、壁に備え付けられた時計を見る。
時計の針は、梨花が休憩室に来てから二時間経っていた。つまり、梨花は二時間寝てしまったのだ。
「うそぉぉおおおお!」
梨花は絶叫して、休憩室を出る。
休憩をどれくらい取っていいかは聞かされていなかったが、同僚の樹が休憩を取れないのに、二時間も寝てしまったのは問題だろう。技師長が怒るわけである。
慌てて操作室に戻るが、技師長は見るからにカンカンであった。両目を釣り上げてMRIを操作している
梨花は土下座したい気分であった。しかし、床に頭を付けたらメガネが外れるかもしれない。メガネが外れたら何も見えなくなるため、致命的だ。
梨花は土下座する代わりに何度もペコペコと頭を下げた。
「すみません、本当にすみません!」
「すみませんじゃないだろ。樹君がどれほど待ったと思っている!?」
「二時間、ですね……」
梨花は血の気が引くのを感じていた。
そこへ、樹が追い打ちを掛ける。
「梨花さん、こんなタイミングで悪いけど……山田太郎様は明らかに画像が異常だったんだから、言ってほしかった」
「え……」
梨花は両目をパチクリさせた。暑くないのに、滝汗が流れる。
技師長が取り次ぐ。
「慢性硬膜下血腫だったんだ。幸い、患者さんにはほとんど症状がなかったから良かった。MRIを操作して半日しか経っていないから分からなくても仕方ないけど、今後は気をつけてほしい。そ・れ・よ・り・も、俺の休憩時間をどうしてくれる」
「え、樹君の休憩時間は……?」
梨花が尋ねると、技師長は眉根をピクリと上げた。
「ひねり出すしかないだろう。どっかの誰かさんが余分に休憩を取ったから、俺が休憩時間を減らすしかない」
「すみません……」
梨花は涙目で謝るしかなかった。私だってご飯食べてないです、という言葉は飲み込んだ。
技師長は鬼のような顔つきだ。
「やる気がないなら、やめてもいい。今後こんな事が続いたら迷惑だ」
「技師長、それは言い過ぎ……!」
樹が口を挟むが、技師長が睨むと最後まで言えなかった。視線をそらして、うつむく。
技師長が口を開く。
「休憩に行ってこい」
「はい……」
樹は気まずそうな雰囲気のまま、操作室を出た。
梨花は改めて頭を下げた。
「すみませんでした、私の不注意でした! 少しだけ寝るつもりが、二時間も寝てしまいました。本当にすみません!」
「……やる気はあるか?」
「人の役に立つために、もっといろんな事を知りたいです! お願いします。やめたくありません!」
「……分かった、座れ」
梨花は言われるがままに、椅子に座った。
これから、どんな事を言われるのかと身構えていた。
しかし、技師長の口調は穏やかになった。
「梨花さんのやる気を疑ってはいない。患者さんに一生懸命接しようとした事は分かる。だが、確認はしたくなった。簡単にやめられたら、教える意味がない」
「は、はい……」
いきなり何を話すのだろう、と思ったが続きを聞く事にした。
技師長の背中はどこか寂しそうだ。
「人の役に立たちたい、というのはよく分かる。だが、それだけでは医療は成り立たない。確かな技術や経験がないと本物になれない。俺もまだまだ進歩が必要だ。改めて聞くが、やる気はあるか?」
「……やる気はあります。技術も経験もないから、まだ役に立てないかもしれませんが。いろいろな事を学んで、人を救える臨床検査技師になりたいです!」
「……俺はその夢を叶える気はない。梨花さんや樹君を使うだけだ。夢を叶えたければ、自分でやってほしい」
突き放している口調だが、梨花は理解した。
私、ここでまだ働いていいんだ。
「ありがとうございます!」
「何に御礼を言っているのかわからないが、しっかりやってくれ」
「はい!」
梨花は威勢よく返事をした。
絶対に、技術や経験をものにする。私の夢は始まったばかり!