支度
MRIとは、Magnetic Resonance Imagingの略である。
なんだか難しい英語が並ぶが、要するにでっかい磁石を用いて身体を撮影する検査である。大きな音がするし、時間が掛かる場合が多いなどいくつか難点はあるが、早期の脳梗塞や小さな病変の発見などに有用な検査の一つである。
梨花は今からこの検査を行う事になる。検査を受ける側でなく、検査をする側として。
「えっと……」
梨花は必死に記憶を辿る。
しかし、初めて見たもの聞いたものを覚えていられる頭はなかった。
彼女はメモを取り忘れたのではない。そもそもメモ帳を家に忘れてきたのだ。
「樹君、メモを見せてください」
恥をしのんで同僚に懇願する。涙で分厚い黒縁眼鏡が曇る。情けなくて余計に涙があふれる。
樹にしてみれば、なんでメモを見せるだけで泣かれるのだろうと思ったことだろう。
「メモを見せるから、泣かないで。あと、俺に敬語はいらない」
樹の口調はぶっきらぼうだが、表情は柔らかかった。
梨花は涙を拭いてメモを見る。技師長の言葉を綺麗にまとめていて、分かりやすかった。
自分のやるべき事が見えてくる。
「次の患者さんの支度をしてくるね!」
樹が頷いたのを確認して、梨花は部屋を出る。
「山田太郎様ー!」
大きな声で呼びかける。しかし、誰も返事をしない。
いないのかな?
そう思って次の患者さんを呼ぼうとした時だ。
ゆっくりと歩いてくるおじいさんがいる。
「おい、呼んだか? 山田太郎なんだが」
腰の曲がったヨボヨボのおじいさんだが、声はやたら大きかった。全身に金具を付けているためか、ジャラジャラと音を立てて歩いている。
梨花はホッとした。危うく順番を飛ばす所だった。
「山田太郎様ですね。どうぞ!」
梨花はMRIの次の患者さんを待たせる部屋の、更に奥へ案内する。そこには更衣室がある。
おじいさんは首を傾げた。
「何をするんだ?」
「着替えてください。靴を脱いでから入ってください」
「着替えるのか」
おじいさんは靴を脱がずに更衣室に入る。
「すみません、靴を脱いでください!」
「あ? 何か言ったか?」
梨花は困った。何を聞かれているのかサッパリ分からない。
「えっと……」
「声が小さくて聞こえない」
梨花はどもってしまう。
おじいさんは両目をぱちくりしている。
「どうすればいいんだ?」
「着替えてください」
靴を諦めて、着替えてもらう事にした。更衣室のカーペットは後で掃除しよう。
検査着を渡すと、おじいさんはそのまま羽織る。
梨花は思わず、おじいさんの手を掴む。
「チャック付きのズボンと、上着などを脱いでから羽織ってください」
「あ? 何言ってるかわからん。もっとゆっくりしゃべってくれ」
梨花は困惑した。これでもかなりゆっくり話したつもりだ。
MRI室が開く。検査が終わってしまったのだろう。
松葉杖の女性が出てくる。樹が女性に荷物を渡している。
同僚がてきぱき仕事しているに、自分は何をしているのだろうと悔しくなる。
「ズボン、上着などを脱いでから羽織ってください!」
梨花は焦りから早口になってしまう。
「悪いがあんたが何を言っているのか分からん」
案の定、伝わらない。
おじいさんの服装がMRIに支障がなければそのまま載せるという手段もあっただろう。しかし、おじいさんは見た目に似合わず金具だらけの服装であった。
樹も樹で、女性の長話に付き合わされている。次の患者さんの準備ができていない間は仕方ないと判断をしているのかもしれない。
いたずらに時間がすぎようとしていた。
そこへ、救いの神が訪れる。
光輝がいた。相変わらず爽やかな笑顔である。
「ぱんつだけ! これ、着て!」
光輝がおじいさんの耳元で言うと、おじいさんは頷いた。
「なるほど、脱げという事だったのか」
おじいさんは更衣室の扉を締めずに、そのまま着替え始める。
樹は慌てて女性を連れていく。
梨花の目が輝く。
「光輝君、すごい!」
「補聴器を付けた人がいると聞いていたから。あんなファンキーな服装のおじいさんとは思わなかったけど」
光輝のウィンクは梨花の胸を熱くした。
おじいさんは着替え終わっていた。
「さあ、検査だ!」
そのまま入ろうとするおじいさんを、梨花は慌てて引き止めた。
おじいさんの右耳を指して、ゆっくりと大きな声で話しかける。
「外して!」
普通に考えれば無礼の言葉遣いだが、伝わないよりはマシである。
「おお、すまん。忘れてた」
おじいさんは素直に補聴器を外す。気がいいのかもしれない。
光輝が今度は口元を指差す。
「入れ歯、ありますか?」
「金属はないぞ」
「外してください」
光輝はいつのまに持ってきたのか、紙コップを片手にしていた。
「尿検査か?」
尿カップと思われたらしい。
「歯、入れて」
光輝はおじいさんの口元と紙コップを交互に指差す。伝わったのか、おじいさんは入れ歯を外した。
あとは手順どおりにMRIの検査台に乗ってもらう。時折メモを見に行きながら、操作をしていく。
呼び出し用のブザーを渡したり、お布団をかけるなど、光輝は手伝ってくれた。
おじいさんがブザーが本当になるのか確かめるために、わざと鳴らしたが些細な事に思えた。
ブザー音を消してから検査に入る。MRIを自力で動かす事ができて感無量だ。
ここにきて、梨花はハッとする。
「光輝君、ここにいていいの? 研修は大丈夫?」
「緊急の手術の準備が始まっているから。手術が始まるまで、待ってろと言われた」
「そうかー、大丈夫なんだね」
梨花はホッとすると同時に、胸がざわつくのを感じた。
「えっと……緊急の手術って?」
「あれ、聞いてなかったんだ。超音波検査をやった患者さんが心タンポナーデだったって」
「脳外で手術するの!?」
「らしいよ。技師長や看護師さん達はてんやわんやだ」
梨花は血の気が引く。
技師長はしばらく戻ってこないかもしれない。
でも、光輝君がいれば何とかなる!
そう思った矢先に電話がくる。
光輝が受話器を取る。
「はい、行きます!」
いい声で返事をしている。
梨花は空いた口が塞がらなかった。
光輝は爽やかな笑顔で手を振る。
「手術が始まるから、見学に行くよ。じゃあね、頑張って!」
梨花は虚ろな目で、手を振り返すのだった。
一人は心細い。
しかし、みんなが頑張っている。
私も頑張らないと!
梨花はそう思い直してMRIと向き合った。