仕事
梨花はウキウキと持ち場に向かう。一目惚れした美男子と職場が同じなのは幸運だ。しかも、早くも呼び捨てにされた。急激に距離が縮まった気がして、有頂天であった。
緊張している樹と違って、自然と足取りが軽くなる。
階段を降りる時にうっかり足を滑らせて転びそうになったが、些細な事だ。
そんな梨花であったが、持ち場にたどり着いた時に表情が一変する。
臨床検査技師である梨花の持ち場は、検査室だ。様々な検査機器があるのは想定していた。しかし、そこには度肝を抜くような巨大な機械があった。
その機械は、検査室の隣にある。梨花がいる部屋からは、ガラス越しに見えるようになっている。ゆったりとしたベッドと、そのベッドがすっぽり入りそうな筒がある。大柄な男性がベッドに寝たと思ったら、白衣の男性が何やら作業をする。すると、ベッドがどんどん上昇し、筒へと吸い込まれていく。音を立てながら大の男を悠々と飲み込む様は、奇怪な儀式にも思えた。
梨花は自分の身体がこわばるのを感じていた。
半開きの扉から、白衣の男性が出て来る。名札には技師長と書かれている。
「やっと来たか! これからよろしく」
技師長は笑顔であったが、目元が笑っていない。梨花と樹が自己紹介をしても、ガラス前に設置されたパソコンの操作を始めている。
五秒後には、真っ暗だった画面が切り替わる。
人の脳の断面像が映し出されていた。
「すごい……!」
「これがMRI……!」
梨花と樹が思わず声を出すが、技師長は既に次の動作に入っていた。
脳の断面像にカーソルを合わせて、何やら複数の線の位置を調整している。
「これから君たちにもやってもらう。流れをよく見ておくように」
「はい!」
技師長の言葉に、樹は素早く反応してメモを取り出していた。
何も理解していない梨花は、ただただ呆然としていた。
そんな折に、声を掛けられる。
「すみません、検査の時間を教えてください」
光輝であった。小さな窓から顔を出して、こっちを見ている。爽やかな笑顔が場を癒やす。梨花はのぼせた。
光輝君、ちゃんと敬語も使えるんだ。
技師長も笑顔で応える。
「研修医さんか。そこに時間が書いてあるから、患者番号を確認して伝えておいて。検査の三十分前には待っててもらって、緊急によって時間が前後する可能性がある事も言っておいて」
「はい、分かりました!」
光輝はハキハキと返事をして、窓の傍のドアをノックして入る。既に入れと言われているからノックする必要はないと思うが、律儀だと梨花は思った。
光輝は手早く時間を確認して、患者さんに伝える。丁寧な物腰で、話しかけられた患者さんが惚れるかもしれないと梨花は感じた。
しかし、樹の表情は違った。
「技師長、あの仕事は俺もやる仕事ですよね?」
「よくわかったな。普通は患者さんだけこっちに来るから、自分で伝えなければいけない。たぶん身体が不自由で自力じゃこっちに来れない患者さんだから、連れてきてくれたんだろう。さて、降ろすか。二人ともついてきて。ペンは置いてくるように」
技師長がMRI室のドアを開ける。ボタン操作をして、ベッドを移動させている。患者さんが降りると、次の患者さんを呼んでベッドに乗ってもらう。
松葉杖をついている女性だった。左足には包帯を巻いている。ベッドに寝る時に、腰が痛いと訴えてきた。
なんで腰が痛いんだろうと梨花は疑問に思ったが、技師長から右を向かせるように言われたため、そのとおりにした。
あとは技師長と樹がいろいろやって検査の準備を整えるのを、梨花は見ているだけだった。
女性を乗せたベッドが筒の中に入ったのを確認して、三人は検査室に戻る。
樹が鬼気迫る表情でメモを書く。忘れないうちにと必死なのだろう。
梨花もメモを取ろうとする。しかし、ここで重大な事に気づく。
メモ帳を家に忘れてきた!
できるだけ覚えるしかないと思い、梨花は頭の中で反芻した。
幸い、MRI検査は何度もあった。そのたびに、梨花は忘れやすい部分を補完していった。
しかし、試練は訪れる。
もうすぐ昼休みという時間帯に、電話がきた。技師長は電話に出ると、声を荒立てた。
「無理です! 新人はまだMRIの操作ができません。何かあったら誰が責任を取るのですか!? え、院長の命令ですか……」
技師長は深い溜め息を吐いて、受話器を置いた。
「……樹くん、梨花さん。超音波検査が入ったから席を外すけど、ピッチを持っていくから何かあったらすぐに電話して」
「え、今からですか!?」
樹の声が裏返る。
技師長は乾いた笑いを浮かべる。
「院長の命令だ。すぐに見てほしい患者さんらしい。患者さんがくるまで時間があるだろうから、もしもの時にMRIを緊急停止する方法を教えるから頭に叩き込んで」
「技師長、超音波検査をお願いします!」
光輝君が小窓から顔を出していた。天使の笑顔が可愛らしい。
「あと、すぐにお願いねと伝えるように五十嵐さんから言われました。やり始めるまで見張っておくようにとも。患者さんは生理検査室前に案内しています!」
「わかった、すぐにやるから」
技師長の笑顔が引きつる。すぐに来やがって、と呟いたのはきっと気のせいだ。MRIの操作説明書の目次を指差していた。
技師長が部屋を出て行く。
梨花と樹の顔面は蒼白した。
「え、もしかして」
「俺たちだけでMRIを!?」
互いに顔を見合わせる。
しかし、樹の表情はすぐに変わる。
「やるしかない。患者さんのためだ」
その言葉は梨花を奮い立たせた。
頑張ろう。