ゴッという鈍い音がした
俺と彼女はどこからどうみてもラブラブで、結婚秒読みだなんて周囲からは冷やかされてたし、実際俺も近いうちに彼女にプロポーズしようと思っていた。
「別れましょう」
だから土曜日の午後、突然俺の家にやってきた彼女の開口1番の言葉に、俺は間抜けな顔で首をかしげることしかできなかった。
「それじゃ、私帰るね」
テーブルの上に置かれた合鍵は付き合いだして3年目の記念日に彼女に渡したもので、彼女はよくそれを使って家の掃除や洗濯をやっていてくれた。
「ちょ、ちょっと待って。なんで突然別れ話なわけ?俺、何かした?」
まさに玄関を出ようとしていた彼女の腕を間一髪で捕まえて、強引にドアを閉める。
「俺は由利のこと大好きだし、由利も俺のこと好きだろ?」
なにせ俺は平均よりかなり整った顔立ちで、それに甘んずることなく日々彼女を楽しませる努力もしている。
毎日の電話は欠かさないし、週に1度はデートもしてる。
2人の記念日を忘れたことはないし、盛大にお祝いもしてる。
なのに俺がふられる理由がわからない。
由利は俺が手を離す気がないとわかるとハンドバックから茶封筒を出して俺の眼前に突き出した。
「中、見て?」
中身はどうやら写真のようで、何やら嫌な予感がしながらも恐る恐るそれを取り出した。
「それみたら、私が別れたい理由わかるよね?」
それは数日前に犯してしまった俺の一夜の過ちの証拠写真だった。
「2人でラブホに入るとこバッチリ撮れてるけど、まさか中で朝までお話してたなんてことはないでしょ?」
「ご、ごめん!」
彼女の言葉にかぶせ気味で謝る。
ついでにオプションで土下座もつけた。
「俺が悪かった。だからゆる「そういうのはいらない」
一世一代の俺の謝罪を遮ったのは、ブリザードのような冷たい声。
顔を上げればもちろんそこには彼女しかいないわけで、でもいつも優しい俺の由利がこんな声を出せるはずがない。
今のは幻聴だ、そうに違いない。
「俺が好きなのは由利だけなんだ。だから「私はもう貴方に興味ない」
涙目で彼女の手を掴んで懇願したら、やんわりとその手を離された。
「許すとか許さないじゃないの。私だけを見てくれない人と付き合うなんて無理だし、もう貴方のこと好きじゃないの。ただそれだけ」
終始微笑を浮かべ、全く感情のこもっていない声でそれだけを一気に言い切ると、彼女は今度こそドアノブに手をかける。
「俺は由利しかいないんだ!由利と別れたら死ぬからな!」
なんとか彼女をこの場に留まらせたくて、咄嗟に叫ぶ。
彼女の肩がピクリと動いてゆっくりと俺の方に振り向いた。
そこにずっと浮かべていた微笑はなくて、代わりに汚いゴミを見るような軽蔑しきった眼差しがあった。
「どうぞご自由に」
最後の最後に心底嫌われた。
気づいたときには後の祭りで、俺は伸ばしていた手を力なく下ろす。
金属の扉が閉まる音がやけに大きく聞こえた。
俺と彼女の出会いは高校生のとき。
俺はクラスのムードメーカー的な存在で、彼女は言っちゃ悪いけど空気のような垢抜けない女の子だった。
3年間同じクラスだったけど、正直3年の初めまでは顔すらまともに覚えてなかったと思う。
そんな彼女を意識するようになったのは今でも忘れない3年の春、体育館裏でのこと。
当時からかっこよかった俺は不良グループのトップの彼女に惚れられちゃって、そんでもって不良達にリンチにあいかけてた。
今でも思い出すだけでゾッとするけど、メリケンサックを高校生が持っちゃいけないと思うんだよね。
まぁとにかく俺は高3にして初めて死を覚悟したわけで、とにかく自慢の顔だけは守んなきゃと両手で顔をガードしたの。
ゴッゴッて鈍い音が続けざまにして、続いてドサッとなにかが倒れる音。
俺に浴びせられてた怒声もいつの間にか止んでて、ゆっくりと腕を退けたら、そこには倒れてる不良達と分厚い本を持った女の子。
「逃げるよ」
未だに状況を理解できてない俺の手を掴んで走り出した彼女に、惚れない方が無理だから。
あとからよくよく考えたら分厚い本で相手の急所を容赦なく殴る彼女は正直変わっているけれど、そんなことどうでもよくなるくらいあの時の由利はかっこよかった。
よく少女漫画とかでピンチのところを助けてもらって恋に落ちるとかあるけど、実際落ちるから!
気づいたら俺は校門のところまで来ていて、そこでようやく彼女は俺の手を離した。
「何があったか知らないけど、今日はもう帰った方がいいんじゃない?」
恐怖と恋のドキドキでうまく喋れない俺は何度も首を縦に振る。
そこで彼女は初めて小さく笑って、真正面から見たその笑顔に更に惚れた。
帰っていく彼女の後ろ姿を見つめながら、俺は絶対に彼女と恋人になろうと決めた。
「昨日はありがとう」
翌日お礼のお菓子を持って彼女に近づけば、彼女は不思議そうな顔を俺に向けた。
「えっと…何?」
「いや、昨日助けてくれただろ?そのお礼をしようと思って」
最近女の子に流行りのチョコレート専門店の箱を差し出せば、彼女は表情を変えないままそれを受け取る。
「別に大したことはしてないけど、くれるっていうならもらうね」
あれ?反応それだけ?
この小さな箱を買うために俺は今朝1時間も並んだんだけど。
しかしそんなみみっちいことをこのイケメンの俺が言うわけにもいかなくて、とりあえず会話を続けようと彼女の前の席に座る。
「え、まだ何か用?」
明らかに会話終了の雰囲気を醸し出していた彼女はひどく困惑した表情で俺を見つめる。
「もっと話したいなーと思って。それ何読んでるの?」
彼女の手元にある本を指せば無言で表紙を見せてくれて、難しい漢字が並ぶそれに曖昧に笑って首をかしげる。
「本好きなんだ。そういえば昨日も本持ってたよね。俺にも読めそうな簡単な本ってある?」
「えっと……水野君」
「うん?」
俺の質問をまるっと無視して彼女は姿勢を正してまっすぐにこっちを見てきた。
「貴方が何を考えてるのか全く見当もつかないんだけど、私の名前も知らないくせに話しかけてくるなんてどうかと思うの。お礼ならもう貰ったし口止めなんかしなくても昨日のことは誰にも話さないから読書の邪魔をしないでくれる?」
彼女の言葉に横っ面を叩かれたような気がした。
そうだ、俺は彼女の名前さえ知らない。
彼女はそれを知っていて、それでいて昨日は助けてくれて今も誠実に対応してくれている。
「俺の…名前は知ってるんだ」
「だって、クラスメイトじゃない」
さも当然のように言う彼女はきっとクラスメイト全員の名前を覚えているんだろう。
そんでもって俺はその中の1人なんだ。
それは、すごく…嫌だ。
「君の名前を教えてください」
彼女を見習って姿勢を正してそう聞けば、少し逡巡した後彼女は口を開いた。
「……原田由利」
「原田由利さん。俺は昨日貴女に助けてもらってから貴女に惚れてしまいました。そんで今も話しながらどんどん貴女に惹かれてます。どうか俺と付き合ってください」
ここは教室で今は昼休みで、クラス中の視線が俺に集まっているのはわかっていたけど、それでも彼女に言いたかった。
俺の一世一代の告白に初めポカンとしていた彼女の顔はしかし徐々に赤く染まっていって、新しい表情に胸がときめく。
「ねぇ、由利ちゃん。お願いだから俺と付き合って?」
彼女の手をとってそう囁けば、すかさずその手は引き抜かれ距離を取られる。
「み、水野君は今お付き合いしている人がいるんじゃないんですか!?」
「女友達はいっぱいいるけど彼女はいない。由利が嫌だっていうならその子達ともう連絡も取らない。だから付き合って」
「そ、そんな言葉が信じられると思ってるんですかっ!!」
「じゃあ今から消す」
ポケットから携帯を取り出しアドレス帳を開く。
まとめて入れておいた女の子達のアドレスを彼女の目の前で一括消去する。
「これで信じてくれた?」
「え……はい」
「じゃあ俺と付き合ってくれる?」
「そ、それとこれとは話が違うから!」
この後押して押して押しまくってなんとか彼女から言質を取った俺はそれからは女遊びもきっぱりやめて由利だけに尽くした。
「なのに…なのに…」
涙が止まらない。
いくら酒でベロベロだったとはいえ、どうして俺は浮気なんかしちゃったんだろう。
由利がそういうことをことさら嫌っていたことは俺が1番よく知っていたのに。
駄目だ、ここで泣き続けても由利は帰ってこない。
溢れ続ける涙を拭って裸足のまま家を出る。
由利が出て行ってからそう時間は経っていない。
今ならまだ追いつけるはずだ。
エレベーターを待つ時間ももどかしく非常階段を使って1階まで降りる。
そこに見慣れた後ろ姿を見つけて、走り寄ってその腕を掴む。
「由利、お願いだから待って」
急に腕を掴まれた彼女はひどく驚いた顔で俺を見つめる。
「済まなかった、本当に悪かった。どんな言い訳もできない事をしたってわかってる。でもお願いだから別れるなんて言わないでくれ」
彼女の腕にすがりついて許しを請えば、驚きに見開かれていた瞳が徐々に細くなる。
「死ぬんじゃなかったんですか?」
「嫌だよ!由利を幸せにできないまま死ぬなんてできないから!」
「私を不幸にした張本人が言っていればわけないですね」
正論すぎてグウの音も出ないが、ここで由利を離してしまったら2度と会えないとわかる。
「好きなんだ、愛してるんだ。もう、2度と由利以外を見ないって誓うから!だからお願いだから俺と結婚してください!」
「……え?」
「だから!俺と結婚してください!」
アスファルトの上に片膝をついて、彼女の手を恭しく持ち上げる。
「ちょ、待ってよ。今私たちは別れ話をしてたんだよ?それがなんで結婚って話になってるの?」
「ずっと言いたかった。本で躊躇なく急所を殴れるところとか無駄に男前なところとか私服が破滅的にダサいところとか全部愛してるんだ」
「…けなされてるようにしか聞こえないんだけど」
「あばたもえくぼって言うだろ?ね、お願いだからここに俺の指輪をつけてよ」
左手の薬指にそっとキスを落とせば、彼女の顔がみるみる赤く染まる。
「だ、大体祐介は浮気したんだからね!私まだ許したわけじゃないから!」
「まだ許してくれなくていいよ。一生かかって償うから、だから死ぬまで由利は俺のそばで俺を許さないで」
悔しそうに由利の顔が歪む。
「馬鹿、本当に馬鹿」
「知ってる」
「…なんで浮気したのよ」
「それに関してはごめんとしか言えない。いくらベロベロで記憶がないとはいえ、ホテルに入ったことは事実だから」
実際あの日の夜は無駄に由利に会えない寂しさから飲みすぎてしまい、ほとんど記憶がないのだ。
「……え、記憶ないほど飲んでたの?」
「うん」
素直に頷いたら急に彼女の顔が柔らかくなって鞄から分厚い本を取り出した。
「じゃあ、とりあえずこれで1回殴らせてくれたら別れるのはやめてあげる」
その本がどれだけの威力かは、俺が1番よく知っている。
でもそれで彼女が取り戻せるんなら、何発だって殴られてやる。
ゴッという鈍い音と共に俺の意識はなくなった。
「ねぇ、どうして急に機嫌よくなったの?」
「だって祐介飲みすぎたら笑いながらずーっと私の話してるじゃない」
「え?」
「いかに私が可愛いか愛してるか延々話すからめんどくさいってこの前会社の人が言ってたよ」
「え…」
「記憶がないときはいつもそうだから、ほんとにこの浮気相手とはおしゃべりしてただけなんだね」
「……」
「まぁベロベロになって知らない子にホテルに連れ込まれる脇の甘さにはまだ怒ってるから結婚は保留だけど、浮気してなくてよかった」
「俺、由利のこと好きすぎて気持ち悪いな」
「そんなのずっと前から知ってるけどそれも含めて好きだから大丈夫」
(…やっぱり男前だ)