声無き声
東日本大震災において、大地震、大津波、そして原発事故という三重苦に見舞われた福島では、一体何が起きていたのか。特に原発事故による警戒区域内の、ほとんど報道もされない真実の一部を、被災動物支援ボランティアの視線から見て、感じた記録です。フィクションの体裁を取っていますが、描かれた内容は、ほぼ事実です。
■1
新幹線の車窓に、早春の田園風景が流れていく。薄曇りの空の下にはところどころ水が張られ始めた水田が連綿と続き、そのずっと向こうには、頂近くに残雪を抱いた山並みが霞んでいる。桜の季節には少し早いが、あと半月もすれば、固いつぼみもほころびはじめるだろう。ここにも、もうすぐいつものような穏やかな春がやってくる、はずだった。
車窓を飛び去って行く、誰もが懐かしさを感じるような風景をぼんやり眺めながら、三崎玲奈は小さくため息をついた。程なく、目的地に着く。列車が減速を始めるのとほぼ同時に、この土地の民謡をアレンジした軽快なチャイムの音に続いて、到着を告げるアナウンスが流れた。玲奈には、その“日常”が、なんだかとても場違いなものに感じられた。
玲奈は空いていた隣の席に置いた登山用の大型リュックを引き寄せながら、上半身を少し伸ばして、半分くらい埋まった車内をぐるりと見回した。何人かが降りる準備を始めているが、みな地味な服装だ。グリーンの作業服にゴム長靴姿の若い男もいる。ほとんど、会話は聞こえない。普段ならば、昼前に最初の目的地に着いて、さあこれから旅が始まるぞという華やぎに満ちるはずの車内は、まるで最前線で初めての戦闘を待つ初年兵が放つような、硬質の緊張感で満たされていた。みな、無言で車窓を見つめている。
列車の速度がさらに落ちて、車窓は地方都市のそれに変わった。玲奈はカールした長い髪を頭の後ろで一本に束ねてからカーキ色のベースボールキャップを目深にかぶり、ずしりと重いリュックのハーネスを右肩にかけると、シートから立ち上がった。本当は髪を短くして来たかったのだが、昨日の深夜まで仕事をし、そのまま今日の未明に出発だから、美容院に行く時間も無かったのだ。列車はゆるやかにホームに滑り込む。玲奈がデッキに向かって通路を進んで行くと、ここからさらに北へ向かう乗客の視線が、玲奈に集まった。
この車両に乗っている、年齢層がかなり幅広い男女の多くが、自分と同じ目的でこの列車に乗っているであろうことが玲奈にはわかった。そんな彼らは、モスグリーンのマウンテンジャケットにイエローカーキ色のカーゴパンツ姿の小柄な玲奈に、誰もが『こんな女の子が、ここに、ひとりで・・・?』というような小さな驚きと、そして少し好奇が混じった視線を投げかけたが、皆すぐに真摯な目つきに戻った。その視線は「がんばって」、「気をつけて」と語っているようで、玲奈も少し無理をしてかすかに微笑むと、見返す視線に「あなたも、がんばって」という思いを込めた。いまここでは、初対面で言葉を交わしたこともない人々の間に、不思議な連帯感が生まれていた。
列車がホームに停まってドアが静かに開くと、大きな荷物を背負った地味な服装の集団が、がらんとしたホームをほとんど無言でぞろぞろと階段へ向かって行く。階段の上に掲げられた大きな看板には、この土地の有名な大祭の、躍動的な写真が掲げられている。この地に再びその華やぎが戻るのは、いつになるのだろう。
ホームに電子音が鳴り響き、背後で列車が動き出す。玲奈がふと振り返ると、車掌室の窓から顔を出している車掌が、地味な集団に向かってきっちりとした挙手の敬礼をしたまま、遠ざかって行った。その姿に少し目頭が熱くなった玲奈は、思った。
「いったい、何が起こったというの・・・」
いまこの地に立った玲奈の、それが偽らざる心境だった。
東京で見てきた洪水のような報道も、繰り返し流されている凄惨な映像も、ここの本当の空気のかけらさえ伝えられてはいない。テレビやネットの中の情報だけで、安易に理解されることを拒絶するような空気に満たされている、そう感じた。ここはモニタの中に映し出される世界ではなく、生身の人間が生きる、現実の空間なのだ。
でも、ここではまだ表向きは平穏だ。しかしそれが、これからおそらく目にするであろう、凄惨な現実への恐怖を掻き立てるようでもあった。そして、玲奈の中に早くもひとつの疑問が沸き上がった。
「わたしなんかが来て、一体何になるんだろう・・・」
東京からここまで、かなり長い距離を移動してきた。でもその何倍、何十倍にも渡るあまりにも広大な地で、数知れない人々が助けを求めてあえいでいる。それを思うと、自分の存在があまりにも小さく、まるで巨人の爪先辺りに巣くっているだけの小さな寄生虫でもあるかのように思えてきた。そんな存在には巨人の全身を見ることなど決して出来はしないし、巨人を倒すどころか、軽い痒みを与えるくらいが精々ではないのか。ここに来たのも、ただの自己満足ではないのか・・・。
しかし、がらんとしたコンコースを改札に向かって歩きながら、玲奈はその考えを無理に振り払った。
「なに考えてるのよ私は・・・」
助けを求めている人がいて、そして自分ができることがある。だからそれをやるだけ。その思いだけで、勤め先の上司に無理を言って一週間のボランティア休暇を取り、ここまでやって来た。より困難な状況があるから、敢えてこの地を選んだ。そして、今この時も玲奈の「仲間」たちが、各地で困難な任務を遂行し続けている。だから、下手な理屈を考えてる暇なんかないんだ。自己満足かもしれないが、そんなことは後で考えればいい。今は、自分がやれることをやるだけ。そして、誰かが少しでも楽になってくれれば、それだけでいい。
そこに思いが至ると、胸のつかえが少し取れたような気がした。玲奈は肩にずしりと重いリュックを背負い直すと、改札を抜けて駅前広場に歩み出た。
■2
広々とした駅前広場には、土曜日の昼前だというのに人影がほとんど無かった。商業施設と一体化した駅ビルは大きく、周辺にはホテルや商店も立ち並んでいる。駅正面から続く大通りには良く整えられたケヤキ並木が続いていて、決してうらぶれた街には見えない。震災の時にはここもかなり激しく揺れたはずだが、地震被害の痕跡も全く見かけない。立派な、地方の中心都市のたたずまいだ。しかしそんな街並みに全くそぐわないほどに人の姿が無いことが、ここで起きていることの異常さを思わせた。
駅前のロータリーには、数台のバンやマイクロバスが停まっていた。玲奈と同じ新幹線に乗って来た地味な集団の多くがそんな車に吸い込まれて行き、それらが走り去ると、広い駅前広場は文字通りしんと静まり返った。渡る人のいない歩行者用信号機から流れ始めた『通りゃんせ』のメロディが、静けさ余計にを際立たせている。
駅前にぽつんと残された玲奈は、ぐるりと周りを見回した。今回玲奈がボランティアとして参加する団体には、メールで到着時間を知らせてある。ここに迎えの車が来る段取りだったが、まだ来ていないようだ。もうすぐ5月も半ばになるが、駅前広場を吹き抜ける東京よりずっと冷たい風に、玲奈はマウンテンジャケットのジッパーを首もとまで上げた
その時、並木の向こうから一台の白いワゴンがロータリーに滑り込んで来た。白とは言っても、タイヤやボディの下回りには乾いた泥がたっぷりこびり付いている。ボディ全体も土埃にまみれて、薄茶色と言った方が良さそうな感じだ。そのワゴンは玲奈の前でつんのめるように停まると、間髪を入れずにドアが開き、運転していた大男が飛び降りて来た。身長は180センチ近くて、横幅もかなりある。年齢は四十前くらいか。着古した青い布ツナギに、泥まみれのゴム長靴姿。まだ5月半ばだというのに真っ黒に日焼けした木訥そうな丸顔の頭には、白タオルを巻いている。玲奈が感じた男の第一印象は“トラクターを乗り回している農場の二代目”そのものだった。
広々とした駅前広場には、土曜日の昼前だというのに人影がほとんど無かった。商業施設と一体化した駅ビルは大きく、周辺にはホテルや商店も立ち並んでいる。駅正面から続く大通りには良く整えられたケヤキ並木が続いていて、決してうらぶれた街には見えない。震災の時にはここもかなり激しく揺れたはずだが、地震被害の痕跡も全く見当たらない。立派な、地方の中心都市のたたずまいだ。しかしそんな街並みに全くそぐわないほどに人の姿が無いことが、ここで起きていることの異常さを思わせた。
駅前のロータリーには、数台のバンやマイクロバスが停まっていた。玲奈と同じ新幹線に乗って来た地味な集団の多くがそんな車に吸い込まれて行き、それらが走り去ると、広い駅前広場は文字通りしんと静まり返った。渡る人のいない歩行者用信号機から流れ始めた『通りゃんせ』のメロディが、静けさ余計にを際立たせている。
駅前にぽつんと残された玲奈は、ぐるりと周りを見回した。今回玲奈がボランティアとして参加する団体には、メールで到着時間を知らせてある。ここに迎えの車が来る段取りだったが、まだ来ていないようだ。もうすぐ5月も半ばになるが、駅前広場を吹き抜ける東京よりずっと冷たい風に、玲奈はマウンテンジャケットのジッパーを首もとまで上げた
その時、並木の向こうから一台の白いワゴンがロータリーに滑り込んで来た。白とは言っても、タイヤやボディの下回りには乾いた泥がたっぷりこびり付いている。ボディ全体も土埃にまみれて、薄茶色と言った方が良さそうな感じだ。そのワゴンは玲奈の前でつんのめるように停まると、間髪を入れずにドアが開き、運転していた大男が飛び降りて来た。身長は180センチ近くて、横幅もかなりある。年齢は四十前くらいか。着古した青い布ツナギに、泥まみれのゴム長靴姿。まだ5月半ばだというのに真っ黒に日焼けした木訥そうな丸顔の頭には、白タオルを巻いている。玲奈が感じた男の第一印象は“トラクターを乗り回している農場の二代目”そのものだった。
男は玲奈に向かってずんずんと大股で歩いて来ると、玲奈が待ち合わせ相手だと確かめもせずに、勢い良く頭を下げながら、いきなり口を開いた。
「遅れてすんません。アニマルレスキューの佐竹です!」
玲奈は、男の勢いに少し圧倒された。周りの雰囲気に呑まれてかなり沈んでいた気持ちを鷲づかみにされて、強引に引っ張り上げられた感じだ。
「み、三崎玲奈です。よろしくお願いします!」
玲奈はベースボールキャップを取りながら、頭を下げた
玲奈が顔を上げると、男は正面から、玲奈の顔をしげしげと見つめていた。玲奈は普段、男からそんな視線を投げかけられることも少なくない。それは大抵、不快極まりないものなのだが、その時は違った。玲奈を見つめる男の目の奥には好奇ではなく、なぜか困惑のようなものが宿っているように思えたからだ。しかし次の瞬間、真っ黒に日焼けした男の口元から白い歯がむき出しになり、満面の笑顔に変わった。そして、玲奈に向かって大きな右手を差し出しながら、言った。
「福島へ、ようこそ!」
ふたりが乗った車は市街地を抜け、福島市郊外のシェルターへ向かう。その道中、運転しながら佐竹は良く喋った。
「いやぁぶったまげた。三崎さんのようなめんこいひとが来てくれたんで!」
実に屈託が無い。玲奈もそう言われて悪い気はしない。それに、なんだか重苦しい雰囲気を勝手に想像していた玲奈は、佐竹の明るさに救われるような気もしていたから、調子を合わせて言った。
「でも私、もう三十路過ぎなんですよ」
「えー?見えねぇなぁ・・・あの、まだ独身ですよね?」
・・・なんだ、そういう話か。それでも調子を合わせた。
「ええ、残念ながらいまだに」
「いやね、ここは特に若い女性にゃ人気ねぇから」
人気が無い?玲奈が意味を測りかねていると、佐竹は続けた。
「ボラに来てくれる人少ねぇんですよ。やっぱ宮城や岩手行っちゃう人多くて」
「それって・・・」
「だってほら、やっぱ放射線怖いべ。独身女性は特に。三崎さんは、あの・・・大丈夫なんすか?」
玲奈は、駅前で見せた佐竹の困惑の理由がわかったような気がした。玲奈は佐竹の横顔を見つめながら、言った。
「ええ。きちんと勉強しました。その上で、福島に来たいと思ったんです」
「勉強って、本とか読んで?」
「ええ、まあ」
玲奈は誤魔化したが、本当は古巣である陸上自衛隊の知り合いに頼み、埼玉県の大宮にある中央特殊武器防護隊の教官から指導を受けたのだ。その部隊は、震災直後から福島の最前線で活動している核、生物、化学兵器対策の専門家集団だから、最も信頼がおける。
「まあ、外の人にそう言ってもらうとうれしいな。なんだか福島の人間は化け物みたいに言う奴も多いしよ」
玲奈は、答えに詰まった。震災後、放射線に対する不十分な知識や偏見から、福島の人々があちこちで理不尽な扱いを受けているのを見聞していたからだ。見えない放射線に故郷を追われて、行った先で拒絶された人たちの心情を思うと・・・。もしかしたら自分は、だから福島を選んだのかもしれない。玲奈はやっと一言、言った。
「・・・ひどいですよね・・・」
「まあ、気にしてもはじまらねぇし。実際、放射線はおっかねぇよ。見えねぇし臭いもしねぇ。でも、おれらはここでやって行くしかねぇんだし、助けてやんなけりゃならない連中もいるし」
玲奈は、佐竹の言葉に震災からここまで二ヶ月ほどの間の、凄まじい体験が凝縮されていると感じた。
「大したことはできませんけど、お手伝いさせてください」
玲奈が助手席から佐竹に向かって頭を下げると、佐竹は何故か真顔で正面を向いたまま、少し小さな声で言った。
「よろしく、お願いします」
その時、カーラジオから流れていたワイドショーの音声が急に絞られると、それに被せるように女性アナウンサーの声が流れ出した。
『午前11時の、福島県内各地の空間放射線量をお知らせします』
「ほら、一時間ごとの"定時報告"が始まった。これが今の福島さぁ」
玲奈は、ラジオの音声に耳を傾けた。
『・・・なお、単位はすべてマイクロシーベルト毎時です。福島市1.5、飯舘村3.7、相馬市0.5、南相馬市0.7、会津若松市・・・』
佐竹が説明する。
「飯舘は高いよ。原発がはねた後、放射性プルームって奴が、あの谷間にみんな流れ込んじまったんだ」
「しかも、そこで雨が降って・・・」
「そう。雨であの辺にたっぷり落ちた。爆発のすぐ後は、役場の線量計振り切って測れなかったぐれぇだ。だから二ヶ月経った今でもすごく高い。でもラジオで言ってるのは役場のモニタリングポストで測った地上20mとかの線量だから、地面近くや森の中とかもっと高いところがいくらでもある。で、飯舘からこっち、ずっと谷が続いてっから、福島市は浜通りより空間で三倍も高けぇし、もっと高けぇ場所もいくらでもある」
「はい、わかります」
玲奈は、佐竹の説明で忘れかけていた現実の厳しさを改めて突きつけられて、背筋に少し悪寒が走った。水田や果樹園が続く長閑な田園風景には、あまりにも不似合いな現実だった。佐竹は助手席の玲奈をのぞき込みながら、言った。
「でも線量計なんか無えから、この辺りでも本当のところは良くわからねぇ。はっきり言って、うちの団体じゃあ高校生以下とか若い女性には、ここのボラに来るのを勧めてねぇんだ。それでも、いい?」
玲奈は答えた。
「はい。教官にいろいろ教わって来ましたし、代表の方にもお話してあります」
「教官?」
「あ、いえ、まぁ先生です」
佐竹は笑顔になると、玲奈に軽く頭を下げながら言った。
「だら、よろしくお願いします」
「こちらこそ。がんばります」
そこで玲奈は、しばらく前から気になっていたことを、佐竹に質問した。
「田んぼ、田植えの準備しているところも多いですけど・・・大丈夫なんですか?」
佐竹の眉間に皴が寄る。しばらく沈黙が続いた後、佐竹はぼそっと答えた。
「まあ、作っても当分出荷はできねぇだろうな」
「なら、なんで・・・」
「なんでって、百姓だって遊んでる訳にゃいかねぇしな。今はいつも通りやるしかねぇんだ」
一見平穏な田園に重くのしかかる、先の見えない現実。それでも作物を作り続ける人たちの気持ちを思うと、玲奈は何も言えなかった。佐竹はさらに続けた。
「ただ、ちょっと下衆な話するとな、作付けしとかねぇと補償金の対象にならねえってのもある」
「そうなんですか・・・」
「まあな、具体的な話はまだけども、そういう話だ。でもこういう話になると外からはいろいろ言われるし、内々でもいろいろ面倒があるんだけども、食って行くためには仕方ねぇ」
当然だ、と玲奈は思った。とかく不労所得にはどんな理由でもやっかみや偏見がつきものだが、ここの人々は長年手塩にかけた土地が生む価値と、将来の生活を失うかもしれないのだ。そこには、外の人間には絶対に理解できない理由や心情があるはずだから、外野が口を挟むべきことでは無い。玲奈はそう思って、それ以上は何も言わなかった。
しばしの沈黙の後、佐竹が口を開いた。
「ところで三崎さん、なんで福島の動物ボラに来てくれたんすか?いや、ほんとありがてぇんですけど」
玲奈は、ちょっと考えてから答えた。
「もちろん動物が好きだからなんですけど、福島の状態があまりに酷いと思ったからなんです」
「まあ、異常だよな」
「だから、被災ペットを少しでも救うことで、その飼い主さんとまためぐり合わせてあげたい、そのお手伝いをしたいと思ったんです。人に飼われていた動物を救うことで、人の心も救えるはずだって」
「うん、三崎さんの言う通りだ。でもほんと無茶苦茶だった」
佐竹は、もう大体知っていると思うけどと前置きした上で、これまでの経緯の説明を始めた。
震災が起き、原発から放射性物質が大量に漏れ出したので、危険区域には避難指示が出された。自家用車がある人はペットも連れて行けたが、無い人は用意されたバスに乗るしかなく、しかし動物の同乗は禁止された。しかも役場からの避難指示はほとんどの場合『とにかく一旦ここを出てくれ』というような曖昧なものであった例が多く、ほとんどの人は2~3日、長くても一週間程度で戻れるものだと考えていた。だから、それでも断腸の思いでペットを繋いだり家の中に入れたままで、できるだけの水と餌を用意して避難した。その間だけでも生き延びられればなんとかなると。
しかし、原発から20km圏内はそのまま警戒区域が設定され、立ち入りが禁止された。すべての道路は封鎖され、主要道路には警察の厳重な検問が設置されたのだ。この時点で警戒区域内に残されたペットや家畜の運命は決まってしまった。警戒区域外から避難した人も、自力で戻れる足がある人以外は、どうにもならなくなった。仮に足があっても警戒区域外の飯舘村などは放射線量が非常に高く、おいそれと戻れる状態ではなかったのだ。他に方法が無かったとはいえ、自ら愛するペットを放置し、死に至らしめるしかなくなってしまった飼い主の心情は計り知れない。一部に、ペットを置いて「逃げ出した」飼い主を非難する声もあるが、それは事情を理解していない人の偏見でしかない。あの場では、誰でもああするしかなかったのだ。
一通り説明を終えた後、佐竹はしばらく黙っていた。そして、言った。
「…何が悲惨だってな、ペットを死なせちまった人は、表立って悲しむ事もろくにできねぇんだよ。だって、避難所とかで周りに家族や親類亡くしたり家流された人なんかが山ほどいる中じゃ、“ペットごとき”がなんだ、って話になっちまうんだよな。じっと黙っているしかねぇんだ」
事情は一通り知っていた玲奈も、地元の人間の口から語られる真実に、返す言葉が無かった。それでも、自分の行動がそういう人たちの心を救う力になれるなら、たとえ一人でも笑顔に戻れるなら、やる価値があると思った。飼い主は死んだと思っているペットが、動物救援ボランティアの活動によって、実はまだ生きていることもあるのだ。それを、なんとか再びめぐり合わせてあげたいと、強く思った。被災地支援にはいろいろな形があるけれど、これが自分のやり方なんだと、改めて確信できたような気がした。福島へ来て良かった。
ふたりの乗った薄汚れた白いワゴンは、県道から逸れてしばらく砂利道を走ると、福島市郊外の森に囲まれた広い敷地に入って行った。敷地の奥には、プレハブの建屋がふたつ建っている。その前には点々と犬小屋やケージが並び、ぱっと見では数え切れない数の様々な犬たちが佐竹の帰りを待ちわびていたように尻尾を振り、吠えた。杭に繋がれたリードを、引き千切らんばかりにして喜んでいる犬もいる。
「さあ、着きましたよ。ここがおれらのシェルターです。奴らも歓迎してくれてますよ!」
■3
佐竹と玲奈が車を降りると、犬たちの吠える声がさらに大きくなった。ざっと三十匹はいる。みな尻尾をちぎれんばかりに振り回し、とにかくかまってもらいたくてしょうがないという顔だ。こんな大騒ぎは、お行儀の良い犬ばかりの都市部では見られない。
犬種は、中型の雑種が目立つ。街で良く見るトイプードルやチワワ、ダックスフントなどの小型犬や、ラブラドールなどの種類がすぐわかる犬は数匹だ。玲奈は高校まで過ごした静岡の田舎を思い出し、そう言えば田舎の犬ってみんなこうだったと思い、妙な懐かしさを感じた。しかし、ここにいる犬の偏りが偶然では無いということを、後で知ることになる。
足に絡みついてくる柴の雑種をかまいながら、佐竹が言った。
「ところで三崎さん、犬は大丈夫?」
「は?」
犬猫救援のボランティアに来たのに、なんでそんな?
「いやね、実は結構いるんだわ。大丈夫って言ってたのに、小型犬しか触れねぇ人とか」
「そんな・・・」
「来てくれんのはありがたいんだけどね。まあそれでも仕事はいくらでもあるよ。うんこ集めとか」
佐竹は面白そうに笑った。玲奈は答える。
「もちろん、大抵の犬は大丈夫ですよ。秋田犬とかはちょっと怖いですけど・・・」
それを聞いた佐竹はにやりと笑うと、言った。
「そのうち、そんなのもお目にかかれっぞ」
玲奈の言葉を待たずに、佐竹は続けた。
「この大きなプレハブが犬舎。夕方にはみんなここへ戻す。小さな方が事務所と小動物な。猫舎は別のとこにあるから、後で案内するわ。三崎さんは犬方面でしょ?」
「はい。猫の飼育経験はありませんので」
「あいつらもめんこいよ。じゃ、準備してください。飯食ったら、まず犬に水あげてもらいてぇ。あんまり根詰めずに、のんびりやってくれればいっから」
「わかりました」
それにしても、これだけ犬がいるのに、他に誰もいない。そんなに“不人気”なのだろうか。
玲奈は持参した真っ赤な布ツナギに着替えると、手早く持参の食事を済ませ、黄色いマリンブーツを履いて外へ出た。ベースボールキャップをかぶり直すとき、やっぱり髪を切ってくるんだったと後悔した。それからバケツの水を犬たちに配ったり、スコップで糞を集めたりしたが、これだけ数がいると、何をするのも結構な重労働だ。それに、玲奈が近づくとほとんどの犬がじゃれついて来るから、ついかまってしまって、作業はなかなか進まない。それでも犬好きには幸せな時間には違いなかったし、佐竹も犬をかまいながら、言葉通りに結構のんびりやっている。
一通りの作業を終えると、午後4時近くになっていた。玲奈は、事務所の前で大量の餌を作っている佐竹に次の指示を仰いだ。
「4時半になったら散歩させて、餌食わせて犬舎に戻すから、それまで適当にやってて」
玲奈は体力には自信があったが、それでもこれだけの犬をふたりで散歩させるのはかなり大変そうだと思っていると、敷地に銀色のワゴンが入ってきた。郵便でも宅配でも、誰か現れる度に犬たちは大騒ぎだ。
ワゴンから30代半ばくらいの男女が降りて来ると、佐竹が声をかけた。
「お帰り。どうだった?」
男が荷台から空のケージやポリタンクを下ろしながら答えた。
「ひととおり撒いて来ました。でも、保護はゼロ」
「だべな。今更捕まるような奴はまずいねぇよな」
「結構姿は見るんですけどね。全く近づいて来ない」
「ああ。人や餌に寄って来るような奴はこの二ヶ月でみんな保護済みだ。それに、もうそんな奴らが生きて行ける場所じゃねぇし。牛は?」
「外に出たのは元気にうろついてますよ。でも開いてない牛舎は・・・ひどいもんです」
男の顔が曇った。
「まだ生きてるのもほんの少しいますけど・・・何もできない・・・」
男はうつむいて、唇を噛んだ。佐竹は大きくため息をつくと、一言だけ言った。
「とにかく、お疲れさんでした」
そのやり取りを聞いていた玲奈は、彼らがどこに行って来たのかを考えていた。そして、男が荷台から大きなビニール袋に入れた白いものを取り出すのを見た時、すべてを理解した。それは、震災後の福島関係の報道に必ずと言って良いほど登場する、あの白くて、青いラインが入った防護服だった。つまり、それが必要な場所へ行って来たということだ。
すると、佐竹が玲奈を振り返って言った。
「こちら、埼玉からご夫婦で手伝いに来てくれてる飯田さん…あ、困ったなぁ」
「どうしました?」
「いやね、飯田さんの奥さん、美咲さんなんだわ。ミサキさんがふたり…」
玲奈はすぐに答えた。
「じゃあ、私も名前で、玲奈と呼んでください」
「だら、そうさせてもらいます。飯田さんの奥さんはそのままミサキさん、三崎さんはレイナさんな」
美咲が笑いながら口を挟む。
「なんだか良くわかりませんね」
「まあ、じき慣れるっぺ」
あまり自信のなさそうな佐竹の言葉に、皆が声を上げて笑った。
玲奈は飯田夫妻と簡単に自己紹介を済ませた後、やはり聞かずにはいられなかった。
「あの…どちらへ行って来られたんですか?」
すると、玲奈より頭半分くらい大きな、髪をショートにした美咲があっさりと答えた。
「20キロ圏内ですよ」
「…入れるんですか?」
玲奈に問われると、美咲は車の片付けを始めた夫をちらっと見やりながら言った。
「蛇の道は蛇、って感じかな」
じゃれつく犬をかまいながら、美咲は続けた。
「あそこへ行くにはいろんな意味で覚悟がいるけど、やっぱり放っておけない。今までに何匹も保護したけど、あれから二ヶ月経った今はもうほとんど保護できなくなってるわ。強い個体には野生が蘇って来て、人間には全く近寄らなくなってる」
「そうなんですか…」
「自由に動ける犬猫はまだいい方。牛舎に閉じ込められたままの牛や、《相馬野馬追い》ってお祭りあるでしょ、あれに出る馬とか、海の方は津波でほとんど全滅して、今もそのままの状態。生きてる子も、時間の問題。浪江町とかの牛舎は、とにかく酷すぎて…」
美咲は玲奈と話しながら、その視線は玲奈を突き抜けて、遥か先の警戒区域内を見つめているようだった。その目には、あまりにも理不尽な状況に対する怒りとやりきれなさがない交ぜになった光が宿っているようだった。震災から二ヶ月。その間どこかに閉じ込められ、餌も水も断たれた動物がどうなるかは、誰にでもわかる。しかしその実情は警戒区域という鉄のカーテンの向こうに隠され、一切表沙汰になることもない。時々入るマスコミのカメラに映し出される光景など、コントロールされたイメージに過ぎない。しかし人間が消え、人間に頼っていた動物だけが残された場所にある現実を表す言葉は、たったふたつしかないのだ。それは「大量死」と「弱肉強食」だ。
玲奈は、福島に来ることを決めた時から、できることならば最前線まで自分の目で見たいと思っていた。断片的な報道の裏にある“本当のこと”を知りたいと思っていた。しかし今、美咲の話を少し聞いただけでも、それがいかに強い覚悟を必要とすることかを思い知らされた。半端な気持ちでやっていいことではない。それに気持ちだけでなく、自分自身にも生物学的な危険を及ぼすかもしれないのだ。
それでも命を救い、繋ぐために日々リスクを犯している人々がいる。あまりの巨大災害のために、行政による動物保護施策が全く実施できない状態の中、本来は打ち捨てられるしかなかった警戒区域内の命をいくらかでも繋いでいるのは、全国各地から手弁当で集まった動物救援ボランティアの活動だけだ。その活動が崇高かどうかなど意中になく、批判も危険も承知。ただ、命を救いたい。そんな人々の活動によって多くの命が救われ、繋がれている。それは変えようの無い事実だった。
美咲は、玲奈の目をじっと見つめながら言った。
「“中”へ入るのは、無理にお勧めはしないわ。いろいろ、リスクは小さくない。でも、本当のことを見て欲しい、そして伝えて欲しいというというのはあるわね」
玲奈は答えた。
「私も、できれば最前線まで行ってみたいという気持ちはあります」
「そう。チャンスがあるといいわね。でも、すごくショック受けると思うから、そのつもりでね。私も、最初はたいへんだった…」
「はい。覚悟はしています」
その時、佐竹が叫んだ。
「おーい、犬っこの散歩始めっから、手伝ってくれぇ!」
「はーい!」
美咲と一緒に駆け戻りながら、玲奈は“最前線”へ行けるチャンスはすぐ来るのではないか、そんな気がしていた。
■4
犬たちの散歩の時間が始まった。30匹ほどの犬を佐竹と玲奈、それに飯田夫妻の4人で手分けして行うので、ひとり7~8匹を担当することになる。佐竹が玲奈に言った。
「この人数なら、一匹あたま5~6分くらい敷地の周り歩いてくればいっから。うんこ袋もってくの忘れずにな」
「わかりました!」
散歩の時間だとわかった犬たちは、みな体の置き場が無いような喜びようだ。玲奈はウォーミングアップくらいのつもりで、最初は小型のビーグル犬から始めることにした。じゃれつこうとする犬の前にしゃがんで首輪にリードをつけようとした時、玲奈は、はっとして手を止めた。それまでじゃれついていた犬は、リードをつけようとすると急に大人しくなってちょこんとお座りして、玲奈を見上げながらじっと待っているのだ。
一見、あまりに平和そうなこの場所の雰囲気のせいで、忘れていた。この犬たちは、震災後の大混乱の中で飼い主と引き離され、理由もわからぬままこの場所に連れて来られた犬たちなのだ。この犬はきっと、いつも散歩の前はお座りしてリードをつけてもらうようにしつけられていたに違いない
そんな犬の態度に飼い主の存在を、つい二ヶ月前まで飼い主と平和に過ごしていた時間を感じた玲奈の胸に、こみ上げるものがあった。
《飼い主さんは、いまどこでどうしているんだろう・・・》
ここの犬たちは、原発事故の警戒区域だけでなく、海沿いの津波被災地で保護されたものも少なくないという。もしかしたら・・・玲奈はふと浮かんだ悪い想像をあわてて振り払った。いや、きっとどこかでこの子のことを想っている。きっとどこかの避難先で、また会える日をじっと待っている。もう一度再会させてあげたい。そのためにも、命を繋がなければ。
もし自分が飼い主だったらと考えると、あんな大災害で生き別れになったペットが、まだ生きているとは思わないかもしれない。実際、あまりに多くの動物たちが命を落とした。でも、この命は繋がっている。生きていれば、いつかきっとまた会える。そう信じるしかない。
玲奈はじっとお座りしているビーグル犬の首を思わず抱きしめると、リードをつけた。するとその途端弾けるように駆け出して、玲奈をぐいぐい引っ張って行った。
《いつもこんな風にお散歩していたのね・・・》
玲奈は、改めてこの犬と飼い主との平和な時間に思いを馳せた。でもあの日から、何もかもが変わってしまったのだ。
他の犬も、ひたすらお手を繰り返す犬、玲奈の左側にぴたりと寄り添って歩く犬、周りの犬に吠えかかるので、ちょっときつく叱るとすぐに大人しくなる犬など、それぞれがみな人間と暮らした長い時間を感じさせた。中には大きな傷を負っていたり、なかなかなつかずに、いつも半分逃げ腰の犬もいる。そんな犬たちは、放浪している間に何を見て、どんな体験をしたのだろう。人間には、ましてやあの日ここにいなかった人間には、想像もできない。
それでも、元気いっぱいに玲奈を引っ張る犬たちと駆け回っていると、犬たちの溢れんばかりの生命力が、そんな玲奈の複雑な思いを吹き飛ばすようだった。生きていれば、きっとまた会える。この子たちはその日を信じて、健気に待ち続けているのかもしれない。心の底からそう思わせてくれるような力強さを、玲奈は感じていた。
散歩が終わると、ごはんの時間だ。佐竹はステンレスのボウルに餌を取り分けると、ひと皿ずつ犬の名前を指示しながら三人に配った。中には別メニューもある。それぞれの犬が食べる量や体調がすべて把握されていて、きめ細かく対応されていることに、玲奈は感心しきりだった。ここではただ飼っているだけではない。すべての犬が健康に過ごせるように、医療も含めて細心の注意が払われているのだ。
餌をあげるのは、世話をしている人間にとっても幸せな時間だ。
「ごはんだよー!」
と声をかけた時の、犬たちのうれしそうな顔といったらない。玲奈はまだ犬の名前を良く覚えていないので、飯田夫妻に聞きながら餌を配っていった。そしてここでもまた、よだれを垂らしながらもきちんとお座りして待つ犬も少なくなく、ここが飼い主と生き別れになった被災動物シェルターだという現実を突きつけて来るのだった。
ごはんが終わると、食べ残したり吐いている犬がいないかチェックして、佐竹はそれを記録する。ノートに書き込みながら、佐竹はぶつぶつ言っている。
「・・・サンちゃんは医者連れてかなければなんめぇかなぁ・・・」
玲奈は佐竹に尋ねた。
「お医者さん、多いんですか?」
「ああ、いつでもいるよ。腹こわすだけでねくて、怪我もあるし皮膚病の子もいる。医者代がバカになんねぇんだこれが」
「大変なんですね・・・」
「いろんな所から寄付はもらってるけど、実際足りねぇ。持ち出しも多いんだ。医者もだいぶ協力してくれてはいるんだけどね」
「私も東京に帰ったら、寄付集めるお手伝いします」
「ああ、頼むよ」
そう言う佐竹の横顔には、震災直後からずっと常駐が続いている疲れが滲んでいるように、玲奈には思えた。こういう人たちの身を削るような努力で、命が繋がれているんだ・・・。
■5
4人で手分けして約30匹の犬たちの散歩が終わり、すべての犬を犬舎のケージに戻すと、もう夕方の5時半を回っていた。佐竹が大きく伸びをしながら、皆に言った。
「お疲れさんでした!さぁて、さくっと後片づけして上がるべ!」
今日半日、初めてシェルターの作業を体験した玲奈は、心地良い疲れを感じながらも、思っていた以上に大変な仕事だとも思っていた。それでも犬好きにとっては、普段の生活ではあり得ないほど"犬まみれ”になれることもあって、辛いという感覚は無い。
後片づけを済ませ、宿舎になっているアパートに向かう車中、玲奈は運転する佐竹に訊いた。
「佐竹さんは、ずっと常駐なんですか?」
佐竹は答えた。
「ああ。震災の一週間後くらいかな。ありがてぇことにうちは無事だったんで、それからずっと」
玲奈は、気になっていたことをさらに訊いた。
「お休みとか・・・取れるんですか?」
すると佐竹は、前を見たまま小さなため息をつくと、言った。
「正直、ほとんど無ぇ。人手がある時とか、ときたま引っ込ませてもらうけど、なんか気になっちゃって、休んでる気ぃしねえんだこれが」
「大変なんですね・・・」
「最初の頃は、ほとんど毎日津波跡とか原発周りまで行ってな、ぼろぼろの奴ら集めて来たりしてたんだわ」
「佐竹さんだけで?」
「まあ、その頃から来てくれる人はいたけど、いっつも手は足りねえな。自衛隊さんから引き取り頼まれることも結構あった」
「え、自衛隊から?」
被災地に災害派遣されている自衛隊には、放浪動物を保護するという任務は無いはずだ。しかし佐竹によれば、活動中に見つけた犬猫はかなりの数が保護され、保健所を通じてボランティア団体に引き取り依頼が来たそうだ。そんな場合は警戒区域の境界まで出向いて犬猫を引き取り、保健所で放射線スクリーニング検査を受けた上で連れて来るのだという。
「自衛隊さんも人の子さぁ。遺体の収容とか大変なことやってる時に、生きてる奴を見捨てる気にはなれねぇってことだな。上の人も、その辺は堅いこと言わねぇんだろ」
佐竹は続けた。
「若い隊員とか、泣きながら『この子を頼みます』とか言うんだわ。俺もちょっとは見てきたけど、"中”はほんと無茶苦茶な状態だからな。人は誰もいなくなって、出会うのは遺体ばかりだ。そんな中で見つけた命は、とりわけ大切に思えるんだっぺな」
佐竹の言葉に、玲奈は被災地の最前線で今も過酷な任務に従事しているはずの、かつての仲間たちのことを思った。報道には一切乗らないが、最前線ではこんな、自衛隊とボランティアという普通ではあり得ない連携も生まれていたのだ。そこにあるのは理屈ではなく、ただ"命を繋ぎたい”という強い思いだけだ。震災から二ヶ月が過ぎ、いまだ行方不明者の正確な数さえわからない時に、なんで動物なんだ?人間が先だろうという声も当然ながらある。でも、誰かがやらなければならないのだ。
二人の乗ったワゴンは、夕食の買い出しのためにスーパーマーケットに立ち寄った。夕方にしては客の姿が少ない感じはあったが、店内はどこの街の店とも変わらないように、玲奈には思えた。違っていたのは、『がんばろう福島』という大きなバナーがあちこちに掲げられていることと、客のほとんど、特に女性がマスクをしていることだった。
その頃の福島市内の空間放射線量は、ラジオによると1.5マイクロシーベルト毎時程度だったが、雨水が集まる場所や木立の中などで、数十マイクロシーベルト毎時にも達する"ホットスポット”があちこちに見つかっていた。そんな中でも、当然ながら日常生活が営まれている。しかし子供たちは外で遊ぶことや屋外の部活動を事実上禁止され、登下校の一時間程度の外出に限られていたし、大人もできるだけ外出を控えることが勧められるなど、不自由な生活を強いられている。
それでも、日々の暮らしがある。客のほとんどがつけた白いマスクが、先の見えない人々の不安を象徴しているかのように、玲奈には思えた。とにかく、報道を見ているだけではわからないことが、あまりにも多い。そんな現地の空気のようなものに触れられただけでも、ここまで来た甲斐があると玲奈は思った。異常事態はまだ始まったばかりで、この先も延々と続いて行く。そして、外野の大騒ぎとは関係なく、ここに生きる人々の暮らしも粛々と続いて行くのだ。
■6
ボランティアの宿舎になっている二階建てのアパートは、静かな住宅街の中にあった。男女ひと部屋ずつで、六畳間で雑魚寝というスタイルだ。
玲奈は女性部屋でシャワーを浴びてジャージに着替えると、隣の男性部屋を訪ねた。佐竹が、ちょっとした歓迎会を開いてくれるという。部屋に入ると、二十代後半くらいの、色白で痩せた青年がいた。青年は、佐竹の紹介によると、東京から来ている"猫部隊”の常駐だという。
程なく、スーパーで買い込んだ惣菜と缶ビールを開けて、ささやかな歓迎会が始まった。アルコールが回るにつれて佐竹はさらに饒舌になり、震災の日からこれまでに見たこと、聞いたことをあれこれ語り始めた。それは、新しいボランティアが来る度に語られたのだろう。大げさに言えば、ひとつの"話芸”とも言えそうな滑らかさだった。
「・・・原発がはねたってテレビで見ても、こっちゃぁどうすりゃいいのかわかんねぇし、逃げろってもどっち行きゃいいのかわかんねぇし、北風だから南へと思ってたら、北側の飯舘の線量計振り切ったとか言うし、そりゃもう大騒ぎでなぁ・・・」
その口調は、まるで祭りの裏側のドタバタを語っているかのようで、傍目には楽しげでさえあった。聞いている玲奈も、つられてつい笑ってしまいそうになるが、なんとか堪えた。
そんな玲奈の様子に気付いたのか、佐竹が言った。
「玲奈さん、笑ったっていいよ。しかめ面しててもはじまらねぇ」
「でも、やっぱり・・・」
佐竹は玲奈の言葉を遮るように言った。
「不謹慎だとかは外で考えりゃいいって。ここじゃあこれが日常なんだよ。津波で何もなくなっちまった街も、人が消えちまって牛が群れてる街も、戦場みてぇに自衛隊が走り回ってるのも、最初はなんだこりゃって思ったけど、二ヶ月も経ちゃ慣れっこだ」
玲奈は答えた。
「でもやっぱり・・・たくさんの方々が亡くなったし・・・」
すると佐竹は急に真顔になると、言った。
「すまねぇな。気ぃ遣わせて。でも正直なところ、こうして聞いてもらえるだけで、こっちも少しは助かるんだわ」
佐竹の言葉に、玲奈はあることを思い出した。自衛隊でも、災害派遣で過酷な体験をした隊員には、宿営地に帰った後、とにかくその体験を話させるという。辛い思いを自分の中にため込み続けると、精神的な負担が大きくなりすぎるので、それを言葉にして泣いたり笑ったりすることで、精神のバランスを保つ効果があるとのことだ。だから佐竹が饒舌に語るのも、あまりにも異常な現実と折り合いをつけるための、実は苦痛に満ちた作業なのだと、玲奈は思った。
話が途切れて、一瞬の静寂が訪れた。その時、ズシンという突き上げるような衝撃が襲って来ると同時に軽量鉄骨製のアパートがギシっと音を立てて歪んだ。すぐにドドドっという細かい突き上げが続く。地震!大きい!玲奈は弾かれたように腰を浮かして片膝を着くと、一瞬で頭を巡らせた。
《ここは二階だからこのまま待機、揺れが大きくなったら玄関ドアから外廊下へ脱出、脱出経路障害なし!》
雑魚寝用のアパートだから、家具らしい家具も無い。
すぐさま、ぐわっという感じで振り回すような横揺れが来た。アパート全体がギシギシと音を立てる。玲奈が佐竹たちに脱出準備を促そうとすると、佐竹と"猫部隊”の青年は、平然とあぐらをかいたままビールを煽っている。揺れが続く中、佐竹はふうと大きく息を吐くと、言った。
「浜通り南部、深さ10km、震度5弱。マグニチュードは5の半ばぐれぇだ」
玲奈はあっけにとられて訊いた。
「なんでわかるんですか?」
「なんでって、あの日から何千回と揺すられてるんだぜ。いいかげん揺れの感じで規模も場所も大体わかるようになってる。テレビつけてみぃ」
青年がテレビをつけると、程なく地震速報のテロップがでた。
それは佐竹が言う通り、福島県浜通り南部、震源深さ10km、マグニチュード5.6で、福島市の震度は5弱だった。玲奈は佐竹の正確な判断に、言葉が出なかった。すると佐竹は、うんざりしたような顔で言った。
「ここじゃあ、これが日常なんさ」
■7
被災動物保護シェルターのボランティア二日目の朝が来た。玲奈はいつも通り、午前6時にセットしておいた携帯電話のアラームが鳴る直前に、自然に目を覚ました。窓の外を見ると、見事な五月晴れだ。
昨晩は、ボランティア用借り上げアパートの女性部屋に泊まるのは玲奈だけだった。玲奈は、どんな場所でもぐっすりと眠れるのが"特技”だったが、部屋にひとりになってからは、"歓迎会”中の地震の事を思い出し、しばらく寝付けなかった。突き上げるようなたて揺れと振り回されるような横揺れという、震源近くならではの強い揺れは、初めて体験するものだったのだ。でも震災後には、ここではあれが"日常”なのだという。夜中にも何度か小さな地震があったようで、玲奈はその度に目を覚ましていた。
そのせいで多少の寝不足を感じてはいるが、体調は良い。玲奈は手早く身支度を整えると、隣の男性部屋のドアをノックした。するとドア横の小窓が開き、眠そうな顔の佐竹が、歯ブラシをくわえたまま顔を出した。玲奈が挨拶する。
「おはようございます!」
「おはふぉ・・・すまねぇ少し寝坊したわ。下で待っててくれぇ・・・」
どうやら"猫部隊”の青年と、遅くまで呑んでいたらしい。
相変わらず眠そうな佐竹の運転でシェルターに着くと、まずは犬たちを犬舎から外に出すことから朝の作業が始まる。人の気配を感じた犬たちは、早く外に出たくてケージの中で大騒ぎだ。ケージの扉を少し開けると、その隙間から飛び出そうとする犬を捕まえ、ぐっと押さえ込んでリードをつける。その勢いは凄まじく、確かにおとなしい小型犬しか扱ったことが無い人には大変な作業だ。それでも、中にはお座りして静かに待つ犬もいる。
犬を外に出すと、周辺をちょっと歩いておしっこやうんちをさせてから、それぞれ決まった場所に繋いで行く。犬を出す順番も決まっていて、例えば中の悪い犬同士がなるべく近付かないように配慮されているのだ。玲奈は佐竹の指示を受けながら、犬たちを外に出して行った。ラブラドールリトリバーなどの大型犬に思い切り引っ張られると、小柄な玲奈は抑えるのに一苦労だ。でも、そんな犬たちの元気さが、何より嬉しかった。
そこへ、別の場所に宿を取っている飯田夫妻の、銀色のワゴン車がやってきた。しかし、何故か妻の美咲の姿は無かった。挨拶もそこそこに、とりあえず三人で手分けして犬を外に出し終えると、次は犬舎の掃除だ。指示を受けた玲奈は、犬舎の床をモップで水拭きする。その間に、飯田がケージ内のすのこを外へ出して、水洗いして行く。ケージの中には抜け毛や糞尿が溜まっているから、その掃除もする。玲奈は、子供の頃に憧れた、動物園の飼育員をしているような気分になった。確かに"ダーティ・ジョブ”だが、好きなればこそだ。
中にはケージの中で下痢をしていたり、昨日の餌を吐いている子もいる。掃除をしながらその記録も取り、佐竹に報告する。佐竹はそれをノートに記録すると、三十匹分の朝ごはんの準備を始めた。仕出し弁当を入れるような大きなプラスチックケースの中で、大量のドッグフードを混ぜ合わせる。さらに特別メニューが必要な犬用に各種の缶詰を開け、それらを一匹分ごとに量と内容を調整しながら、ステンレスボールに取り分けて行く。佐竹はすべての内容を記憶しているようで、実に手際良く進めて行く。
その頃になると、腹をすかせた犬たちが餌の臭いを嗅ぎつけ、早く早くと大騒ぎが始まっている。三人で餌を配り終えると、一匹ごとにボウルに入れた飲み水を配り、周辺の糞をバケツに集めて行く。それが終わると餌のボウルを回収しながら食べ残しをチェックして記録する。そして、ボウルを水洗いして片づけると、朝の作業はやっと一段落という感じだ。
玲奈にとって初めてのそんな作業は、自宅で犬を飼うというイメージとはほど遠い、思っていた以上に大変な作業という感じではあった。しかし自宅と違うのは、こんなにたくさんの犬たちと身体ごと触れ合えることで、その喜びの方が大きかった。玲奈は《動物園の飼育員のやり甲斐ってこんなのかな》と感じていた。
一通りの作業を終えて、犬たちの様子を見て回っている玲奈に、飯田が近づいて来た。改めて挨拶を交わした後、玲奈は飯田に尋ねた。
「・・・今日は、奥様はどうされたんですか?」
「いや、実はちょっと体調を崩しましてね。今日は宿で休ませてる。ちょっと張り切りすぎて疲れが溜まったみたいで」
「・・・そうなんですか。お大事にされてください」
飯田夫妻は震災の一ヶ月後からここへ来て、連日被災地域を回っては放浪動物を保護して来たという。ボランティア活動への参加はあくまで自由意志だが、この状況では、ましてや美咲のあの感じでは、きっと休み無く駆け回っていたに違いないと、玲奈は思った。
すると、飯田が言った。
「今日も"中”へ行くんだけど、玲奈さん、一緒に行きませんか?」
「え、わたしが?」
「実は、美咲が言うんですよ。玲奈さんを連れて行ってあげてって。もちろん無理強いはしません。いろいろリスクはありますから、そこは玲奈さんのご判断で」
飯田の言葉に、玲奈は即答した。
「ぜひ、ご一緒させてください!」
そうと決まれば、すぐに準備だ。飯田と玲奈は、銀色のワゴンの荷室にブルーシートを敷き、荷物の積み込みを始めた。
ドッグフードを40キロ、キャットフードを20キロ、水をポリタンクふたつに40リットル、100円ショップで仕入れたボウルを30個くらい。さらに、犬猫を保護した時のためにリードと大小のバリケン(筆者註:プラスチック製の犬猫運搬用ボックス)を積めるだけ。それらはすべて、全国の有志から寄贈された援助物資だ。
そして、あの白い防護服にブーツカバー、カップ型マスクと防護ゴーグルも新品を二セット積み込んだ。それを手にした時、玲奈は少し身体が震えるような思いがした。震災後、報道でいやというほど目にした、福島の異常事態を象徴するようなあの防護服を、自分が着ることになるとは。陸上自衛隊時代にも、化学防護演習で迷彩柄の戦闘防護服を着た経験はあったし、あちらは防毒面も含めた完全装備だ。しかしあくまで演習だった。今度は、ある意味で"実戦”なのだ。
準備が整うと、玲奈はシェルターに一人で残る佐竹に詫びた。
「こちらのお手伝いができなくてすいません」
佐竹は笑顔で言う。
「なぁに、ひとりは毎度のこったぁ。気にすんな。それより、腹すかせて待ってる奴らがいるから、頼むよ」
「はい、わかりました」
「"中”の様子をしっかり見てきてくれよ。ニュースなんかじゃあ本当の事は何もわからねぇ」
「はい。では、行ってきます!」
■8
飯田と玲奈が乗った銀色のワゴンは、シェルターから山を下って福島市の市街へ入った。市街地には震災の痕跡は全くと言って良いほど見られないが、やはり人通りはあまり多く無い。
運転している飯田が口を開いた。
「ここから南相馬まで、2時間以上かかります。飯舘村を抜ける国道114号使うのが一番近いけど、放射線量が高いから、北側の115号線で行きます。かなり遠回りですが」
「はい。佐竹さんもそうした方が良いと」
「飯舘の空間線量は3.5マイクロくらいだけど、もっと高い場所がかなりあるみたいですしね」
車は市街地を抜けて、山道に入った。山を越える国道115号線は、放射線量が高い114号線を避けた車が集中しているようで、かなり交通量が多い。重機を乗せたトレーラーや、自衛隊のトラックが目立つ。各地から支援に来ている、関東を中心とした県外ナンバーの車もかなり多く、地元ナンバーの車より多いくらいだ。
この辺りの地域は地震の被害もそれほど大きくなく、放射線量もあまり高くはないから、大規模な支援が必要というわけではない。それでも、風評被害などに晒される「被災地」なのだ。山間の小さな集落脇のガードレールに、行き交う車へのメッセージとして【全国のみなさん、ご支援ありがとうございます】という横断幕が掲げられているのを見て、玲奈は目頭が熱くなった。
ふたりの乗った車は山道を下り、浜通りの相馬市に出た。そこから国道6号線を南下して、警戒区域が設定されている南相馬市へ向かう。一見、平穏な郊外の風景が続くが、あちこちに真新しい仮設住宅の姿が見え始めた。建設中のものも目に付く。南相馬市に入ってさらに南下すると、国道は海に近づく。すると、ある場所から風景が一変した。
平坦な田園地帯の中を走る国道の低い土盛りに沿って、大小の漁船が、文字通り“並んで”いるのが、玲奈の視界に突然飛び込んで来た。沿道の家並みや商店はみな、一階部分が津波に打ち抜かれている。流された建物の、コンクリートの土台だけがあちこちに見える。電柱はほとんど倒れたり傾いたりして、切れた電線が垂れ下がっている。ガードレールはどこも激しくひしゃげ、大量の瓦礫が衝突したことを思わせる。そしてあちこちにできた瓦礫の山には竹竿が突き立てられ、黄色や赤のリボンが結ばれている。
初めて見る津波被災地の惨状に、玲奈は言葉を失った。思わず海の方角に目を凝らすが、全く平坦な田畑跡の先にも海は全く見えず、破壊された家、流されて来た漁船や車、それに瓦礫の山が、見渡す限り続いている。
窓の外を過ぎ去る惨状を息を呑んだまま見つめる玲奈に、飯田が言った。
「これでも、かなり片づいたんですよ。瓦礫は、かなり減った」
「・・・これでも・・・」
「でも、船や車はそのままです。この辺りで海から2キロくらいですが、津波はこの国道を超えました。でも船のほとんどは国道の土盛りに引っかかって、道沿いに並んでしまったんです」
玲奈は何か言おうとしたが、言葉が見つからない。これが現実だとは、すぐにはとても受け入れられそうにない。飯田は続けた。
「瓦礫の山にリボンがついてますよね。赤やピンクのリボンは、遺体が見つかった場所です。捜索隊が印をつけて、収容隊に位置を示すんです」
それを聞いた玲奈は、軽い目眩を感じた。流れ去る光景の中に、赤やピンクのリボンがあまりにも多い。それが、延々と続いている。橋の欄干などに引っかかった大きな瓦礫の山には、赤いリボンがいくつも結ばれている。
平和な田園地帯は、あの日まさに戦場、それも激戦地さながらになったのだ。しかしそのような本当に悲惨な光景は、一切報道されることは無い。どこどこで何体の遺体を収容という"数字”の裏にある現実の一端を、玲奈は垣間見たような気がした。だが、今見ているのは"跡”でしかない。あの日ここに居合わせた人々、そして震災直後から救援に駆けつけた人々は一体何を見て、何を感じたのか。それは部外者の想像など到底及ぶものではないと玲奈は思い、思わず軽く身震いした。
しかも、今見ているのは東北から関東の沿岸500キロ以上に渡る津波被災地の、ごくごく一部でしかないのだ。被災地を目の当たりにした人々の多くが《言葉を失った》と言うことの意味が、今初めてわかった。普通に暮らす人々は、この惨状を形容できる言葉を誰も持ち合わせてはいないし、この凄惨な現実は、いかなる言葉で表現されることを拒絶しているようでもあった。巨大地震、巨大津波に加えて、さらに原発事故という"三重苦”に見舞われた土地の様子は、一般的な"災害”の範疇をはるかに超えた、まさに異常事態そのものだった。
車内では、出発時から地元のAMラジオ放送がずっと流されている。頻発する余震や津波の情報、さらには未だ全く予断を許さない原発関係の情報をいち早く得るためだ。地元からの放送は当然ながら震災関連情報が多いが、東京のキー局から配信される放送は、震災など無かったかのように、ほとんど"日常”に戻っている。しかしその合間に、1時間ごとに福島県内各地の放射線量情報が流される。そのあまりに大きなギャップが、被災地とその他の地域との、物理的だけではない"距離”を感じさせた。
しばらく会話が途切れたままだった車内で、飯田がぼそっと言った。
「もうすぐ、警戒区域の検問です」
■9
ふたりの乗った銀色のワゴンは、津波跡を貫く南相馬市の国道6号線を南下して行く。時々すれ違う車は、そのほとんどが自衛隊か警察の車両だ。しばらくすると、まっすぐな国道の先に赤色灯が見えてきた。原発から20km地点に設けられた、国道を封鎖する検問だ。そこにはバリケードが何重にも並べられ、数台のパトカーや警察のバンが並んで赤色灯を灯している。そして白い防護服と防塵マスク姿の警官が10人ほど立ちはだかっている。検問というより、文字通り道路封鎖だ。
検問のすぐ手前の国道沿いにはコンビニがあり、意外なことに営業していた。この辺りは津波が到達しておらず、インフラも暫定的に復旧しているようだ。しかし地方のコンビニならではの広大な駐車場には一般車の姿はほとんど無い。そこには自衛隊のトラックや軽車両が20台ほど集結していて、その周りには白い防護服姿の自衛隊員が数十人も集まっている。中には防護服を脱いで迷彩服姿の隊員も見られるので、どうやらここは警戒区域内での活動を終えた自衛隊の集結地になっているようだ。
深緑色の車両群がカラフルなコンビニ前に集結し、周りに白い防護服姿の隊員が群れる光景は、とてもそれが今の日本の現実だとは思えない。自衛隊車両や隊員を見慣れた玲奈でさえ、どう見ても怪獣映画のワンシーンのように見える。放射線をばらまく怪獣と戦う自衛隊。しかしこれが現実だということが、この場所での異常事態を象徴しているようだった。
玲奈は、自分が陸自の現職時代にこんな事態が起こったら"あちら側”にいたのだと思い、疲れの色が見える隊員たちに向かって、心の中で挙手の敬礼をした。しかし、この場所ではさすがに女性隊員の姿が見えないことに、複雑な思いにとらわれた。自衛隊では女性の自分も男性隊員と同じ課業をこなして来たが、ここでは危険の種類が違うのだ。
そんなコンビニを横目で見ながら、車は検問に近づく。そこで玲奈は、かねてからの疑問に思っていたことを飯田に訊いた。
「あの…"中”へは、どうやって入るんですか?」
飯田の妻の美咲は、それを《蛇の道は蛇》とぼかしていた。玲奈の問いに、しかし飯田は黙っている。玲奈は続けた。
「何か特別な許可とか・・・?」
もしかしたら多少強引な理由をつけて、警戒区域内で活動できる許可を取っているのかと思ったのだ。飯田は素っ気なく答えた。
「そんなものありませんよ。おれらに許可なんか出るわけない」
「え、じゃあどうやって・・・」
飯田は答えずに、検問から100mほど手前で右折して国道を逸れ、車を細い農道に乗り入れた。警戒区域の北限に沿うようにしばらく走る。その辺りも津波は到達していないが、点在する農家にも全く人の姿は見られずに、静まり返っている。玲奈はそれ以上何も訊かずに、緊張して成り行きを見守っていた。
車は農家の生け垣に挟まれた、車一台分の幅しかない狭い道に入った。すると程なく前方に『災害通行止め』という看板が現れ、ガードレールで道が封鎖されている。警戒区域の北限だ。その両脇の農家の入り口には鉄管のバリケードが置かれ、門柱と太いロープで結ばれている。もう、先へは進めない。これからどうするのか、玲奈は息を呑んだまま助手席でじっとしていた。
すると飯田は、
「ちょっと待っていてください」
と言うと、車を降りた。そして農家の入り口のバリケードに結ばれたロープを手早くほどき、重いバリケードをずらす。そして足早に車に戻ると、農家の広い庭に車を乗り入れた。再び車を停めてバリケードを元に戻し、広い庭を母屋の裏手に向かってゆっくりと車を進める。するとそこには、あぜ道につながる裏口があった。裏口を抜けて車をあぜ道から農道に車を戻すと、飯田は助手席でじっと成り行きを見守っていた玲奈に向かって、マスクの下でにやりと笑いかけながら、言った。
「"中”へようこそ」
玲奈は、思いもかけなかった方法で"中”へ入ってしまったことに戸惑い、言葉が出なかった。避難した他人の家を無断で通り抜けてしまったことにも、強い後ろめたさも感じていた。そんな玲奈の様子を感じ取ったのか、飯田が言った。
「大丈夫です。あの家の方から許可をもらっています。実は、あの家の犬を預かっているんですよ」
「…え、そうなんですか…」
「シェルターにいるでしょ、ブチの雑種のハナちゃん。あの子です」
「ああ、あの子」
「実は、避難時にあの子はここに残されていたんです。あの時はそんなのが普通でしたから。それを佐竹さんが保護して、連絡先を残しておいたんですよ。この家は警戒区域ギリギリですから、後で家の方が一旦戻られて、連絡をくれたんです。それで、こんなことも許していただいたわけで」
「そうだったんですか・・・」
車を出しながら、飯田は続けた。
「まあ、私らはまだ幸運な方ですけどね。たくさんの人たちが、いろんな方法で"中”に入っています。もちろん不法入域ですから見つかったら強制退去だし、もしかしたら逮捕されるかもしれない。でも残されたペットを少しでも救うには、それしか無いんですよ」
「はい。私もここに来る以上覚悟はしています。警戒区域の法律も調べて来ました。ここへ来たのは誰の指示でも無く、自分の意志ですから。ただ、もしかしたら許可が出るのかな、なんて少し思っていましたけど」
「いえ、“中”へ連れてきてから言うのも申し訳ないですが、私たちはもう立派に"犯罪者"です」
飯田は"犯罪者"の所だけ、皮肉込めた調子で音を区切りながらゆっくりと言った。玲奈は飯田の皮肉を理解しつつ、答える。「なんだかちょっと複雑な気分ですけど、迷ってはいません。飯田さん、出発しましょう!」
正直なところ、玲奈はもっと"まとも”な方法で入域できるのかと思っていた部分もあった。でも、もとより覚悟はできている。迷ってはいない、その言葉を自分で口にして、改めて腹が決まった。
■10
いわゆる"20km圏内”の警戒区域内に入った飯田と玲奈の車は、さらに奥へ向かって農道を進んで行った。当然ながら、点在する農家の庭や田畑に人の姿は全く無いが、それだけならば静かな田園地帯にはよくあることだ。事情を知らなければ、異常事態の地だとは誰も気付かないだろう。
しかし車が進むにつれて、玲奈の目に、次々に異常な光景が飛び込んで来た。地震で倒れた石造りの門柱が全く手つかずで放置されていたり、崩れた路肩では、脱輪して傾いた車が埃をかぶっているのだ。家を良く見ると、雨戸があるのに閉めていなかったり、カーテンさえ開いたままの家も少なくない。そして玲奈が心を痛めたのは、無人の家の軒先に、洗濯物がそのまま残されているのを見た時だった。
そんな光景は、原発事故による緊急避難がいかに大混乱だったかを無言のうちに物語っていた。しばらく家を空けるのに、カーテンを閉めるどころか洗濯物を取り込む余裕さえ無い人もいたのだ。取りあえず身の回りのものだけを纏めて、手配されたバスに乗り込むしかなかったのだろう。その時は、大半の住人は2~3日、せいぜい1週間もすればまた戻れると思っていたという。しかし、そのままこの区域は閉鎖された。それから2ヶ月。ここでは、大混乱の印象がそのまま、あたかも化石のように固まったままだと、玲奈には思えた。だが、化石にならないものもあった。残された命だ。
車は田園地帯を抜け、小高い山を超えると、南相馬市小高区の市街に入った。信号も消えた、無人の街並みをゆっくりと進む。ここでは、地震の被害はほとんど見られない。
飯田が言った。
「そろそろ、防護服着ましょうか」
飯田は表通りからは陰となる、スーパーの裏手に車を乗り入れた。そこには色褪せた段ボール箱が、台車に載せられたまま放置されている。飯田の話によれば、警戒区域内は完全に無人ではなく、自衛隊はもちろん地元の消防団が活動しているという。さらに“火事場泥棒”を警戒する警察のパトロールもある。だから、できるだけ目立たないようにするという。そう説明しながら、飯田は最後に皮肉っぽい口調で付け加えた。
「私ら、ここではいろんな意味で“異物”ですから」
車の中で、ふたりはもぞもぞと不自由しながら布ツナギの上に防護服を着た。フードをかぶり、ゴム長靴の上からブーツカバーを履く。さらにカップ型の高性能マスクに、防護ゴーグルをつけた。眼鏡をかけた飯田は、曇るからとゴーグルはつけなかった。五月晴れの日差しの中で不織布製の防護服を着ても、思ったより暑さを感じないのが玲奈には意外だった。自衛隊の分厚い戦闘防護服とは天地の差だ。あれは、夏場だったら30分で脱水症になるような代物なのだ。
準備が整うと、飯田は改めて、車のエアコンが内気循環にセットされていることを確かめてから、車を出した。再び、無人の市街をゆっくりと進む。新築途中の家が、放置されている。コンビニの書棚には、あの日のまま並んだ雑誌が色褪せ始めている。そんな、人間だけが"消えて"しまって、しかし生活の痕跡があちこちに生々しく残ったままの街でこんな姿をしていると、玲奈はいよいよ現実感が薄れて来るのを感じた。
まるでSF映画の役者になって、台本も無くいきなり本番を演じさせられているような気分だ。人の姿が無くても、決してゴーストタウンには見えない。普通に生活していた人々が皆、ある日突然ふっと蒸発してしまった街、そう思えた。しかしSF映画ならばすぐにカットの声がかかるのだが、無人の街は延々と続く。これだけ巨大な"生活"が消えてしまったという現実だと理解することを、玲奈の本能が拒絶しているようだった。
その時、玲奈の視界に動くものが捉えられた。思わず、マスク越しのくぐもった声で叫ぶ。
「あっ!犬!」
茶色い中型犬が、100mくらい先の道路上でこちらを見ている。その身体には、赤いハーネスがついたままだ。初めて目にする放浪犬の姿に、玲奈は色めきたった。何もかもが止まったこの街に動くものが、命がある。長い間なくしていた大切なものが、突然見つかった時のようだ気持ちだ。安堵と懐かしさがない交ぜになり、そして興奮した。
「保護できるかしら・・・」
玲奈の言葉に、飯田は冷静に答えた。
「おそらく、あの子は無理だ」
「なんでですか?」
「身体を横に向けているでしょう?ああいうのはかなり野生化が進んでいて、もう人間には近づきません」
「なんで横向きだと・・・?」
「すぐに逃げられるようにですよ。こちらに興味がある犬は、警戒していても身体をまっすぐに向けるんです。たくさん見てきて、わかりました。あいつらにとって、人間は既に警戒すべき敵でしかない」
その犬は、確かにこちらに対して身体を直角に保ったまま、首を回して車の動きをじっと見つめている。
犬と車との距離が50mほどに縮まると、飯田が言った。
「そろそろ、逃げますよ」
その言葉通り、その犬は突然弾かれたように反対方向に駆け出すと、後ろを振り返ることもないまま、街角に消えた。玲奈は再び、大切なものをなくした時の様に落胆した。飯田が言う。
「まあ、ああいうのはここでも生き抜く術を身につけた“強い個体”だということです。弱肉強食の世界ですから」
玲奈には、返す言葉が無かった。
その後、玲奈は弱肉強食の現実を目の当たりにすることになる。
■11
警戒区域の一番北側当たる南相馬市小高区の市街では、それ以上犬猫の姿を見ることは無かった。車は市街を抜け、川に沿って南下して田園地帯へ入る。すると河川敷の草地で茶色の牛が10頭くらい、のんびりと草を食んでいるのが見えた。肉牛として主に浪江町などで飼育されていた牛だ。子牛の姿もある。
事情を知らなければ、放牧された牛が平和に暮らしている、そんな風にしか見えない。しかしそれは、警戒区域の設定によって取り残された牛たちが、牛舎から解き放たれているのだった。飯田が言う。
「あいつらは、街中にも群れで現れますよ。興奮させるとちょっと危ないこともあります」
「突っ込んで来るとか?」
「ええ。こないだも警戒中のパトカーが体当たりされたってニュースで言ってました。ボラも、車を牛に追いかけられた人がいます」
玲奈も、福島に来る前から警戒区域の放逐牛のことはニュースで何度か見ていた。ごく普通の街中で群れを成して歩く牛たちの姿は、この異常事態を象徴する映像のひとつとも言えた。しかしニュースでは、何故牛たちが解き放たれたのかについてははっきり触れられない。柵を壊して逃げ出したのだろうとか、飼育者が逃がしたのだろうという推測程度だ。玲奈は、答えを聞くのがちょっと怖いと感じながらも、飯田に訊いた。
「牛さんたち、どうやって外に出たんでしょうか?」
飯田は数秒間沈黙した後、私たちのことではありませんがと前置きした上で、話し始めた。マスク越しにも、表情が少し歪んでいるのがわかる。
「逃げ出せない牛もたくさんいました。そんな牛舎では、あれから2ヶ月経った今、どんな状態かわかりますよね」
訊かれた玲奈の脳裏に"全滅”という言葉が浮かんだ。しかし、実際のイメージは想像しようもなかったし、気持ちの深い部分がそれを拒絶しているようでもあった。飯田は続ける。
「本当に酷い状態ですよ。そうなることがわかっているのに、手をこまねいていられない人たちもいます。もちろん、私たちも何とかできればと思ってきました」
「ということは・・・」
「工具を持って"中”に入る人たちもいたということです」
飯田の言葉に、玲奈はすべてを理解した。何も言えなかった。
一般社会の解釈ならば、それは“悪”だ。しかし、その行為のおかげで多くの命が繋がっている。人間に頼って生きていた動物たちが、人間が引き起こした事態で命の危機に晒された時、それを人間が救った。その結果、また新たな問題も持ち上がった。しかし、それをただ“悪”だと、誰が断罪できるのだろうか。少なくともここは、一般社会の“常識”ではかれる世界ではなくなってしまっている。玲奈は、改めてのんびりと草を食む牛の群れを見つめた。その向こうに広がる広大な田園風景には、人の姿がただ見えないのではなく、本当に誰ひとりいないのだ。今、自分たちはそこへ入り込んだ“異物”なのだろうか。誰もいない、何があっても誰にも気付かれない。そう思うと、玲奈は急に心細さを感じた。
会話が途切れたまま、車は川沿いを進む。川の中には、ここまで遡上してきた津波が運んで来た瓦礫の山がいくつもできているが、そこはすでに捜索済みのようだ。突き立てられた竹竿にあのリボンが結ばれていて、その中には、いくつか赤いリボンもあった。飯田が口を開いた。
「この先で、最初の餌まきやります」
「はい」
いよいよ、車の外へ出る。
「この少し先の浪江町の空間放射線量は8から10マイクロくらいだとニュースでやってました。この辺りもそれほど変わらないと思います。もちろん、地面の近くや場所によってはもっと高いはずです。手早くやりましょう」
飯田の言葉に、玲奈は緊張した。窓の外は五月晴れの明るい光に溢れている。そこに放射線という“見えない敵”が満ちているということは、まったく実感できない。それが、放射線の恐ろしさの最たるものだ。
車は再び小さな市街地へ入って行く。閉鎖された小学校の脇を通る時、おそらく1年生くらいが描いたと思われる、交通安全の看板が玲奈の目に留まった。つたない文字で『くるまにちゅうい』とある。それは、あの日までここで営まれていた普通の生活を、子供たちの歓声を強烈に思い起こさせた。
《・・・いったい、なんでこんなことになってしまったというの・・・》
防護ゴーグルの中で、玲奈の目に涙が溢れた。
その時、飯田が言った。
「つきましたよ。ちょっと力仕事ですけど、お願いします」
玲奈は防護ゴーグルを少しずらして指先で涙を拭うと、ゴム手袋をはめた。そしてゴーグルとマスクを改めてしっかり顔に密着させながら、気を取り直して言った。
「はい。お願いします!」
銀色のワゴンは、小さな自動車修理工場の前に停まった。
■12
車の外は、五月晴れの明るい光に満ちている。しかしそこは、詳しい数値はわからないものの、かなり高いレベルの放射線にも満たされているはずだ。短時間で危険というレベルでは無いことは理解しているが、それでも玲奈はマスク越しに軽く息を吸い込むと、ふっとひとつ吐き出してから意を決して助手席のドアを開け、車から降りた。
飯田は、ワゴンのリアゲートを開けながら言った。
「ドッグフード20キロ袋を下ろしてください。水は私が運びます」
飯田は玲奈が女性だという事を意識せず、当たり前のように力仕事を指示したことが、玲奈にはむしろ心地良かった。玲奈がドッグフードの大袋を身体の前に抱えて敷地内に入って行くと、建物の軒下には既に餌や水用のボウルがいくつも置かれていた。どれもきれいに空になっている。玲奈は飯田の指示で、ボウルにドッグフードを入れて行った。飯田は20リットルのポリタンクから、ボウルに水を注いで行く。そして、雨がかからない場所にボウルを集めていく。
一通り作業が終わると、飯田が言った。
「ここは、3匹のグループが根城にしています。人なつこいんですが、グループを引き離す訳にはいかないので、とりあえず様子見てます。いずれ、一緒に保護できればと思ってますが・・・あ、来た来た」
玲奈が飯田の視線を追うと、人の気配を感じたのだろう。茶色の濃淡2匹と白が1匹の雑種が3匹、寄り添ってこちらを見ている。みな首輪をつけていて、少し痩せているようだが毛並みは良い。3匹とも身体はかなり大きく、確かに一緒に保護するのは大変そうだ。
飯田が犬たちに声をかける。
「ご飯持ってきたよ!食べな!」
すると犬たちは、少し頭を下げて警戒の様子を見せながらも、おずおずとこちらに近づいて来た。例の、身体を横に向ける様子は全く見られない。何よりその視線は、人間をまだ仲間だと思っていることを示す、穏やかなものだった。餌をくれる人間に対する、恭順の態度。飯田のことは知っているが、見慣れない玲奈の姿と匂いに、少しだけ警戒しているという感じだ。
ふたりが餌から少し離れると、犬たちはすぐにボウルに駆け寄って餌を食べ始めた。その間、時々顔を上げて警戒するようなこともない。安心し切っている。人が消えたこの場所で、動物と人の縁もすべて断ち切られたように感じていた玲奈は、その姿に目頭が熱くなった。ここにもまだ、人を頼る命がある。
ドッグフードときれいな水を一通り満喫した犬たちは、玲奈たちに近づいて来た。人間が大好きな犬が見せる、穏やかな表情だ。玲奈はゴム手袋をした手で犬たちをさすり、抱きしめた。マスクとゴーグルが邪魔だったが、外す気にもなれなかった。この子たちも、人が与える餌だけで十分という訳では無いだろう。普段は、ここでどんな過酷な生活をしているのだろうか。明るい日差しの中で犬たちをかまう玲奈と飯田の姿はごく日常の、人と犬の触れ合いだった。ふたりが奇妙な白装束という格好であることを除けば。
その後、何カ所かのポイントに犬猫用の餌と水を置いて回った。しかし遠巻きに見守る猫の姿は何度か見たものの、犬の姿を見る事は無かった。しかし、どこでも前に置いた餌はきれいに食べ尽くされていて、それが命を繋ぐ役に立っていることだけはわかった。
"中”へ入って2時間程が経過した時、飯田が言った。
「そろそろラストにしましょうか。ちょっと面白い所です」
「面白いところ?なんですか?」
「まあ、行ってのお楽しみです」
飯田はマスク越しでもわかるほどニヤニヤしながら言う。
玲奈は附に落ちなかったが、それ以上は問わなかった。
飯田は一軒の農家の前に車を停めると、言った。
「ここは、すごいんですよ」
伸び放題の草木が鬱蒼と茂る、薄暗い裏庭へドッグフードと水タンクを運んで行くと、そこには特大のボウルが置かれていた。大型の洗面器ほどもある。飯田は、ちょっと様子見を見てくると言い残し、家の裏手に消えた。ひとり残された玲奈が特大のボウルにドッグフードを盛っていると、背後に何か気配を感じた。そして突然、尻を触られた。玲奈はビクっとしてそのまま固る。誰もいない警戒区域内で、しかも鬱蒼とした茂みの中で男性とふたりだけだということに、その時改めて気づいた。そんなまさか・・・
玲奈が意を決して振り返ろうとすると、さらに尻の辺りを柔らかいもので突っつかれた。防護服の中で、全身に汗がどっと吹き出す。
《うそ?なに?》
玲奈が恐る恐る振り向くと、そこにいたのは飯田ではなかった。頭までの高さが1メートル近くある茶色の秋田犬が、玲奈の臭いをくんくんと嗅いでいる。すると秋田犬はのっそりと顔を上げ、振り返った玲奈と目が合った。その目は大型の日本犬特有の、すぐには感情が読みとれない目だった。懐いているのか怒っているのか、全くわからない。しかも、飯田の姿は見えない。もし私を敵だと見なしていたら・・・。
玲奈の身体に、再びどっと汗が吹き出す。威嚇はしていない。でも、怖い。逃げ出したら、いきなり襲われるかもしれない。玲奈は、固まったままなんとか震える声を絞り出した。
「・・・ぃ、飯田さぁぁぁん・・・!」
玲奈の声に、飯田が家の裏から小走りに駆け戻って来ると、明るい声で言った。
「なんだ、ここにいたのか」
「だ・・・大丈夫なんですかぁ?」
玲奈は、振り返った姿のまままだ動けない。飯田は秋田犬につかつかと歩み寄ると、その首を抱きながら話しかけた。
「元気だった?あきたくん」
秋田犬のあきたくん。そのまんまだ。
相変わらずほとんど無表情だが、飯田に懐いている秋田犬の様子に、玲奈はやっと全身の力が抜けた。膝の力が抜けてそのまま座り込んでしまいそうだ。半笑いで、飯田に抗議する。
「もう・・・。先に教えてくださいよぉ」
飯田は秋田犬の首をさすりながら答えた。
「すいません。ちょっと驚かせてやろうと思っちゃいました。この子は大丈夫ですよ」
「一瞬、襲われるって思いましたよ。でも、なんでまだここにいるんですか?」
「いや、この子くらいになると、しっかり信頼関係築いてからじゃないと危ないですからね。暴れたら抑えきれないから、しばらく面倒見てたんです。近いうちに佐竹さんと軽トラで保護しに来ますよ。うちの車に乗るようなケージじゃ、こいつには小さすぎて」
それを聞いて、玲奈は昨日の佐竹の言葉を思い出した。秋田犬クラスはちょっと怖いという玲奈に対して、《そんなのも、そのうちお目にかかれっぞ》言ったのは、こういう意味だったのだ。いきなり翌日会えるとは思っても見なかったが。飯田に首をさすってもらいながら、すっかり懐いている様子の『あきたくん』だったが、玲奈はいきなり手を出す気にはなれなかった。こういう犬は、甘く見てはいけない。玲奈はその代わり、特大のボウルにさらにドッグフードを盛り、飲み水用のボウルにもたっぷりと水を注いであげた。すると、秋田犬は飯田を離れ、ドッグフードをがつがつとむさぼり始めた。時々顔を上げて玲奈を見るが、その目つきは、つい先ほどより少しだけ穏やかになったように、玲奈には感じられた。
その様子をしばらく見てから、ふたりはその場を離れた。ドッグフードも水もほぼ全部撒き終えていたが、車の中で飯田が言った。
「この後、ちょっと寄って行きたいところがあるんですが、いいですか?」
玲奈は即答した。
「ええ。もちろんです。ご一緒します」
そう答えたものの、つい先程とは打って変わった飯田の厳しい表情に、玲奈は胸騒ぎを覚えていた。
■13
飯田と玲奈が乗った銀色のワゴンは、田園地帯をさらに南下して、浪江町に入った。道路は丘陵地帯を縫うように走る。緑濃い長閑な山間に、農地や牛舎が点在している。しかしそんな美しい里山も今は無人だ。玲奈は、この国の美しく大切な財産が、理不尽な力で蹂躙されている、そう感じていた。
すると突然、飯田が茂みの脇で車を停めた。辺りには特に何も無い。訝しがる玲奈に、運転席の飯田は前を向いたまま言った。
「玲奈さん、改めて伺いますが、ここの現実をご覧になる勇気はありますか?」
「現実・・・ですか?」
「ここではある意味で日常ですが、ほとんど表沙汰になることのない現実の、ほんの一部です」
玲奈は、飯田の表情が歪んでいるのを、マスク越しにも見て取った。そして、どのような"現実”なのか大筋を理解して、言った。
「はい。本当のことを知りたいと思っています。覚悟はあります」
飯田は玲奈の目を無言でしばらく見つめると、そのまま車を降りた。玲奈も続く。
飯田は道路脇の草地に歩み寄り、玲奈を振り返りながら地面を指さした。玲奈が見ると、そこには茶色のボロ布のようなものが落ちている。さらに一歩踏み出した玲奈は、全身に電流が走るような衝撃を感じた。そして、息を呑んだ。そのボロ布のようなものは、赤い首輪をつけたままの、干からびたダックスフントの死骸だった。しかし、それは死骸というより“残骸”と表現した方が良いほどの状態だった。
玲奈は思わずその傍にしゃがみ込み、手を合わせた。静寂の中、玲奈の頭の上から、飯田の声が響いた。
「この子は行き倒れたか、強い奴に襲われたんでしょう。目玉が無いのは、多分カラスでしょう。鳥は最初に目から食います。腹は、鳥か強い奴に喰われたんです。どの死骸も大抵同じような状態ですよ」
死骸の腹は喰い破られ、内臓は食べ尽くされて全く残っていない。空っぽになった赤黒い胴体の中に、白い肋骨が裏側から見えている。飯田は続けた。
「ここでは、これが普通なんです。ちょっと前は、もっとあちこちで見られました。犬も猫も、時には牧場で飼育されていたダチョウも。こんな風に、生存競争に負けた奴から死んで、喰われて行くんです。私たちが餌撒きをするのは、こういう子を少しでも減らしたいということでもあるんです」
普通の愛玩犬が、野性化した飼い犬に食い殺される。これが今の日本の現実なのだろうか。しかし人間が消え、食物が限られる場所では、必然的に起こる現実なのだ。そして、ここではそれが現在進行形であり、この先もずっと続く。玲奈は、文字通り言葉を失った。死骸の脇にひざまづいたまま、マスクの中で歯を食いしばった。こんな悲惨な現実を、一体どれだけの人が知っているのか。そして、知ろうとしているのか。
飯田が言う。
「小型の愛玩犬は、避難時に家の中や敷地に繋がれたまま残されたことが多くて、そのまま大半が死にました。外に出られても、こういうことになりやすい」
それを聞いて玲奈は、保護犬に中型以上の雑種が多かった理由を理解した。それはつまり"強い個体”なのだ。それを図らずも説明するように、飯田の言葉は続いた。
「田舎では雑種が多く飼われていたのも確かです。農家の番犬みたいに。そんな家では、避難時に連れて行けない犬を逃がすことも少なくありませんでした。庭に繋がれていた犬も、農家って庭に簡単に入れちゃうでしょ。だから保護しやすかったんです」
強い個体は、繋がれたままでも比較的長く生き残り、そして人間に発見されて保護され易い状況が多かったということだ。
静まり返った中で、玲奈はぼろ布のような死骸を見つめたまま、ゴーグルの中で溢れそうになる涙を堪えていた。そしてふと思いつくと、ゴム手袋をした手で周りの草をかき集めて死骸にかけ、見えないように覆い隠した。決してこの子だけじゃない。こんなのは気休めなのはわかっている。でも、これ以上こんな姿を晒させるのは耐えられなかった。一通り覆い隠すと、改めて手を合わせた。そして、飯田を見上げながら、訊いた。
「牛は、大丈夫なんですか?」
飯田はすぐに答えた。
「牛を襲える犬なんていませんよ。子牛は狙われる可能性もありますが、いつも親が一緒ですから。ただし、外に出られた奴の話ですが」
玲奈はそれ以上訊かなかった。牛舎に閉じ込められた牛の末路は、想像すればわかる。しかし、実際にどんな状態なのかは、やはり想像もつかない。
玲奈が草で覆われた死骸を見つめていると、飯田が促した。
「さあ、早く行きましょう。長居して良いことはありません。もう、原発から10km圏内に入るくらいですから」
『10km圏内』と聞いて、玲奈は思わず軽く身震いした。ニュースで何度も聞いた、関わらなければ全く“異世界”であったはずの場所に、今まさに自分がいることが信じられなかった。時刻は午後2時を回り、辺りは暖かな五月の陽射しに溢れていが、そこに満ちる放射線もさらに強くなっているはずだ。飯田が言う。
「もう少しだけ、奥に行きます」
■14
飯田と玲奈が乗った銀色のワゴンは、浪江町内に入った。新緑が鮮やかな丘陵地を、緩やかなアップダウンを繰り返しながら進む。丘をいくつか越えたところで、飯田は車を二車線の県道から細い砂利道に乗り入れた。そしてしばらく進むと、その先に大きな牛舎が見えてきた。敷地の入口脇に車を停めると、飯田が言った。
「ちょっとここの様子を見て行きます。もうおわかりかと思いますが、酷い状態です。無理に勧めませんが、玲奈さんどうされますか?」
玲奈は、ここへ来るまでの間に、次に行くのは多分こういう場所だろうと、大体の想像がついていた。そして、そこがどんな状態なのかは頭では理解していたが、実際の様子は想像もつかない。玲奈は一瞬迷ったものの、飯田を見つめ返して答えた。
「私も、行きます」
飯田は無言で玲奈の目を見つめると、そのまま視線を返してドアを開け、車を降りた。玲奈も続く。辺りは静まり返っていて、白装束のふたりが砂利道を歩く音だけが、辺りに思いの外大きく響く。その時、風が変わった。マスク越しに息を吸った玲奈は、思わず立ち止まった。凄まじい臭気。一瞬甘ったるく感じた後、鼻の中から頭の中へ、そして全身に拡がり、身体を中から蝕んで行くような、本能的に嫌悪感を覚えるような強烈な腐臭に包まれた。
腐った生ゴミや食肉が発する臭いと同質のはずだが、それよりはるかに強烈だ。太古から、人間の遺伝子に忌むべきものとして組み込まれたのであろう"死の臭い”だ。玲奈の口の中に酸っぱいものがこみ上げて来たが、なんとかそれを堪えると、なるべく臭いを感じないように口で息をしながら、先を歩く飯田を小走りで追う。この程度で怯んでいられない。
牛舎の入り口で、飯田に追いついた。飯田は立ち止まると、玲奈を振り返って言った。
「もう一度訊きますが、覚悟はいいですか?うちの美咲は、ここでしばらく動けなくなったんです」
玲奈は、さらに胸の奥からこみ上げて来るものを堪えながら、無言で頷いた。声を出すと、そのまま吐いてしまいそうだ。
飯田はゴム手袋をはめた手を牛舎の扉にかけ、ゆっくりと開いた。そして、一歩下がって玲奈に場所を開けると、無言で奥を指さした。《さあ、現実を見ろ》と、促す様だった。玲奈は意を決して一歩前へ進むと、薄暗い牛舎を覗きこんだ。
声が聞こえた、と玲奈は感じた。広い牛舎の中は通路の両側に鉄柵で仕切られた六畳敷きくらいの小部屋が並んでいて、その中には数え切れないほどの黒や茶色の塊が横たわっている。一見して牛だとわかるようなものは既に少なく、その多くは骨と皮だけのように干からびている。白骨化しているものも多い。ほとんどの目玉は腐敗したか鳥に食われて失われていて、真っ黒な穴となった眼窩が、虚空を見つめているようだ。そんな骸が、累々と続いている。腹を喰い破られた牛の赤黒い内臓がはみ出し、どろどろに腐乱している。鉄柵にロープで繋がれたまま首を吊るように息絶えていたり、鉄柵の間から首を出して、空の餌箱に頭を突っ込んだまま、白骨化した頭蓋骨がむき出しになった子牛の姿もある。この牛舎だけで、100頭以上が凄惨な骸と化している。
玲奈は、もう凄まじい臭気を意識していなかった。ゴーグルの中で涙が止めどなく溢れる。そして、物音ひとつしない牛舎の中で、声を聞いた。それは、理由もわからぬままに見捨てられ、身動きも出来ないままゆっくりと、ゆっくりと死に絶えて行った牛たちの、苦痛と絶望に満ちた、声無き声だ。
玲奈の頭の中で、助けを呼ぶ牛たちの声ががんがんと反響し出す。それがどんどん大きくなり、現実との境目が薄れて行く。今、自分はどこにいて、何を見て、何を聞いているのかわからなくなり、ふっと意識が薄れた。その時、玲奈の両肩を力強く掴む手があった。玲奈はびくっとして我に返る。振り返ると、涙でぼやけた視界の中で、両手で玲奈の肩を掴む飯田と目が合った。
飯田が静かに言った。
「もう、行きましょう。こういうことです。そして、これはほんの一部なんです」
飯田は足元が覚つかない玲奈の身体を支えながら、牛舎から離れた。牛舎の周りは穏やかに晴れた田園風景が広がり、つい今し方目にした凄惨な現実と同じ空間とはどうしても思えない。暖かい日差しの中で、玲奈は深呼吸しようとして大きく息を吸い込んだ途端、辺りはまだ"死の臭い”に満たされていることに気付き、慌てて息を止めた。車に戻ると、飯田の指示でブーツカバーについた泥を良く払ってから乗り込む。どれほどの量か良くわからないが、何の変哲も無いこの泥の中には、降り積もった放射性物質が大量に含まれているのだ。
助手席に座った玲奈は、シートにもたれたまま、明るい空をぼんやりと見つめながらしばらく放心していた。また、ゴーグルの中で涙が溢れる。つい今しがた見た光景が、現実のものとは思えないし、思いたくない。でも振り返ればそこに現実に牛舎があって、その中は地獄絵図そのものなのだ。知らなければ、見なければ気にしないで済むが、それでもここまで来て、本当のことを知ったことに後悔は無かった。
ここに来るまで、玲奈は閉じ込められたままの牛たちが“全滅”したということを、頭では理解していたし、報道やネット上の情報も得てはいた。しかしそれを実際に目の当りにするということは、全く別なのだ。情報は、大量死という“概念”でしかない。だがその現実を目前にした時、玲奈は命がゆっくりと失われて行く過程も、その恐怖と絶望さえも、全身で感じた。地震、津波から原発事故という異常な状況の中、まず人間の命を救わなければならないのは当然だ。でも、その陰で失われている命と、過酷な弱肉強食の世界を生き延びている命のことも忘れてはならないし、伝えて行かなければならない。そしてできる限り、救いたい。玲奈は改めて思った。
放心したままの玲奈に、運転席から飯田が声をかけた。
「玲奈さん、大丈夫ですか?」
玲奈は我に返って答えた。
「え、ええ、なんとか」
「全く、酷い状態です。しばらくは生きているのもいて、できるだけ草や水を運んだりはしていました。でも、却って苦しみを長引かせていたのかもしれません。自己満足だったのかもしれませんが、私たちにはそれ以上のことは出来なかった…」
マスクの下で、飯田の表情が歪む。
「ここだけ、じゃないんですよね」
「ええ。外に出られたのはほんの一部です。ほとんどの牛舎が、全滅です。一体何千頭死んだのか…牛だけじゃなく、豚も同じような状態です」
「豚もですか」
「ええ。外に出られた豚の野生化も進んでいます。野生の猪と交配も始まっているようですし。雑食の豚は最後には共食いを始めると言われていたのですが、実際にはそうならず、弱い個体から力尽きて行きました。私も豚舎を見ましたが、共食いの痕跡はありませんでしたよ。みんな寄り添うように斃れていました。それがいいのか悪いのか、私にはわかりませんが」
「でも、なんとなく安心しました」
「人の感覚では、そうですけどね」
話はそこで途切れた。
■15
牛舎を後にしてからも、玲奈の頭の中には牛たちの声が反響し続けているようだった。もちろん全滅した牛舎の中は物音ひとつしなかったのだが、その中から響いて来たように思えた悲しげな声は、まるで自分たちを突然見捨てた人間を責めるかのように、『なぜ?どうして?』と問いかけ続けるのだった。
明るい日差しの中を車で走りながら、玲奈と飯田はずっと無言だった。しばらくして、飯田がぼそりと言った。
「自衛隊だ」
「え?」
「うしろから来ます」
玲奈が振り返ると、深緑色の四輪駆動車が近づいて来るのが見えた。その屋根には、赤色の回転灯が載っている。
「あ、警務隊」
陸自出身の玲奈にはすぐにわかった。自衛隊内部の警察組織である警務隊の車両だ。一般的な軍隊ならば、憲兵隊に当たる。
飯田によれば、警戒区域内では自衛隊があちこちで活動しているので、時々出会うこともあるそうだ。しかし活動中の一般隊員は、飯田たちの姿を見ても特に何も反応しないという。警戒区域内には地元消防団などの自家用車も入っているから、防護服姿ではそんな人たちとほとんど見分けがつかないし、何より一般隊員は、活動中に出会った者を報告せよとの命令も受けていないからだ。
しかし飯田は言った。
「これはちょっとまずいかも・・・」
玲奈は、飯田には自分が陸自出身だとは伝えていなかったなと思いながら、言った。
「警務隊は民間人を取り締まらないと思いますが」
飯田はバックミラーを見ながら答える。
「ええ、わかっています。詳しいんですね。でも、こっち見ながら無線で何か話してます」
それを聞いて、玲奈は緊張した。警務隊は活動中の隊員の支援とパトロールのためにここにいるはずだ。ならば、出会った"不審車両”のことを現地本部に報告するだろう。そして、そこから警察に連絡が行くと考えなければならない。
飯田は続けた。
「この車、所沢ナンバーだし、後ろにはアニマルレスキューのステッカーも貼ってあるし」
確かに、リアウインドウにはかわいらしい肉球をあしらったステッカーが貼ってある。県外ナンバーでそんなステッカーが貼ってあれば、入域許可を受けた地元関係者の車ではないのは明らかで、どんな人種かはすぐにわかるだろう。明らかに"侵入者”だ。飯田が言う。
「とにかく最短距離で出ましょう」
「・・・はい」
深緑色の警務隊車両は、だれもいない住宅街をしばらく銀色のワゴンの後ろについて走った後、信号が消えた交差点を曲がって去った。この後、何が起こるのか。
立入禁止の警戒区域内で警察に見つかった場合はまず退去を命じられ、それに従わなければ検挙されると、福島へ来る前に玲奈は調べてあった。でも実際は退去命令だけでなく、洗いざらい調べられてこってりと油を絞られるだろう。いくら退官しているとはいえ、元自衛官の自分がそんなことになったらどうしよう。もちろん自分自身の覚悟はできていたが、かつての関係者に迷惑がかかったらと思うと、気が気ではなかった。
車は無人の住宅街を抜け、畑の中を走る農道に出た。はるか1kmくらい先に、検問の赤色灯がちらちらと光って見える。その時、飯田がこの場にそぐわないような、のんびりとした口調で言った。
「やっぱり、来たなぁ」
「はい?」
「パトカー」
午後のまばゆい逆光の中で玲奈が目を凝らすと、はるか前方から赤色灯を回したパトカーがこちらに向かって来るのが見えた。飯田が言う。
「検問は県外からの応援部隊で、“中”は福島県警がパトロールしているはずです」
確かに、“中”に入る前に見た検問にいたのは、山口県警や広島県警の車両だった。
「検問の車が“中”に入って来るということは、何か非常事態ということですよ。つまり、俺らだ」
飯田は、なぜか最後には半笑いだった。しかしこのままでは、パトカーと鉢合わせだ。すると飯田は、農道から細いあぜ道に車を右折させながら言った。
「お帰りは、こちら」
「追いつかれちゃうかしら・・・」
「ま、わかりませんね」
相変わらずのんびりした口調だ。
あぜ道をゆっくりと走りながら、飯田は玲奈に訊いた。
「まだ、来てますか?」
玲奈が振り返ると、農道を走るパトカーの赤色灯がさらに近づいている。
「来てます!急ぎましょう!」
すると飯田は、突然強い口調で言った。
「逃げちゃだめだっ!」
どこかのアニメで聞いたような飯田の言葉に、玲奈は突然笑いがこみ上げて来たが、なんとか吹き出すのは堪えた。しばらく不条理な環境にいたせいで、何か感覚がおかしくなっている。人の姿が消えた農村で、白い防護服姿でパトカーから逃げているということに、まるで現実感が無い。本当に、なにかSFの芝居でもしているような気がする。
飯田が真顔で言う。
「私ら、違法行為をしているかもしれませんが、泥棒じゃない」
「そ、そうですね」
「ここで逃げたら、本気で非常線張られますよ。それにこの先は山道で、枝道がいくらでもあります」
「じゃあ、大丈夫かなぁ」
「多分。警察も、本気で追うならサイレン鳴らして全開で来ますよ」
確かに、あぜ道に入ったふたりの車を見ても、パトカーは特に加速するわけでもないようだ。飯田が希望的観測を言った。
「報告があった車と似たのが遠くに見えたから一応確認しとけ、くらいじゃないですかね」
銀色のワゴンは細い山道に入った。これでパトカーの視界から消えたはずだ。それでも飯田はスピードを上げない。問わず語りに、飯田が言った。
「対向車が絶対に無いとは言えないし、路肩が崩れているところもありますから。ここで事故ったら、文字通り一巻の終わり」
そんな落ち着き払った飯田の態度に、玲奈は警察の姿に舞い上がっていた自分が恥ずかしく感じた。覚悟を決めてここへ来たはずなのに。
丘をひとつ越えた車は山道を抜け、開けた農道に出た。すぐ近くに見覚えのある農家が見える。飯田が言った。
「最短時間で出たいので、玲奈さん、力仕事お願いします」
玲奈は飯田の依頼をすぐに理解して答えた。
「わかりました。バリケードですね」
「ええ。ロープはもやい結び。わかりますか?」
「任せてください!」
陸自出身の玲奈にとって、ロープワークは得意技だ。
玲奈は、車が停まるのと同時にドアを開けて飛び出した。手際よく太いロープをほどき、数十キロはありそうな鉄管バリケードをずらすと、すかさず飯田が農家の庭に車を乗り入れた。バリケードとロープを元に戻すと、出口のバリケードへ駆けて行く。もう一度同じ作業を繰り返しながら、玲奈はかつての演習を思い出していた。あの頃の緊張感が、自然と体じゅうに蘇っているようだ。
“外”に出た車に玲奈が飛び乗ると、飯田は今になってかなりのスピードで走り出した。無言のまましばらく走ってからスピードを緩めると、飯田はマスクを外して大きくひとつ、ため息をついた。落ち着いた態度と裏腹に、やはりかなり緊張していたのだ。つられて玲奈も、大きくため息をついた。その時、玲奈は自分の頭に浮かんだ言葉がおかしくなり、ひとりでぷっと小さく吹き出した。
《助かった…》
なんだか自分でも腑に落ちない言葉だったが、どうやら本心のようだ。これがSF映画だったとしても、ここではそんな台詞だろう。
飯田は農道の脇に車を停めると、玲奈を見ながら言った。
「玲奈さん、脱いでください」
「え、脱ぐ?」
「その白装束ですよ」
「あ、ああ・・・」
防護服に身を包んでいることを、すっかり忘れていた。飯田が自分の防護服のフードを外し、ジッパーを下ろしながら笑っている。
「“外”でそんな格好をしていたら、どこにいたか一目瞭然ですって」
なんだか、ものすごく久しぶりに人間の笑顔を見たような気がした。
狭い車内でもぞもぞと防護服をはぎ取ると、マスクやゴーグルと一緒に大きなビニール袋に入れて密閉した。玲奈が飯田に訊く。
「車は・・・掃除しないんですか?」
つい“除染”と言ってしまいそうになったが、言葉を選んだ。しかし飯田は平然と答える。
「時々除染してますよ。まあ、洗車場で高圧洗車と掃除機かけるだけですけど」
もちろん、それでかなりの放射性物質を洗い流せる。
玲奈は防護服を脱いで真っ赤なツナギ服と黄色のゴム長靴姿に戻った。頭の後ろで一本に束ねていた髪をほどく。そして“中”を思い出しながら、目に見えない放射線の恐ろしさを感じていた。短時間では危険なレベルではないとはいえ、原発から10km圏内に入るくらいの、かなりの高線量地域にまで入ったのだ。それでも、放射線のことはあくまで頭で理解しているだけで、当然ながらその存在は全く感じなかった。陸自時代にはもっと分厚い戦闘防護服にゴム製の防毒面という重装備でNBC(核、生物、化学)防護演習を行った経験もあるが、あくまでそれは想定だった。でも、想定と現実の危険が感覚的に全く変わらないということが、却って怖ろしかった。
出発の準備が整うと、飯田が言った。
「腹減りましたね。コンビニ寄って行きましょう」
玲奈には、その言葉が不思議に感じられた。この数時間ずっと無人の街や農村にいて、その光景が強烈に刷り込まれてしまっている。近くでコンビニが開いているということが、どうにも信じられない。
ふたりの車は、警戒区域の中に入る前に見た、検問の近くのコンビニに滑り込んだ。厳重な検問には相変わらず白い防護服姿の警官が10人ほども立ちはだかり、近付く車ににらみを効かせている。きっとこの検問にも“不審な”銀色のワゴンの情報は来ているのだろうが、堂々と“外”の道を走って国道に出てきた来た銀色のワゴンに、警官はだれも注意を払わなかった。コンビニの広い駐車場には、今はもう自衛隊の車両はほとんどおらず、がらんとしている。検問で封鎖された国道の先に続く無人の警戒区域内に、つい先程まで自分たちがいたということが、なんだか遠い記憶のように感じられる。
玲奈の脳裏に、ふと佐竹の言葉が蘇った。
《俺ら、無いことにされてますから》
そう、本当はいないはずの、いてはいけない存在。しかしそんな人々が実は存在し、危険を冒して取り残された動物たちの命を救っているのだ。玲奈は、自分がそんな人々の一員になったことが少し誇らしいような、しかしやはり後ろめたいような、なんとも複雑な気持ちだった。
そんな気持ちを引きずりながらコンビニに入る。商品の棚には空きが目立ったが、それでも見慣れたコンビニだ。若い男性店員が、ごく当たり前に「いらっしゃいませ」と声をかけて来る。玲奈はペットボトルのお茶とおにぎりをふたつ手に取ると、レジに向かった。若い男性店員は、赤いツナギの作業服にゴム長姿の玲奈を見て、福島訛りで言った。
「ボランティアさんですよね。ありがとうございます」
玲奈は、今しがた自分たちがしてきた“逃走劇”が筒抜けになっているような気がして、少ししどろもどろになった。
「え、あ、はい…大したことはできませんが…」
店員が言う。
「いえ、遠くからもたくさんの方が来ていただいて、本当に感謝してます。そこのボランティアセンターに来られているんですか?」
どうやら近くに瓦礫撤去などのボランティア拠点があるらしい。駐車場には、それらしい車や若者たちもいる。
「いえ、そうじゃないんですけど、また近いうちにこちらへ来ます」
玲奈は、思わず自分が言った言葉に、自分で驚いていた。どうやら、私はまたここへ、“中”へ来るつもりらしい。いや、来なければならないと思った。店員は玲奈の言葉を聞いて、丁寧に頭を下げた。
「本当にありがとうございます」
代金を払って店の外へ出ると、飯田が軒下で一足先におにぎりを頬張っていた。玲奈の姿を見て微笑む。玲奈は、コンビニの中で店員と話したことで、少しだけ警戒区域内で感じた非現実感が薄れたような気がしていた。しかし表に出れば目の前は防護服姿の警官が固める検問という非現実的な光景で、警戒区域内での活動を終えた自衛隊の深緑色の車列が、また続々と駐車場に入って来る途中だった。こちらは玲奈にとって懐かしい眺めなのだが、運転席の隊員が白い防護服姿であることが、懐かしさを吹き飛ばした。停止したトラックの荷台からは、防護服姿の隊員が次々に飛び降りて来る。やはりここは、異常事態の地なのだ。そして厳重に封鎖された警戒区域の中は、ほとんど誰も知ることのない、さらに異常な世界だった。しかしそれは、『無いこと』として隠蔽されている。
玲奈は、この数時間に見たことを、ひとつひとつ思い出していた。生活の痕跡を残したまま人間が消えた街、放浪する牛の群れ、野生化して人懐こさが消えた犬猫、まだ人間に寄って来る犬、食い荒らされた死骸、そして牛舎の中で文字通り死屍累々と斃れていた牛たち。玲奈が見たのは、ほんの一部なのだろう。しかし、そこには取り澄ました現代社会の対極とも言うべき、過酷な世界が現出していた。
玲奈は、飯田の隣に立ったままおにぎりを頬張った。でも、あまり味を感じなかった。その代わり、ある日突然失われた、あまりに多くの人々の営みの重さと、飢えと渇きの中で死んでいった動物たちの姿が玲奈に圧し掛かり、また、あの『声無き声』が聞こえたような気がした。玲奈の両目から溢れた涙が頬を伝い、アスファルトの地面に落ちる。玲奈は、心の中でつぶやいた。それは大震災で原発事故が起きたからという理屈を超えて心の奥底から湧き上って来た、あの言葉だった。
《いったい、なんでこんなことになってしまったの…?》
■16
一週間の予定で福島にボランティアに来た玲奈は、せめてもう一回は警戒区域に行きたいと思っていた。だが翌日には飯田の妻、美咲も体調が戻り、夫妻は朝方にシェルターに来て餌や水を車に積み込み、出発して行った。
なんとかチャンスは無いかなと思いながらも、玲奈は佐竹と共にシェルターで犬たちの世話に勤しむしかなかった。もっとも、玲奈にとってはシェルターでの仕事も十分に楽しく、やり甲斐のあるものだった。3日目ともなれば仕事の流れも30匹ほどもいる犬たちの名前や性格もわかってきたし、ちょっと気むずかしかった犬も、玲奈の姿を見ると尻尾を振って近づいて来るようになった。
そんな雰囲気の中にいるとつい忘れそうになってしまうが、この子たちは津波や原発事故で飼い主と引き離された”震災孤児”なのだ。玲奈は親代わりのつもりで、一匹一匹と丁寧に接していた。縁あって、あの異常な世界から救い出された子たちだ。飼い主への思慕はあるだろうが、せめて人間と接する楽しさだけは忘れないで欲しい、そう思った。被災地域や警戒区域内を見てきた後は、やはり犬たちへ愛情もより深くなる。玲奈は、犬たちに心の底から語りかけていた。
「助かってよかったね」
佐竹と玲奈が犬たちに朝ごはんを配り終えて一息入れていると、一台の白いセダンがシェルターに入ってきた。玲奈は昨日の警戒区域内での出来事もあって、ついナンバーを確認しまった。福島ナンバーだ。降りてきたのは、40代くらいの夫婦と小学校の男の子ふたりの家族連れだった。佐竹はその姿を見ると、言った。
「あ、来た来た」
そして家族に歩み寄ると、親しげに話し始めた。その間、子供たちは周りの犬たちをかまっている。でも、何か様子が変だ。犬をかまいながらも、周りをきょろきょろ見回している。
すると、家族連れは佐竹と一緒に事務所のプレハブの方に歩いて来た。佐竹が玲奈に言う。
「こちら工藤さんのご家族。犬を引き取り来られたんだ」
工藤の妻は、初対面の玲奈にも丁寧に頭を下げて言った。
「本当にお世話になりました。警戒区域の浪江町から出されてしばらくあちこちの避難所を転々としてましたが、とりあえず南相馬のアパートに落ち着きました。本当にありがとうございました」
玲奈は、言葉に詰まった。そういえば、被災者と直接話すのはこれが初めてだ。どんな言葉をかけたら良いか、思いつかない。それがふさわしい言葉だとは思わなかったが、やっと一言、言った。
「ご苦労されたんですね・・・」
震災から2ヶ月余り、この家族はどんなに過酷な経験をして来たのだろう。想像すらできない。
その時、子供たちがいきなり「わーっ!」と歓声を上げながら、一匹の犬に駆け寄った。家族を見つけたらしい。シェルターの一番奥に繋がれていた白いテリアの雑種、シロだ。工藤夫妻は、その姿をじっと見つめている。子供たちはシロをもみくちゃにするようになで回している。あまり感情を表に出さない大人しい性格だったシロも、尻尾をちぎれんばかりに振りながら、それまで見せたことのない喜びようだ。2ヶ月くらいで、絆が切れるはずがない。
その様子に、玲奈の胸に熱いものがこみ上げてきた。ある日突然平穏な生活が断ち切られ、先が見えないままにあちこちを転々とさせられていた家族が、元の生活には戻れないまでもやっと新しい住処を見つけ、離ればなれだった家族を呼び戻す。それは不完全ながらも失われた日常を取り戻すための、大きな一歩なのだ。この家族、特に子供たちにとって、それがどんなに嬉しいことだろうか。
歓声を上げてシロと戯れる子供たちの姿に、玲奈は堪えきれなくなった。
「ごめんなさい・・・ちょっと失礼します」
と言い残すと、犬舎の中に駆け込んだ。そして空のケージの脇に膝をついて座り込むと、声を上げて泣いた。自分のちっぽけな行動が、少なくともこの家族のためになったという喜びもある。しかし、津波被災地や警戒区域内で見た、失われた命と日常のあまりの巨大さに対する、強い無力感も感じていた。自分が多少でも関われた命と絆は、この福島だけでも何万、何十万分の一かに過ぎないのだ。それは、外から報道だけを見ているだけでは絶対にわからない感覚だった。あまりに広大な震災被災地の中で、ひとりができることなど芥子粒ほどにもならない。でもここへ、福島へ来て良かったと、心から思った。そして、この現実を少しでも伝えて行かなければ。
ひとしきり泣いた後、玲奈は少し無理に気を取り直して立ち上がった。いつまでも泣いてなんかいられない。助けが必要な存在が、いくらでもいるのだ。首にかけたタオルで涙を拭うと、表に出て行った。シロは支援者から寄贈された真新しい赤いリードをつけてもらい、家族の横にちょこんと座っている。そんなシロの穏やかで落ち着き払った表情を、玲奈は初めて見たような気がした。シロはあまり感情を表に出さず、他の犬との折り合いもあまり良くなかったので、シェルターの一番奥に離して繋いであったのだ。
一見、皆元気そうな犬たちも、やはり見知らぬ犬と人たちとの集団生活がストレスになっていることもある。でもこれからは、本来の家族と暮らせるのだ。玲奈は、この子を家族の元に返せる事の喜びを感じていた。その一方で、たった3日程とはいえ一緒に過ごした子と別れる寂しさも感じていた。でも、もちろんこれが一番なのだし、すべての子にこんな日が来ることを夢見て、ボランティアたちは頑張っている。
南相馬まで2時間以上かかる道中のために、支援物資のドッグフードやジャーキー、ペットシーツなども車に積み込んで、工藤一家の出発の準備が整った。シロは後部座席に子供たちと一緒に乗り込む。玲奈にとって、ここへ来て初めての別れだ。やはりこれが最後になるかと思うと、目頭が熱くなった。笑顔で見送りたいけど、やはり涙が溢れてくる。でも、その半分以上は喜びの涙だった。隣で見送る佐竹も、指先で目頭を押さえながらつぶやいた。
「何度やってもこういうのは辛ぇなぁ…」
震災直後の大混乱の中で、余震と津波、さらに放射線の危険を冒しながら最前線を駆け回って失われかけた多くの命を救い、それからほとんど毎日ずっと面倒を見続けている男の目に、涙が光った。家族の元へ返す喜びよりも、別れの辛さが先に立つのも仕方ない。玲奈は何と答えて良いのか思いつかず、誰に向けるともなく言った。
「みんな幸せになって欲しいですね…」
工藤夫妻は佐竹たちに向かって深々と頭を下げると、車に乗り込んだ。後部座席では、子供たちがシロとじゃれあっている。車が走り出すと、窓の中で子供たちが手を振り出した。佐竹と玲奈も、大きく手を振って見送る。すると、半分開いた車の窓からシロが半身を乗り出して佐竹たちを振り返ると、「ワン!」とひとつ、吠えた。玲奈にとっては、初めて聞くシロの声だった。それが別れの挨拶だと言えばまさかと思われるだろうが、玲奈はそう信じた。そして、ずっと面倒を見てくれた佐竹やボランティアスタッフに対する感謝の声にも違いない。
車が見えなくなるまで手を振っていた佐竹と玲奈は、そのまましばらく無言で立ちすくんでいた。別れの寂しさも小さく無いが、シロがこれから家族の元で幸せに暮らせると思うと、すがすがしさのようなものが玲奈の胸の中に拡がって行った。佐竹の胸中は計り知れないが、その穏やかな横顔からは、それほど違わない気持ちなのだろうと、玲奈は思った。
しばらく黙っていた佐竹が、踏ん切りをつけるように、大きな声で言った。
「さてと!うんこ集め始めっぞ!」
「はいっ!」
つられて玲奈も、思わず腹から声を出して返事をした。犬たちが待っている。いつまでも感傷に浸っている時間は無い。
■17
玲奈は今回、一週間の予定で福島へ来ていた。その二日目には思いもかけず、原発事故によって閉鎖された警戒区域へ行くことができ、その中の凄惨な現実を目の当たりにした。そこは完全に人間の手を離れた動物たちの、壮絶な生存競争と累々たる死の世界だった。
玲奈は福島に来る前から最前線を自分の目で見たいと願っていたし、飯田の案内でそれはすぐに実現した。でもそのことが、玲奈の心の中に新たなしこりとなっていた。警戒区域内の想像を超えた現実を目の当りにし、玲奈の中で『なんとかしたい』という気持ちが、どんどん大きくなっている。
もちろん、ここで実際にできることは飯田たちがやっているような活動を手伝うことだけだ。足手まといにならないようにするのが精一杯かもしれない。それでも、せめてもう一度"中”へ行きたい、残された命のためにできることをやりたい、そんな思いが募った。
しかし玲奈のそんな思いとは裏腹に、シェルターの日常は穏やかに過ぎて行った。この二日間は特に変わったこともなく、学生ボランティアも二人ほど来ていたので、作業もそれほど多く無い。本当に普通の飼育係になってしまったかのように、犬たちと戯れながら、表向きは幸せな時間が流れて行き、ふと、犬たちが何故ここにいるのかを忘れそうになってしまう。このまま最終日まで、何事も無く過ぎてしまうのだろうか。
そして玲奈には、もうひとつの思いがあった。自分が福島にやってきて、何か被災地の役に立てたのだろうかという思いだった。もちろん見返りが欲しいわけではないし、芥子粒のような存在に割には、傲慢とも言える考えかもしれない。間接的にどこかで少しは役に立っているのかもしれないが、それがわかる"実感”が欲しい。それは、もしかしたら自分が何も役に立てていないのではないか、自分の行動はただの自己満足なのではないかという、強迫観念にも似た感覚の裏返しなのかもしれない。そう感じてしまうくらい、シェルターでの時間は穏やかに流れているのだ。
四日目には、佐竹と一緒に猫舎にも行った。プレハブ小屋の中は十分に暖房され、ケージの中に二十匹ほどの猫が保護されている。保護されてから生まれた子猫もいる。猫たちが落ち着けるように、普段は人の出入りも最低限にされている。その静かな雰囲気からは、この猫たちのほとんどが、あの警戒区域で保護されて来たのだということを忘れさせる。
福島へ来て、すぐに過酷な警戒区域を見てしまったせいなのだろうか。玲奈はルーティンのボランティア作業にやりがいを感じながらも、心の奥底には何か割り切れないものを感じていた。それはもしかしたら、陸上自衛隊時代に日々訓練を繰り返していた頃に感じた気持ちに近いかもしれない。訓練にはやりがいを感じながらも、"想定”ではない状況への渇望のようなものがあったのは事実だ。それは実戦をしたいというとでなはく、さらに過酷な状況に身を置き、より大きな貢献をしたいという気持ちだったと思う。そんな気持ちは、数回出動した台風などの災害派遣活動で、ある部分は満たされたような気がする。
しかし、そんな感覚をボランティア活動と同列に考えるべきことでは無い。それは玲奈にもわかっていたし、それが不満というわけでもない。でも、この福島が置かれたあまりにも過酷な状況が、そう思わせるのかもしれない。その心根はあの頃と同じように、この地のために、ここに生きる人たちのために、そして動物たちのために、もっと自分の身を捧げたいという思いだった。
木曜日の夕方。いつものように飯田夫妻が警戒区域からシェルターに帰って来た。玲奈は"中”の様子を訊きたくて、車の後片づけをしている美咲に歩み寄った。美咲の表情には少し疲れの色が浮かんでいたが、でもその視線は、時々鋭いと感じることがあるほどの光を失ってはいない。そんな美咲によれば、今日も餌と水をあちこちに置いて来たが、保護できた犬猫はいないそうだ。震災から2ヶ月以上が過ぎ、既に人に寄って来るどころか、捕獲器にかかるような個体さえもほとんど残っていないという。強く、賢く、狡猾な個体だけが生き永らえることができる世界なのだ。
そんな話を美咲から聞きながら、玲奈は初対面の日に美咲がそうだったように、自分の視線は美咲を突き抜けて遥か彼方の警戒区域内を見ている、そんな気がしていた。今はもう、玲奈にも“中”が見える。あの日見た生命の極限の輝きと累々たる死の光景は、何もかもがあまりにも鮮明に、玲奈の脳裏に蘇るのだった。
会話が途切れ、美咲が小さくひとつ、息を吐いた。そして顔を上げると、玲奈を見つめながら口を開いた。
「玲奈さん」
「はい」
「あした、行く?」
「え…?」
「あした、私の代わりにもう一度“中”へ行ってみる?」
思いもかけない美咲の言葉だった。玲奈は一瞬躊躇したが、気持ちを包み隠さず言葉にした。
「はい。できるのでしたら、もう一度行かせていただきたいです」
「わかったわ。じゃあ、お願いするわね。夫に伝えておくわ」
「でも、美咲さんはどうされるんですか…?」
問われた美咲は、いたずらっぽく笑いながら答えた。
「たまには、ここのワンちゃんたちと戯れたいのよ」
■18
金曜日の朝。少し冷んやりと感じる、薄曇りの朝だった。玲奈と飯田、そして美咲は、シェルターで警戒区域へ運ぶ餌や水を車に積み込んでいた。一通り準備が終わると、美咲が玲奈に声をかけた。
「玲奈さん、じゃ、よろしくおねがいね」
「はい、がんばってきます」
玲奈そう答えたものの、思わず口にしたがんばるという表現が適当なのかどうか一瞬、迷った。美咲は続ける。
「うちのだんなも、よろしくね。玲奈さんと行くのが満更でも無いようだし」
横で聞いていた飯田が、慌てて口を挟む。
「な、何言ってるんだよ」
美咲はにやにやしながら答える。
「だって、また玲奈さんと行きたいって言ったのはあなたでしょ?」
「変な言い方するなよ」
さらに慌てる飯田に向かって、少し離れたて犬たちの餌を作っていた佐竹が突っ込んだ。
「こんなべっぴんさんとまたドライブしたくなるのも無理ねぇよな」
「や、やめてくださいよ佐竹さんまで!」
しどろもどろの飯田の様子に、美咲と佐竹は声を上げて笑った。ネタにされた玲奈は、半笑いするしかない。
そんな楽しげな雰囲気は、端から見れば"被災地”には全くそぐわないかもしれない。不謹慎との謗りを受けるかもしれない。でも、どんなに過酷な環境でも、そこに入ればそれが日常になる。そして環境が過酷であればこそ、こんな笑いこそが必要なのだ。そうやって、人は精神のバランスを保つ。ここは報道の中の演出された世界ではなく、生身の人間がもがきながらも生きる世界なのだ。
玲奈と飯田が乗った銀色のワゴンは、手を振る美咲と佐竹、さらに犬たちの盛大な吠え声に見送られて、シェルターを出発した。シェルターを出ると、すぐに飯田は玲奈に言った。
「玲奈さん、誤解しないでくださいね。私がまた玲奈さんをお連れしたいと言ったのは本当ですけど」
玲奈は微笑みながら答えた。
「ええ、ご心配なく。美咲さんからきちんと聞いています」
「そ、そうですか・・・ならいいんですが」
玲奈は、昨日のうちに美咲からいきさつを聞いていた。警戒区域での玲奈の様子を見て、飯田は玲奈のためにもう一度行かせた方が良いと提案したのだと言う。強いショックを受けたまま終わりにしないで、改めて見て、感じることで気持ちの整理をさせた方が良いと。それに対し、美咲も自分自身の体験からもそうした方が良いと同意したのだという。玲奈は、その心遣いに感謝していた。
それでも玲奈は、少しいたずら心を起こして言った。
「飯田さん、"中”で何かあったら、私を守ってくださいね」
玲奈の思いもかけない言葉に、飯田は明らかに狼狽しながら言った。
「え・・・ああ、もちろんです」
飯田はひとつ深呼吸をすると、続けた。
「でも、冗談でもそう言ってもらえると、男としちゃあうれしいですね。うちの美咲は、何か起こったら自分から前に出て行くタイプだから」
玲奈は、自分も美咲と結構似たタイプだと思いながらも、言った。
「頼もしい奥様ですよね」
「いや、頼もしすぎるのもどうかと」
いろいろ含みがありそうな飯田の言葉に、玲奈は声を上げて笑った。飯田も笑う。しかしその笑いの裏で、これからまた目にするはずの過酷な世界のイメージが、どす黒い澱のようになって頭の隅で渦巻いている。
ふたりの車は山間を抜け、浜通りの国道6号線を南下して行った。南相馬市に入ってしばらくすると、津波被災地域に入る。その光景は数日前と全く変わっていなかったが、海が全く見えない国道沿いに並ぶ漁船や破壊された建物群という異常な眺めも、二度目となる玲奈には少し違って見えた。初めて見た時はそのあまりの異常さに圧倒され、ショックで思考が停止していた。ただ、その光景を漠然と眺めることだけで精一杯だった。でも今回は、ショッキングであることには変わりは無いものの、より深く見て、何が起きたのかを考えられている。少しだけでも現実を理解し、受け入れられるようになっていた。
そこで、飯田が自分をもう一度警戒区域に連れて行こうとした意味を、玲奈は実感した。一度だけでは、ショックだけが残る。でももう一度見れば当初のショックは薄れ、過酷な現実をより理解し、受け入れやすくなると言うことだ。そう。外の人間である私は、この現実をできるだけ良く見て、伝えて行かなければならないのだ。上っ面だけを見て、酷い酷いと騒ぐだけでは意味が無い。
銀色のワゴンは、コンビニ前の検問に近づいた。今回は先にコンビニに寄って、飲み物を買ってトイレを済ませた。今日も、コンビニの駐車場には深緑色の自衛隊車両と白装束の隊員が集まっている。そんな光景も、数日前に初めて見たばかりだというのに、玲奈には何か懐かしささえ感じられた。相変わらず怪獣映画のワンシーンのように見えるが、それ以上に、白装束の隊員の顔が良く見えるようになった。彼らも、この異常な状況に関わるひとりひとりの人間なのだ。そして私も。また、戻ってきた。そんな思いが強かった。
銀色のワゴンはコンビニを出ると国道を逸れて農道を走り、"入り口”の農家に近づいた。玲奈は飯田に頼まれるまでもなく、言った。
「バリケードは任せてください!」
■19
玲奈はひとつ、心に決めていた。もう泣かない、と。今まではどんなに辛くても、人前で涙を見せたことはほとんど無かったと思う。涙を見せる自分は嫌いだったし、滅多なことでは泣かないという自信のようなものさえあった。でも福島に来てからは、もう何度も涙を流してしまっている。流れ出す涙を堪えようとする気さえ忘れるほど、この地の状況は想像を超えているのだ。
自分の目で見たものだけではなく、その裏に感じるあまりに巨大な悲しみと苦しみが玲奈の心の深い場所を強く抉り、それに対する反応は、流れ出す涙しかなかった。言葉など、あまり意味が無い。普段の"理性的な”暮らしの中で感じる悲しさや辛さとは全く異質のそれは、いのちの根源から、止めどなく涙を溢れさせるようでもあった。
でも、もう泣かない。泣いてる場合じゃない。少なくとも、人前では。この巨大な悲しみに、押し潰されたくない。そして、たとえひとりだけでも、笑顔を取り戻す力にならなければ。そのためには、自分が泣いてばかりでは始まらない。改めてそう思った。
玲奈と飯田が乗った銀色のワゴンは、人影の無い農道を走り、南相馬市小高区の市街地に入った。生活の痕跡を残したまま、突然人が消えた街。再び訪れたこの地の異常な光景を、玲奈は少し冷静に見ることができた。有り体に言えば、かなり慣れた。そして、自分が来るべき場所のように思うことができた。
その時、玲奈の視界に動くものが捉えられた。200mほど先に、白い犬がいる。こちらにまっすぐ身体を向けている。もしかしたら、保護できるかもしれない!運転する飯田を見ると、飯田も犬の姿を捉えていた。ちらりと玲奈を見ると、無言でうなずく。
車はゆっくりと犬に近づいて行く。中型の雑種で、緑色の首輪をしている。長めの白い体毛は泥で汚れて、ぼさぼさに逆立っている。健康そうには見えない。車が50mほどに近づくと、その犬はくるりと反対を向き、小走りに走り始めた。また、逃げてしまうのか。
しかし、その犬は全力で走ることはせず、少し走っては立ち止まってこちらを振り返り、また小走りに走り出す。警戒しながらも、明らかにこちらに興味を示している。もしかしたら、車と人間の姿を食物と結びつけているのかもしれない。
その姿を見て、飯田が言った。
「追尾します」
玲奈は思わず答えた。
「了!」
陸上自衛隊の無線交信で使われる、『了解』の短縮語だ。この環境に少し慣れたとは言え、やはりかなり緊張している。玲奈は、一般には通用しない言葉をつい使ってしまったことに慌てたが、飯田は何も言わずに犬の姿を見つめたまま、慎重に車を走らせている。
白い犬はまるで車を誘導するかのように、一定の距離を保ちながら走っては止まるを繰り返している。市街地を抜け、川の縁を走る小道に入っても、それは続いた。河原の草地では、放た
れた牛の群れがのんびり草を食んでいる。飯田が言う。
「あいつ、おそらく根城に案内しているんだと思います」
「本当ですか?」
「多分。外には敵が多いから、なるべく根城にいたいはずです。でも、腹が減っている。車が来れば、餌にありつけるということを覚えたのでしょう。それもこの世界で生きる知恵です」
「やっぱりそうなんですか。なんとかごはんあげたいですね・・・」
犬は小道を外れて、脇の草地に入った。おそらくそこが根城への最短距離なのだろう。玲奈は犬の行く先を見失わないように目をこらし続けた。すると、飯田が突然言った。
「まずい!」
その言葉に、玲奈は思わずびくっと身体を縮めた。反射的に、また警察と遭遇したのかと思ったのだ。飯田は静かに車を停めると、前を指さした。しかしそこにいたのはパトカーではなく、車一台分の幅しかない小道を塞ぐように佇む、茶色の大きな牛の姿だった。
その牛は20mほど先で、じっと動かないままこちらを凝視している。下手に近づいたり、ホーンを鳴らしたりして興奮させたら、突っ込んで来るかもしれない。近くには子牛もいるし、
牛たちにとっても、滅多に見かけなくなった車や人間は、ここではすでに"敵”なのかもしれないのだ。体重が数百kgもある牛の体当たりを喰らったら、車も無事ではいられない。そのまま、牛が動く気になるのをじっと待つしかなかった。その間に、玲奈の視界から白い犬の姿は消えてしまった。
そのまま5分ほど、静かなにらみ合いが続いた。するとその牛は車への興味が無くなったのか、のっそりと歩き出すと河原の草地へ入って行った。飯田と玲奈はほとんど同時に、大きく息を吐いた。ずっと息を詰めたままだったのだ。
「とりあえず、行ってみましょう」
飯田はそう言うと、犬が消えた方向の小道へ車を進めた。果たして、追いつけるのか。しばらく走ると、一軒の大きな農家が見えてきた。玲奈が叫ぶ。
「あ!あそこにいます!」
なんと、その農家の門の前に、あの白い犬が佇んでこちらを見ている。玲奈たちが来るのを、つまり餌が来るのをじっと待っていたのだ。相当腹を減らしているのだろう。飯田が言う。
「ここが根城、というより、この家の犬でしょうね」
「やっぱり、離れられないのかしら・・・」
「一番落ち着ける、あいつの縄張りですからね。犬には帰巣本能もあるし、縄張りを守ろうともしますから」
車が近づくと、犬は広い庭に駆け込んで行った。後に続いて車を庭に入れると、農機具倉庫の陰から、頭を下げて不安そうな目でこちらを見ている。身体は、あの横向きだ。知らない人間の姿を目にして、いよいよいつでも逃げられる体勢になった。それでも、食物への渇望は止められない。
防護服姿のふたりは車を降りると、ドッグフードの大袋と水タンクを下ろした。農機具倉庫の軒下には、他のボランティアが置いたと思われる、空になった餌と水のボウルがあった。やはり、人間の姿を見て家に帰れば、餌にありつけると理解していたのだ。
飯田の指示で、玲奈はドッグフードの大袋を開いて、そのまま軒下に置いた。少しは鳥やネズミに食べられてしまうかもしれないが、この犬が見張っていれば、当分は持つだろう。水もたっぷりとボウルに注ぐ。普段は川の水を飲んでいるのだろうが、少しでもきれいな水を飲ませてあげたい。その様子を、犬は倉庫の陰からじっと見つめている。
玲奈たちが離れると、犬は頭を下げて上目使いでこちらを見ながら、ゆっくりと餌に近づいて来た。警戒している。そして身体を横に向けたまま、横目でこちらを睨むようにしながらがつがつとドッグフードをむさぼり始めた。玲奈たち10mほど離れて、その様子をじっと見つめている。辺りを強く警戒しながら餌を食べるその姿は、既に飼い犬のそれではない。過酷な弱肉強食の環境を生き延びるために、否応なしに野生を蘇えらせた姿だ。
ひとしきり腹を満たした犬は、再び倉庫の陰に引っ込んだ。身体を横に向けたまま、こちらを凝視している。できれば保護したいと思っている飯田は、数歩進んではしゃがんで様子を見ながら、少しずつ犬に近づいて行く。餌をもらって多少は警戒が緩んだようにも見えたその犬は、しかし飯田が3mくらいにまで近寄ると、突然歯をむき出しにして唸り出し、飯田を威嚇しはじめた。それ以上は一歩も近づかせない。
しばらく経っても、その様子は変わらなかった。飯田は諦めて、玲奈の方へ戻ってきた。
「やっぱり、だめですね」
「なんとかしてあげたいけど・・・」
「とりあえず、どこかのボラがここを把握しているようですから、任せます」
「餌は十分届いているんでしょうか」
「それはわかりませんけど、私もこれから様子見に来ますよ」
玲奈は、相変わらず倉庫の陰からこちらを見ている犬に向かって手を振りながら声をかけた。
「がんばって生きてね!」
その瞬間、犬の目から警戒の色が抜け、耳をぴんと立ててきょとんとしたように頭上げたが、すぐにまた険しい目つきに戻った。玲奈の声が、誰か知っている人間の声に似ていたのかもしれない。その一瞬の表情が、この家で平和に暮らしていた頃の顔だと、玲奈は思った。できることなら、またいつかあんな顔でいられる日が来ればいいのだけれど。
ふたりは車に戻ると、ブーツカバーの土を良く払ってから乗り込んだ。飯田はカーナビにこの家の場所をマークして、次回来る時に備える。車が庭を出ようとする時、玲奈はもう一度後ろを振り返った。
すると、白い犬は広い庭の真ん中まで出てきていて、あたかもふたりの車を見送るように立ちすくんでこちらを見ている。その表情は、飼い主が出かけるのを見送る犬が見せるような、ちょっと寂しそうな顔だと、玲奈は思った。
■20
白い犬の家を後にしたふたりの車は、警戒区域の奥へ向かいながら決まったポイントに餌と水を置いて回った。どの場所でも前回置いた餌はきれいに無くなっている。中には、前日に置いた20キロのキャットフードがすっかり無くなっている場所もあった。多少は鳥やネズミに食べられたかもしれないが、かなりの数の猫たちが集まったのだろう。それを証明するかのように、今日も新しい餌を置くふたりの姿を遠巻きにしている数匹の猫たちは、どれもやせ細っているようなこともなく、毛並みも悪くない。ボラたちのこんな活動が、無人の地に残された命を繋ぐ役に立っているのは確かだ。
一通り餌撒きが終わると、飯田が言った。
「今日も牛舎見ていきます」
その言葉に、玲奈は思わず息を呑んだ。つい先日見たばかりの凄惨な光景が、玲奈の脳裏にフラッシュバックする。一瞬、鼻腔の奥にあの"死の臭い”が蘇ったような気さえした。しかし、無言で固まっている玲奈をちらりと見ながら、飯田は笑っている。
「今日は大丈夫ですよ。むしろ平和な所です」
「そ、そうなんですか・・・?」
「ええ。牛たちのねぐらみたいな所ですから」
「ならいいんですけど・・・」
表沙汰にならない過酷な現実を自分の目で見たいという決意で福島にやって来た玲奈も、さすがにあの凄惨な牛舎の中をまた見たいとは思わなかった。必要ならば躊躇しないが、できることなら避けたいというのが本音でもあった。
ふたりの乗った銀色のワゴンは浪江町に入った。前回とは違う道を南下して行くと、広々とした草地に、茶色の牛たちが20頭ほど群れて草を食んでいる。やはり、事情を知らなければ平和な放牧地にしか見えない。
そんな牛たちを横目で見ながら、飯田は道路脇の牛舎の前に車を停めた。ふたりは車を下りて牛舎に近づく。静まり返っているが、あの"死の臭い”は感じない。それでも、玲奈は牛舎に近づくにつれて思わず歩みが遅くなった。先に立った飯田が牛舎の扉を開く。そしてあの時のように、無言で中を指さした。玲奈は飯田の陰から、伸び上がるようにして恐る恐る薄暗い牛舎の中を覗き込んだ。
中は、がらんとしていた。牛の死骸も無ければ、閉じこめられている牛もいない。臭いも、ごく普通の牛舎のそれだ。玲奈は飯田に訊いた。
「牛さんたち、どこへ行ったんですか?」
飯田は穏やかな目をして言った。
「さっき、草地にいたでしょ。多分、あれがここの子たちです」
「ということは・・・」
「ええ。ここは早いうちに"開放”されました。昼間はみんな外へ出ていて、寝る時に帰って来るんです」
それを聞いて、玲奈は思わず大きくひとつ息を吐くと、言った。
「よかった・・・みんな元気なんですね」
「とりあえず、中に残っている子もいないし、そのようですね」
ふたりは牛舎の裏手に回る。そこは建物に隣接した牛の運動場のようなスペースだったが、鉄柵のゲートが開いたままになっていた。牛たちはそこから出入りしているようだ。飯田が言う。
「ここの子たちがどうしているか、久しぶりに確かめたかったんです。でも、この様子なら大丈夫ですね」
「そうですね。本当に良かった」
玲奈はほっと胸をなで下ろすような気持ちだったが、ふと思った。もしかしたら、ここへ来たのは飯田の気遣いだったのかもしれない。悲惨すぎる死の世界を見せるだけでなく、こうして繋がっている命も少なくないということを見せようとしたのかも。玲奈は、防護服とマスク越しにもわかる飯田の満足げな横顔を見つめながら、心の中で感謝した。
「さあ、今日はもう引き上げましょう。ここはもう5キロ圏近くですから」
明るい声で言い放つ飯田の言葉に、それでも玲奈は背筋に悪寒が走った。辺りは相当高いレベルの放射線に満たされているはずだが、当然ながら何も感じない。一見平和な田園地帯は、やはり既に普通の場所では無いのだ。
丁寧にブーツカバーの泥を払ってから車に乗り込み、車を出そうとした時、飯田が突然声を上げた。
「あー、こりゃまいったなぁ!」
「どうしたんですか?」
「うしろ、見て」
玲奈は助手席からうしろを振り返った。また誰かに見つかったのか。しかし、違った。そこには、20頭以上の牛の群れがいた。すると群れは見る間に車をぐるりと取り囲み、どちらへも動けなくなってしまった。
両耳に黄色い鑑札をつけた茶色の牛たちが、窓のすぐ外から玲奈たちを覗き込んでいる。まるでサファリパークだ。子牛の姿もある。人間や車の姿を見なくなって久しい牛たちが、自分たちのねぐらに近づく"異物”を警戒して戻って来たのか。もし怒っていたらどうしよう。車に体当たりでもされたら、無事では済まないだろう。
玲奈はひそひそ声で、恐る恐る飯田に訊いた。
「・・・牛さんたち、怒ってます?」
飯田は、運転席の窓から覗き込む若い雄牛とにらめっこするようにしながら、言った。
「・・・多分、興味を惹いただけだと思うんですけどね・・・刺激しなければ大丈夫かと・・・」
でも、その声はあまり自信なさげだ。
「とにかく、待つしかありません」
それからしばらくの間、牛たちは入れ替わり立ち替わり車に近づいては、玲奈たちを覗き込んでいた。車の前方が開ける時もあったが、エンジンをかけたら牛を驚かせ、興奮させてしまうかもしれない。すぐ近くに子牛もいるから、もし敵と見なされたら、どんな攻撃をされるかもわからない。
しばらくして、牛たちはどうやら怒ってはおらず、ただ車や人間に興味を示しているだけのようだということが、玲奈にもわかってきた。かわいらしい子牛の姿を眺める余裕も出て来る。良く見ると、放逐された牛たちは、周囲に草も水もたくさんあるから、みな健康そうで毛並みも良い。しかし放射性物質が付着した草を食べ続けているので、内部被曝が進んでいるはずだ。
飯田が言う。
「この子たちも、しばらくはとりあえず元気に生きて行けるでしょう。でも、冬になって雪が降ったら、どれだけ生き残れるか・・・」
強い個体は雪を掘ってでも餌を探し出すだろうが、その力が無い個体の運命は、ひとつしかない。
10分ほど経っただろうか。牛たちはついに玲奈たちへの興味を失ったらしく、のっそりと牛舎の中へ戻り始めた。玲奈はほっとしたものの、まだ気を抜けない。好奇心旺盛な子牛と、それに寄り添う母牛が、近くにいる。玲奈は思った。ここを支配しているのは人間に見捨てられた動物たちで、自分たちはひ弱な”異物”に過ぎないのだと。人間が作ったシステムの中では、動物など自由にコントロールできると考えているかもしれないが、いざひとつの個体になった人間は、なんとか弱いものなのだろうか。
牛たちのほとんどは車の"包囲”を解き、離れて行った。飯田が大きく息を吐きながら言う。
「そろそろ、大丈夫そうですね」
飯田は車のエンジンをかけたが、牛たちは何も反応しなかった。そうなると現金なもので、玲奈はこの牛たちと別れるのが辛くなってきた。この先も過酷な環境を生きて行かなければならない牛たちに何もしてあげられないまま去るのが、申し訳無いような気もした。でも、それも人間の思い上がりなのかもしれないが。
車がゆっくりと動き出す。まだ道端で見守っている子牛に向かって、玲奈はゴム手袋をした手を振りながら、窓ガラス越しに叫んだ。
「がんばって生き抜いてね!」
■21
5月も半ばの土曜日。福島市郊外の被災動物シェルターの上には、さわやかな五月晴れの空が広がっていた。玲奈が福島の動物救援ボランティアに来て一週間が経ち、そして今日が最終日だ。
いつものようにシェルターに出て、もうすっかり日常になった朝の作業をしながら、玲奈はこの一週間の出来事を思い出していた。それはここへ来る前の想像をはるかに超える、過酷な現実ばかりだった。しかしその一方で、そんな中でもたくましく日々を生きる人々や動物たちに出会い、逆に励まされたりもした。震災から二ヶ月が経ち、未だ先が見えない混乱のただ中でも、そこには"負けない命”の輝きがあった。それは遠くから報道を見ているだけでは決してわからないものだと、玲奈は思った。福島へ来て、本当に良かった。
玲奈は、作業のひとつひとつがとりあえず最後になるという思いで、丁寧に進めて行った。玲奈にすっかりなついて、それぞれの性格も良くわかって来た犬たちとも今日でお別れというのが、なんだか信じられない。玲奈は、一匹一匹を抱きしめながら、心の中で別れの言葉をかけて行った。言葉を口に出したら、泣いてしまいそうだ。
犬たちを抱きしめながら、玲奈は、ふと思った。私がここへ来て、ほんとうに小さいけれど出来ることをやって、苦しんでいる人たちの役に立てたのだろうか。もちろん感謝や見返りを求めているのではないし、そんな感覚は普通ならば思い上がりの類なのだろう。でも、このあまりに巨大な苦しみと悲しみの中にいる間、そんな思いが頭の隅にずっとこびりついている。一週間前、福島駅に着いた時に思った《私なんかが来て、いったい何になるんだろう》という思いの答えを、ずっと探し続けているような気がする。
それは、この過酷な環境で生きる人々や動物たちが、少しでも楽になって欲しい、早く笑顔と安らぎを取り戻して欲しいという、祈りなのかもしれなかった。でも、やはりそれは思い上がりだ。あまりにも小さな自分の存在への言い訳のようなものだろう。ここへ来て、できることをやった。それが全てだ。
シェルターの様子は、玲奈が最終日ということなどお構いなく、いつも通りだった。佐竹は相変わらず眠そうな目をこすりながら、犬たちの朝ごはんを作っている。飯田夫妻も、いつものように警戒区域へ向けて出発して行った。まだ不慣れな学生ボランティアが、吠えかかる犬に少し及び腰で、バケツに入れた飲み水を配っている。きっと今日もこのまま、いつものように一日が過ぎて行くのだろう。
朝の作業が一段落して皆が一息入れていると、シェルターに白い軽自動車がゆっくりと入って来た。佐竹が言う。
「あ、おばあちゃん来た」
特に仕切りなどないシェルターには、時々近所の人が顔を出して、犬をかまって行ったりする。中には毎日のようにやって来て、犬の散歩を手伝ってくれたりする人もいる。その"おばあちゃん”も時々やって来ては、犬たちを眺めてのんびり過ごして行くのだという。
車を下りて来たのは、七十歳くらいだろうか、白髪の目立つ髪をきちんとまとめ、ベージュのコートを着た身なりの良い小柄な女性だった。おばあちゃんと言うより、老婦人という雰囲気だ。その女性は、じゃれつく犬を軽くかまいながら、こちらへやってきた。佐竹が挨拶する。
「おはようございます。いい天気ですね」
女性はにこやかな表情で答えた。
「おはようございます。皆さんいつも本当にありがとうございますね」
ここに犬を預けている人なのだろうか。
佐竹と"おばあちゃん”が話し込んでいる間、玲奈は糞集めや飲み水配りをしていた。水のボウルを蹴飛ばして、こぼしてしまう犬も多い。それが一段落してふと見ると、"おばあちゃん”は事務所前に出した椅子にひとりで腰掛けて、穏やかな表情で犬たちを眺めている。玲奈は、"おばあちゃん”と話してみたくなって、歩み寄った。
「こんにちは。本当にいい天気ですね」
「そうですね。それにみんな元気そうで。あら、あなたは初めてお目にかかるかしら」
「はい。東京から来ています。でも、今日で最後なんです」
「そうですか。それは残念ね」
「もっといたいんですけど・・・」
「でも、お仕事もあるでしょうしね。遠くからお手伝いに来ていただけるだけでも、本当にありがたいですよ。ここは大変ですから」
そう言いながら、"おばあちゃん”は丁寧に頭を下げた。
「いえ、大したお力にはなれませんが・・・」
玲奈も頭を下げながら、"大変”という言葉の裏にあるこれまでの過酷な体験を想像し、身震いするような思いがした。
玲奈は、気になっていたことを尋ねた。
「ここに犬をを預けられているんですか?」
"おばあちゃん”は一瞬、遠くの空を眺めるような目をしてから、答えた。
「うちの子は・・・津波で行方がわからないの」
しまった。余計なことを訊いてしまった。玲奈は慌てた。
「・・・ごめんなさい・・・失礼しまし・・・」
玲奈は言葉に詰まった。失礼?失礼ってなに?大地震と津波、それに原発事故で大変な思いをして、しかも愛するペットを失ったかもしれない人の傷口に塩を塗り込むような、なんてバカなことを言ってしまったのだろう。シェルターに来るのも、もしかしたらどこかで保護されているかもしれないという、一縷の望みにすがっているのかもしれないのだ。
「申し訳ありません・・・」
謝っても、取り返しがつかない。玲奈はそれでも、深く頭を下げるしかなかった。誰かの役に立つどころか、目の前の人を苦しめてしまった。どうしよう・・・。
そんな玲奈の様子を見て、それでも"おばあちゃん”は穏やかな声で言った。
「いいんですよ。お顔を上げてくださいな。うちの子のことは、もう諦めました。でも、ここで元気なわんちゃんたちを見ていると、なんだか落ち着くの。それに、ここへ来るのはそれだけじゃないのよ」
玲奈は顔を上げたものの、何も言えない。"おばあちゃん”は続けた。
「ごめんなさいね。気を遣わせちゃって。良かったら、話を聞いてくださるかしら」
玲奈は強ばった表情のまま一言だけ、答えた。
「・・・はい」
"おばあちゃん”は、穏やかな五月晴れの空をゆっくりと見上げた後、ぽつぽつと話し始めた。
■22
"おばあちゃん”は、陽当たりの良い事務所前の椅子に腰掛けて、ぽつぽつと語り始めた。玲奈はその脇に佇み、じっと耳を傾けている。
「わたしはね、南相馬市の小高という所の海沿いに、ずっと住んでいたの。わかるかしら」
それは玲奈も目の当たりにした。国道6号線沿いに、津波で内陸まで打ち上げられた漁船が並んでいた辺りだ。
「はい。先日私も行って来ました」
「そう。ご覧になったのね。酷かったでしょう」
「はい。もう言葉が無いというか・・・」
「長年住んだ家も全部流されてしまってね。飼っていたわんちゃん、トイプードルのモモちゃんというんですけどね、一緒に流されてしまったみたい。助ける時間が無かったの」
玲奈には、返す言葉が無い。
"おばあちゃん”は続けた。
「今はこっち、福島市の娘夫婦のところでお世話になっているの。ええ、良くしてもらってますよ。でもね、主人の位牌もモモちゃんもみんないなくなっちゃってね、一時はもう生きて行くのをやめようかって・・・」
玲奈は、息を詰めたまま黙って聞いている。この人の身に起きたこと、見たこと、そして計り知れない心の傷に対してかける言葉など何ひとつ、思いつかない。
「最初はね、ここの事を聞いて、もしかしたらと思って、来てみたの」
この人はやはり、行方知れずの愛犬を探しにこのシェルターを訪れたのだ。そんな人に対して、自分はなんという事を言ってしまったのだろう。玲奈は、取り返しのつかないことをしてしまったという自責の念に苛まれた。
「そうしたら、日本中から、すごく遠くからもいろんな人たちがたくさん来てくれているのね。そして、一所懸命に動物を助けて、世話をしてくれているじゃありませんか。そんな姿を見ていたらね、考えが変わってきたの。せっかく助かったわたしが、そんなことじゃだめだ、がんばって生きて行かなくちゃだめだって思えるようになったのよ」
"おばあちゃん”はそこで、一旦言葉を途切れさせた。そして遠くの空 ー浜通りの方角ー をしばらく眺めた後、言った。
「だから、みなさんはわたしの命の恩人なの」
大震災の後、全国各地から駆けつけたボランティアの存在が、たくさんの大切なものを失い、生きる力を失いそうになっていたこの人に、その力を取り戻させた。それは、玲奈が思ってもいなかった言葉だった。
その言葉に、玲奈の胸の中に何か暖かいものが広がって行った。こんな風に感じてくれていた人もいたなんて・・・。すると"おばあちゃん”は玲奈の方を向いて、その目をじっと見つめながら、言った。
「もちろん、あなたもなのよ」
優しい目だった。そして、想像を絶する苦難をも乗り越えようとする、しっかりとした光をたたえた目だった。
玲奈は突然、立っていられなくなった。椅子に座った"おばあちゃん”の横に、崩れるようにひざまづく。身体じゅうで、様々な感情が激しく渦を巻いている。悲しさ、悔しさ、怒り、驚き、やりきれなさ、後悔そして、喜び。被災地の想像を絶する状況に、今まで言葉にならなかった、できなかった全てが、一気に溢れ出した。
涙が、溢れた。もう泣かないなどというちっぽけな意地など押し流すように、もっとずっと深い場所からただ、涙が溢れた。玲奈はひざまづいたまま"おばあちゃん”の小さな手を自分の両手で包み、絞り出すような、震える声で繰り返した。
「ありがとうございます・・・ありがとうございます・・・」
そんな玲奈を穏やかな目で見下ろしながら、"おばあちゃん”は言った。
「お礼を言わなければならないのはわたしの方よ。ほんとうに、ありがとう。わたしもがんばって、負けずに生きていきますよ」
福島に来た時からずっと探し続けていた答えを、聞きたかった“声”を、最後に聞けたのかもしれない。
福島駅前は、相変わらず人の姿は少なかった。東京に帰る玲奈を、佐竹が土埃で薄茶色に汚れた白いワゴンで送ってくれた。駅前のロータリーで、佐竹が笑いながら言った。
「まあ、できたらまた来てくださいね。いつでも人手は足りねぇから」
そんな言い方は佐竹の照れだと思いながら、玲奈は言った。
「はい。お約束はできないんですけど、ぜひまた来たいと思ってます」
「待ってますよ」
「シェルターの子たちにも、また会いたいし」
「この先ずっと、長い戦いになるしな」
戦い。そう、戦いなのだ。先の見えない状況の中で人手を集め、資金を集め、途切れなく動物たちの世話をしながら、ひたすら命を繋いで行く戦いなのだ。玲奈は言った。
「東京からでも、できるだけお手伝いします」
「ああ、よろしく頼みます」
その時、ロータリーを回って来た黄色いフォルクスワーゲンビートルが、ワゴンの後ろにつんのめるように停まった。勢いよくドアが開き、三十代半ばくらいに見えるジーンズ姿のすらりとした女性が、ストレートの長い髪をなびかせるように下りて来るなり、良く通る声で言った。
「あー、間に合ったぁ!」
佐竹がびっくりしたように言う。
「あらぁ利香さんでねえの!」
アニマルレスキューの代表者、藤堂利香だった。普段は資金集めのために各地でイベントや講演に出ている事が多く、シェルターには滅多に来られないと、玲奈は聞いていた。
利香は、福島なまりで言った。
「佐竹さんがね、すごい別嬪さんがボラに来てくれてるって言うから、せめてお見送りでもって思って」
それを聞いた佐竹が、慌てて言った。
「そんなことバラさんでもいいっぺよぉ」
がらんとした駅前に、三人の笑い声が響いた。
玲奈は、ぎりぎりで初対面となった利香と挨拶を交わしながら、動物ボランティア団体の代表者が、こんな都会的な雰囲気の女性だということに、失礼ながら正直、驚いていた。利香と話しながら、玲奈はふと、ある思いを口にした。
「・・・いつまで続くんでしょうか・・・?」
すると、それまで笑顔だった利香の表情が急に引き締まると、言った。
「阪神・淡路大震災の時は、最後の被災ペットが引き取られるまでに三年かかったの。でも、福島はいつまでかかるかわからないわ。もっと長くなるのは間違いない。警戒区域の動物もいるし」
「長い戦いになるんですね」
「うん。長くかかるわ。でも、終わるまでやる。それだけよ」
そう言う利香の瞳には、戦い抜く決意を秘めた強い光が漲っている、玲奈はそう思った。
ふたりと別れた玲奈は、ずしりと重いリュックを背負って、がらんとしたコンコースをひとり、新幹線のホームに向かった。歩きながら、この一週間の様々な記憶が脳裏に蘇る。シェルターの犬や猫たち、津波跡の惨状、見えない放射線の恐怖、警戒区域で潰えたたあまりに多くの命と、生き抜いている命、危険を省みず無償でそんな命を支える人々。そして、再び生きる希望を取り戻した"おばあちゃん”。
自分がここへ来て、本当に役に立てたのかはまだ良くわからないけれど、これだけは改めてはっきりと言えた。福島へ来て、本当のことをこの目で見て、良かった。そして、これからは私も本当のことを皆に伝え、苦しんでいる人も動物も、できるだけ支援し続けて行かなければ。
東京行きの新幹線が、ホームに滑り込んで来た。いよいよ福島ともお別れだ。玲奈はシェルターの方角を振り返りながら、小さく声に出して、言った。
「また、来るね」
【完】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。前書きにも書いたのですが、ほぼ事実をフィクションの体裁で描いた作品です。特に原発事故警戒区域の真実は報道もされずにほとんど覆い隠されていますが、これが真実の一部です。実際には、さらに過酷な状況もあるのです。
そんな中で人知れず活動する人々と、それによって繋げられている命の存在を、ずっと忘れないでください。この先、いつまでになるかは全く目途が立ちませんが、そんな活動はずっと続いて行くのです。