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後篇

(承前)

 その日は、雲は多かったがその切れ間に気まぐれにのように太陽が覗きこむ十一月の終わりの日だった。朝野は自宅近くの自然保護区にある植物園に足を運び、そこの中程にある小高く盛り上がった丘の斜面の芝生に身を横たえて、時折目の前で輪をつくっていく風の流れに目を凝らした。植物園とはいえ観測温室がないため、真新しくて珍しいメディアの玩具になる植物たちというよりは、一般的に目にするタイプの木々が全体的に配置されている。遊歩道が張り巡らさた、探勝のしやすい森林公園といった風なそこは観光客もほとんどいないため、朝野は気分転換に度々ここにきて、スケッチブックを広げて絵を描くことがある。平日の昼間から他に来ている人といったら、運よく介護施設に押し込められなかった老人たちか小さい子供を連れた主婦の人が歩いている程度のものだ。彼は長い間目を開けたり閉じたりを繰り返していたが、そっと起き上がると、前方に広がる枯れた梅林や散り際のトウカエデやイロハモミジを認めてから、雑草に落とした鉛筆を拾い起してスケッチブックにその先端を当てた。彼の描くものは鉛筆画というよりはデッサンに近いものであり、彼自身誰にも見せるつもりはないものだった。鉛筆の先は彼の記憶の現前にしたがって滑りだし、物と影のコントラストをつくっていき、濃淡を落としていく。しかしそれは彼を囲んで並び立つ、梅林やヒイラギやサルスベリなどではなく、彼の絵は大体において同じようなあるひとつの風景をその対象としていた。それは多くの場合断崖と森、そして月夜などのモチーフがあった。彼の目は深く追憶を透かし、頭は既に過去を眼差している。それはどうしたって、あの、バスに二人乗り込んで、夜行列車を走らせて向かった、冬の日のことだった。あの冬の日は特別だった。それは、ゆらめきのようなうたかたのような記憶である。六年前のあの時、朝野と七綾は〈待ち人の街〉で待つことの意味を見失い、隣町の海岸まで出向き、夢に溢れた土地の辺土で、波飛沫がやけに清らかなその場所で、自ら命を擲とうとしたのだった。全てを、ページを閉じるように終わらせようとしたのだ。しかし死のうとしたことも死にたくなることも、誰にでも何度でもあることを朝野は今では知っている。承認や好意やらが世界を変革しないことを知っている。それに全ては完全にせよ、不完全にせよ、過ぎ去ったこととなり昔のこととなった。だから彼女と別れた時にも、今大切にしているこんな記憶だって、じきに色の褪せたガラクタになりさがって、遠ざかるだろう、消えゆくだろう、いなくなるだろうと踏んでいた。どれだけ意地を張ったところで、重きものは沈み、軽いものは浮き上がるのだ。しかし鳥が空を飛ぶように、人間が生きるように、記憶は遠ざかるのが当たり前だと思っていたのに、万有引力の法則に逆らってそれは胸の内から霞んでいくことはなかった。むしろ時の経つほど輝きさを増して、彼の罪悪感や疾しさを駆り立ててくるのだった。路傍の石はその隣の路傍の石となんら変わりのない見た目を有しているのに、この希死念慮はいつの希死念慮とも触り心地の異なったものになっていった。それは決して気持ちの良いものではない触感を伴っていたが、投げ捨てるほど不快なものでもなかった。むしろ寄り添うような不思議な居心地の良さを感じさせる類のものだった。だから彼はそれを絵に描くのだった。どうしようもない、置き場のない、やり場のない気持ちを彼はそこで救ってやるのだ。そういった志を起点として、彼の絵画活動は誰の知るところともなく始まった。そういった名目がはじめはあったのだ。しかし、それは次第に離れゆき、思い出を残そうとか心のわだかまりを発散させようとかといった彼の意志とは別に独自の道を歩みだし、今では一種のお決まりの習慣的な行為にすらなっているのだった。彼が何も考えなくても、ページを開くとあの日がまざまざと何らかの機械的な仕掛けが施されているかのようにフラッシュバックし、彼の指は彼の意図とは無縁に動いた。それは誰に見せることもなくただひたに朝野がページを捲る時のためだけに存在し、彼の前に彼の無意識を映し出す鏡のようなものになった。その意味では、知らない情景を彼の指は描くようになったといってもさほど間違いではない。それは大いなる毒のようであり、大いなる導きのようでもあった。一方で、意外に思われるかもしれないが、その舞台に人間が登壇することは稀だった。朝野も七綾もそこには滅多に姿を現さなかった。そこには崖があり、波があり、夜があり、森があってその他に目を引くものはほとんどなかった。今彼が描いているのもそういった類のものだ。それはそこにいるべき二人を健気にも待っているようにも見えたし、いつか二人が帰って来た時に、いつでも万端な用意をもってして迎え入れられるようにという、神秘的な自然の摂理やなにかしらかの、目に見えないものによる配慮がなされているようでもあった。

 集中力が切れると朝野はまるで観賞していた映画が終わったかのように立ちあがり、ベンチに座って水を飲んだ。その前では鳩が地面を突きながらちょこちょこ跳ねまわり、どこかの国の平和を陽気に謳っていた。太陽はすっかり長く大きな雲に隠れてしまったが、雲はそれほど厚くはなく、太陽がいる場所には微かにその存在を匂わせる黄金色の滲みがあるのだった。ふと、彼は視界の隅にひとりの老人の姿を認めた。その老人はすぐに飽きて余所へ行く多くの老人とは違って身じろぎひとつせずにじっとその場所に留まって、肉の落ちた首を傾け、鮮やかに映えるピンクや赤色の花をつけ、見頃を迎えた山茶花の木を見上げていた。朝野はその姿を呆然と見ていたが、その間老人は少しも動くことはなかった。背中を掻いたり、視線を他に移したり、姿勢を正したりすることすらなかった。その老人は多くの老人と同じようにみすぼらしい格好をしていたが、よく見てみるとその老人の態度からは、何かしら他とは違った雰囲気というものが感じられるのだった。眼鏡の奥の瞳はある一点を貫くように見つめ、それは身体がじきに動かせないほどに凝り固まり、時が経ち、雨が降って、足元から石像になってしまうことも厭わないような憮然とした気勢を窺わせていた。その内にどうやら老人が見ているのは山茶花ではないことに朝野は気がついた。老人は山茶花の木々の列の終わりの所に立っていて、老人は一心不乱にほとんど葉もつかない枯れかけの細い木を見つめていたのだった。それは山茶花ではなかった。老人は玄関の横に展示された精巧な置き物のように固まって、その前で鳩が歓喜のダンスを踊っていた。朝野は何がそんなにも老人を惹きつけているのだろうと思い、スケッチブックを鞄に仕舞うと立ち上がった。

 朝野が歩くと、憩いを謳っていた鳩たちが飛びあがってあちこちに自らの居場所を探しに散らばったが、それでもその老人は静かに木を見上げたまま、背後のことには一切気にはかけなかった。朝野は不思議に思っていたが、くすんだ色の木の前に立ち竦む老人の隣まで歩きつき、老人と同じように首を上げると、ようやく彼の視線が意味するところを理解したのだった。朝野はなんだか日常の裏道を見つけたような微小な心の動きを感じた。そこには、枯れかけと思われた頼りない木の枝先には、純白ともいえる綺麗な色の花がぽつぽつといくつか咲き零れていた。朝野は腕を組んで老人の隣でそれを見た。その木は一本しか植えられていなかったが、その花は小さく可憐で、生命に満ち、宙で静止したひとひらの雪みたいに見えた。朝野はひとしきりしてから老人に問いかけた。

「これはなんていう花なんです?」

 すると老人は姿勢を微塵も動かさないままで、口だけを開き、そこから擦り切れるようなしわがれた声を絞り出した。

「君はあの花が見えるのかい? あの小さくて真っ白い花が」

「ええ、もちろん」朝野は答えた。老人はそれにすぐ言葉を継いだ。

「昔、犬を飼っていたんだ。飼っていたといっても、誰かが捨てた野良犬を拾ってきただけだけれどな。そんな容貌はいいわけではなかった。でも愛嬌はあった。けれど世間は動物を良しとしない風潮があるだろう?」

「確かに」朝野は言った。確かに世論としては動物愛護団体の意見とも相まって、動物は飼うものではなく、保護するものだという風向きが強まっている。それには動物を飼うのは動物の権利を侵害しているという理由や、老人の言うように捨てられたペットがやたら繁殖してしまうと去勢にしても処分にしてもその後処理に困るという理由がある。それに今の時代、ペットという娯楽は成立しなくなってきている。

「だから、子犬は日がな一日、私の家の中にいた。さぞ退屈だろうと私は思った。どうしても私はその犬が満たされていないように思えたんだ。そしてそれが楽しんでいないように見えることが、私の気持ちを蝕んだ。私はあらゆることを試みたが、どれもあまりうまくはいかなかった。子犬はただ同じような日々を生き続けていた。そうして、ある時動かなくなった。寿命がきたんだ。元々それほど長くはなかったんだ、飼うまでの長い期間、衛生環境は良くなかっただろうからね。あるいは環境がガラッと変わったものだから、それが逆に良くなかったのかもしれない。いずれにしても――」老人の声は淡々として、抑揚というものがまるでなかった。しかしその横顔の陰影は、彼が昔を回顧している寂しさを映しているようにも見えた。「――いずれにしてもその犬は死んだ。けれどね、私の心境にはその時、初めてさざ波が打ち寄せたように変化が起こったんだ。その犬が死んだ時に初めてね。まるでその命を全うした魂が身体の楔から放たれて、波長となって私に届いたみたいだった。私はその子犬の一生の帰結を感じたように思った。そしてそれは、私に生活の根幹にある流れのようなものを感じさせた。断ち切られた、……いや末端まで漕ぎ着いたと言うべきかな、彼の生きた日々の息遣いが伝わってくるようだった。彼はとってもいい表情だったんだ。穏やかだというのは私が見るからで、そこには何もなかったんだ。彼は目を瞑っていた。静かに終わっていたんだよ。私はその時気がついたんだ、私は本当にその子犬が好きだったんだよ」

 そう言い切ると老人は、茫漠とした時間の海に身を浸すように黙り込んだ。循環された水が奏でる噴水の音が遠くで聞こえていた。朝野が枝先の花や蕾にまた目を向けて、しばらくすると老人は息継ぎのために海面からすっと顔を上げるように言葉を吐いた。

「小さくて、真っ白い、ふゆざくらさ。咲く季節を勘違いしたのでもなければ、誰かを喜ばせるために先立って咲いているのでもない、それらはただ自ら咲いているんだ。ふゆざくらは冬に咲くんだ」

 老人は沈むようにまた黙り込み、それ以上何も言わなくなった。


 翌日、明ける様子も見えない業務時間に営業所に行った朝野がその扉を開けると、社員がその姿を見つけるやいなやかつかつと近寄り、厳しい目つきを彼に向けた。

「どういうつもりなんだ、昨日は何の連絡もせずに仕事を放り出して。自分が何をしたのか分かっているのか、どれだけの人間がしなくてもいい労苦を背負ったのか」

 朝野は素直に頭を下げたが、しかしその社員は規定で決められているのか、その怒りをすぐに取り下げることはしなかった。

「なぜ電話に出なかったんだ? 何度もこちらからかけたはずだが」

「すみません。風邪を引いて寝込んでいて、眠りが深かったんです。着信があったと分かった時には正午になっていたし、またすぐに気を失ってしまったものですから、それで夜にかけても誰もいないと思ったし、それで――」

 社員の男は朝野の言葉の意味の判別すら必要ないといった具合に、それを撥ね退けた。

「君の言い分を聞きたいわけじゃないんだよ、こちらはね。君がもし事故に遭おうが、何者かに連れ去られようが、我々には何ら関係のないことなんだ。これは分かるだろう、当たり前のことなんだ。僕はね、君がどう思っているか聞きたいんだよ、そのことだけを思ってるんだ」

 朝野は深々と頭を下げた。できるだけ気持ちの刺が胃に触れることがないよう祈りながら、謝罪を述べた。

「以後このようなことがないよう、重々心に留めておきます。この度は真に申し訳ありませんでした」

 社員の男はもう勘弁してやると言った素振りで、配達に周りに行くように朝野を促した。朝野は会釈を返し、営業所の外に出ると、自らの原付に跨ってまだ夜の底に沈んだ街を朝の匂いを探すようにして駆け始めた。そうして出ていった彼が営業所に戻ることは二度としてなかった。

 北風に冷えた街は、餌を待ちかまえたワニみたいに物音なくその口を広げ、全てを飲み込もうとしていた。街灯に照らされる影は車も人もゼロに近いほどなく、空は雲が判別できないほど暗く、月は引っかかったようにビルの角に垣間見え、その光は儚いものだった。朝野は道順も適当に街中を駆け巡った。大して見つけるものもなかったけれど、朝方の空気に肌はヒリヒリとして、頭はプリズムのように冷静そのもので透き通っていた。相変わらずエンジン音は耳元で風の音と絡まってうねりを上げていたが、それは彼の脳に届くほどの力は持ち合わせていなかった。

 朝野は時計の針が七時を指し示し、ようやく街が水晶の割れる悲鳴と共に動き出すのを、カフェでサンドイッチと温かなコーヒーを摂りながら見つめた。そして彼は自分がポストに投げ込まなかった朝の音のことを考えた。朝は投げ込むものでも、投げ込まれるものでもないのだ。時間帯は関係なくそういった気分になるとどこかで水晶が割れて、その光が夜に流れ込んできて闇を追い払い、太陽がその光に釣られてのこのこやってきて、よたよたと過ぎ去る。ただそれだけのことなんだ。そこには誰の意志も大なる時間の流れも強かな陰謀も介在していない。何もないんだ。そんなことを彼は思った。では神は?

 ――では神は?

 店を出ると出勤する人たちや登校する生徒たちや政治に関する街宣車や号外を配るどこかの新聞社員たちが、ごった返しになってひとつの騒然とした雰囲気を奏であげていた。今目の前にあるのが、昨日望んでいた貴重な朝だということを誰もがみんな忘れている。烏がそれを嘲るように電線や屋根で啼き叫んでいる。朝野はそれに抗うように原付を走らせ、家へと向かった。無心になって二十分も走らせ続ければ、喧騒は嘘のように、潮の引くように、辺りからその影をなくしていく。そして代わりに、高く聳え立つ送電塔が見え始めてくる。それらは時も感じさせず、灰色の鋼の身体を朝日に晒して毅然とした姿勢を保っている。彼の家はそれらが最も多く並び立つところにほど近いため、家に戻ろうとすると保護区の森林と送電塔が迎え、人の数は反比例的に減っていく、ある種異様な空気が濃くなる。けれど彼はそれがなんだか好きだった。朝野は先週彼の家でした浦河の提案に対する自分なりの結論を出すことに、ずっと頭を働かせようとしていたが、それはどうにもうまくはいかなかった。明日が約束の日にちだった。

 彼は家に着くといつものようにスケッチブックを広げた。そしてふと思い立って、珍しく他のページを捲ってみた。そこには過去に描いた断崖の記憶が残されている。それはどれも彼のある追憶から発せられた同じ情景であったが、彼はなぜかどれにも同じ要素を見出すことはなかった。彼は鉛筆を置き、この時ばかりは夢中になってそれら過去のページを捲って確かめた。そこのどれにも、あの夜、あの波飛沫、あの星、あの静やかな森が描かれている。しかし、そのどれもがなんとなく互いに異質なものに思えてくるのだった。そしてその相違点は、暗がりに落ちた雨粒のように見分けがつくものではなかった。朝野はおそらくこの風景に本来いるべき二人がいたら、自分と七綾がいたならば全てのページが糸で一括りにされるようにして貫通され、まとめられ、束ねられるのだろうと感じた。全てのページは紛れようもなくひとつの場面で、それは自分と七綾を待っているのだ。

 定められた時間が来ると、彼はいつものようにリヴァサイドタワーに向かった。その運転は危なっかしく、彼は何度も自動車のサイドミラーをふっ飛ばしそうになった。作業場に着いても彼は夢見心地の様子だったので、見兼ねた棟田が声をかけた。しかし朝野としてはそんな見かけを自分がしているとは少しも思っていなかったので、若干驚いた反応を返した。

「どうしたんだ、一体」棟田は訊ねた。「なんかサロンに行った後みたいな顔してるぞ。朝野くんもついにサンプルでも手を出したのか? あれは無料なのははじめだけだから、気をつけなよ。特に我々のような正社員でもない身分ではな。毒というのはまわり始めると早いんだ」

「いや、そんなこともないですが」朝野は作業着に着替えながらそれに答える。

「じゃあ寝不足か? 睡眠不足は理性をダメにする最大の原因のひとつだぞ。癖になると厄介だ。副交感神経と我々は別人ではないのだから、彼らが働く場を失ってしまうと我々も困ることになる。大体において君は考え過ぎる傾向にあるからな。何をそんなに考え込む必要がある? 大切なのは人がその瞬間瞬間に感じていることだけなんだよ」

「棟田さんが競馬で負けたことはどうでも良いんですが、僕はかつてない二者択一に迫られてるんですよ。つまりね、原罪が発生する以前に戻れることがあるとしたら、人類はどうするべきか、こういったタイプの問題について悩んでいるんです」

「またそれはくだらないことで悩んでいるものだね。何もないところで道に迷うものじゃないよ」

「棟田さんならどう思います、これについて」

「どう思うもこう思うも、それは神学論争じゃないか。牛を食べるも豚を食べるもない、そんなのはその時の気分の持ちようによるさ。どっちだって何ひとつ些細なことさえ、変わりゃしない。それよりは新しい馬の情報を仕入れていた方がまだ少しは世界の平和に貢献してるってことだよ」

 朝野はそれを聞くと、電灯が発した光の近くに見える白い膜のようなものに目を向け、少し考えてから言った。

「じゃあもし例えば、棟田さんは独立区域に大切なものを残して来ていて、長い間そこに帰ることは能わなかったとして、いざ独立区域に戻れるとしたら、喜ぶでしょうね。しかし、もしその大切だったものが既に失われている可能性が高かった場合、どう思います?」

 今度は棟田が沈思黙考するのにややの時間を要した。彼は新しい袋から取り出したモップ用の替糸を入念に確かめながら言った。「その大切なものがもう形をなしていなかったとしても、独立区域に戻った方がいいような気はするな。またいつか混沌の中からおそるべき力能たちが現働化するかもしれないし、その光景に立ち会いたいとも思う」棟田は持っていた替糸を机の上に置いて朝野を見た。「しかし、実際無知のヴェールをもってして、自分がそういった地点にいることを想定すると、もちろん長い間というのがどれほどかにもよるけれど、戻るという行為に踏み切ることができないかもしれない。その理由をはっきりしたものに求めることはできないし、いくつかの複合的な要因からなっているんだが、最も大きなことを言えば、国境なんてないっていう声がするんだな、俺の身体のどこかしらからね。国境なんて最早どこを探してもない、その意味では現在どこにいたって離れたものなど何もないし、それについて苦労をする意味もそれほどない、それよりは大切なものを心に抱いたまま自分のなすべきところのものをなしたほうが誠実じゃないかという風に。そういう声が、微かにだがはっきりと聞こえる。それはなにものよりも強い声だ。だから、多分俺はそういうのを信じてるんだと思うな」

 朝野はそれを訊くと、それ以上の質問をやめて、再び夢見心地みたいな深みに階段を下りていくようにして、沈み込んでいった。棟田は窓の奥に木枯らしが木々の枝を揺らすのを見て、これからの厳しい季節における自分の身の振り方をどうしたものかと考えていた。


 朝には薄く平坦だった雲は時が経つほどに局地的な厚みを見せるようになり、午後になると細い雨が降り出して、景色を網目のようにぼやけさせた。朝野が駅に行くと、既に浦河が車を停めて建物の庇で雨から身を守りながら彼のことを待っていた。駐輪場に原付を停めた朝野に気づくと、彼女は声をかけた。

「どう、気持ちは固まった?」

「ある程度はね」と彼は言った。

 彼女は車を注意深く発車させ、ワイパーを作動させた。

「運転できたんだね」

「当たり前よ」前を見ながら、彼女は笑った。「〈待ち人〉には免許をとらない人も多いけどね。まあこっちでも最近は交通手段が発達しているし、持ってない人も多くなってるのかな。でも、私がいた時は知り合いはみんな持ってたわよ。遊び上手な人たちばかりだったのかもしれないけれど」

「こっちにいたって、仕事で?」朝野は久し振りに乗る車の感覚に酔わないように、窓の外に目を凝らした。窓の外では人や木々や建物が絵巻物のように一方通行に前から来ては後ろに流されていった。その中では雨も上下運動をやめ、斜めに落下しているように見える。

「いや」彼女はハンドルを切りながら、それに答えた。「仕事じゃなくて、私は元々管理区域に住んでいたのよ。それから朝野くんがこっちに来た少しあとに向こうに移ったの。言ってなかったっけ? 擦れ違いみたいな感じね」

 朝野は少し驚いて、彼女を見た。「そんなこと初めて聞いたな。僕は君のことを独立区域の生まれで、そのまま職に就いて羨ましいと感じていたものだけれど」

「そんなことないわ、私にも色々あったのよ」そう言うと彼女は過去を懐かしむように目を細めて高速道路に乗り込んだ。彼女は口で言うほど運転に慣れていないらしく、黙ってそれに集中している様子だったので、朝野は昨日のことを思い出していた。それは清掃業務が終わって、彼が駅前の公園に立ち寄った時のことだ。朝野が陽の暮れた公園で夜の帳がその重さを増すのを感じていると、誰かから声がかけられた。警官かと思って彼は一瞬身を強張らせたが、それは声変わり前の幼い声だった。朝野の前にはいつかの塾通いの少年が立っていた。しかしその容貌は以前とは違い、少年はジャンバーにジーンズといった私服であったし、鞄ではなく大きなリュックサックを背負っていた。

「こんばんは、久し振りだね」少年が言った。

「やあ」と朝野は言った。「どうしたんだい、こんな時間にそんな格好で。怒られちゃうんじゃないかい」

 それを聞くと少年は足元に一時目をやり、「いいんだ」と言った。そして顔を上げた。

「いいんだ。だって僕は決めたんだもの」

「何を?」

「旅立つことをさ。僕はこれからどこか遠くに行ってみようと思うんだ。僕がまだ見たことのないものを見るためにね。一生懸命考えて結局そういう結論になった。だから、結果がどうなるにしろ、今の僕には関係がないんだ。あなたともしばしお別れですね」

「そうか」と朝野は言った。そう思うと少年の頬には以前とは違い、どこかしら意志のようなものが感じられた。朝野は少年の言葉の意味を飲み込むように、目を閉じ、そして開いた。「それは立派な門出だな、お祝いしなくちゃ。頑張ってくれよ。やれるところまでやるのさ」

「うん」少年は頷いた。「だからもう行かなくちゃ、こんなところで捕まってちゃいられないものね。最後にあなたに挨拶できてよかったです」

「こちらこそ。いつも心にアプラクサスをね、絶対だよ」

 朝野が言うと少年は不思議そうな顔をした。

「なあに、それは」

「いいや、そのうち分かるさ。ではしばしお別れだ、友よ」朝野が大袈裟に言うと、少年は顔を綻ばせて背を向け、公園の出口に歩いて行った。その時ばかりは朝野にも安らぎの瞬間が訪れていた。

 そんなことを思い出した朝野は運転している浦河に半ば独り言のように呟いた。雨はしとしととフロントガラスに注ぎこみ、ワイパーがそれを絶えず撥ね退けている。

「僕はね、彼女のことをずっと描き続けているんだ――」

 彼女は静かに朝野の話を聞いていた。


 森の向こうに赤褐色で節々に苔の生じた城砦の一角が見え始めた頃には雨はもう上がり、重さを伴った雲は西の方へと離れゆき、傾きだした太陽の光線が細切れの雲の隙間から祝福のように地上を照らしていた。

 舗装された道路が次第に細くなっていき、我々の車は木立の合間に敷かれた砂利道に踏みいった。独立区域の周辺に建物はなく、交通路すら整備されておらず、不揃いな木々や雑草が蔓延っている。そこには周りの車はおろか、人影も全く見当たらなかった。そこに到る間、ずっと朝野は夢遊病者のごとく浦河に自らがノートに七綾との一場面を描き続けていることを語っていた。浦河は時折相槌を打ってはいたが、道順を確かめたり、忙しなくバックミラーを覗き込んだり、車間距離を気にしたりしていて、よく見積もっても話半分に聞いているといった具合だった。車体は常にひどく揺れていたが、砂利道に差し掛かるとそれは一層甚大なものとなった。

「さあ、そろそろよ」浦河は言った。

 朝野が顔を上げると、車は森を抜け、隙間なく詰められた赤褐色の空高く積み上げられた煉瓦の壁が、目前に迫ってきていた。それは人々の環境を決定的に区切る効果を持ち、とても堅固で、他者の侵入を阻む猛りのようなものを感じさせた。その煉瓦の壁は見上げても切りのないほどに高く聳えていたが、横の繋がりを見ても、まるで生活の傍らには煉瓦の壁があるのが世の道理だといった具合に際限なく、それは伸びていた。城砦とそれを囲む森の間は二十メートルほどのスペースがあり、そこにも砂利が敷き詰められ、一応の通路としての機能を果たしていた。その道は空から地上までに遮るものが何ひとつとしてなく、その上は生き物の気配がまるでしない無機質な空気で満ちていた。城砦に沿ってその道に車を走らせて、ややすると遠くから煉瓦とは違った色合いの物体が近づいてくるのが分かった。それははじめ視界に入って来た時には小さなものだったが、みるみるうちに大きくなり、そして見る者を圧倒するほど巨大になった。それは鈍い銀色をした大きな門扉だった。それは煉瓦の壁に細工物のように嵌め込まれた形で存在し、門の上にも煉瓦がアーチのように架けられていた。門扉の半分は閉じ、半分は引き戸のように横に開かれており、その内側に関所と呼ばれる受付所が見えた。表の敷居のところには不法な侵入者を見張る数人の警備員が立っていて、厳しい視線を我々に向けていた。

 浦河は門の前で車を一旦停めた。歩いていった彼女が、警備の人たちに免許のようなものといくつかの書類を渡すと、彼らは入念にそれをチェックしていた。朝野は助手席に座ったまま、五六年来の光景に発生場所の定かでない気分の高揚を感じ、努めて冷静であろうとした。心を落ち着けるために車内からその一帯を観察すると、門があるとはいえ、荒涼とした雰囲気が辺りを支配し、それは工事現場の一角であるような風情を見る者に感じさせた。そこは国境というよりも、多くの人が住み、培ってきた文化に追い立てられた辺境の土地、あるいは墓場と呼べそうな趣があった。すぐに浦河は運転席のドアを開いて、席に乗り込み、ハンドルに手をやり、アクセルを踏んだ。過ぎる時、警備員の人たちは開いた門の両脇に立って、我々に軽い会釈を与えた。

「それで、どこだっけ。その彼女の働く場所は」

 朝野が職場の住所の記された葉書を浦河に手渡すと、彼女は「これならあと、十五分くらいで着くわね。どう、何て言うかは決まったの?」

 朝野はそれには答えず、心の中に訪れた些かの怯えのようなものの正体を突き止めようとしていた。

 僕は七綾と暮らすことを望んできたはずだ、と朝野は思った。認めていなくても、目を逸らそうとしていたとしても、やはり心の到るところに設置された結節点では自分は七綾と再び一緒になることを考えていた。それは動かすことのできない事実なのだ。

 門から離れると、徐々に車は街の中へと入っていった。道端には平日だというのに私服の人々が溢れていた。それは朝野にとってとても懐かしく、胸に迫る光景だった。婦人は庭の手入れをし、老人は孫を連れて街の様子を楽しみ、大きな酒屋のホールでは若者たちがジョッキを交わしてビールを飲んでいた。子供たちはアスファルトの上に、脆い材質でできた小石で思い思いの図形を描いている。

 朝野は、独立区域で育ったが、今と変わらず幼少の頃から大勢の人が奏でる空気がどうしても馴染めず、苦手だった。それゆえに無機質で、たとえ規模は大きいとはいえ、人の臭いのしない管理区域に逃げ込んだのだ。それを七綾はしっかり分かっていたのだ。七綾は彼以上に彼のことを分かっていた。

 彼は独立区域の雰囲気を目の当たりにしてようやく過去をちゃんと捉えられるような心地がした。実際のところしかし彼は、多くの人たちとは違い、機械的な抑圧に支配されることを全て受け入れるには至らなかった。彼の経験を有する心のどこか、身体のどこかがそれを拒んだのだ。そうして今までやってきた。では今、果たして自分は素直になるべきなのではないだろうか、と朝野は自問する。自分に抵抗せず、この街でまた一からリスタートし、生活を組み立てていくべきなのではないのか。それが過去の自分にできる唯一の報いなのではないか。

 そんなことを彼が考えているうちに、車は浦河によって停められた。

「この一区画先に彼女の働く店があるわ。私はここで待っているから、いってらっしゃい」浦河は言った。

 朝野は頷き、助手席のドアを開ける。「どうもありがとう」

「悔いのないようにね」

 彼は浦河の言葉に、微笑みをもって返そうとしたが、頬の肉が引き攣り、うまくいかなかった。ただ首を振ると、彼はその扉をバタンと閉めた。

 七綾由美は街のドーナツ工房で働いているということだった。多くの若者と一緒になってその店を彼は探したが、その場所はわりと容易に見つかった。店は商店街の中にあり、緑のボードに白い字でメニューの書かれた看板が歩道の上に出されていた。

 朝野は自動ドアをくぐり、厨房を後ろに控えたレジカウンターで手造りのドーナツを二つとコーヒーを一杯注文した。店内は若い男女や子連れの主婦らで賑わっている。朝野の対応をしたのは愛想のよい中年の男性店員だった。男は注文を受けると、トレーを用意して、揚げたてのドーナツを二つ、包装紙に包んで丁寧に乗せ、その横に湯気の立ったコーヒーを注いだシンプルな形のマグカップを置いた。朝野は男に七綾が勤務中であるか訊ねようとして、結局やめた。

 朝野は外側に面した二人用のボックス席に座り、ドーナツを咀嚼し、コーヒーで身体を温めながら、時折レジや厨房の奥を見やったが、そこに七綾の影は見当たらなかった。ドーナツは熱くて香ばしく、溶けるような甘みもあったが決してしつこくはなかった。彼はそれを一口一口噛みしめて味わい、爽やかなコーヒーを飲み込んだ。ただ、舌の感覚ではそれらの味覚を確かめていながらも、彼の頭の中は七綾と過ごした過去の記憶でいっぱいになっていた。人となかなか気の合わない朝野でも七綾の前でだけは、新鮮な空気が得られるように楽に自分を泳がせることができたのだった。彼と彼女は連れ立っていろんなところで多くのものを見たし、狭い場所で絶えることのない時間を過ごした。朝野が現在、たとえ至上の状態でないとしても精神を壊さずにいられるのはそういった彼女との生活が経験となって、彼の血肉になっているからであった。それらがなければ、今の彼はとっくに魂を売り飛ばし、心を失くしてしまっているだろうと思われた。彼にとって彼女との関係は、今になってもそれほどまでに何事にも代えがたいものなのであった。

 朝野は食べ終わって、コーヒーを飲み干すと、長いこと窓から外を眺めていたが、やがて席を立ってトレーを返却口に持っていった。彼はもう自らに課された宿命に身を預けることに決めたのだった。もうそれしかないのだ。返却口にトレーを置くと、レジの店員が礼を言うのが聞こえる。シフトが入れ替わったのか、それは先程の男の声ではなかった。朝野がふと見やると、エプロンをつけ、店指定の帽子を被った細身の女性はにこやかな表情をこちらに向けていた。その途端朝野は眼を見開いて、その場で立ち尽くした。その時彼は最早何も考えることができなくなっていた。彼女はその様子を見て、自らの顔に何かが付着しているのではないかと、不思議そうな顔つきをしたが、すぐに口を半開きにさせたまま、朝野と同じように目を丸くした。彼女の手にしていたプラスチックのトングが指を擦りぬけ、カタンと床に落ちた。しかしその音が二人に届くことはなかった。二人はその時、誰の声も何の音のひとかけすらも必要としてはいなかったのだ。朝野と七綾は互いの顔をどれほどかも分からない間、茫然自失に見つめあった。それはとても親密で、誰にも奪えない類の経験だった。その前では離れていた距離や期間のことなどは、遍く意味を失っていた。その経験には二人しか入ることができず、そのどちらかが欠けることも許されず、他の主体を必要とする気配は微塵もなかった。二人を取り囲む空気は、ずっと昔にあったそれと見比べられないほどに等しくなった。

 しかし何事だって間もなく後ろに往き去って、気がついてしまえばそれはほんの一瞬の出来事であるに過ぎない。朝野は何か彼女に言おうと口を開きかけたが、レジカウンターのところには新しく入ってきた客が到来し、七綾は我に帰るとその職務に向かったため、朝野はその口を閉じると、じっと彼女の姿を目の奥に焼き付けてから、まだ会計中の客の後ろを通って、出口へと歩いた。外に出るともう朝野はガラス越しにも七綾のことを振り返ろうとはしなかった。彼は前だけを見つめた。そのために朝野は二度と、七綾がそっと指の背で潤んだ目尻を拭ったことを知ることはなかった。

 彼が車のところに戻ると浦河は、その横で飛びゆく鳥たちの群れを見上げながら煙草の紫煙をくゆらせていた。二人は車に乗り込むと、元来た道を引き返し始めた。朝野がほとんど口を利かなかったために、浦河もその意を感じて口を噤んでいた。ほどなくして煉瓦の壁面が見えてくると、朝野は「ここから少し歩かないか」と申し出て、彼女も静かにそれに従った。

 車を路肩に停めると、彼は両腕を空に向けた大きな伸びをし、一度だけ向き直って街の方に目をやった。浦河はライターのフリントホイールを擦って煙草に火を灯した。「僕はね、彼女との記憶を絵に描き続けているんだ」

 朝野はぽつりと言った。待っても、それ以降の言葉が続かないことを知り、浦河は口を開いた。「ええ、知ってるわ。来る途中に教えてくれたことでしょう?」

「うん」彼は首を微かに動かした。

「どう、彼女とは会えた?」

「会えた。けれど――」

「けれど?」

 浦河が訊くと、彼は昔を見るように遠い目をして、静かに、何かの罪過を赦すように、あるいはその存在を認めるかのように、幾度か軽く頷いて見せると、意を決するように口を開いた。

「……けれど、やっぱり僕は描くよ、描くことに全てを詰め込んで、過去の自分の餞としよう。僕はそこに生きる意味の全てを込める。僕はもう七綾や過去の僕への執着を辞めて、それらを描き続けることの中で生かし続け、それに僕の神を見出すよ」

 浦河は静かに煙草の先の灰を落とすと、おもむろに彼に訊ねた。「それでいいの? いえ、私には大体のところは分かっているわ。けれどこれは一応聞いておかないといけないと思うから、訊くわね。朝野くんのそれは重大な局面を前にして即興の、あるいはよくできた言い訳をしてるに過ぎないんじゃないの。ペシミスティックに悲観ぶって、自分を惨めな境遇だと決めつけて、誰かの手を待ってるがためにその場にとどまることを決めてるのではないの?」

「うん、……大丈夫。そんなんじゃないさ」

 朝野は雨が染み込んだ土の上を、門の方へ向かって歩き始めた。彼はポケットから右手で紙袋を取り出すと、それを振って一本の煙草を押し上げ、咥えると、左手でライターを着火した。彼は紙袋をズボンのポケットにしまうと神妙そうな顔をして、目の前の信号機の点滅を見つめた。彼の頭はすっかり冷え切っていたが、火花の散るように、多くの繋がり方を見せていた。それは普段の彼を飲みこむ言葉の濁流となって、喉元に迫り上がってきていた。そして彼はもう一切それを押し留めようとはしなかった。

「いや、どうなんだろうな。これ以降のある時期に他人が僕を指して、浦河の言うような状態が起こっていると告発するかもしれない。でもそれはおそらくそうではなくなっているだろうと思うんだ。つまりアキレスと亀のような状態だ。客観的事実と主観的事実は性質からして、求める領分からして異なっている。そして確かに僕はニーチェの言う反時代的な実存にもゼーレンの説く逆説弁証法的な単独者にも成り得ないかもしれない、あるいはハイデガーが熱弁するところの死の先駆的決意性を踏まえた本来的自己の復権のようなものもね。僕が成るところのものは、それらと形式的には違うかもしれない。けれど余りにも素直でセンシティブで報われなかった運命を持つ彼らが言っている通り、大事なのは形式ではないんだ。まず必要なのは自らが形式となることなんだ。そして――」街路樹の細く伸ばした枝々がこれから始まる深い冬を予感させる木枯らしに揺られて乾いた音を立てた。二人の前を小学生にも満たない感じの兄妹が、駄菓子を手に持ってぱたぱたと笑いながら駆けていった。心に白雪が降り落ちるような一層の冷たさを抱えながら、朝野は続ける。「そして、それが僕に足りなかったことなんだ。非人道的かもしれないけれど、一層人道的なことのひとつに人は独りでしかないってことがある。これはどうしたってそうなんだ、それこそコペルニクスが天動説を唱える世界にだって通用していることなんだ。だからこの、人の心が次々と厚いブーツで踏みにじられていく世界にも、この厳密な意味での通約不可能性というのはきっと罷り通ってるんだ。いや僕は何もそれを盾に七綾との連絡を諦めようってんじゃない。むしろ逆だ。この世界での共同性というのはそれを踏まえた上でこそ成り立つものなんだ。しかし僕は頭で分かっていてもそれをなかなか実践体系として身体の中に埋め込むことはできなかった。実際のところ、僕はその事実、僕の指先が誰にも触れられないという事実に絶望し、そのことから目を背けようとしてその事柄を胸の内で知らずに膨らませていたのだろう。けれど――」二人は何区画かを通り過ぎていた。時分は電灯がカチカチとその輪郭を灯りつつある光によって揺らしつつある頃合いだった。朝野はそれにふと一瞥をくれたが、また目指す先に視線を戻した。浦河は黙ったまま、彼の隣を歩いた。「けれど、今はしっかりとそのことが感覚として心の中に分かっているんだ。いやこれは土台だ、当たり前のことだ。人は人と違う、自明だ。そしてアジャスマンを組むこともできる。そして僕はその道標にもちゃんと目をくれている。僕という種子の中に無限の可能性が潜んでいて、僕の中には清らかで壮大な波のうねりのようなひとつの旋律が通っていて、それが世界を構成する法則と繋がっていることもね。いつも思ってたよ、閉ざされた街だってね。できることならとっとと抜け出したいと思ってた。モグラが自らの巣穴に帰るようにね。けれど僕は本当はどこにだって行ける。それも分かってる。その上で、僕は管理区域に残ることを決める。これはね、悔い改めでも躊躇でもなんでもないんだ。アートマンがどうとかいうことでもない。形而上的なことは一切そこにはない。僕はここにいて描き続ける。それはね、なんといってもどこへでも行くためなんだよ。僕はそれによって、これから出会うであろうあらゆる人々の通約不可能性を内側から粉砕することができるんだ。僕はそれを選ぶべきなんだ。過去を自分の内で生かすけれど、重くなる余計なものは全部置いていく、すごい単純なことなんだ。大抵大事なことってそういうものなんだよな」

 二人の息はただ白く吐かれ、そして消えていった。

 ほとんど闇色に染まった赤褐色の門のところまで辿り着くと、朝野は「ここからはひとりで帰るよ。森を抜けて大通りの端にでも出れば、タクシーを呼ぶこともできるだろう。どれだけ時間がかかっても、どれだけここから遠くても今はそうしたい気分なんだ」そう言って一息つくと、彼は「随分遠回りしてしまったけれど、ここに連れて来てくれてありがとう」と苦笑って、浦河に手を伸ばした。

「また会えるといいね」彼女は彼の手をしっかりと握って言った。

「そうだね」彼は言った。

 彼は歩き出し、浦河の立つ門から、七綾のいる街から、その姿を遠ざけていった。浦河はその場にしばらく立ったまま、彼の後ろ姿を見送っていた。やがて森に入り人混みに紛れていくであろう彼の背を、夜に塗れて見分けがつかなくなるまでじっと見ていた。


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