前篇
1
――僕の膝に頭を預けて彼女が眠ると、そのあたたかさは接触している部分を伝わり、ささくれた神経を穏やかに調整し、僕の手すら届くことのない心の臓まで到達した。僕たちは多くの時間を部屋の中で過ごし、様々な会話を交わしあい、時には肌と肌を重ね、二つの感情をその限りない断絶の隙間を丁寧な手つきで縫うようにして束ねあい、そして彼女はよく猫のように眠った。彼女が浅い眠りに落ちた時には、起きるまで待って見た夢の話を聞かせてもらい、彼女が深い眠りに身を浸し、すぐに目覚めることがないようであれば、彼女をベッドに寝かし、明かりを消して毛布を掛けて、彼女の息遣いが命の吹き込まれた機械のように定期的に空気を湿らすのを肌で感じながら、僕も隣で眠りに就いた――
螺子を巻き取るごとにオルゴールがゆっくりと音を鳴らすようにして、かつての空気・光景・感触・思いが、胸の内に投影される。
朝野瑞晶はベッドから身を起こすと、ブラインドを指で少し押し広げ、まだ暗い夜の街を見やった。そしてテーブルの上にある水差しを手に取り、グラスに注ぐと、そのグラスを胸元に保ちながら、微睡みの合間に知らぬ間に到り、木漏れ陽のようにぽろぽろと零れ落ちてゆく回想の感触を少しでも手元に残そうと、意識を静かに研ぎ澄ませているのであった。記憶というのは期限のない呪縛のようなもので、いつになれば立ち消えるというものでもなければ、手放そうとして手放せるものでもない。記憶と夢は大まかな容貌によって全く異なる類型に整理されるが、或る性質によっては近似し、共通とも思しき働きをもつ。記憶も夢も寄せては引く波のようなものだ。そしてそれは、見知らぬ誰かの意図によって変調し、こちら側からの操作は能わない。そして段々と潮は引く。そのことだけがこちらに告げられている。こちらはそれをただじっと見つめることしかできないのだ。彼は昔に別れた七綾由美という女性のことを思い浮かべていた。写真や映像や声を記録したテープレコーダーもなければ、余計に一層足早にして、彼女の面影は遠景に消えていくのが分かっている。仕方のないことだと思いつつも、朝野は彼女の夢から覚めるたびに、縋るように、あるいは祈るようにして、その木漏れ陽のごとき輪郭をなぞろうとして指先を伸ばす。そうするしかないのだ。それこそあの形骸化した革命派が産出した、あの禍々しき装置でもなければ。
持ったグラスの結露した水滴が真っ白なベッドシーツに二三滴ぽたぽたと落ちて染みをつくったところで彼は我に帰り、グラスを一口飲んだのちにテーブルに置き、シャワーを浴びて、身支度をした。
彼の朝は早い。彼は新聞配達と清掃員のパートタイム勤務を生業としていた。朝刊の配達のためには、午前の一時には起床し、二時半には家を出なければならない。しかしこのところは定期的に訪れる周期に嵌ったのか、昔の夢を見て、十二時過ぎには目が覚め、ベッドの上で二三十分回想に浸りながらじっとしていることが多く、この日もそうだった。
彼は時計を確認し、二時二十分には家を出た。寝惚けていた頭も原付に跨って朝の空気を吸い込むと、次第に軽さを取り戻すのが分かった。管理区域であるこの街で、人々は規則正しい生活を送っている。それに加えて彼の住む立地の地理的状況も合わせ、深夜に外をほっつき歩くような人は一切なくて、車の通りも少なく、ただ冷たく完全に舗装され、見る限りに果てまで伸びる直線状の交通路だけが、アクセルを回す彼を迎える。やけに耳元でうねる風の音とエンジン音を習慣的に消費して、彼は彼のアパートがある疎らにしかない家屋と自然保護区と送電塔が入り混じった地帯から、建売住宅とまだ手つかずのまま放置されている分譲宅地が残存する地域を抜け、電柱と電線と並走を続けながら、マンションビルやアパートの密集した駅前の新聞屋を三十分ほどかけて、目指す。人の密度の関係もあり、次第に明かりの灯った部屋を見かけることも増えて、夜勤帰りで疲弊した車や少しでも検挙率を上げたい巡回中のパトカーと擦れ違うことも多くなる。
営業所に着くと、仕分けをしている社員の人が二人と同じく配達バイトの大学生が一人いた。彼は先に働いている人々に軽く挨拶を告げ、大学生の方は朝野と入れ違いに配達に向かった。朝野も自らの担当分である百五十部程度を、配達用の愛すべき49ccスズキバーディーの前かごに積んで、大学生のあとを追うようにすぐに路上に戻った。バイクに跨り、ヘルメットをかぶりながら、彼は前に出発した大学生の名前を考えていた。しかしほどなくそれをやめて、ハンドルを握った。他のバイトスタッフと出会うことはなかなかなく、会ってもほとんど会話を交わさないため、そもそも辛うじて名前を覚えているのが関の山であるのだ。
配達にはノルマとしての時間が規定されているが、基本的にははじめに道順を記憶してしまえば慣れたもので、大抵はその前に終わる。社員に任された分量であれば、精一杯走りまわる必要もあろうが、所詮期待の少ないアルバイトで担う分には大したことはない。淡々とルートを巡り、郵便受けに書き込まれたばかりの新聞を捻じ込んでゆく。彼は殊更、マンションやアパートの規則的に配列された郵便受けに新聞が落ちるすとんという音を好んでいた。彼は、自分がそれを繰り返すごとに、朝がまた一歩近づくような感覚を覚えた。
午前五時には予定された全ての家々を回り終え、営業所にオートバイを戻してから、彼はどこかで水晶が割れたような徐々に白んでいく空を、帰りがけに立ち寄った自動販売機の横で、コーヒーを飲みながら、ぼんやりと眺めた。重たかった夜は自然にほどけるようにして空気中に溶解し、空を横切る幾筋かの細く伸びた雲が先程よりもはっきりと見えた。
彼は吐く息の白さを確かめるように、何度も温かい液体を胃に流しては、呼吸を繰り返した。その様子から苛立ちを感じさせるものは読み取れず、むしろ習慣の一部となったことによる安心感すら窺えるようだった。
清掃員の作業は、午後の一時から午後の五時までの四時間とほとんどの場合決まっている。作業は単純なもので、駅を越えたところにあるオフィスの詰めこまれたビジネスビルが並び立つ中のひとつである、十二階建てのリヴァサイドタワーで行なわれる。そのホールや階段、廊下のモップがけ、それにたまのガラス拭きといったところだ。各部屋の掃除やトイレは夜間の清掃員の業務になる。彼が昼頃作業場に着くと、いつもその自動ドアを抜けたところのホールは、お昼休みが終わりかけてオフィスへと急ぐ人々や、携帯電話を耳元に掲げながら営業にでかける人々で混雑している。それを横切って彼が作業部屋に行くと、そこには既に棟田がダークグリーンの作業着を着て、準備をしていた。朝野が声をかけると、数ヶ月前会社をクビになって路頭に迷った挙げ句に清掃員に辿り着いたという、既に三十代半ばである中年男性は顔を上げた。
「すっかり涼しくなりましたね」朝野は作業員の準備室兼休憩室として割り当てられた本来の半分ほどの敷地しかない部屋のロッカーに荷物を積めて、棟田の隣で同じく胸に清掃会社の刺繍がなされた作業着を着こみながら言った。
「残暑ももう完全に過ぎ去って、今度はすぐ冬の厳しさに覆われるだろうね。夏は何も持たなくても過ごせるが、冬は蓄えが色々と必要になるから何かと今の内から用意しておかないとなあ。去年ストーブが壊れてから動かなくなったし、給付金までは贅沢できんね」
「でも競馬はするんでしょう?」朝野が机に無造作に置かれた競馬新聞を横目にくすくす笑いかけると、棟田は小難しそうな顔をして、手に入れてしまった世界の真理を扱いかねてからそれを払い落すように、ごつごつした右の手のひらを左の手の内側で擦った。
「心のわだかまりを解消するには、あのカプセルは高価すぎるんだ。あのせいで賭けごとの取り締まりも強化されたっていうのに、賭けごとはできてカプセルには入れないってんじゃあ、筋が通らん」
「あのサンプル粉末ってどんな感じなんですかね。棟田さんは確か利用したことがあると前に言ってましたけど」朝野は無意識に出しかけた煙草を、すぐに気づいてロッカーの中に仕舞い込んだ。着替え終わって、使う掃除用具を選別し始めた棟田は顔をそのままにして後ろの朝野に答えた。
「うん。ありゃしかし、確かに効果覿面だ。あの粉末を折ったアルミホイルの隙間に入れて、下から火で炙るんだけどな、少しずつ気化した煙が出るわけだ。それを付属のストローで吸って吐くわけなんだが、少しするともうどうでもよくなってくるんだよな。何がって、それはもう一切のことがだ。おそらくサンプルは、カプセルよりも強力にできてるんじゃないかな、多分。とにかく心の、自分では見えない隅々までが照らし出されて、照らし尽くされて、それから精気が噴出するのさ。何事も気分がよくなるのは、内側から外へって決まってるんだな。あの時ばかりは流石に俺も神性ってのを感じたね。初めてだったさ、あんなのは。しかしありゃ終わった後が最悪だったからな、おそらくのところ計算されてるんだ」
「計算?」朝野は自らが使う掃除用具をカートに詰め込み、あるべきはずのものがなくなってないかどうかを点検していた。「計算って、誰による計算ですか? イピファニー党?」
イピファニー党というのは現在の政治の中枢を掌握している党派である。国会議員のほとんどが今やイピファニー党の幹部たちか、それに一枚噛んでいる者たちで成り立っていて、国内の政治方針はもちろんのこと、それに合わせた公安の機構、つまり警察権も有している。それにいまだに抗っているのは、国の中でも管理区域から外れ治外法権を認められた独立区域の数少ない民衆だけだ。独立区域の周りには煉瓦でできた城砦が取り囲んでおり、管理区域の出入りは東西南北にひとつずつある門からしか行なえない。独立区域は海に面しているため漁業も盛んで、田畑があり動物がいて人が住む、さながらひとつの街である。人口は管理区域が一億二千万なのに対して、千分の一の百二十万ほどしかない。昔の区分でいえば滋賀県くらいの大きさである。
棟田はプラスチック容器の中に汚れ落とし用の液体を大瓶から詰め替えていた。「そうだ。あの粉末はつまり奴らが謳っているところのユートピアってやつだからな。あれは使用してる間はいいんだが、その後一二日も経つとな、異様にあの快感を味わいたくなるんだ。依存性がずっと強力なんだ。あれさえあれば何もいらなくなるって思う。コクーンを売り文句にした大抵のサロンはそういうものじゃないか。人を虜にしちまうんだ。魔女が持つ惚れ薬みたいにな。結局俺は一週間ほどでサンプルの一パックを吸い終わっちまった」
「あのサロンも無料開放してくれればいいのかもしれませんがねえ。昔の国ならやってくれたかもしれないですが。そのお陰でベーシックインカムとして生活資金の半分くらいはこうして政治主体が変わった今でも受け取れているわけですし」
国家の支配権力が旧政府から革命軍に代わられた今でも、国民に支給される給付額は変わらず五万円と定められたままだ。累進課税の方針は強まっているため、生活保護対象者はその限りではない。
「まあ、そうは問屋が下ろさねえだろうな。そんなことしたら誰も働かなくなっちまう。中身がなくとも社会が回り続けていることが何より彼らの目的なのさ」
週刊誌に載ったゴシップ記事を扱き下ろすように、さも当たり前のことを吐きだしている風な棟田に、朝野は試すように訊いた。
「棟田さんはサロンが機動して人々を統括し、潤滑油の役割を全うすれば、中身のない社会ができるとでも思っているんですか? それこそ奴らはかつて至上の革命精神をもってして政府転覆を企図し、その鋭敏な知性とアジテーションの巧みさを用いて民衆を誘導することに成功し、結果国家権力の生命線を今となっては愛しき旧政府から奪取したわけで、それを思えば到達した現在は労働と喜びとイコール関係になった、さも素晴らしい世界と同定したくもなるわけですが」
棟田は若干演技がかったような仕草で腕を高く掲げて伸びをし、運命的にトリアージにおける底辺カーストの宿命を背負わされた清掃準備室の薄汚れた窓からその向こうの外に一目視線をやり、さっきよりも深いためいきを吐いた。
「実際の可能性の話をすれば、俺は常々難しいと思ってたが、ここ最近の奴らの動きは目を見張るものがある。typical-Aを仕組みとするサロンに続いて、大陸の方ではtypical-Bと呼ばれる民族誘致システムが既に実験段階に入ってるようだからな。奴らはそれを学究意欲の盛んな科学者たちと協同して、在るべき人間の姿を追求してそれを普遍化する作業をしている。奴らは父権というのを過剰に信じているんだな。しかし、それはエゴなんだよな、エゴ。パターナリスティックに過ぎるんだ、俺の感じるところでは。管理区域の多くの人間が追従しているのは、追従して物事の成り行きに身を預けた方が楽だと思っているからだ。でもそれは感覚的な目眩ましだという疑念がどうしても俺は拭えずにいる。やはり人間って言うのはそのつど変化するものなんじゃないかってな。誰かに決められたモデルに沿うんじゃなくって、決定を判断することの積み重ねが人間なんじゃないかって思うんだよ。というかそんなのは朝野くんだって分かっていることだろう、元々〈待ち人の街〉にいた人間にとっては」
「うん、まあ、そうですね」と朝野は曖昧に返事をした。
〈待ち人の街〉とは独立区域の俗称だ。管理区域では独立区域のことを話題に挙げる時には大抵そういう呼び方をする。朝野と棟田はじきに扉を開き、分担されている個所へ行き、仕事を始めた。朝野の担当は受付のある玄関ホールから六階までになる。作業はシンプルで、汚れが酷いところには強力な洗浄剤を散布して雑巾で擦ったりもするが、基本的には昼間清掃員の仕事はモップで空拭くものである。きちっとやるのは夜間従事者の仕事だ。ただとはいえ、一号館と二号館があるため範囲は広く、骨が折れる。カートは各階のトイレの掃除もするために準備する用品が多くなるためだ。それに清掃員の準備室は一つしかなく、いちいち戻ってくることが容易ではない。
朝野はカートを隅において、モップで床を擦りながら、先の会話を反芻し、自らはどちらなのだろうかと考えていた。朝野と七綾は元々独立区域に住んでいたのだが、政権が革命軍側に移り、革命軍が国を一層支配下に置こうとして、独立区域の範囲を狭めようとした時――今の独立区域の境界が明確に引かれ、それに伴う騒然としたいざこざが巻き起こっていた時――に、管理区域に移って来たのだった。だから朝野は耳の奥に小型音波装置〈breath〉を取りつけていない。しかし一方の七綾由美はというと、管理区域に移ってきてしばらくしたのちに、独立区域へと戻ったのであった。もちろん当時、彼女は朝野に説得を試みていた。だけれどもそれに朝野が応じることはなかったのだ。彼の心はこのところ特にそのどちら側かという問いに固着していた。つまり棟田が言ったように自由な意志を持つのが理想か、自由というものは所与のものでしかなく人間という愚かな生物は導かれるところに持ってして幸福を手に入れるのが精一杯ではないかの二極である。管理区域にいる人間の九割程度は耳にbreathを嵌め込まれ、政府からの電波を受信し、そのパーソナライズされたチャネリングによって生活の基軸を立て、休日はサロンに出向きコクーン内の黒革のソファにその身を埋めて抽出された純粋な快楽をその身に享受する。typical-Aによる信号は肌感覚として快感を生じさせるが、更にはtypical-Bと呼ばれる新開発の代物は意識を飛ばすことができるらしい。それによって管理体制へ抵抗を感じる、生物本能的な無意識の次元までをも人として掌握することができる。それは太古の実存主義者、もしくはヒューマニズムの見地からすれば邪道と思われるかもしれないが、でも実際的な生活はそれによって確かに補われることができるのだ。消費によって表れる快感は、次々に飽きを生み出し、その対象は移り変わることがやまない。恋愛も趣味も遍くことがそうだ。自由というのは管理されることによって生み出される側面があるのだ。人は地面に立って生活をしている。しかし地面がなければ飛ぶこともできないのだ。不足に感じられる事柄が実は自由にとって重要だったということは散見される事実である。純な快楽というのは、多少人工的といえども、いやむしろそうでなければならないのではないか。元来人が自然を征服するという構図は大きな力をもっていた。
朝野がそのようなことを考えながら、床を拭いたり手すりを拭いたり汚れを擦ったりして、三階の男子トイレの掃除を終え、廊下のカートのところに出たところで、女子トイレに駆け込んでくる私服姿の女性にぶつかって、彼女は勢い余りに床に倒れた。朝野が手を伸ばすと、彼と同じく二十代半ばだと思われる彼女は照れ臭そうにその手を握って立ち上がり、淡い水色のロングスカートの裾をぱたぱたとはたいた。
「ごめんなさい。道に迷ったし、慌ててたものだから」
それでは、と会釈をすると彼女は今掃除したばかりの女子トイレの中へと姿を消した。朝野は掃除した後でよかったと密かに安堵した。
廊下を清掃しながら、彼は今見た名も知らぬ彼女の目元が七綾のそれに近いことを思っていた。窓を透過したものでも秋の光は冷たく刃物のように、廊下に注ぎこんでいた。それは静かに、しかし誰にでも分かるように来たる冬の準備をしていた。栄華を極めた葉が枯れ落ち、人々の雑踏は色を失い、遠くで起こったことのような雰囲気を強くし、夜の闇は囁きを飲み込むように濃くなる。冬、それは彼にとっても、おそらくは七綾にとっても特別な意味をもった大切な季節だった。どの季節でも冬という季節を避けて彼の意識に到達することはできない、そんなタイプの重要性があった。あの出来事、それは思春期に特有の精神をもったありきたりの出来事に過ぎなかったかもしれないが、どんなに世界中に同じようなことがあったとしたところで、禅でいうところの差別の理念に従って、彼の前では特別な意味を持つひとつの約束の結実であったのだ。記憶は徐々に遠ざかる性質を持つが、時としてその現前は彗星のようなメカニズムで到来することがあり、モップを床の上を滑らせる彼の元に今その類の現象が起こっていた。彼は夢に浸るようにして、七綾のことを思っていた。しかしてそれはやはり季節柄というのも重要なファクターだったのかもしれない。秋という季節の変わり目はそういう現象を生じさせる効果があるのだ。いつの時代でも、秋は人の心を内側へと向かわせる。
午後五時になると、朝野は着替えて、リヴァサイドタワーを出た。ビルを出るときに、玄関ホールの隅に置いてある待合用の椅子にトイレ前で出くわした女性が座って、ノートを捲っているのが目に入った。
原付を走らせると、十一月が日を沈ませるのは早く、既に街は夕暮れに満ちていた。breathや各走行車のナビゲーションシステムに埋め込まれたチップにより位置情報が発信され、そのことによって原付は信号にほとんど煩わされることなく進むことができる。機械的な生活を真っ赤に彩る夕陽は、どこか冷たく切ない容貌を窺わせていた。それは何も言わず、何も伝えないながら、誰の心の底にも水面に雫が落下した時のような微かな水紋を生じさせることとなった。
家についた彼を迎えるのは一枚の描きかけの絵であった。朝野はインスタントのコーヒーを飲んで、温かなシャワーを浴び、ベランダの室外機に腰掛け、煙草を三本吸った。もうその頃合いになると辺りはすっかり夜になっていて、物音は静かな風によって木々が葉を揺らすざわめきや遠くで自動車が走っているのが分かるくらいのものだった。紫煙はじっと当てもなく宙を彷徨って、くるりくるりといくつかの弧を緩やかに描いた挙げ句、遠くの世界に消えるように彼の元から立ち去っていった。彼は何も見ないようなくすんだ瞳になって、電灯の白い光に照らし出される銀色の大きな送電塔たちの足元や、遠くに見える街の灯りをぼんやりその身に映し込み、そうして徐々に何も思わない心に厭気に似た感情を覚え始めた。彼は思い出したようにフィルターまで行き着いた煙草を室外機の隣に置かれ、灰だらけになった缶コーヒーの中に押し込むと、部屋に戻って机に向かった。
そこにあるのは一冊のスケッチブックで、開かれたページにはある風景が昼頃に途中まで描かれたままであった。そこには荒々しい波がぶつかる岸壁があり、夜に散らばる星たちがあり、崖の背後には黒々とした森があった。それは彼に居座る魔物であり、剥がすことのできない接着剤で固定されたモニュメントであった。彼は置かれた鉛筆を手にそれに命を吹き込み続ける。空腹も知らずに、夜の表情も知らずに、彼は一心に頭と手を動かし、何か重大なことがどこかしらかで起こったとしても些かも気にかけない様子で、彼はそれを描き続ける。
2
何も日々は変わらない。掛け替えのないと思われた日々は現れた途端にフィルムのコピーのようなものになり下がって、目の前に来る頃にはすっかり陳腐な色褪せたものになっている。
二週間ほど経ったある日、朝野は駅前の小さな喫茶店の奥のテーブル席に腰掛け、ホットコーヒーを啜り、頭の計算機能を取り外して脇に置きながら、呆然と時を過ごしていた。間接照明が仄明るくやわらかに照らし出す店内にそれほど人は多くなく、夕方ではあったが席は半分ほどしか埋まっていなかった。であるにもかかわらず、あるいはであるからこそ当然のこととしてというべきか、カウンターの近くの席の二人の主婦の会話なんかが耳に飛び込んでくるのだった。彼女たちはこないだのテレビのバラエティ番組について歓談をし、そのどの辺りが教育上に悪影響を及ぼすかを嬉々として述懐していたりした。あるいは平凡たるであろう無害な青年のことをやけに囃し立てていた。その青年はアイドルであり、アイドル職業も大変なのに、握手会などでは健気に真摯に振る舞うところがいいらしい。どうやら彼は政府が推奨芸術公演者として指定された一人であり、ちゃんと教育上の配慮も行き届いているのが喜ばしく感じられるそうだった。彼女たちは口々に自らの子もそうやって何もなく幸せに生きて欲しいと言っていた、決して余所様に迷惑をかけることがないようにと。朝野は、頭に計算機能を戻すと多分彼女たちはものすごい読書家か本とは全く無縁な人種なのだろうと思った。そして残念ながらこの街に住む大半が後者なのだろうと。彼女たちはコンクリートやプラスチックが大好きなあまり、木立の根の奔放な息づかいやそこに紙きれのように駆け抜ける黒揚羽の燐粉の香りやなんかのことはすっかり忘れてしまったのだろう。そして自らの立つ場所を正義だと信じて疑うことは一生の内でもうなく、それが変わる機縁さえ持てないのだろう。
そんなことで自らを落ち着けようとした時に扉の上部に掛けられた鈴が鳴り、彼女が店に入って来た。彼女は朝野に気がつくと、軽く手を振って彼の前の席に腰を下ろした。
「ごめん、待った?」
「いや、大丈夫」
「なんだか、眠いわ。あ、ごめんなさい。私もコーヒーで」
メニューを持ってきたウエイターに一声かけると、彼女はふうと息を吐いた。
はじめ女子トイレの前で擦れ違った女性はこの街のことをあまりよく知らないらしく、たまに見かけると思ったら、いつも不安げにノートを捲ったり、廊下をうろついているのだった。清掃中に朝野は声をかけられることが何回かあり、その都度彼は丁寧な返事をし、この頃には二人の間に交流は芽生えていたのだ。そしてその橋渡しを先に仕掛けたのは朝野の方であった。彼は昨日清掃の業務を終えたところで玄関ホールの隅のベンチに腰かけていた彼女に、約束を取り付けてあったのだ。というのも、
「君は〈待ち人の街〉の住人なんだね?」
注文をし終えた彼女に朝野は訊いた。彼女は朝野が会うたび毎回私服であり、スーツに身を埋める人の多いこの街でそれは珍しく思える。スーツでなくても平日であれば、誰でも何かしらの自らの身柄を示す着衣を身につけているものなのだ。例えば、小学生はランドセル、中高生はブレザーか学ランあるいはセーラー服、そして労働者は所属の作業着、警察官は青い制服といった風に。
「ええ、それにこの街は来たばっかりだから疎くて」
朝野が彼女に興味を抱いたのは、いつかの会話で彼女が独立区域から出てきたことが分かったからであった。彼は久し振りに独立区域の話をしたくなっていたのだ。管理区域では、滅多にそんなことは話せない。どの人も自らの安寧を第一に考えていて、心の内をマグマのように煮えたぎらせて吐き出したり、時には過剰な感情性をもって世界を祝福したり、祈ったりする独立区域の人々のことはできれば頭の片隅にも入れたくないと思っているのだ。管理区域の人間は静かに、穏やかに生活をやり過ごし、最後はテレビをスイッチオフするように何も残らないように終えることをモットーとしているのだ。
「でもなんでわざわざ管理区域に? 仕事か何か?」
彼女の服装的にそんな風には見えなかったが、しかしいつも鞄から書類みたいなものを取り出していたし、リヴァサイドタワーに来ているというのはオフィスに何らかの用件があるためなのだろう。朝野が訊くと、彼女は頷いた。
「そうね、私は向こうで――」彼女は鞄から煙草を取り出したので、朝野は慌てて小声で「それはダメだ」と彼女を諌めた。彼女はハッとした様子でそそくさと鞄に仕舞うと申し訳なさそうな声を出した。
「ごめんなさい、家にいる時はよくやるから癖になってたわ、向こうだと自由だし」
煙草は管理区域では厳しい道徳的サンクションの標的となるのだ。独立区域からやってきた人に対してなら、多少は緩和される風潮もあるが、そんなことはしないに越したことはない。ここには突き抜けられる土壌がないのだ。
「ここは土地が広いだけの狭い場所だからね、コモンセンスという言葉が祭壇に掲げられているんだ」
朝野は彼女の心情を慮るように言ったが、彼女はそれに関してはあまり感傷的にはなっていないようだった。
「まあ、ここにはここの習慣があるからね。向こうとこっちは完全に別の世界だと思えば、仕方のないことだわ。それでね、私は向こうでできた繊細な芸術品、例えば彫刻とか陶芸品、民芸品といったものね、それのサイズとか重さとかの情報をこちらに伝える仕事をしてるの。現地での些細なことを質問されたりするからデータ上のやり取りより直接会った方が早いのよ。ほら、ああいったのってフィーリングの占める割合が大きいから。それを管理区域の人たちが模造して、市場に落とし込むのだけれど。そんなわけで今は私、短期間だけどこっちに設けられた社宅で過ごしているのよ」
ウエイターが彼女の元に微かに湯気の立つコーヒーを持ってくると、彼女は砂糖とミルクを多めに入れてスプーンでそれを掻き回した。
「でもよくそんなことをするね。待ち人の人間はこっちに来ることをすごい嫌がりそうなものだけれど」
「そういう人たちもたくさんいるわ。心を削っていくこちらの政策に賛同する人なんてひとりだっていないしね。みんな、breathをつけたり、報道に規制がかけられたり、芸術が貶されたりするのをとても嫌がるから。そうそう、それでいうと最近typical-Bが完成して発展途上の未分化区域の地方民を洗脳して管理区域に取り込む動きがあるじゃない? あの進化的上昇を謳ってるやつ。あれとかは独立区域の人たちは猛烈に反発してて、だからそのことに関して昨今では両者が共同会議の席で喧々諤々やってるわ。すぐに折衷案やなんかが出るとは思わないけれど、でも管理区域側が強制的に前に出たら、ひどいことになるでしょうね。それこそ戦争にも発展するかもしれない。まあだから、私のしてるのはわずかであるとはいえ、薄片化してるとはいえ、両者を繋げる向きはあるの。だから微小ではあるかもしれないけれど仕事自体にやりがいは感じているわ」
しばしの沈黙があった。彼女は充分吐息で冷ましてからカップに口をつけ、朝野はウエイターにもう一杯のコーヒーを注文した。黙っているとカウンター近くの主婦たちの話し声が耳に入って来た。今度は人工送風機やら発電機の話題らしく、人工的に酸素が生み出せれば気持ちの悪い虫たちの巣食う森なんてさっさと除去できるのにねえ、だなんてことが聞こえていた。
ウエイターがカップを持ってきて、空になった器を取り下げると、彼女は切りだすようにして言った。「それで、君はどうして独立区域の話なんてするの、向こうに興味があって?」
彼は躊躇いがちに窓の外に一瞥をくれたが、すぐに持ち直したように彼女に向き直って、何でもない風な体を装って言った。「僕は、元々あっちに住んでいたんだよ」
「独立区域に?」彼女は幾分驚いたようだった。しかしすぐに好奇の光をその目に宿した。
「そう大学を出るまでは向こうにいたんだ。五年前くらいかな……、あのイピファニー党があの辺一体を整備したことがあったろう、革命派が国権を握った初めの勢いづいていた頃で、国土改造だとか何とか言って」
「ああ、革命派同士のいがみ合いが最も激しくて、事件なんかもあの時は多かったわね。力のあった土着のアナーキズム集団があの時ばかりは手を取り合って、緊急措置として国土を真っ平らにしようとする新政府軍に合議を申し込んで、代表者らによる二か月にも及ぶ会議の末に、結局互いの文化を守るという名目で今の独立区域の領域が定められたのよね。私は新聞でしか読んでいないけれど、独立区域の人たちはすごい盛り上がったって言って、昔話みたいに楽しそうに語るわ」
「こっちだと話題自体結構タブーになってるんだけどね」
「報道規制もすごいし、こっちは禁忌が多いイメージがあるわ。でも宗教性によってそれを解決するんじゃなくて、科学で封じ込めているのよね。亡霊が湧きださなければいいけれど」
彼女の言葉からは管理区域への恨みが漂ってくるようだった。独立区域の人間は総じてそうなのだ。朝野はその意を汲んで訊いた。
「こっちだと想像もつかないような刺激的なことが向こうでは起きているんだろう?」
彼女は指先を折ったり伸ばしたりしながら少し考えてからそれに答えた。
「まあでも魂のない人たちが想像するようなおぞましい犯罪なんかはあまり起きていないわ。でも眉を顰められるようなことはあちらこちらで起きているかもしれないけどね。街路はギターを下げて歌を歌ってる人たちがいたり、何らかの政治的な主張をしている人たちが叫んでいたり、サーカスの技を究めてる人たちがジャグリングや手品なんかを見せたりしていて活気に溢れているわ。こっちの駅前なんてすごい閑散としてて、帰宅する人たちも俯きっぱなしで自動機械みたいだから、それはとても対照的だわ。やはり細かなところで全体の雰囲気って結構できあがってくるものなのよ。向こうの駅前や広場なんかには何らかの抽象画やオブジェなんかのパブリックアートがあるし、かと思えばゲリラ的なパフォーマンスが毎日繰り広げられてたりするわ。トンネルや路上のマンホールは落書きだらけだし、喧嘩も多いわね。あと貧富の差が激しいかもしれない。こっちは全然そういうのないじゃない?」
「管理区域は能力も平等化の対象になるし、等価価値の資本に対しての分配意識は強いからね。具体的には、給付金があるからそんなにお金に困ることがないんだ。欲にまみれた人がギャンブルですっからかんにならないよう、賭博は個人に合わせて制限されるシステムができているしね」
彼女は飴玉を口の中で転がすみたく頬を動かして、神妙そうな顔をした。「予防線の張られたギャンブルっておもしろいのかしら?」
朝野の頭に一瞬棟田の顔が浮かんだ。なんだかんだ棟田も低賃金労働者とはいえ、まだまだ身を持ち崩すほど不安定でもないのだ。
「単なる暇潰しだからそれでいいんだ。もっとも本当の娯楽はコクーンタイプのサロンで解決するし、欲求不満もそうなると残る余地がないんだよ」
随分リラックスしてきたのか、肘を崩しながら彼女は欠伸をするような声を出した。「なんだかイメージの概念が向こうとこちらでは違うのよね。独立区域ではそれは主体という凝り固まったところから自らを貫通させて拡散し、どこへでも行けるようにするものなの。けれど〈魂のない街〉では、あるひとつのモデルへの狂信的な信仰としてイメージがあるのね。それって随分イデア的なものなのよ。つまり本来の自分へのイメージね。向こうではそういった本来というものがないの。本当の自我、なるべき自分、そうでなくてはならない自己、そんなものは想定しないのね、残念ながら」
二人は二時間ほどゆっくりと話をして、そして別れた。店を出る時、彼女は最後に名刺を渡してきた。彼は生憎、というか今までそういったものを持ったことがなかったので、仕方なく喫茶店の紙ナプキンに携帯電話の番号と氏名を記して彼女に渡した。
「ありがとう、楽しかったわ。あ、今度君の家行って煙草吸わせてよ、それでまたお話ししましょう」そんなことを言って、彼女は駅の構内へと消えていった。渡された名刺には所属先の派遣会社とその連絡先、他には彼女自身の携帯番号とメールアドレスがあり、その下には大きく浦河咲と彼女の名前が書かれていた。
朝野は胸の隅に一塊の霧みたいな気分を感じていたので、そのまま家には帰らずに駅前の駐輪場に原付を停めたまま、そのもやもやした気持ちを抱えてその周辺を当てもなく彷徨った。もう太陽は沈みきっていて、帰宅途中の人々がそこら中を跳梁跋扈し、革靴の足音を響かせていた。その音にはあらゆる萌芽を踏み潰す勢いと、焼けた細い鉄線のような静けさが、界面をつくる水と油の混合液のように、バラバラになりながらも共存していた。
朝野は浦河の言った最後の言葉を思い返していた。彼女の言うことは彼によく分かった。つまりそれは自然主義的誤謬というやつだ。つまり「何々である」から「そうであるべきだ」の移行。人間は本来こうであるからこうしなくてはいけない。そして確かにそれは管理区域が民衆に押しつけている教義の大きな性質のひとつだ。
彼は公園のベンチに辿り着くと、特に関心も払わずそこに腰掛け、安全対策のためやけに高度の低いばかりの遊具たちや砂場の前で、ビルの光で見えにくくなった月と星に目を傾けて、考えた。
しかしどうしたらいいのだろうか、と彼は考えていた。しかし、本当にモデルがなくてどこへでもいけるということがあり得るのだろうか。そこに神はいるのだろうか。不意に出てきた「神」という言葉に彼は戸惑いつつも、それについての思考を巡らせた。神というのは人間が生きるために拵えた脆くも重厚なシステムだ。資本が世界を駆け巡るようになって、神は崇拝の対象から個々人の内側へと潜り込むようになった。それは良心となって、その人しか知り得ない小人の声となって、その人の縋るであろう糸となる。そんなものが今も人間には見えるのだろうか。それは段々と擦りきれるように細くなり、景色と同化してしまいかねない不安さを訴えてくる。そしてそれに代替されるのが、あのサロンだ。薬剤で報酬系を操作し、あるいは丸っきり意識を失わせて、そもそも神に縋る必要のない人間を創り出していくのだ。去勢されれば、生殖機能が初めからなかったことになるとでも言うように。けれど、それでは生きる意味が見失いやすくなってしまうようにも思われる。七綾が向こうに戻った当初、どうしても会社勤めが続かない朝野が出向いた精神科の医師が彼に言ったことが思い出される。「君の症状は適応障害か燃え尽き症候群と呼ばれるものだろう。今や細分化や個別化の傾向が強まっているが、昔、画一的な目標に皆が向かう受験戦争なんてものがあった時代に、スチューデントアパシーやアダルトチルドレンと呼ばれた症候にそれは似ている。独立区域からこっちに来たものに多くみられる心の病だね。君はbreathはつけているんだろう?」それを聞いて朝野は、結局精神科の先生だって、国の制度に従うことをよしとするしか手はないのだという感想を抱いたものだった。ここでの神は制度に宿っているのだろう。
しばらくすると、反対側の柵に小さな影が現れた。それはふらふらと公園内を横切り、すぐ近くに来てから初めて朝野がそこにいることに気づいたようだった。その鞄を提げた小さな影は刹那、ぴくりと肩を震わせたが、すぐにそそくさと朝野いるのとは離れたもうひとつの隣のベンチに静かに座った。顔はよく見えなかったがおそらく中学生だろうと朝野は思った。朝野の前に来た時、一瞬電灯が照らしたその中学生の男子の横顔は、どこか頼りげがなく、まるで餌が見つからなくて三日間断食を強いられた猫のようだった。公園内にはからからに乾いた沈黙が再び降りようとしていた。朝野はそっと立ち上がり、路上の自動販売機でホットコーヒーを一本買うと、戻ってその男子の前まで行った。
「ねえ君、コーヒーでも飲まない? 僕は誰かと話したい気分なんだ」
少年は素直にコーヒーを受け取ったが、なかなか顔を上げて話そうとはしなかった。朝野は彼の隣に腰掛け、月が雲に隠されたりそこから抜け出したりするのを眺めて、少年が話をしようとするのを待った。朝野は少年がコーヒーを少しずつ、喉を震わせて飲み込むのを、幾度かそっと盗み見た。少年は小柄で線が細く、頬は水銀灯の影響もあり白々として青かった。眼鏡のつるの一点が反射の光を返している。朝野は彼が徐々に辺りに張り巡らせた警戒の網の目を和らげたのを感じると、少年に話しかけた。
「君は中学生かい?」
少年は黙って頷いた。朝野が彼の言葉を促すように沈黙すると、その空気に耐えかねたように彼は次の言葉を足した。
「塾の帰りなんだ。進学のための学習塾にね、すぐそこにあるんだ」少年は路上を挟んだ向こうを指差した。
朝野は満足したように首を揺らすと、何度か肩を上げ下げして呼吸をした。
「そう、塾に行ってるんだ。勉強は面白い?」
すると少年は困った表情を見せた。「ううん、分からない。多分面白いと思う」
「多分って言うと?」
「お母さんが勉強はするものだって言うから。それで学ぶことは楽しいことだって言うから、多分そうなんだと思う」彼は小さな声で呟いた。
「君は本当のところ、どう思ってるんだい? なんとも感じないの? 例えば、痛みとか悲しみとか嬉しさとかっていうようにさ。それをしてて何かを感じることはないのかい?」
「僕は……」少年は虚空に助けを呼ぶ子犬のような視線を投げかけたが、しかしそこに来たるべき答えを読み取ることはできなかったようだ。「僕は、分からないよ。今のところ、本当に何にも分からないんだ。それに段々と何も感じなくなってきているのが分かる。麻痺したようにね、受容器が死んでいくのが分かるんだ。なんだか最近、それしか感じなくなってきているんだ」
朝野はこういう年頃は特に敏感になっていることを思い、考え込んでいたが、やがて口を開いた。「君は幸せになりたいって思う?」
そうすると彼はまた困った目をした。「幸せ? 幸せにはなりたいけれど……」
「けれど?」
「けれど、幸せ……、ねえそれってなんなのだろう? あなたは持っていたことありますか?」
「僕? 僕は多分、あるよ」朝野は七綾のことを思い出して、目を細めた。
彼は訊いた。
「幸せってシーソーみたいなものなのかな。誰かの何か大切なものを奪い取って為し得るものなのかな、あるいは絶対手に入らない口だけの約束みたいな幻のようなもの? それとも此処には本当に、もしかして本当に、……いわゆる〈待ち人の街〉の人たちが信じているような、自由を目指す人たちが次第に増えていって、それでいつかみんなが笑えるようになる国が通時的に到来する、なんていう本当に夢みたいなプラスサムゲームの仕組みがあるのかなあ。我慢をしていたらいつかはそうなるのかなあ」
ううん、と朝野は少し唸ったが、白状したような声を出した。「そいつは分からないね、でも……」少年は朝野の靴先の方へと目線を落としている。朝野は理屈で考えることをやめ、感じていることをただ口にした。「でも多分、それは飛行機雲のようなものなんだ。僕には、今はまだよく分かってないけれど直感的には確信していることがある、それは幸福っていうのは、他人がどうとかはまるで関係がないってことなんだ。大事なのは自分だけなんだ、そのことだけなんだってね。そしてそれは掴むものではなく、決して我慢するものでもなく、自然と気がつくものなんだ。それは本当のことなんだよ、多分。……そう、多分ね」
朝野は口に出してから、その無責任さにちょっとだけ自らを悔いた。その時だった。遠くから男の野太い声が聞こえた。朝野と少年が顔を上げると、大人の男の影が近づいてくるのが見えた。その男は近くまで来ると、低く威圧的な声を出した。
「何しているんだ、子供をこんな時間に連れ出しちゃあダメじゃないか。君はこの子の保護者かなにか?」
朝野が「いいえ」と答えると、その中年の警察官の眼は鋭くなり、朝野の格好をじろじろと眺め、気を張ったまま言った。
「どういうことなんだい君は?」
朝野は舌打ちをしそうになったが、それを取りやめ現状に即し、弁解を試みた。
「知り合いなんです。彼が最近悩み事があるっていうからここで聞いてたんだ。ほら、この年頃の男子は何かと色々思い患うことがあるでしょう。それにもう少しで別れるところだったんですよ、本当に」
「気をつけてくださいよ」警官は物分かりの悪い子供に仕方なく諭すといった調子で言った。「条例で決められているんだ。知っているでしょう? 十八歳未満は夜、外に出たら行けないんですよ。一人が悪いことをし始めると、つられて他の者もしだすんです。そうしたら我々には責任をどこにも求められなくなる。分かるでしょう、そういうこと?」
「ええ、もちろん」朝野は言った。「僕たちはもう解散します。僕は彼をちゃんと家まで送りますよ。以後気をつけるので、ここはひとつ見逃してはもらえませんかね」
警察官は朝野の顔とただ口を噤んでいる少年の顔を見比べると、最後まで不審がる目つきをやめなかったが、首を振って言った。「頼みますよ、子供をちゃんとした道にいざなうのが大人なんですからね」
公園から連れ立って出る時も、少年は口を開かなかった。朝野はなんとなく精神科医の顔を思い出し、口に苦みが戻ってくるような嫌気の刺してくるのを感じながら、少年と共に大通りまで歩を進めた。そこまで来ると、男の子は「家は近いので、ここで大丈夫です」と朝野に告げた。
「悪かったね、変なことに巻き込んで」
朝野が謝ると、彼は気にしてない風にそれに答えた。
「この辺りは警戒態勢が強いから……。まあ何でもなかったし、気にすることないですよ。何かあったとしても、何があったとしても、どうせ大したことがあるわけじゃないからね」
朝野は彼を見送り、数の減った帰宅者たちが湧きたつ中で、警察官たちが必死に守ろうとしているものに思いを巡らせてみようとしたが、何もかも馬鹿らしくなって、すぐにその場を後にした。
3
それから朝野は浦河と、ほぼ誰もが良しとするようなやや早い時期である五日後に再会を果たし終え、共に度々会っては食事をしたり会話を楽しむ関係になった。朝野と浦河は音楽の趣味も違ったし、好きな食べ物も重なってはいなかったが、先天的にであれ後天的にであれ考え方の核の部分が似ているようで、そのほかのことはなんら枝葉末節に過ぎず、二人の間の障害にはなり得なかった。
ある土曜日の晴れた日のことだった。その日は、夜に浦河が朝野の家に遊びに来ることになっていた。朝野が朝刊の配達をして、家に帰る途中に目を凝らすと、陽が冷たい光をあらゆる建物を照らし出し、その影を濃くしていくのがはっきりと感じられた。気温は零度に近く、吐かれた二酸化炭素はおしなべてペンキに浸されたみたいな白さを纏って、空気中に溶けていった。電線の上では雀がタップし、反射した光が寒気によっておそろしく遅延し重ね合わされているように送電塔は眩ゆく輝いていた。
朝野はその日、清掃の業務が休みだったため、お昼過ぎから街へ買い物に出かけた。彼は駅前のスーパーマーケットでいくつかの新鮮な有機野菜と粉末のインスタントコーヒーとナッツとジュースを何本か買い、酒屋で氷とソーダとウィスキーやリキュールを二三本購入した。土曜日の午後の駅前はどこかに向かう人たちで混雑していた。ある者は映画館に向かい、ある者は他愛もない会話を楽しみ、ある者は沿線沿いに住む親戚に会うために電車の切符を手にしていた。雲は街の周囲を取り囲む縁からは侵入できないみたいに遠くの空をゆるやかに往き過ぎていた。誰ひとり、何ひとつとして朝野に注意を払うものなどいなかった。しかし、それは誰にもに言えることだった。誰も他の何かに注意を向けることなどまるでない、あらゆるものが幽霊のように立ち振る舞い、触れ合わせた袖は透明で、人々はそれに気づかないように焦るがごとく、どこかの容れ物に早く自分を押しこめて満足しようと厚着をして頬に紅をさしながら、足を急がせていた。
朝野が家に戻り、冷蔵庫に買ってきたものを詰めていると、インターホンがシエスタの微睡みを突き破るように鳴った。彼が冷蔵庫を閉めようすると、何かの遊戯をしているのかインターホンが部屋中にまた響いたので、朝野がドアを開けると、そこには二人の身なりの整った男と女が一人ずつ、彼を待っていた。
「こんにちは」朝野が何も言わないでいると、女の方が口を開いた。女は二十歳になるかならないかくらいの幼い顔つきをし、化粧はほとんどファンデーションのみといった感じだった。男の方は五十代に差し掛かったくらいで、皺が目立っているものの、しっかりした気概や人生でそれなりに積んだ経験をその内に秘めていることを窺わせた。二人は、年齢差から親子みたいに見えた。
「こんにちは」朝野は気もなく言った。「どんな用件でしょうか」
「朝野、瑞晶さんですね?」女が手元の書類に目を通してから言った。
「ええ、そうです」
「お忙しいところ、すみません。我々は市役所の者です。私たちは、主に独立区域からこちらに来られた人たちを訊ねて、まだおそらくご利用されたことのない管理区域での設備について、ご連絡させていただいているのです。殊更、朝野さんは市のデータベースのbreath利用者リストにお名前が記載されておりませんでした。この情報は正しいでしょうか?」
それは朝野もいくつか受けたことのある勧誘だった。不定期に市役所の人間が来て、独立区域から来た人間を管理区域に馴染ませようとするのだ。毎度見る顔は違っていたから、おそらくは市役所のそういったことを担当する人間が入れ替わるたびとかそういった周期なのだろうと彼は思った。朝野が首肯すると、彼より年下に見える彼女は、後ろの男から渡されたパンフレットを差し出した。
「聞いたことがおありだと思いますが、今一度詳しい認識を持っていただくために、小型音波装置〈breath〉の説明を簡潔にさせていただきます。breathは現在管理区域で最も身近に用いられ、最も広範囲に利用者層を持つ管理区域特有のインフラと言うべきものです。向こう、独立区域ではこういったものはございません、そうですね?」
「ええ、確かに」
「通常breathは幼少期に耳の奥、鼓膜付近に取り付けられます。身体に変な強張りのできてないそういった時期が理想的ではありますが、今では成人してから設置処理をしたとしてもほとんど同程度の安全性があります。それは麻酔をするので痛みはありませんし、先端科学の力を持って後遺症も残らないような対処法が確立されています。住人の大部分がそれを経験して過ごしている現状から見ると、口で言うよりも安全性が実感していただけると思います。そして先程インフラと申しました通り、breathを取りつけることにより、生活の幅がぐんと広がるわけですね。独立区域の人々はメシアを待つことから〈待ち人〉とも呼ばれていますが、このbreathはまさに〈god blessing〉なわけです。身体の内に神の息吹を引き起こすことができる。具体的には、使ってもらうとすぐに分かるのですが、一昔前には考えられなかったような拡張現実的な効果が体験できるのです。それこそ、肉眼では捉えられないものが見え、本来の聴力では逃してしまうものが聴こえるのです。人々は脳で指示するだけで、breathにプリインストールされたラジオやテレビを利用することができます。それに市販のアプリを購入すれば、breathの機能は更に幅を持ち、人々のQOLを高めることができます。地球の裏側の様子だってリアルタイムで鮮明に見ることができるし、国が配布しているデータライブラリーの中から不眠症を解決する一定の周波数を備えた専用の曲をダウンロードするだけで、苦労せずに眠りに沈みこむことができる。印刷技術の発達で人はグーテンベルグの銀河系の住人に成り変わってしまい、それによって触知的世界像と聴覚的世界像は離れてしまったと言われていますが、それがbreathによってもう一段階推し進められ、止揚される到りとなったのです。全てが内側でなされれば思っているよりも問題というのは少ないものです。非利用者には考えられない世界が広がっているのです。朝野さん、このことについては知っていましたか?」
「まあ使うに踏み切ったことはありませんが、説明は何度か受けていますから」
「breathの効果のほどに疑いを持たれている?」彼女は首を傾げて、不思議そうな顔をした。その目は純粋で、朝野は多少困惑することになった。
「そんなこともないですが」朝野は視線を彼女の目から不自然でないくらいに逸らした。
「ではどうして朝野さんはbreath処理を受けないのでしょう。それはなんらかの心理的な抵抗から来るものだと思いますけれど」彼女は考え込む仕草を見せたが、後ろの男が促すと気づいたようにして、持っていたパンフレットをぱらぱらと捲った。
「それでは、まあbreathについては、そのお渡ししたパンフレットに電話番号が記載されておりますので、そこにお電話いただければすぐに設置手術を受けることができます。是非ご検討ください。それで、次にtypical-Aというのはご存知ですか?」
「あのサロン内のコクーンに入って電気信号を受けるシステムのことですね」
「そうです。目にするメディアでも散々宣伝されていますから、ご存知のこととは思いますが、朝野さんはあれはご利用になられましたか?」
朝野が首を振ると、彼女はまた不思議そうに首を傾げた。
「あれには脳に信号を送り、可塑的な細胞たちを現状とは別な理想的な状態に変化させることができ、全身の疲れを癒したり、各感覚器の具合を向上させたりと、様々な実利的効用を受けることができるのですが、興味はおありではないですか? 我々はそのサンプルの粉末をお配りしているのですが」
「ないですね」朝野は玄関の横の棚に置いた左手の指をトントンと叩きながら切り捨てるような口調で言った。「全くない。僕はどちらにも、あるいはこれから政府が開発に着手するであろうどんな技術的なものにもあまり関心がないのです。それは情報を確認した上で言っていることです。何も偏見で事を断定しているわけではない。そろそろお引き取り願えませんか、僕も暇なわけじゃあない」
「これは本当に分からないのですが」彼女はやや気圧された感じの顔つきになりながらも必死の抵抗を見せていた。「朝野さんはどこが気に入らないのでしょう。どう考えても、つまり健康的な面でも、生活水準を上げる面でも疑いのないように私なんかは思ってしまうのですが」
「では言いますと、そちらはさっきbreathを神と譬えましたが」朝野はためいき交じりに言った。「でも結局breathも、typical-Aにおいても同様に大脳辺縁系の快楽中枢を操作しているのは人の声なわけですよね? それを神の声というのは随分おこがましいように僕には聞こえるんですけどね。それは神でもなんでもなく操る者の声であるに過ぎない。その違和感はおいそれとは拭えないものなんですよ」
それを聞くと、何か言いたそうな彼女を制し、今まで口を噤んでいた男が重みのある声で言った。「さっきね、あなたは自らの意見に偏見がないなんておっしゃってましたがね、そんなことはありえないことですよ、朝野さん。人というのは、常に確証バイアスがかかっているものなんです。それであなたは独立区域に元々住んでおった人だ。だからこちらの暮らしに慣れることがすんなりいかない。これは自然なことです、何の間違いも擦れ違いもない。しかしね、穿った見方はやめなきゃ。そういうことはいつまでも続かないんですよ。だんだんとこの国は政府の方針に従って応用化された科学装置が普遍化していくだろうし、それは止められないんです。それを管理だと見る向きもありますが、方針の根本には人を自由にすることなんです」
「ええ、分かりますよ」朝野はこれから延々と繰り広げられそうな説得の気配に嫌気がさし、左手でリズムを刻むのをやめ、棚の上に指を広げて置いた。「そちらの言いたいことももっともだと思います。僕の言い方も悪かった。しかしね、僕には正直なところまだやはり慣れてない部分があるんですよ。どうしてもこちらの地域に合わせられない部分がある。だからね、お誘いは聞きますが、まだそれを僕が実行に移すわけにはいかないんです」
「ええ。分かりますよ、もちろん」男は言った。「しかし、精神というのは理性によって形作られているのではなく習慣によって成り立っておるのですよ。だからそれではいつになっても踏み出せない気がするんですがね、私の思うところでは。そのためにもこういった契機を――」
「あなたの言う通りだ」朝野は言った。「その通り、心は習慣によってつくられる。悪いことも積み重ねているなら、それは日常となり、正義となる。あらゆることに本質は先立たない。その意味では言語ゲームの論理だね。しかし僕はいまだその境地には立てない。これはね、すぐには譲れないことなんですよ、申し訳がないけれど。あなた方からすれば、強い悪しき習慣に僕がすっかり染まっていると思うかもしれない。でも僕は今のところはそれでもいいと感じているんです。良い悪いというよりも好き嫌いの基準だと分かっていても、僕はそれをまだ受け入れることはできないんです」
女の方は諦めたような、時間の無駄をしてしまったというような表情を浮かべ、パンフレットを鞄にしまい、男の方は「そうですか」と言って深い息を吐いた。
「まあ、思いが変わりましたら、いつでもお待ちしておりますよ」男は訪問を締めくくるための声を出した。「我々はマイノリティを駆逐したいわけではないし、この計画だって、民主主義が生み出した悪性腫瘍的なことでは全然ないんですよ。我々としても人々のことを常に考えておるんです。分かってくださいね」
「ええ、その通りです」
朝野は玄関の扉を閉めようと手を伸ばしたが、急に思い出し、踵を返しかけた二人に声をかけた。
「ちなみにあの送電塔ってどんな役に立ってるんですか? ほら、あのここらにたくさん建てられている……」朝野は廊下から見える数本の鉄塔を指差した。
「ああ、あれですか」男の方が朝野の指を指す方を一瞥してから、それに答えた。「そうですね、景観を損ねているという苦情もいくつか上がっているんですが、あれは元々breath開発当初に設けられたもので、現在も人々のbreathが発する電波を吸収し、それを市のデータ処理室にまとめて送る重要な職務を持っております。いわば集合体的電柱ですな。しかし今は着々と電線類地中化計画が進められておりまして、ああいった局地化の方法を採らなくてもよくなってきています。科学は絶えず発展しておるのです。ですから、あの送電塔らの仕事は地中の電線らに引き継がれ、少なくなっていて、もう数年経てば、完全に機能を停止することになるでしょうな。ただ、景観の問題から申しますと、あれらを取り壊し、廃棄するのには莫大なお金と人員が要りますので、それがどれくらい先になるかの目途は立っておりません。まあ、個人的には国がそれを公共事業化する可能性は高いと思いますので、意外とあっさり行なわれるかもしれませんが」
朝野と二人はしばし呆然と鉄塔やその近くを飛びゆく鳥の群れを見ていたが、男が「次に向かうところがありますので」というと会釈を残し、二人はエレベーターの方へキビキビした歩調で去っていった。
朝野はその後、ひとりになると身体の節々や頭の芯にどっと疲れが生じてくるのを感じ、布団に横たわった。寝そべりながら、サンプルの粉末と自らが欲すべきものとの関連について考えを巡らせた。そこにはやはり七綾の顔が浮かんできた。しかし彼にはどうすればいいのかについてはあまり見当がつかなかった。七綾の意志を想像したところでどうしたものでもないし、ましてや自分はどうしたいのかも判然としないのだった。そうして二時間ほどの仮眠に就いた。
目が覚めると彼はシャワーを浴び、買ってきた野菜で簡単な料理を作った。適当に切った野菜を炒め、鶏肉を蒸し焼きにした。そうして、ぼんやりとベランダから既に拡がった夜の闇の中に星を探しているとインターホンが響き渡り、浦河がやって来た。
浦河と朝野は食事を摂ると、架空の生き物についての会話をし、早々にグラスを傾けると、空いた缶を持ってきて、それを灰皿にしてめいめい煙草をふかした。
「ああ、そうだ」浦河はそう切り出すと、自分の鞄を探って、細長い箱を取り出した。「朝野くんにあげようと思って持ってきたんだ」それには表面に錨が描かれた白色のパッケージの煙草が詰められていた。朝野は受け取ってから驚いた。
「アークロイヤルのカートンじゃないか。こんな高価なもの、いいのかな」
浦河はそれを聞くと頬を緩めた。「いいのよ。独立区域から私の私有物は持ち込めるし、そういう認可も受けているしね。こっちでは規制が強いからなかなか買えないだろうけど、向こうでは駄菓子のようにまだ売ってるんだよ」
メジャーパッケージのアークロイヤルは朝野が好むものだった。彼は、煙草に関しては毎回独立区域からの取り寄せでかなり税金のかかった、しかも粗悪品を購入するしか手段がなかったので、ひどく喜んだ。
「いや、ありがとう」朝野は粗い味のする煙草を缶の上部で揉み消し、もらったそのひとつに早速火を点けて、その煙を肺の隅々までに取り込み、満足そうに空に細く吐いた。「嬉しいよ、何かお礼をしないとな」
「大丈夫よ、あなたにはいつもお世話になってるから。喋るのも楽しいし、料理まで出してもらっているし」
「悪いね。とてもありがたいことだ」
「ところで」浦河は持っていた煙草の灰を缶の上で叩き落とした。彼女が吸っているのは白い地に赤いラベルが記されている、100ミリちょっとのラークマイルドだった。「朝野くんはもう一度向こうに戻るつもりはないの?」
「話すと長くなるかもしれないけれど、簡潔に言うと別れた彼女が独立区域にいるんだ」
「それはなんというか驚きね、朝野くんにも付き合っていた人がいたなんて」
「一般にいうそれよりかは大切にしていた女性といった方が事を表すのに正確かもしれないけれど、いずれにせよそういったことがある。けれどそれはもう終わったことなんだ。僕と彼女の関係は終焉を迎え、それで僕はある種の気まずさもあって、ここに残ってる。というよりも、昔こっちに来た時には二人だったんだ。だけど、彼女はこちらの管理化され規制に身を任せるような暮らしに嫌気が刺して、門を越え、帰ってしまったんだ。僕としてはこっちで永くやっていきたかったものなのだけれど」
「ふうん、その時の朝野くんは管理区域が好きだったということね?」彼女は確認するように訊いて、まだ皿に残っている鳥の蒸し焼きの一切れに箸を伸ばした。
「あまり事態がよく呑み込めていなかったんだろうね、うまくいくだろうと思っていた。こちらの平安さに目を奪われていたんだ。そして確かに当時も僕にだって独立区域の誘惑はあったのだけれど、それは一種の耐えるべき煩悩だと思っていたんだ。欲望は延期されるべきだってね。けれど彼女はそれを良しとしなかった。だから彼女と別れた後、僕はしばらくの間彼女がなぜ間違ってしまったのだろうかということを考えていた」朝野はグラスに入ったブラックルシアンを一口啜った。「けれど、今になってみると彼女の方が正しかったのかもしれないと思ってるよ。彼女から手紙が時々届くんだ。あまり確信的なことは規制の対象になるから書かれていないけれども、どうやら向こうで楽しくやっているらしい。職場にも慣れて、好きなことがやれてるってさ」
「それなら、今戻れば彼女と再びうまくやれるんじゃない? 手続きは多少面倒だと思うけれど」
朝野は七綾の顔を思い浮かべると、それを掻き消すようにして、もう終わったことだ、と脳内で自らに言い聞かせ、想いを果たせなかったリングの形をしたカシューナッツに手を伸ばした。
「さっきも言った通りさ。僕は以前の選択を間違ったかもしれないと思ってるんだ。そこから抜け出すことができずにいる。つまりさ、なんだかミスをしてしまった自分じゃ、また彼女に会っても素直に一緒になるのは難しいだろうって思ってるんだ。ただの違和感かもしれないし、ご飯を食べれば喉につかえた魚の小骨が流されるように、実際動けば解決するのかもしれない。でもそういう気分にならないのは事実なんだ。それに彼女は彼女のライフサイクルを自ら確立していて、僕がそれを壊すのも考えものだ」
彼がそう言い終えると、沈黙の幕が部屋の中を覆い尽くした。窓の外の音は聞こえず、アナログ時計の針の進む音と、冷蔵庫の機動音、エアコンが空間を温める音がそれぞれ独立して、部屋を飛び交っていた。彼はブラックルシアンを飲んでアークロイヤルを吸い、彼女はソルティドッグを飲んでラークマイルドを吸っていた。浦河が頭を揺らすと、彼女の肩ほどにかかる黒い髪が、さらっと宙に舞った。
「しかしbreathもつけてないのに勿体ないわね。breathをつけてたらそれを摘出しなければ、独立区域には入れないけれど、朝野くんはそうでないのに」浦河が同情をかけるようにしてピスタチオの殻を剥いた。朝野はふと宗教勧誘の二人を思い起こした。
「そういえばbreathって幼い子供に取り付けるらしいね。最近まで知らなかったのだけど」
それを聞くと、浦河は苦渋の色を顔に宿した。「そうそう、あれは一種のイニシエーションと化しているわね。喩えて言うなら、親知らずを抜くようなものよ。管理区域に生まれたものは、すべからくスティグマとしてあれを埋め込まれる運命を背負っているの」
「浦河はbreathによって人々の生活が調律されれば、世界的な平穏が訪れると思う?」
「前にも言ったけれど、そのうちきっと幽霊が湧きだすと思うわ、言い換えるなら幻肢のようなものね。それが絶対に起こる。だって意識を手放して、他人に預けるだなんて人間の尊厳も何もないじゃない。神はどうしたって身体に宿っているものよ、その他のどこにだって神はいやしないわ。幸せはそこにだけあるのよ、本当にね」彼女は些か舌足らずな口調で言った。どうやら少し酔いがまわっているようだった。
「僕は思うんだけどさ、誰かの提示したものを支持するだけで幸福って得られない気がするんだよね」
「じゃあ、朝野くんの幸せってなに?」
「それは不幸じゃないことさ」朝野は言葉を選んで言った。それが本心かは本人にも分からなかったが、すんなり口に出せる感情としては正しいものだった。「浦河にとってはどういうこと?」
「幸せ? 幸せって言ったら、私はそうね、朝早く起きて、お弁当を作って草原へピクニックに行くのよ。遠くには牧場が見えるところでね。そこにはゆるやかな風が吹いて、私たちを祝福してくれるの。でもそれは高望みなのかもしれない。そうとまではいかなくても身近なところでいえば、好きな人と本屋で新刊を眺めているのだって、友達と一緒に平凡なテレビ番組を見てるのだって幸せよ。でもそれだって心があってこそね。操作された、指示された、唆された思いが詰まった気持ちなんて、そんなの不潔だわ。ねえ、お水をくれる?」
朝野が新しいグラスに水をついでくると、彼女は礼を言ってそれを飲み干した。彼女は一息つくと、思い出したように言った。
「そういえば、迷っているんだったら、一度〈待ち人の街〉に帰ることを考えてみない? 保護監視付きの許可証だったら、簡単に取れるし、私が一緒に行ってあげるよ」
朝野は煙草の煙を吸い込んだところだったが、それを円滑に吐きだせずに噎せ返ることとなった。なぜなら一定期間管理区域に過ごしてしまったものが、独立区域への門を越えるための手続きはひどく煩雑で、こちらでの社会的地位も高くなければその資格は得られないし、それでもともすれば数年かかってしまう類のものだったからだ。だから単なる希望だけでは、向こうに戻ることはできないという実際的な問題もあった。
「それは本当?」
朝野が訊ねると浦河はこともなげに言った。「ええ、もしそれに向こうでまた生活していきたいっていうのなら、私は結構信用もされているし、多少の便宜を計らってあげることはできるわよ。多分望むなら二ヶ月くらいで向こうに戻れるわ。ただ私もずっとこの街にいるわけじゃないから、ずっと朝野くんの選択を待っているわけにはいかないけれど」
朝野はまだ宙に投げられて行き場のない小石のような心境で、心を落ち着かせることができなかった。自分が七綾に会うことが正しいのかどうかも、依然として判断がつかなかった。彼は喉から言葉を搾るようにして、辛うじて思いを口にした。
「そ、それなら来週にでも行くことは可能かな」
「もちろん」彼女は言った。「まあ行って見てから、移るかは決めたらいいわね」
浦河はそれから零時になる頃合いだというのに気がついて、タクシーを電話で呼び出し、帰っていった。取り残された朝野は七綾のことを思ってスケッチブックを開いた。
その夜、彼は寝着けずに散歩に出かけた。彼の住む周辺は人もさほど住んでいないため、あまり巡回中の警官を警戒する必要もなかった。
彼は鬱蒼とした森たちを横目に公園のベンチに座った。空気は冷たく冷えて喉が少しひりひりしたが、そうしていると頭の片隅に残った酔いが次第に覚めていくのを感じた。朝野が見上げると、空を覆う夜と、そこには月と星と雲が張り付き、それに手を伸ばすように背の高い送電塔たちがいくつも聳えていた。その鉄塔らはまるで心を失くし、魂が天から返されるのを待っているように立ち尽くしていた。
朝野はそれに自らを重ね合わせた。彼は自分が変わってしまったことに何より怯えていた。自由の氾濫した独立区域の要素が、雨漏りのように自分の中から抜け出していく。それはいつか唯一輝いていた魂と呼ぶべきもので、それを自分は大した抵抗もせずに手放しているのだ。それは怠惰や堕落や埋没と称される現象ではないのだろうか。都心から情報を与えられるしかない送電塔たちは夜の中に、埋もれ立ち、それは最早恨みや妬みすら奪われてしまった木偶の坊のようにも見える。それは温度を自ら感じることもできずに、どこかの誰かが操作した記号の配列を意味も分からずに受け取り血肉にするしかないのだ。夜は区切られない純粋な時の刻み方をしている。朝野はそういった塔たちを自らの片割れのように愛し、彼の頬には温かい涙が一筋だけゆっくりと滲んだ。感傷が高まったのは一瞬だけのことだけで、それ以上彼は涙を流さなかったが、七綾のことを思いながら時々それらを、いずれ役割を終えて、残骸となる宿命を背負った鉄骨の群れを、その表面に何らかの意味での道標が読みとれないか期待でもするかのように、見上げるのであった。(続)