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多嶋良樹が待ち合わせに指定したのは、学校近傍の市街にある喫茶店の前だった。
多嶋は自転車を漕いで行くと、待ち合わせ場所が見えて来た辺りで速度を緩めた。
多嶋は約束通りの時間に来たつもりだったが、五分程早く到着していた倉塚が電柱の傍で待っていた。
背の高いその姿は、遠目からでもすぐに分かる。アースカラーの私服に、もっさりとした頭が倉塚葉太郎のデフォルトだ。
多嶋は倉塚に近づくと、自転車を降りて店の前に止めた。
「ごめんね。待たせたかい?」
「おお、良樹だったのか。全然分からなかった。誰かと思ったぞ」
と、倉塚が声をかけられやっと反応した。
「あっ、これの事?」
多嶋が眼鏡を外してみせる。
「いつもはコンタクトなんだけどね」
「そうだったのか! ……全く知らなかった」
倉塚がショックを受けた顔をする。知り合いが実は普段眼鏡を掛けていると知って驚くのは、よくある事だろう。
多嶋は眼鏡を掛け直すと倉塚は、
「まあ、俺も今来た所だ」と素っ気なく言った。
その返事が、さながら彼氏を待つ女子のようだったで、多嶋は心の中で笑った。
「そうかい。じゃあ行こうか」
多嶋は先に立って、店のドアを開けた。趣きのある木製の戸がカランカランとカウベルの音を鳴らし、店内から「いらっしゃいませ」と、ゆったりした女性店員の声が聞こえる。
多嶋達が待ち合わせに使うこの喫茶店『カフェ・ラ・レーヴ』は、ある事件をきっかけに常連になり、店員とも顔見知りになっている。落ち着きのある店内にはモダンジャズが流れ、そう広くない建物の割にはL字型のカウンター一つと、テーブルが五つもある。店が広く見えるのは、今日も来客が少ないからである。
「お久しぶりです」
「あっ、多嶋くん! いらっしゃい」
コーヒーミルに手をかけたまま女性バリスタが、多嶋を見るなり微笑んだ。
「今日は一人?」
多嶋の後ろから倉塚がドアをくぐり入って行くと、バリスタの顔がさっと強張り、すぐに彼女はカウンターの後ろに隠れてしまった。
理由は多嶋にもよく分からないが、倉塚は去年からこの店のお姉さんに怖がられているのだ。そのため倉塚が顔を見せると、途端に怯えて逃げてしまうのである。
「相変わらず嫌われてるねヨータロー。なんでもいいから取り敢えず早く謝った方がいいんじゃない?」
「そうしたいが、俺にも原因がよく分からないんだから、謝りようもないだろ」
多嶋はカウンター席に近い方の壁際のテーブルに腰を下ろした。その向いに倉塚が座る。
「悪いね。今日はうち、親戚が来てるんだ」多嶋は言いながらもって来たリュックサックからパソコンを取り出した。
「あぁ、だからここで待ち合わせたのか。お前の家でもいいのを」
「そういうこと」
多嶋は持参したラップトップコンピューターをテーブルの上に置いて起動させた。
起動を待っている間に、店員がお冷やを持って来てくれる。コップは二つとも多嶋の前に置かれた。
「ご注文はお決まりですか?」
「僕はいつもの」
「俺はエスプレッソで」
店員ははいと頷き、あからさまに倉塚を見ないようにして早足でカウンターへと戻って行った。
「あ、ついた」
多嶋はコップの一つを押しやり、パソコンをインターネットに繋いだ。検索履歴から猿原栞莉のブログサイトに飛ぶ。
「それ、本当に猿原さんのブログなのか?」倉塚が聞いた。
「まあ見れば分かるって」
多嶋は倉塚に見えるようラップトップを移動させると、画面にサイトが表示された。
ページタイトルは『徒然おさるさん日記』。ページの上部に手書きらしい猿のイラスト が貼付けられている。
「本当だ!」倉塚は水を飲もうとして噴き出した。
「言ったろ。一目で分かるって。まあ見よ見よ」
多嶋がカーソルを移動させる。倉塚が興味津々で見たがっているのが分かった。
「ブログのタイトルとかヒドいよ。こんな見る人も書く人も生産性のないブログ、誰が見るんだろうね。猿原が書いてると思うと更に面白いよ」
日付毎のブログのタイトルが表示され、倉塚はそれを眺めた。
・[あうー]
・[ダンフェス♪]
・[お久しぶりです]
・[ヾ(❀╹◡╹)ノ゛]
・[告知!]
・[定期テスト…]
・[サマソニ行ってきたー!]
「はははっ本物だ! ちょっと何か読んで見ようぜ!」倉塚がいつになくわくわくしている。
多嶋も何個かクリックしてブログを流し読みしてみた。
・[お久しぶりです]
三ヶ月ぶりのブログ更新。お待たせしましたっ。
放置してたけど、ちゃんと生きてますよー(顔文字)
イロイロあったんです。えっ? 誰も期待してないって(焦)(顔文字)
これから(不定期だけど)更新してくから、みんなヨロシクねっ☆
文の間にいちいち改行が入り、☆やら♡の女の子っぽいキラキラしたデコ絵文字が多い。読みながら倉塚と多嶋はずっとニヤニヤして笑っていた。
「うそだぁ猿原さんがこんな文章書くわけないだろ!」
「でも見てよ。この[告知!]に書いてある吹奏楽部の定期演奏会の日程と[ダンフェス♪]のやつが投稿された日時が、うちの高校のイベントがある日と同じだよ。絶対この市内の学校だって!」
うわ本当だ! と倉塚が反応する。
「それにほら、元テニス部ってプロフに書いてあるじゃん。極めつけにこのお猿さんの符合が決定的だよ」
多嶋が笑いながらコモンマーモセットのディフォルメキャラクターをつんつんと指す。
「もうちょっと見てみようぜ」
倉塚が下スクロールを催促する。
「猿原さんのブログって、もっと、なんか清楚でシュールなやつイメージしてた。こんなにポップなのか」
「でしょ。女子高生っぽっさを狙い過ぎてるっていうか、なんか媚びてるんだよね。こういうのとか」
多嶋が[うにゃぁ(猫マーク)]というタイトルの、三角関数の合成について自分なりに発見した覚え方をまとめたページを開きながら言った。
「僕もそれを本人に言ってみたんだ。そしたら分かったんだけど、これ、実はダミーなんだって」
「え?」
「あいつのお母さん、結構厳しいらしいんだよね。ブログやるって言ったら、そのお母さんの監視をつける事を条件にされたんだって。で、ツイッターとかでもあるじゃん。本当のアカウントは親にフォローさせといて、親をブロックした方のサブアカで知人には見せられないようなツイートするの。それと同じ、猿原にとってこのブログの方がダミーなんだよ。それで更新がない事を怪しまれないようにするために、こういうブログになってるんだって」
なるほど、と倉塚が納得した。
「それでも結構なひとが見てるらしいね、このブログ。……オッサンばっかだけど」
多嶋が[ヾ(。>д<)ノ *+:。.。:]というタイトルの、「窯出しとろけるプリン」のおいしさを延々と評価しているページの、コメント欄を見ながら言った。
・(おなかが)プリン親父さん:いいですよね窯出しとろけるプリン!
仕事帰りに毎日コンビニ寄って買ってます(笑)
・このコメント管理者の承諾待ちです
・泰然寺 寂さん:初コメです。はじめまして。
蚊取犬さんのブログいつも拝見させていただいてます(顔文字)
実はそのプリン、僕の妻が大好きなんですよー。
いつも更新楽しみにてます。では。
「本当だ……」倉塚が苦笑する。
そのとき店員のお姉さんがコーヒーを運んできてくれたので、多嶋はパソコンを閉じた。
「お待たせしました。エスプレッソです」
店員は多嶋の所には普通にカップを置いたのに、倉塚に手渡す時だけカップの中でコーヒーが波立つ程小刻みに震えていた。
「あ。ありがとうございます」
倉塚が受け取ると、店員はパッと手を引っ込めてカウンターの後ろに逃げてしまった。
「……」
多嶋がチョコレート多めのモカチーノを啜りながら言った。
「本当に嫌われてるね。何やったんだい?」
「知ってたら俺は今困ってない」
倉塚は釈然としない様子でエスプレッソに口を付ける。
「心当たりはなくても、絶対何かはやってるんだって。現に名探偵を一人使えなくしたのはヨータローで間違いないんだから。あとでお姉さん本人に聞いてみたら?」
倉塚は「使えない」という言葉に顔を顰めながら言う。
「もう聞いたよ。『あなたの所為じゃないのは分かってるけど、ごめんなさい』だって」
へー、と適当に相槌を打って多嶋はノートパソコンを再び開いた。
「それよりブログ見ようよ」
「ああ」
倉塚は若干興味を失いつつあるようだった。他人の日記を覗くのが、思ったより面白くはない事に気付いたのかも知れない。
多嶋が画面を下にスクロールする。
・[吹部♬]
・[女子会(笑)]
・[描いてみた]
・[ヾ(。>д<)ノ *+:。.。:]
・[久々に]
・[無題]
・[やめて下さい]
[無題]をクリックすると、彼女が買い置きし冷蔵庫に入れておいた「窯出しとろけるプリン」を弟に食べられた事に対して恨み言が書き連ねてあり、倉塚はほっこりした顔になった。
・(脳みそ)プリン親父さん:あー食べられちゃいましたか(笑)
蚊取犬ちゃんになら何個でもプリン買ってあげたい(爆)
・名無しさん:残念だったねー(*´ω`*)
あのコンビニ売り切れだったもんねー
・佐倉 免斗:プリン食べられて弟くんのウォークマン隠す蚊取犬ちゃんかわいい。
さすがの倉塚もプリンの記事には大笑いした。
「あの猿原さんが! 意外過ぎる」倉塚が見たかったのは、こういう、気になる人の個人的な情報だったのだろう。
「意外かな。猿原って葉太郎が思う程しっかり者じゃないよ。中学の時から知ってる僕が証言するよ」
「それは中学生の時の話だろ」
多嶋が[やめて下さい]のページをクリックする。
その途端、二人の笑顔が止まった。
「……?」
「え?」
その記事の文面は、こうだった。
・[やめて下さい]
ストーカーの被害に遭ってます。
下校のとき、黒いコートの人が十メートルくらい距離を開けて、
家の前までついてきます。
家の場所を覚えられていると思うと、怖くて眠れません。
もし私の事を付け回している人がこの日記をみていたなら
お願いです。もうやめて下さい。
短い文章だった。
画面をスクロールする多嶋の手が止まっていた。
倉塚が友人の方を向き、躊躇いがちに口を開いた。
「これって……どういうことだ?」
多嶋は何か考えているように何も言わない。倉塚の方は、困惑で何も言えないのだろう。
「嘘、なのか?」
倉塚が投稿日時を確認する。勿論四月一日ではない。今日から二日前の記事である。
もっと悪い事に、それ以降ブログの更新はされていなかった。つまりは、最新の投稿だ。
「ううん……」多嶋が何かを思って唸る。
猿原はなぜこんな事を書いたのか。親の監視があるブログで、こんな事を書くメリットーー
「……本当なんだな」
猿原栞莉はストーカーの被害を受けている。
二人の考えは、同じ結論で纏まったようだ。
倉塚の言葉に、多嶋は自分の思った事を話し始めた。
「ねぇヨータロー。ヨータローがもしブログをやってたとして……こういう話をここに書く?」
「え……いや、どうだろう」
倉塚は考え倦ねている様子だ。
「そうだよ。メリットがあるわけじゃないんだ。悲劇のヒロイン気取りなら分かんないけど、これが本当の事だとしてもネット上で見ず知らずのオヤジ達に暴露する意味がない。親に知って欲しいんだったら、こんな婉曲はしなくていいはずだし。それに僕の知ってる猿原は、自分の弱みになるような事実を人に教えたりはしないんだよね」
うん、確かに。と倉塚が頷く。
「じゃあ嘘だ、って事にはならないよな。ここに嘘を書く方ががもっと意味が無いわけだし。しかもこのブログが猿原さんのだって裏付けは、もう本人からとってるんだろ?」
「うん」
多嶋がモカチーノを飲み干して言った。
「考えるべきは、なんで誰かに相談する前に、ブログに書いたかって事だよね」
「というと?」
多嶋がコーヒーカップを置く。
「こう考えると合点がいくんじゃないかな。……このブログを、犯人が見ている。猿原はそれを知っているーーって」
「なっ……」
「ちょっと気になる事があったんだ。もう一回これを見て」
多嶋が[無題]のページを開き、プリンの恨み言をすっとばし、コメント欄を表示する。
「ほら、ここだよ。コイツのコメント」
・名無しさん:残念だったねー(*´ω`*)
あのコンビニ売り切れだったもんねー
「あ!」
「ねっ、おかしいでしょ! どこのコンビニ行ったかなんて書いてないのに、プリンが売り切れてた事知ってるなんて。これは……被害者本人に聞いてみる必要があると思わない?」
倉塚が目を見張る。
「本人って、猿原さんに?」
「他に誰がいるんだい。ちょっと、明日一緒に猿原の家に突撃しようよ!」
「ええっ!? 本気か? というかお前、家知ってるのか?」
「もちろんさ」
倉塚から落ち着きが無くなっていく。いつもは冷静を装っているが、猿原の話になると、いつもソワソワするのだ。
「じゃあ明日。メールするから見てね」
「ああ分かった」
倉塚は甘いコーヒーをゴクッと飲み込んだ。