妹の欲しい物リストに、私の人生だけありません
「欲しい物を、ここへ全部お書きなさい。お姉様が用意してくれるわ」
母が差し出した一枚の紙を、妹のリュンヌは両手で受け取った。
十九歳の誕生日まで、あと一か月。祝いの支度を決める朝食の席だった。
リュンヌは羽根ペンの先を唇に当て、楽しそうに考える。
『青銀の舞踏会用ドレス』
『真珠の髪飾り』
『南向きの寝室』
『灰色の牝馬』
『王都一の菓子店の三段ケーキ』
『月光香の飾り蝋燭、百本』
最後に『春の音楽会の桟敷席』と書き、満足げにペンを置いた。
「これで全部?」
「ええ。姉様、お願いしてもいい?」
マルゴは紙を受け取った。
裏返す。何もない。
もう一度、表を見る。七つの品物が並んでいるだけだ。
「ええ。ここに書かれた物は、全部渡すわ」
そう答えると、両親もリュンヌもほっと笑った。
誰も気づかなかった。
マルゴが初めて、「書かれていないものは渡さない」と決めたことに。
◇
リュンヌが生まれたとき、マルゴは六歳だった。
妹は小さく、泣き声まで鈴のようにかわいかった。マルゴが使っていた南向きの子ども部屋は、風邪を引きやすい赤ん坊へ譲られた。
十歳のとき、家庭教師を譲った。リュンヌは音楽の耳がよいから、姉より高名な教師が必要だと言われた。
十五歳のとき、初めて自分で意匠を描いた銀刺繍のドレスを譲った。社交界へ早く馴染ませるためだと言われた。
一つ譲るたび、両親は褒めた。
『さすがお姉様ね』
リュンヌも、同じ言葉で笑った。
だからマルゴは、譲れば愛されるのだと思った。
けれど両親が最も喜んだのは、彼女が家業を手伝い始めてからだった。
アルヴォア蝋燭商会は、王都で三代続く老舗だ。蜜蝋に香油を練り込み、煙の少ない宴会用蝋燭を作る。父は仕入れ交渉が巧みで、母は貴族客の好みを覚えるのが得意だった。
注文数を数え、職人の勤務を組み、蜜蝋の温度を記録し、納期が重なれば荷馬車を手配するのは、十六歳からずっとマルゴだった。
給与はなかった。
『いずれあなたが継ぐ家業ですもの』
そう言われれば、もっともだと思った。
ところが二年前、両親は商会の表向きの後継者をリュンヌに決めた。愛想がよく、王宮の夜会で商品を紹介できるからだという。
マルゴには、変わらず実務を頼んだ。
『姉妹で力を合わせればいいでしょう』
そう言われれば、それももっともだと思った。
今日までは。
◇
マルゴは欲しい物リストを持って、自室ではなく商会の事務室へ向かった。
机の上には、朝五時に届いた蜜蝋の検品票がある。倉庫の鍵、職人二十八人の勤務表、王宮からの追加注文。彼女がいなければ一日も回らない物が、ここには山ほどあった。
けれどリストには、一つも書かれていない。
妹が欲しいのは月光香の飾り蝋燭百本であって、芯を百本切り揃える姉ではない。
欲しいのは南向きの寝室であって、北の屋根裏で冬ごとに指を腫らす姉ではない。
マルゴの人生を奪おうとしたのではない。
人生があると、考えてもいなかったのだ。
その事実は、悪意よりも静かに胸へ刺さった。
「マルゴ?」
事務室の戸を叩いたのは、婚約者のエミールだった。
栗色の髪に、作業場用の革前掛け。子爵家の次男だが、礼服より前掛けを着ている時間の方が長い。彼の家は、商会へ燭台とランプ硝子を卸している。
「今、入ってもいい?」
「ええ」
エミールは大きな木箱を抱えていた。新作の耐熱硝子を見せに来たのだろう。けれど机の上のリストと、マルゴの顔を見て、箱を床へ置いた。
「何があった」
「リュンヌの欲しい物よ。誕生日に全部渡すの」
「南向きの寝室まで?」
「私の部屋だから、渡せるわ。馬は私が育てた子。真珠の髪飾りも祖母から私へ贈られた物。桟敷席は私名義で予約してある」
エミールは紙を最後まで読み、眉間へ皺を寄せた。
「君は、何が欲しい?」
マルゴは答えようとして、声を失った。
二十六年間、誰にも聞かれなかった。
欲しい物を考えたことすら、なかった。
「わからない」
ようやく出た言葉は、ひどく幼かった。
「そうか」
エミールはそれ以上、答えを求めなかった。
屋根裏から連れ出すとも、自分の家へ嫁げばいいとも言わない。ただ床の木箱を開け、掌ほどのランプ硝子を取り出した。
「では、見つかるまでの仕事を一つ提案していいか」
丸い硝子は二重になっていた。外側へ水を掛けても、内側の炎は消えない。
「港の嵐でも消えない灯火を作りたい。硝子はできたが、普通の蝋燭だと熱がこもって芯が焦げる。君なら、燃焼の遅い配合を考えられる」
「商会の職人を使えば」
「君に頼みたい。アルヴォア家の娘だからではなく、過去三年の製造記録を書いた人だから」
エミールは一枚の依頼書を出した。
試作期間三か月。配合設計料は金貨十二枚。成功後の売上は、硝子工房と設計者で折半。
「婚約とは別の契約だ。受けるかどうかも、君が決めていい」
マルゴは依頼書を読み、初めて自分の仕事についた値段を見た。
「考えさせて」
「もちろん」
「それから、婚約も」
エミールの指がわずかに動いた。
「家を出るために、あなたと結婚したくないの。あなたが嫌なのではないわ。逃げ道として選んだら、いつかあなたまで憎んでしまうかもしれない」
「わかった」
顔は少し青ざめていた。それでも彼は笑って、婚約指輪を外せとは言わなかった。
「では婚礼の日取りは白紙にする。仕事は、仕事として返事を待つ」
マルゴはその日初めて、自分の決断で誰かを傷つけた。
痛かった。
同時に、自分にも選ぶ力があるのだとわかった。
◇
誕生日までの一か月で、マルゴは七つの品をそろえた。
ドレスとケーキは自分の貯金で買った。髪飾りと牝馬と部屋は、正式な譲渡証を作った。桟敷席の名義も変えた。
月光香の飾り蝋燭百本だけは、商会へ正規に注文し、代金を支払った。家族だからと職人の労働を無償にしないためだ。
誕生祝いの朝、リュンヌは贈り物の山を見て目を輝かせた。
「姉様、本当に全部!」
「ええ。ここへ受領の署名をして」
「受領?」
「あなたの物になったと、あとで揉めないためよ」
戸惑いながらも、リュンヌは七枚の証書へ署名した。
父が上機嫌で言う。
「さあ、祝いが終わったら王宮の注文を片づけてくれ。来週は二千本だ」
「それはできません」
マルゴは机へ、革表紙の冊子を置いた。
「商会の製造・受注手順書です。原料の検品から納品まで、すべて記しました。本日付で、無給の手伝いを辞めます」
「何を急に」
「急ではありません。引継書を作るのに三年かかりました」
冊子は四百頁あった。どの季節にどの養蜂家から買うか。香油と蜜蝋を混ぜる順番。大口注文を受ける前に確保すべき人員。わざと欠いた項目は一つもない。
「こんな本があるなら問題ないな」
父は重さを確かめるように持ち上げた。
「マルゴは結婚まで休めばいい。どうせエミール君と家業をつなぐのだろう」
「婚礼の日取りは白紙にしました」
母の笑顔が消える。
「では、どこへ行くの」
「まだ決めていません」
「決めてもいないのに、家を捨てるなんて」
「家を捨てるのではありません。自分の名前と労働と将来を、家へ渡さないだけです」
マルゴは欲しい物リストを開いた。
「ここには、どれも書かれていないでしょう?」
リュンヌが紙をのぞき込み、初めて何かに気づいた顔をした。
「姉様は、欲しい物じゃないもの」
「ええ。だから、もらえると思わないで」
責めるための言葉ではなかった。
けれどリュンヌは、頬を打たれたように黙った。
マルゴは北の屋根裏から、小さな旅行鞄一つを持って階段を下りた。南向きの部屋も、牝馬も、宝石もない。けれど鞄の中には、エミールから受け取った依頼書がある。
玄関で署名し、仕事を引き受けた。
◇
エミールの硝子工房には、空いている小部屋があった。
「ここを試作室に使ってくれ。賃料は設計料と相殺――」
「相殺しないわ」
マルゴは言った。
「仕事の場所なら、共同経費にして。住む場所は別に借りる」
「わかった」
エミールはすぐに帳簿を書き直した。
彼の屋敷へ住めとも、婚約者だから無料とも言わない。その日のうちに、不動産屋を三軒紹介しただけだった。
マルゴは工房の近くに、東向きの小さな部屋を借りた。南向きではない。朝日が入る窓を、自分で選んだ。
試作は百二十七回、失敗した。
蜜蝋を固くすれば芯が埋まり、柔らかくすれば夏に崩れる。魚油を混ぜれば匂いが出て、鉱物粉を入れれば炎が青くなりすぎた。
「百二十八回目を始めます」
夜更けの試作室で、マルゴが宣言する。
「その前に食事を」
エミールがパンと煮込みを机へ置いた。
「時間がないわ」
「設計者が倒れた場合、成功率はゼロになる」
「硝子職人が倒れても同じよ。あなたも座って」
二人は向かい合って、冷めかけた煮込みを食べた。
仕事をしているときのエミールは、口数が少なかった。マルゴの配合へ勝手に手を出さず、必要な温度と硝子の厚みを尋ねる。意見が違えば理由を言い、彼女の案が正しければ職人の前でもそう認めた。
マルゴも、彼の弱さを知った。
完璧に見える硝子ほど、割れるのを恐れて炉から出せない。次男だから失敗してもよいと家族に言われて育ち、かえって一度も失敗を見せられなくなったのだ。
「割って」
ある日、エミールが冷却棚から試作品を下ろせずにいると、マルゴは木槌を渡した。
「せっかく作ったのに?」
「割らなければ、強度を確かめられないでしょう」
「君は容赦がないな」
「百二十七本の蝋燭を溶かした女よ」
エミールは笑い、硝子を叩いた。
一枚目は粉々になった。二枚目も割れた。三枚目は、白い傷がついただけで耐えた。
二人は同時に歓声を上げ、煤だらけの手で抱き合った。
先に離れたのはマルゴだった。
エミールは追わなかった。ただ耳まで赤くし、壊れなかった硝子へ試験番号を書いた。
その誠実さが、胸に残った。
◇
一方、アルヴォア商会では、手順書の最初の十頁だけが読まれた。
父は王宮から二千本の注文を受けた。手順書には、千本を超える場合は乾燥棚を二棟借り、検品係を二人増やすこと、と赤字である。
『本に頼るより、商人の勘だ』
父は棚を借りなかった。
母は月光香の配合を、客の好みに合わせて濃くした。手順書には、香油を一分増やすごとに芯を半分太くすること、と書かれていた。
『香りは強い方が喜ばれるわ』
芯は変えなかった。
完成した蝋燭の三割は曲がり、残りは途中で火が消えた。王宮の注文は取り消され、違約金が発生した。
商会は潰れなかった。
ただ、父は馬車を一台売り、母は社交費を半分にした。リュンヌは贈られた青銀のドレスを着て舞踏会へ行ったが、取引停止の噂を聞いて、その夜のうちに帰ってきた。
翌朝、彼女は初めて手順書を開いた。
◇
三か月後、嵐の夜の港で、新しい灯火の試験が行われた。
防波堤には横殴りの雨が打ちつけ、普通の松明は一本ずつ消えていく。港務長も、船主たちも、外套を頭までかぶっていた。
「本当に点くのか!」
「点けます!」
マルゴは二重硝子の中へ、百二十八番目の蝋燭を収めた。蜜蝋へ少量の樹脂を混ぜ、芯の根元だけを硬くしたものだ。
エミールが鉄枠を閉じる。
「設置は僕が」
「一緒に」
二人で防波堤の先まで運ぶ。波しぶきに足を取られたとき、エミールは腕を引くのではなく、自分の肩を差し出した。マルゴがつかむのを待ってから、歩調を合わせる。
灯火を杭へ掛けた。
雨が降る。風が唸る。硝子の内側で、炎が細く身を伏せる。
それでも消えない。
沖から、入港を待っていた船が鐘を鳴らした。暗い海に、新しい灯りを見つけた合図だった。
「成功だ!」
港務長の声を、歓声がのみ込んだ。
マルゴは雨の中で笑った。エミールも笑っていた。家を出た日に持っていなかったものを、二人で作った。
彼女自身の名前で。
契約書には、新商品の名を二人で決めるとある。
「何と呼ぶ?」
「『導き灯』は?」
「誰かに道を決めてもらうみたいで嫌」
「では、『選び灯』」
マルゴは、雨に濡れた彼を見た。
「それがいいわ」
◇
選び灯が港へ百基納められたころ、リュンヌが工房を訪ねてきた。
真珠の髪飾りも、青銀のドレスもない。生成りの作業着を着て、指先に小さな火傷があった。
「返しに来たの?」
マルゴが尋ねると、リュンヌは首を振った。
「返して、許してもらおうかと思った。でも姉様が渡した物を受け取るって、私が署名したから」
彼女は包みから、厚い手順書を出した。付箋と書き込みで倍ほどに膨らんでいる。
「姉様が書いた通りにしたら、百本、同じ長さに作れたの。最初は二十三本しかできなかった」
「そう」
「手順書には何でも書いてあると思ってた。でも、読んで、職人さんに聞いて、自分で数えないと、何も動かないのね」
リュンヌは深く頭を下げた。
「姉様がやっていたことを、物みたいにもらえると思ってた。ごめんなさい」
マルゴはすぐに許すとは言わなかった。
「今、商会は?」
「注文を半分に絞った。お父様はまだ大口を取りたがるけど、私が受注印を預かってる。お母様には検品をしてもらってる」
「それなら、半年は続けて。謝罪が本物かどうか、私ではなく、一緒に働く人たちが決めるわ」
「はい」
「困っても、私は戻らない」
「うん」
リュンヌは泣いたが、姉へ抱きつかなかった。涙を拭き、自分で手順書を抱えて帰った。
マルゴは窓から、その背中が角を曲がるまで見送った。
「厳しかったかしら」
隣で黙っていたエミールに聞く。
「君は、戻らないと伝えた。彼女も、それを聞いて帰った。十分だと思う」
「慰めないのね」
「必要ならする。今、必要か?」
マルゴは少し考えた。
「手をつないでほしい」
「喜んで」
差し出された手を、今度は自分から握った。
◇
共同事業を始めて、一年が過ぎた。
選び灯は三つの港へ広がり、工房は職人を四人増やした。マルゴは自分の試作室を持った。窓は東向きで、朝日が床を黄金色に染める。
エミールは婚約の話を一度も急かさなかった。
毎月の共同経営会議では利益と損失を話し、夕食では見た芝居と焼きすぎた魚の話をした。失敗した硝子を割る日には隣にいて、マルゴが一人で町を歩きたい日は追わなかった。
ある朝、エミールが工房へ来ると、机の上に見覚えのある紙が置かれていた。
「これは、リュンヌの欲しい物リスト?」
「その裏よ」
白かった裏面に、マルゴの文字が並んでいる。
『自分の名前が看板にある工房』
『週に一度、日の出まで眠ること』
『失敗しても割って試せる硝子』
『家族と、無理のない距離で話すこと』
『エミールと結婚すること』
最後の一行を読んだエミールが、長いこと動かなかった。
「エミール?」
「今、呼吸を思い出している」
彼は大きく息を吸った。
「それは、僕が欲しいと言っていいものなのか」
「いいえ」
マルゴは微笑んだ。
「私が欲しいものよ。だから私から申し込むの。エミール・ルクレール。私と結婚してください」
「はい」
返事は、試験済みの硝子より早かった。
「喜んで。けれど一つだけ確認してもいい?」
「何?」
「最初の四つは、もう手に入っているように見える」
「ええ」
「では、最後の一つがそろったら、この紙は完成か」
マルゴは首を振った。
「裏側も、まだ余白があるわ」
「これから増える?」
「生きていれば、欲しいものは変わるでしょう。そのたびに、自分で書くの」
エミールは紙を折らず、額縁へ入れるよう大切に持った。
「では、余白を奪わない夫になる」
「私も、あなたの紙へ勝手に書かない妻になるわ」
マルゴは彼の前掛けをつかみ、唇を重ねた。
窓辺では、選び灯の炎が朝日にも消えずに揺れている。
妹のリストにはなかった人生を、マルゴはもう誰にも用意してもらわない。
空欄は、これから自分の望みで満たしていけばよかった。
お読みいただきありがとうございます。
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