我が家のカラカラ浴場とアルキメデス 〜うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい〜
これは俺が古代ローマに似た異世界へと転生するよりずっと前、姉と過ごした思い出の一幕―――――
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「……もうだめだ『たて×よこ×高さ』までは分かるけど、デコボコした形の体積なんて、どうやって求めるんだよ……」
冬の名残りを感じさせる二月の夜。
静まり返ったリビングのテーブルで、小学五年生の匠は算数の教科書を前に突っ伏していた。
明日は「体積」のテストがある。
綺麗な直方体なら習った公式に当てはめるだけでいい。
けれど、L字型のブロックや、真ん中に穴が空いたドーナツみたいな立体の体積となると、途端に頭がパンクしそうになる。
「ここを引いて、ここを足して……いや、計算が合わない。公式は分かるのに、イメージが湧かないんだよなぁ」
ペンを投げ出して天井を仰ぐ。
足元では、ミニチュアダックスの『きなこ』が「遊ぼうよ」と前足で匠の膝をカリカリと引っ掻いている。
「悪いなきなこ、今は立体図形の迷宮で遭難中なんだ。俺の脳みその体積じゃ、もうキャパオーバーだよ」
匠が深いため息をついた、その時だった。
「嘆かわしいわね、匠。ローマ人は机の上で悩んだりしないわ。知恵に行き詰まった時は、衣服を脱ぎ捨てて『公衆浴場』に向かうのよ!」
背後から、やけに響く凛とした声がした。
振り返った匠は、その光景に「ぎょっ」と目を剥いた。
「ね、姉ちゃん……? 何その格好」
そこに立っていたのは、姉の真綾だ。
しかし、今日の彼女はいつものジャージやパジャマではない。
身に纏っているのは真っ白な一枚の布――おそらく、棚の奥にあった来客用のシーツだ。
それを古代ローマの「トガ」のように体に巻き付け、片方の肩を露出して腰元を安全ピン一個で留めただけの、あまりに無防備な姿だった。
布の隙間から鎖骨や二の腕が大胆に見えているし、歩くたびにスリットから太ももがチラチラと覗く。
年頃の弟としては、目のやり場に困る以前に心配になる格好だ。
「何って、見て分からない? ローマ市民の正装よ。さあ、勉強道具を持って浴室へ来なさい! 我が家を『カラカラ浴場』にするわよ!」
「正装って……それシーツじゃん! なんか、ほどけそうで見てられないんだけど! それに濡らしたら、あとで乾かすの大変なんだぞ!」
「細かいことを気にしないのがローマの精神よ! さあ、行きましょう!」
真綾はバサッバサッとシーツを翻し、抵抗する匠を強引に浴室へと連行した。
◇
浴室に入ると、ムッとした熱気と湿気が匠を包み込んだ。
湯船には表面張力が働くギリギリまで、並々とあふれんばかりのお湯が張られていた。
湯気がもうもうと立ち込め、バラの香りの入浴剤が投入されているらしく、優雅で少し鼻につく匂いが充満している。
「いい、匠。古代ローマの浴場はただ体を洗う場所じゃないの。そこは社交場であり、図書館であり、ジムでもあったのよ!」
真綾は湿気で少し透け始めたシーツを気にすることもなく、浴槽の縁に片足を乗せて仁王立ちした。
湯気の中で眼鏡が曇り、白い布が肌に張り付いている様は神話に出てくる女神のようにも見えるが、やっていることはただの変人だ。
「計算に詰まったら体を湯に浸す。これこそが、古代の天才アルキメデスも実践した究極の学習法よ。さあ、服を脱いで入りなさい!」
「入るって……こんなにお湯入ってたら、絶対溢れちゃうよ」
「それが狙いよ!」
真綾は洗面器に浮かべたアヒルのおもちゃを指差した。
「あなたが悩んでいる『複雑な形の体積』計算で出せないなら、物理で出せばいいのよ」
「物理?」
「まずは、この浴槽を巨大な升だと考えなさい。底面積は……あらかじめ測っておいたわ。縦110cm×横70cmよ」
真綾は濡れた手で壁に計算式を書きそうな勢いだ。
「さあ、匠。あなたがこの叡智を湛えた『ローマの海』に沈むの。そして、増えたお湯の高さを見る。底面積×増えた高さ。それがすなわち、あなたの体の体積よ!」
「ええっ、俺の体積!?」
「そうよ。形がどんなに歪でも、水は嘘をつかないわ。さあ、飛び込みなさい! あ、教科書は濡れるからあっちに置いて!」
有無を言わせぬ姉の圧力に負け、匠は「うう……」と唸りながら服を脱いだ。
そして、恐る恐るパンパンの湯船に足を入れ、覚悟を決めて肩までざぶんとお湯に浸かった。
――ザバァァァッ!
盛大な音を立てて、お湯が浴槽から溢れ出し、洗い場の床へと豪快に流れていく。
排水溝がゴボゴボと音を立てた。
「うわっ、めっちゃ溢れた! 掃除する身にもなってよ!」
「静粛に! 今、水位を測定中よ!」
真綾はシーツ姿のまま浴槽の縁にペタリと座り込み、顔を近づけて壁面の目盛り(いつの間にか油性マジックでタイルに線が引いてあった)を凝視し始めた。
「……ふむ。水位の上昇は、約3.5cmね」
真綾が身を乗り出したせいで、湯気に湿ったシーツが肌にピタリと張り付き、体のラインがくっきりと浮き出ている。
それに、安全ピンで留めただけの結び目が目の前で揺れていて、今にもパラリといきそうだ。
シーツから滴るお湯が、ポタポタと匠の頭に落ちてくる。
「ね、姉ちゃん! 近いって! シーツ濡れて冷たいし!」
「騒がないの……いい? 匠。110×70×3.5。この計算結果が、あなたの存在の大きさ(ボリューム)なのよ。デコボコした人間も、水に入ればただの数字になる……美しいと思わない?」
「美しいかどうかは知らないけど……」
匠は溢れたお湯を見つめた。
俺が入った分だけ、お湯が押しのけられて、水位が上がった。
逆に言えば、俺が出れば3.5cm分下がる。
(……そっか。邪魔な形があったら、それを『高さ』に変えて計算すればいいのか)
難しく考えていたL字型のブロックも、水に沈めたと考えれば、ただの『底面積×高さ』になる。あるいは、全体からへこんでいる部分を引けばいい。
教科書の中で無機質に並んでいた図形が、急に頭の中でクリアな映像になった。
「……なんか、分かった気がする。複雑な形も、単純に考えればいいんだ。押しのけた分が答えなんだね」
「ふふん、やっと開眼したようね」
真綾は満足げに笑うと、足元に置いてあったクーラーボックスから冷えた瓶を取り出した。
「では、賢くなった市民に褒美を与えましょう。ローマ神話に伝わる神の飲み物『ネクター』よ」
「……これ、ただのフルーツ牛乳でしょ?」
「『ネクター』よ! 風呂上がりのローマ人が最も愛した味よ」
真綾は栓を抜くと、それを匠に手渡した。
湯船に浸かりながら飲む冷たいフルーツ牛乳は、甘くて濃厚で、確かに神の味がした。
頭上の姉ちゃんのシーツがいつ崩壊するかというスリルさえなければ、最高のバスタイムだったかもしれない。
◇
一時間後。
しっかり温まった匠は、パジャマに着替えてリビングのカーペットに寝転がっていた。
脳も体もリフレッシュして、驚くほどスッキリしている。
公式の意味が体感として分かったおかげか、苦手意識も少し薄れた気がする。
「仕上げは、特別プログラムの『ユニクトリウム(マッサージ室)』よ。匠、そのままうつ伏せになりなさい」
お風呂上がりの真綾が、まだあの濡れシーツ姿のまま近づいてきた。
「え、マッサージしてくれるの? ……なら、ちょっと嬉しいかも」
匠が素直に床に伏せると、頭上から「どすん」と容赦ない重みが降ってきた。
「ぐぇっ!?」
背中に、柔らかくもずっしりとした重量感がのしかかる。
振り返ると、真綾が匠の腰の上に跨っていた。
「ちょ、姉ちゃん!? 重いって!」
「失礼ね! これは指圧効果を高めるための加重よ。ローマのマッサージ師は全身を使うの」
真綾は匠の背中の上で胡座をかき、グリグリと肩を揉み始めた。
シーツ一枚の姉ちゃんが上に乗っている。
直に伝わる体温と、容赦ない体重。
「くぅ……姉ちゃん、これリラックスどころか、物理的な圧迫だよ……」
「我慢しなさい……ほら、さっき習ったでしょう? 私が乗った分だけ、あなたがカーペットに沈み込んでいるの。これもまた『アルキメデスの原理』の応用よ」
「応用しなくていいから! 質量保存の法則で俺が潰れる!」
匠が悲鳴を上げていると、足元から「ワンッ!」と元気な声がした。
きなこだ。
きなこは「僕も混ぜて!」と言わんばかりに、匠の背中に飛び乗ってきた。さらに、ヒラヒラしている真綾のシーツの端っこを、新しいオモチャだと思って噛み付く。
「あ、こら! きなこ、離しなさい!」
「グルルル……」
きなこがシーツを引っ張る。
ただでさえ緩かった安全ピンが、ピンッと悲鳴を上げた。
「きゃああっ! 待って、ドレープが崩壊する! ローマの滅亡よ!」
真綾は真っ赤になって、必死に胸元と腰の布を押さえた。
はだけかけた布から、白い太ももがあらわになる。
「離しなさい愚犬! このままだと、リビングで『ヴィーナスの誕生』が強制公開されちゃうじゃない!」
「ワンワンッ!」
「バッ……バッカじゃないの!? ここはウフィツィ美術館じゃないのよ! 私の大理石のような柔肌は、まだ一般公開の予定はないの!」
ジタバタと暴れる姉と、興奮する犬。
もはやマッサージどころではない。
匠は背中の上の重みが軽くなった隙をついて、スルリとカーペットから這い出した。
目の前では、シーツ一枚の姉ちゃんがきなこと綱引きをしている。
姉ちゃんは必死だが、傍から見ればただのコントだ。
「……やれやれ」
匠は呆れて溜息をついたが、ふとテーブルの上にある「神の飲み物」に目が止まった。
さっき風呂場で飲み干したはずのフルーツ牛乳の瓶。
その横に、真綾が風呂上がりの自分用に置いていた、手つかずのキンキンに冷えたもう一本がある。
(……ローマの混乱に乗じるのも、賢い市民の知恵だよな)
匠はニヤリと笑うと、騒動に夢中になっている姉に背を向け、その瓶を手に取った。
「姉ちゃんが『ヴィーナス』とやらになってる間に……いただき」
腰に手を当て、冷えたネクターをゴクリと喉に流し込む。
濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。風呂上がりの二本目は、一本目よりも甘く、格別の味がした。
「あーっ! 匠、あんた何私の分飲んでるのよ!」
シーツを押さえながら振り返った真綾が、目を見開いて叫んだ。
「え? だって『ネクター』は神への供物なんでしょ? 俺、明日のテスト頑張るからさ」
「このっ、平民のくせに! それは私が後で楽しみに……きゃっ、きなこ待って、本当に脱げる!」
「ワンッ!」
再びきなこの猛攻が始まり、真綾は悲鳴を上げてシーツを死守する体勢に戻った。
騒がしいけれど、なんだかんだで勉強になった気がする。
「ごちそうさまでした」
匠は空になった瓶をテーブルに置き、静かに退散した。
リビングには姉の悲鳴と犬の鳴き声、そしてお風呂上がりの石鹸の香りが、いつまでも漂っていた。
本作をお読みいただきありがとうございます。
お楽しみ頂けましたら★★★★★評価お願いいたします。
連作短編『うちの姉ちゃんは古代文明を実践したい』シリーズは複数公開していますので、そちらもご一読いただけましたら幸いです。
次回更新は3月14日(土曜)更新予定となります。
【匠の「その後」の物語はこちら!】
本作で匠が学んだ「無駄すぎる知識」が、異世界で最強の武器になる――!?
匠が古代ローマ風異世界に剣闘士として転生し、姉ちゃんの知識で成り上がる本編、『転生式異世界武器物語』も好評連載中です!
本編では実在した武器の“武器解説”、絵師様による“挿絵”付きの豪華な長編となっています。
ぜひ合わせてチェックしてみてください!
『転生式異世界武器物語』
https://ncode.syosetu.com/n3948lb/
※こちらのイラストにはAIを使用して製作しております。




