第49話 子猫【後編】
朝早く、静けさに包まれた部屋で目を覚ましたシンは、音を立てないようにリビングへと向かった。
隅に置かれた段ボール箱をそっと覗き込むと、昨夜保護した小さな子猫が丸くなり、すやすやと心地よさそうな寝息を立てている。起こさないよう細心の注意を払いながら、シンはそっと朝食の準備に取り掛かった。
しばらくすると、寝ぼけ眼の一華が起きてきた。
「おはよう……。」
小さな声でシンに挨拶を交わすと、一華も吸い寄せられるように段ボール箱へ歩み寄り、愛おしそうに子猫を見つめる。
「おはよう。朝食にしよう。」
シンも声を潜めて応じ、テーブルへ料理を並べた。
二人は食器の音すら立てないよう気を配りながら、向かい合って今日の予定を話し合う。
「動物病院に行ったら、帰りにホームセンターかペットショップだねぇ。」
「動物病院って、どこにあるんだ?」
「ペットショップと併設してなかったかな?」
「なら、ペットショップで一通り揃えた方が早そうだな。」
「でも……ケージにトイレ、食器、ミルク、キャットフードに猫砂……さすがに手で持って帰るのは無理よね。」
「また配車アプリでタクシーを呼べばいいさ。」
「うん、そうだね。」
静かな朝食を終えて手早く片付けを済ませると、シンは子猫を段ボール箱ごと優しく抱え上げ、目的の動物病院へと向かった。
待合室には、大型犬から小型犬、やんちゃな子猫や落ち着いたシニア猫まで、さまざまな『患者』たちが飼い主と静かに順番を待っていた。
だが、その空間は一華にとって過酷なものだった。動物たちが抱える痛みや不安、恐怖といった感情が、『共感の魔力』を通じて奔流のように一華の心へ流れ込んできたのだ。
(くっ……共感の魔力が暴走しそう……!)
生々しい感情の波が次々と脳裏に直接響き渡り、一華はぎゅっと目をつむって苦悶の表情を浮かべる。
耐えかねてテレパシーでシンに助けを求めようとしたが、ハッと踏みとどまった。
(ダメだ……! ここでテレパシーの波長を散らしたら、繊細で感の鋭い動物たちがパニックになっちゃうかも。私が我慢しなきゃ……。)
青ざめる一華の変化に、シンがすぐに気づいた。
「一華、辛いのか?」
「うん……でも、大丈夫……。」
(ここでは制御できないのか……、出た方がいいのだが……。)
「近くのカフェで待ってるか?」
「ううん、一緒にいる……。」
辛さに耐えながら、二人は長い時間を待合室で過ごした。対照的に、箱の中の子猫は周囲の喧騒も知らず、すやすやと眠り続けている。
やがて診察室から名前が呼ばれ、二人はホッと胸を撫で下ろしながらドアをくぐった。
獣医師の前に差し出され、箱から抱き上げられてようやく子猫は目を開けた。まだ寝ぼけ眼でぽかんとしている。
昨夜保護したばかりで何も食べていないことを説明すると、先生は子猫が完全に目を覚ます前に、手際よく診察を進めていった。
「月齢は一か月を少し過ぎた頃ですね。そろそろ離乳食へ移行する時期です。性別は男の子。健康状態はすこぶる良好ですよ。」
検便や各種検査、ワクチン接種まで一通りの処置がスムーズに終わり、二人は大きく胸を撫で下ろした。
「よかったぁ……。」
安堵する一華の横で、シンは密かに眼光を鋭くしていた。
(……男の子か。貞操の危機は、俺が絶対に守る。)
診療費の支払いは、パパから預かった魔法のカード――打出の小槌での決済だ。ここ数日間の請求額をパパやママが見たら確実に雷が落ちそうだが、今は背に腹は代えられない。
そのまま併設された隣のペットショップへ移動した。
「ケージ、トイレ、食器、ミルク、離乳食、猫砂、爪とぎ、ブラシ、おもちゃに消臭剤……どうせタクシーなんだから、必要なものは全部買っていこうよ!」
「あぁ、そうしよう。」
ここでも躊躇なく小槌を振るう。
アプリで手配したタクシーがタイミングよく店舗前の駐車場に到着した。大量の飼育用品をトランクへ積み込み、子猫を抱えて後部座席に乗り込む。子猫は車が走り出しても再びすやすやと眠り始めた。なかなかの大物ぶりだ。
マンションへ戻ると、二人はさっそく『サン』と名付けた子猫の環境づくりに取り掛かった。
組み上げた二階建てのケージの階下にトイレを設置し、フカフカのタオルと一緒にサンを中へ入れる。お皿に盛った離乳食を、サンの鼻先にそっと近づけてみた。
「食べるかな? サンちゃん、ご飯だよーー。」
一華の声に反応して小さな頭を持ち上げたサンは、クンクンと匂いを嗅ぐと、まずは舌で一口ペロリ。次の瞬間、勢いよくムシャムシャと食べ始めた。
「『うまいにゃ、うまいにゃ』って言ってるな。」
「えっ、ほんと!?」
突然のシンの言葉に、一華は目を丸くした。
「あぁ、『うまいにゃ、うまいにゃ』ってハッキリ聞こえるぞ。聞こえないか?」
「私には『にゃにゃ』としか聞こえないよ……何でだろう?」
「病院にいた他の動物の声は聞こえなかったはずだが……もしかして、一華が助けた子だから言葉が通じるのか?」
「あぁ、それすごくいい! やったー! サンちゃんとお喋りできるんだー!」
サンは二人の会話など気にも留めず、夢中でご飯を平らげていく。
その横で、シンは室内を見回しながら危険箇所のチェックを始めた。
「部屋を出る時は、必ずリビングのドアを閉めること。エアコンはつけっぱなし。俺たちが不在の時は、サンをケージに入れておく。……当面はこれで大丈夫か……。」
「うん。サンちゃんに『気をつけて』って言っても通じないもんね。私たちが守ってあげないと。」
すると、食事を終えたサンが二人を見上げて声をあげた。
「にゃんにゃーにゃー……(大丈夫にゃー。守るにゃー。)」
「おっ、サンが答えたぞ。『大丈夫だ、守る』って言ってる。」
「にゃにゃにゃ……(わかるにゃ、一華。)」
「今度は一華の名前を呼んだぞ!」
「えーっ、ずるい! シンとだけ喋れるなんて……私もサンちゃんと直接お話ししたい!」
「仁華に変身してみろ。話せるはずだ!」
「そうなの? じゃぁ、今変身してもいい?」
「あぁ、大丈夫だろ。」
一華は腕のブレスレットを外し、心の中で強く唱えた。
(仁華に変身)
瞬間、眩い淡い光を放ち、一華の全身を柔らかく包み込んだ。光の中でシルエットがふわりと縮み、可憐な猫耳と尾が伸びやかな軌跡を描いて出現する。光が弾けて現れた仁華の姿に、サンの目がまん丸に丸くなった。
「にゃにゃーん……(これで喋れるにゃ)」
「にゃーん、にゃんにゃ……(人間が猫に変身したにゃ。にゃんでにゃ?)」
「にゃんにゃみゃ……(ママにゃんはどうしたにゃ?)」
「にゃんにゃにゃにゃー……(知らにゃいにゃ。気づいたらここにいたにゃ。ママにゃんじゃにゃいにゃか?)」
「ママじゃない。……まさか、記憶喪失か?」
「にゃんにゃにゃ……(どこから来たのかわかんにゃいにゃか?)」
「にゃんにゃ……(わかんにゃいにゃ。)」
サンとのやり取りを見守っていたシンだったが、サンの正体がオス猫であることを思い出し、急激に警戒感を強めた。
「仕方ない、サン、お前をここに置いてやる。だが……仁華を襲うなよ!」
部屋の温度が急降下したかのような重苦しい圧が放たれ、シンの目が底知れぬ鋭さで光る。
(ひっ……! こ、この男、目がマジだにゃ……っ!?)
尋常じゃない殺気を放つシンに、サンはヒッと耳をふせ、体を極限まで小さく縮こまらせた。
「もしそんな真似をしてみろ、ピー(自主規制)して、ピー(自主規制)して、ピー(自主規制)してやるからな……!」
「にゃーん……(わ、わかったにゃ……絶対に襲わにゃいから命だけは助けてほしいにゃ……。)」
「にゃ~んにゃにゃ……(シン、そこまで脅さにゃくても、大丈夫にゃぁ。)」
「ダメだ! 一華、サンがケージから出ている時は絶対に仁華に変身するなよ。変身する時は、必ずサンをケージに入れてからだ。」
「にゃ~んにゃー……(わかったにゃぁ。)」
「一華、もう戻れ。」
「にゃーん……(わかったにゃ。)」
(一華に変身)と念じ、ブレスレットを装着して元の姿に戻った一華は、ふうと溜息をついた。
「あーぁ、もうサンちゃんと話せなくなっちゃった。残念……。」
「俺が通訳してやるさ。」
「それしかないよね。でも、なんで猫と話せるの? 魔界語なの?」
「魔界語だな。仁華と触れたことで魔界語が喋れるようになったか……それとも、この子自体が魔界から送られてきたとか!?」
「魔界の猫?」
「本人に記憶がない以上確かめようがないが、だとしたら何のために送られてきたんだ?」
「それとも、私みたいに魔力が覚醒したのかな? 人間に換算すると1〜3歳らしいけど、子猫にしてはすごくしっかり意思主張してるよね。」
一華はスマホの検索画面をシンに見せる。確かに、生後一か月の幼猫がこれほど明確な知性を見せるのは不自然だった。
「やっぱり絶対おかしいって! 魔界語で話す子猫なんて……。」
「黒だな。まさか、子猫に化けて潜入した魔界人か……?」
「えぇーっ!? それは嫌! 今すぐ追い出してー!」
想像が一気に悪い方向へ跳ね上がり、一華は青ざめた。目の前のかわいい子猫が、実は大人の魔界人の変身かもしれないと思った瞬間、恐怖が押し寄せてくる。
「シン、もしこの子が化けた魔界人だったら……嫌だ、無理かもーっ!」
一華は泣きそうになりながら、それまで抱きしめていたサンを弾かれたようにシンへ押し付けた。
「そうだな。もし魔界人が化けているなら、一華の護衛にも支障が出る。早急に魔界へ送り返した方が安全だ。」
「にゃーにゃーにゃーにゃー!(魔界人じゃにゃいにゃー! 猫にゃー! 一華、信じてにゃー!)」
放り出されそうになったサンは、必死の形相で大声を張り上げて泣き出した。
(サンから一華の貞操を守ること以前に、正体不明の魔界人を我が家に入れるわけにはいかないからな……。)
「にゃにゃにゃにゃー!(シン、俺が魔界の猫だって証明できにゃいか!?)」
「魔界の猫としての証明、か……。」
記憶喪失の子猫が、自分がただの『魔界の猫』であり『怪しい魔界人』ではないと証明するにはどうすればいいのか。思案に暮れたシンは、重い口を開いた。
「……叔父上に問い合わせてみるか。」




