第47話 台風
<<< 台風〇号が本州に上陸する可能性が出てきました。 >>>
リビングのテレビから流れる、アナウンサーの少し硬い声が耳に飛び込んできた。
一華は手元を止め、画面に見入る。
画面に映し出された予報円は大きく、まだ進路の方向が定まっていないようだった。けれど、数日後の予想図を見れば、自分たちの住む地域はしっかりと暴風域の真っ只中に巻き込まれている。しかも、最も風雨が強まると言われる『台風の進行方向の右側』だ。
最悪だ、と一華は息をのんだ。台風本体が来る前だって、強い雨や雷、突風に見舞われる。
「シン、大変……もうすぐ台風が直撃するって。」
「たいふう……?」
ソファで静かに寛いでいたシンが、不思議そうに首をかしげた。魔界からやってきた彼にとって、その言葉は耳馴染みのないものだった。
「うん、すごく大きな嵐のこと。立っていられないくらいの猛烈な風が吹いて、いろんなものが飛んできたり、激しい雨で道路や家が水に浸かったりするの。落雷で停電して、電気も水も使えなくなって……普通の生活ができなくなるんだよ。」
「それは穏やかじゃないな。……どこかへ避難するか?」
「避難?」
「あぁ、テレポーテーションだ。台風の来ない安全な場所へ移動すればいい。」
「あ……なるほど。でもダメだよ、移動先に人がいたら目立っちゃうし見つかっちゃう。」
「自由に行き来できて人目のない別邸でもあれば別だが……確かにな、ダメか。」
「うん、仕方ない。ここでやり過ごすしかないね……ねえ、魔界に台風ってくるの?」
「ないな。季節の移り変わりがほぼ一定だから、そこまで荒れる天候は存在しない。」
「そっか。じゃあシンにとっては初めての体験だね。……よし、生活必需品の準備をしなきゃ!」
「何が必要なんだ?」
シンが身を乗り出すと、一華は指を折りながら説明を始めた。
「当日は絶対に外に出ちゃダメ。ここは五階だから浸水は免れると思うけど、もし一階のエントランスが冠水したらエレベーターが止まるから、移動は階段だけ。それに最悪なのは停電ね。エレベーターだけじゃなく屋上のタンクへの揚水ポンプも止まるから、水道も出なくなるしお湯も使えない。ここ、IHだから料理も一切できなくなるの。部屋は真っ暗でクーラーも止まって……テレビが見えないから外部の情報も入ってこなくなるんだよ……。」
一華の説明を真剣な面持ちで聞いていたシンは、ぽつりと呟いた。
「なるほど……野外の過酷な鍛錬に似ているな。分かった、準備をはじめよう。」
「まずは電源の確保! ポータブル電源! スマホの充電と扇風機くらいは使いたいし、電気ケトルがあればカップ麺が作れるでしょ。あとは飲み水と非常食。日持ちするパンとか……」
一華は買い物リストをメモアプリに素早く入力していく。
ポータブル電源、扇風機、電気ケトル、ペットボトル入り飲料水、パンやカップラーメン、非常食、非常用トイレ、熱中症対策グッズ、懐中電灯、ランタン
「こんな感じかなぁ」
「結構あるな。」
「うん。ただの停電で済むなら、これだけあれば十分乗り切れると思うけど……。」
「『ただの停電』じゃなかったらどうなるんだ?」
「電柱が倒れたり、家の屋根が吹き飛んだりして自宅に居られなくなったら、避難所に行くことになると思う。」
「ヒナンジョ……とは?」
「体育館や公民館みたいな広い場所に、大勢の人が集まって寝起きを共にする場所のことだよ……。」
「……それは良くないな。護衛が難しくなる。」
「ここは頑丈なマンションだし、地震や竜巻でも来ない限り大丈夫だと思うけどね……」
「そうか。ならば、今から買い出しに行くか?」
「そうだね! 直前になると品切れになっちゃうから、早い方がいい。今日はホームセンターに行ってみよう。……ただ、重いし嵩張るんだよね。お母さんがいれば車を出してもらえるんだけど……。」
「重いものは俺が持てば済むが、嵩張るとなるとテレポートしたくなるな。……だが、ダメなんだろ?。」
「流石に人目があるからダメ。今日はタクシーを使おう。」
「タクシー?」
「お金を払えば目的地の目の前まで送ってくれる車のこと。アプリを使えばすぐ呼べるよ。」
「なら、ホームセンターとスーパーの両方を回ろう。」
二人は着替えを済ませ、まずは食材を揃えるために近所のスーパーへと足を向けることにした。
◇◆◇
活気あるスーパーの店内で、二人はカップラーメンや保存の効くロングライフパンをカゴに入れていく。
「ねぇ、夏の暑い盛りに温かいカップラーメンって食べられるかな……?」
「汗だくになるだろうな。だがまぁ、停電が起きなければローリングストックとして普段の食事に回せばいい。あっても困らないだろ。」
シンの合理的な意見に納得し、一華は数種類のカップ麺をカゴへ放り込んだ。
「でも本当に、夏の停電って死活問題だよね。」
「こればかりは、大事にならないよう祈るだけだな。」
「シンでも、祈ることしかできないの?」
「魔力でクーラー動かせない?」
「……魔力でクーラーを動かせないか、か? 魔界で似たような魔力を使ったことはあるが、人間界の精密な電化製品に流せば一発で壊しそうだ。試してみてもいいが?」
「賃貸だから壊すのだけは絶対にやめて!」
「あぁ、分かった、諦めよう。……一緒に祈るか。」
「ふふっ、うん。一緒に祈ろう!」
「他に買い忘れはないな?……よし、次はホームセンターまで歩くか。」
真夏の熱気が充満する道を、シンは大きな食料品の袋を軽々と抱えて歩いていく。
ホームセンターに着くと、涼しいクーラーの風が二人の火照った肌を包み込んだ。大きなカートの中に先ほどの食料品を放り込み、一華はホッと息をつく。
まずは一番の目的であるポータブル電源の売り場へ向かった。
手のひらサイズのコンパクトなものから、キャンプや防災用の本格的な大型タイプまでズラリと並んでいる。
「どの電化製品を使うか、だよね。スマホの充電と電気ケトル、扇風機は同時に動かしたいな。翌朝まで持つかな……復旧までの時間はどれくらいだろ?」
迷う一華を横目に、同時に使う電化製品の消費電力を計算し、それを十分に上回る大容量タイプを選び出した。消費電力に比例するようそれなりに高額で、持ち上げるのも苦労するほど重く巨大な箱だ。
「これひとつあれば、何とかなりそう?」
「あぁ、重さは問題ない。」
シンは事もなげに、ずっしりと重い箱を持ち上げてカートに積み込んだ。
続いて扇風機、電気ケトル、何本ものペットボトル飲料水、冷却シート、ランタンなどを次々とカートへ放り込んでいく。
「……もう買い忘れはないかな?」
「今は思いつかないな。」
「もし忘れてたら、明日また来ればいいか!」
「そうするか。」
「よし、お会計しよう。シン、また『打ち出の小槌』をお願いね。」
「あぁ」
レジで合計金額が表示された瞬間、一華はあんぐりと口を開けて固まった。
普段、自分で買う高額なものと言えば文房具くらいで、大きな買い物はすべて母親に任せていた。服の値段くらいは知っていたし、この前買ってもらった夏服もシンが払ってくれたが、それはまだ想定の範囲内だったのだ。
しかし今日の液晶画面に躍る数字は、桁がひとつ違っていた。女子高生の一華の心臓は、ドクンドクンとけたたましく跳ね上がる。
対照的にシンは一切動じることなく、家族カードを差し出してスマートに決済を済ませた。
品物をカートに積み直し、一華はスマホのアプリで配車を依頼する。
「タクシーが来るまで、あっちのベンチで待とうよ。」
自動販売機でシンはお気に入りのコーラを、一華は果汁入りの天然水を購入し、乾いた喉を潤した。
ゴクゴクと飲み干し、ふたり同時に「「ふぅ……」」と息を吐く。並んでベンチに座るその姿は、どこからどう見ても仲睦まじいカップルそのものだった。
やがてロータリーに目的のタクシーが滑り込んできた。ナンバーを確認し、トランクへ大荷物を積み込んで乗り込む。
動き出した車窓の外を眺めながら、一華は密かに胸を撫で下ろした。
これで、台風を迎え撃つ準備は万端だ。
◇◆◇
台風が最接近すると予想されるのは、翌日の未明。
前日である今日は、朝から風と雨が少しずつ強さを増していた。
リビングでは、ポータブル電源がコンセントに繋がれ満充電を維持している。組み立てた扇風機、水を入れた電気ケトル、懐中電灯にランタン。あらゆる防災グッズが一箇所に集められていた。
冷凍庫には隙間なく保冷剤や食料が詰め込まれ、ペットボトルのお茶もカチコチに凍らせてある。
夕方になり、一華はスマホで最新の台風情報を開いた。
「いよいよ、近づいてきてるね……。」
「あぁ。いつでも来い。」
腕組みをしたシンは、まるで戦に臨む騎士のように凛とした表情を浮かべている。戦闘モードだ。
「停電する前に早めにお風呂に入って、片付けも済ませちゃおう。」
「そうだな。俺はキッチンで簡単な夕食を作っておく。」
「あ、何作ってくれるの?」
「手軽に焼きそばはどうだ? 冷めても美味しく食べられる。」
「いいね! じゃあキャベツに玉ねぎ、人参、もやし、豚肉を出しておくね。」
ざくざくとキャベツを切り、もやしを洗う一華。玉ねぎを手際よくシンに渡し、自分はピーラーで人参の皮を剥いていく。
ふと横を見ると、シンが鼻をグズグズと鳴らし、目からボロボロと涙を流していた。
「うっ……」
「あはは! はいティッシュ、ティッシュ!」
一華は大急ぎで箱ティッシュを差し出す。
「うう……この、目が痛くなる現象はどうにかならないのか……?」
「ゴーグルでもして切る? 今度買ってこようね。」
そんなやり取りをしながら、香ばしい匂いが立ち込め始める。豚肉を炒め、野菜を投入し、火が通ったところで蒸し麺を四人前ほぐし入れた。
「……ねえシン、こんなにたくさん食べるの?」
「余ったら冷蔵庫に入れておく。夜食にもなるだろ。」
「なるほど。カップラーメンはお湯沸かさないといけないもんね。」
「それに、電気が使えるうちは非常食に手をつけたくない。」
「さすが、シン、合理的!」
出来上がった熱々の焼きそばを少し早めの夕食として味わい、片付けと入浴を素早く終わらせた。
夜が更けるにつれ、窓ガラスを激しい雨が叩き、強風がヒューヒューと不気味な音を立てて吹き荒れる。
幸いにも停電は起きないまま、その日は過ぎていった。
明日への備えのため、二人は早めにそれぞれの自室へと引き上げることにした。
◇◆◇
激しい雨音がうるさかったが、どうにか眠りについたものの、数時間後、地鳴りのような猛烈な雷鳴によって一華は目を覚ました。
ピカッと閃光が走り、間髪入れずにドカンと大きな音が響く。雷雲が真上に来ているのだ。
「うぅ……きゃっ……! こわい……っ」
布団を頭からすっぽり被り、両耳を強く塞いだが、身体を揺さぶる震動と音を消すことはできない。一華は暗闇の中で身を縮こまらせ、恐怖に震えていた。
その異変を、廊下を挟んだ向かいの部屋にいたシンは鋭く察知した。
(一華が……怖がっている?)
テレパシーを通して、一華の脳裏へそっと問いかける。
――《一華、どうした?》
――《シ、シン……っ? 雷が……雷がすごく怖くて……。》
――《そばにいた方がいいか?》
――《……うん。来てくれる……?》
――《承知した。》
シンは立ち上がると、無造作に目の前の壁へ手をかざした。
静かな空間に低く響いた空間魔法の余韻とともに、壁の表面が滑らかな円を描いてくり抜かれ、廊下と部屋を繋ぐぽっかりとした『穴』が現れる。
シンはそこを何事もないように歩いて通り抜け、一華のベッドサイドへと歩み寄った。通り過ぎた直後、ぽっかりと開いた穴は仄かな魔力の粒子を散らしながら、一瞬で元通りの壁へと戻っていく。
「一華、大丈夫だ!」
「シン……朝まで、隣にいて……。」
不安で涙目になった一華に懇願され、シンは意を決してベッドへ滑り込んだ。
普段はどんな強敵にも臆さぬ異世界の騎士でありながら、腕の中に収まる一華のあまりの小ささと、柔らかな体温に息を飲んでしまう。(これも護衛の一環だ)と自分に言い聞かせるが、跳ね上がる心臓の鼓動はどうしても抑えられない。
そんな焦りとは裏腹に、ピカッと光り、激しい落雷の音が響くたび、一華はシンの腕の中で肩を小さく震わせ、さらに強く寄り添ってきた。
一華は雷の恐怖で眠れず、シンは腕の中に抱いた一華の存在感と、近すぎる距離感に緊張して眠れない。
初めての添い寝。
一華の頭はちょうどシンの胸元にあり、耳を澄ますと、彼の胸の奥からドクドクと少し早い力強い鼓動が聞こえてきた。
(シンの心臓の音……すごく心地よい……)
頼もしい鼓動を聴いているうちに、一華を包んでいた恐怖は不思議と引き心地、まぶたが重くなっていく。そしてそのまま、静かな深い眠りへと落ちていった。
腕の中で安らかな寝息を立て始めた一華を感じ、シンもまたホッと安堵の息をつく。
遠ざかっていく雷鳴を聞きながら、彼もまた、いつしか穏やかな眠りに引き込まれていった。
◇◆◇
翌朝。
台風はすっかり走り去り、窓の外には見慣れた澄み渡る青空と静けさが戻っていた。
ふと目を覚ましたシンは、まだ自分の腕の中でスヤスヤと眠る一華を見つめた。
このままずっと抱きしめていたい――そんな思いが頭をよぎるが、朝食の準備をしなければならない。一華を起こさないよう、慎重に腕を抜き、ベッドを抜け出した。
(ふー)
シンは自室へと壁をすり抜けて戻り、着替えを済ませる。
台風のために買い込んだ道具類を手早く片付け、キッチンで朝食の仕込みを始めた。
少し遅れて目を覚ました一華は、隣にシンの姿がないことを確認すると、昨夜自分が口にしたお願いを思い出して顔を真っ赤にした。
(『朝まで隣にいて』って私……! どうしよう、どんな顔して部屋を出ればいいの……!?)
真っ赤な顔を両手で叩き、どうにか着替えてリビングへ向かう。
キッチンに立つシンの背中に、なるべく普通を装って「おはよう」と声をかけた。
「おはよう、一華」
シンはいつもと変わらない、落ち着いた声で振り返る。
(あ、よかった……いつも通りだ。)
「結局、停電もしなくて済んだね。お祈りが効いたのかな。」
「あぁ、きっとそうだ。日持ちするパン以外はもう片付けておいたぞ。」
「ありがとう!」
「さぁ、朝食にしよう。」
ダイニングテーブルに向かい合って座り、温かい朝食を口に運ぶ。
普段通りのシンの雰囲気に安心した一華は、ふと思いついた疑問を口にした。
「ねぇシン、魔力で台風を制御したりできないの?」
「魔力で制御、か?」
「うん。台風とか竜巻とか豪雨とか、被害が出そうな天気を魔力で閉じ込めたり……消し飛ばしたり。シンならできそうな気がするんだけど……。」
「そうだな……別の世界へテレポートさせればできなくもなさそうだが、直径何百キロもある巨大な構造物を一瞬で飲み込ませるのは、俺一人では到底無理だな。仮に力で散らそうとしても、台風自体のエネルギーが強大すぎて、再び風雨を引き寄せて悪化させるだろう。」
「そっかぁ……シンの魔力をしてもダメか。『天気を制する者、世界を制す』は実現できないんだね……」
「一華は、天気を制したいのか?」
「私がってわけじゃないけど……最近の天気って極端で被害が大きいじゃない? 被害に遭わないのはただの運だなって思うの。昨日の台風だって、たまたまここは大丈夫だったけど、離れた場所では冠水したり屋根が飛んだりしてるし……」
一華はスープの湯気を見つめながら、穏やかな声で続けた。
「天気を自由にコントロールできたらいいのにね。雨も風も適度で、暑さも寒さも心地いいくらいに抑えられたら、みんなハッピーになれるでしょ?」
「なるほどな。確かにそうだ。……ただ、天気を制する者が『悪人』だったら大きな問題になるな。」
「あ……確かに。うーうん、じゃあそこは魔界の人に管理してもらう方が平和かも!」
「人間界の天気を、魔界人が管理するのか?」
「だって人間界の善人はいつか死んじゃうし、魔界の人なら別世界のことだから私利私欲に走らないでしょ?」
「甘いな。もし魔界人が私利私欲に走ったら『天気制御料』として巨額の金を巻き上げるぞ!」
「えぇーっ!? 魔界人も鬼か悪魔なの!? ダメじゃん!」
一華のツッコミに、シンも耐えかねて吹き出し、二人で声を合わせて大笑いした。
「もうっ、この話は封印、封印だーー!」
一華が笑いながら手を振る。
二人にとって特別な、忘れられない一夜が明けた。
けれど目の前には、いつもと変わらない愛おしい二人の、いつも通りの穏やかな一日が始まっていた。




