第45話 スタージョンムーン【後編】
「コンビニ行くだけだから、ついて来ないで!」
突っ放すような一華の声を聞き、シンは思わず差し出しかけた足をぴたりと止めた。
(……っ)
バタンと閉まる玄関の音が、やけに重く耳に残る。
すれ違いざまに見えた、怯えたような、そしてどこか傷ついた一華の瞳が脳裏から離れなかった。
いつもなら軽口で煙に巻くか、むすっと怒って見せるだけの一華が、あそこまで強く拒絶したのは初めてのことだった。自分が発した『サイコパス』というあまりに直截すぎる言葉が、一華の胸にどれほどの棘として突き刺さったのか。
――ただの他愛のない空想を、どうしてそこまで頭ごなしに否定してしまったのか。
シンは自分の不器用さと、人間の機微に対する鈍感さに苛立ちながら、固く閉ざされたドアを見つめたまま拳を握りしめた。追いかけたい衝動と、これ以上踏み込んではいけないというブレーキの間で、彼の心は激しく波立っていた。
魔力暴走だけは起こさないようにと、シンは魔力感知で一華の状態をそっと追跡する。
一華がお腹をすかせて帰ってくることを思い、せめてもの償いにと夕食の準備を始めることにした。
その頃、一華は近くの公園のブランコで思案に耽っていた。
家を出たのは夕暮れ時だったはずが、いつの間にか太陽は沈み、すっかり夜の闇に包まれて月が顔を出している。
家で待つシンも、暗くなっても帰らない一華を心配していた。
(探しに行くべきか? スマホは持っていたが、鍵は? 俺が探しに出ている時に帰ってきたら? どうすればいいんだ……?)
意を決して、シンは一華のスマホへ発信した。
◇◆◇
一華の気持ちはまだ揺らいでいたが、周囲の暗さに気づいてようやく腰を上げる。
「仕方ない、帰るか……。」
ブランコから飛び降りて「う~ん」と大きな伸びをしたその時、見上げる夜空にぽっかりと浮かぶ満月が目に入ってしまった。
ブレスレットは身につけていたものの、すっかり油断していたスーパームーンの強烈な光を浴びてしまった。
全身に激しい衝撃を受けた瞬間、意識は白く弾け飛び、一華はブランコの下へと崩れ落ちた。
黒猫仁華へ変身してしまった。しかも今回は、同時に満月のパワーまで強く注入されてしまっていた。
一華のスマートフォンから、軽快な♪着信音♪が鳴り響く。
「にゃ、にゃーん……(う、うーん……)」
着信音でどうにか意識を取り戻したものの、黒猫の姿では電話に出ることも、スマートフォンを持ち帰ることもできない。やがて、呼び出し音は虚しく鳴り止んだ。
一華の魔力の異変を感知したシンは、すぐさまテレパシーを送るも応答がない。
(外で魔力暴走が起きたのか……!)
焦燥に駆られたシンは、何としても見つけ出そうと部屋を飛び出した。
まずは一華が向かったはずのコンビニへ走るが、姿はない。
(今までに行ったことがある場所は……公園、駅、学校か……)
かすかに公園の方向から強い魔力を感じ取り、シンは一直線に足を向けた。
――《連絡取れにゃいにゃし、仕方にゃいにゃ、テレパシーするにゃ。》
必死の思いでシンへ送ったテレパシーが、近くまで来ていたシンの頭に直接響く。
――《一華か? 大丈夫なのか? どこにいる?》
――《公園のブランコにゃー!》
――《仁華になったのか……?》
――《そうにゃ、今日はブレスレット効かにゃかったにゃー……。》
やり取りの最中、シンが駆け足で公園に到着した。ブランコの下で小さくなっている黒猫を、シンは慌てて抱き上げる。
――《ふぅ、貞操の危機脱出にゃー……。》
――《お、おまえ……っ、てっ、貞操の危機って……野良猫にでも襲われたのか?》
――《黒猫の姿で夜中に外に出たら、野良猫に襲われるってママに禁止されてたにゃ……! それより、スマホ取ってにゃ!》
一華の頼みで、シンは足元に落ちていたスマートフォンを拾い上げる。
――《スマホだけか? ブレスレットは?》
仁華の前足に引っかかっていたブレスレットを見せると、シンは小さく息を吐いた。
――《話は後だ。とりあえず帰るぞ。》
仁華を優しく抱きしめ、シンは急ぎ足で家路を急ぐ。
しかし、ひとつの大きな懸念が頭をよぎる。
(一華の姿で家を出て、黒猫の姿で帰っている。防犯カメラに絶対に映っているはずだ……どうにか処置をしないと。)
シンが複雑な思案に耽りながら歩く一方、抱き抱えられる黒猫の姿のまま、一華もまたシンの顔を見上げて(どう謝ろうか)と頭を悩ませていた。
二人は無事に部屋へ帰り着き、シンが仁華を床にそっと下ろす。
「一華に戻れるか?」
シンの問いかけに合わせるように、黒猫の姿から元の一華の姿へと戻る。途端に、シンは元の姿に戻った一華を力いっぱい抱きしめ、心からの安堵と謝罪を零した。
「無事でよかった……! 言い過ぎた、本当に悪かった、ごめん。」
「うっ……く、苦しいーっ!」
もがく一華に慌てて腕の力を緩め、シンは再び「ごめん」と頭を下げる。
何度も謝るシンの姿を見て、一華もまた、自分の非を認めて謝ることにした。
「私の方こそごめん、調子に乗りすぎた……。」
「いや……」
「私が変なたとえを出したのは……何が犯罪かを知っていないと、本当に正しく魔力を使えないと思ったからなの。やっていいことと悪いことの判断はちゃんとできるから。……無知って本当に怖いし、『無知は身を滅ぼす』って言うでしょ……。」
一華の真剣な言葉に、シンはわずかに目を見張る。
「やっていいこと、悪いことの判断? 無知は身を滅ぼす……?」
「そう。人間は、やろうと思えば悪いことなんていくらでもできちゃう。でも法治国家である以上は、法律が善悪を決める。できることでも『犯罪になる』って知っていなければ、していいことなんてわからないじゃない?」
「……例えば、オンラインカジノとか有名だよ。この国では違法だけど、合法の国に行けば認められている。合法の国でサイトを開いて、違法な国にいる人たちも参加できる……。この国にいる限り違法なのに『大丈夫』と言われて何万人も利用していた。実際に捕まった人の中には、『犯罪とは知らなかった』なんて言う人もいくらでもいたし。誰もがカジノは違法という事は知っているから、分かりそうなことなんだけどね。」
シンの表情が引き締まる。
「……あー、そうだな。魔界は法治国家じゃないから、『できることはやってしまう』のが常識だった。俺も人間界の常識に考え方を改めないとな。人間界では俺が、魔界では一華が。」
「うん……」
「本当に悪かった。お腹空いただろ、ご飯にしよう。」
気まずさと安堵が入り混じる中、シンが一人で作っていたハッシュドビーフを温め直して、二人はテーブルに向き合った。
「シン、ありがとう。これ、泣きながら作ったんだね。」
「……っ。泣きながらではない。タマネギの刺激で涙が出ただけだ。」
「ははは、もう、強がらなくていいよ。……うん、美味しいよ。ありがとう。」
一華は、シンが一人で料理して待っていてくれたことへの感謝を伝えたつもりだ。決してからかったわけではない。
その後、一華は部屋を出てからの出来事を一通り説明した。コンビニに寄ったあと、偶然理那と浩輔に出会い、公園で自分を心配してくれていたこと。気づいたらすっかり暗くなっていて、帰ろうとブランコから降りて伸びをした瞬間に意識を失い、仁華に変身してしまったこと――。
「待て。理那と浩輔が、なんで二人でいたんだ?」
「デートの帰り道に、理那ん家まで送り届けるところだったみたい。」
「デ、デート……? 二人でか? 直哉と真由はいないのか?」
「うん。浩輔君って本当に紳士だよね。理那、愛されてるよねぇ。」
「そ、そうか……。それで、満月を見た時にお願いでもしたのか?」
「する暇なんてなかったよー、一瞬だったもん。」
「スーパームーンは、通常の満月よりもさらに強大な力なのか……?」
「魔力が完全に覚醒するかどうかはわからないけど、仮にテレポーテーションが使えたとしても、私は善悪の判断ができるから心配しないでいいよ。」
「わかった。……それにしても、いつまた覚醒するかわからないんだよな。」
「そうだね。まぁ、実際にテレポーテーションなんてそうそうしなさそうだけど。」
「あ、そうだ。理那と浩輔君に心配かけちゃったから、『シンと遊びでテレポーテーションができるようになったらどうするって話になって――海外旅行は密入国かな、遊園地や映画館の入場料も払わなくてよくなるね、なんて言ったら、シンが悪に使うのかとか犯罪だぞって怒り出して、しまいにはサイコパスかって言い出したんだ』って、説明しておいたから。」
「……説明しておいたって……(……それじゃあ完全に俺が悪者じゃないか……!)」
テレポーテーションなんてしないと言っていた一華に、見事に振り回されていることに気づいたシンは、深い脱力感を覚えた。
(俺が悪魔なら、一華は小悪魔か…!?)
波乱の一日が終わろうとしていたが、シンにはまだやり残した仕事があった。公園の監視カメラのデータ確認は翌朝にするとして、まずは今日のマンションの防犯カメラ画像から処理をしなければならない。
自室に戻ったシンは、そっと魔力を巡らせる。
マンションの防犯カメラの映像データにアクセスし、一華が飛び出した時間帯の記録を丹念に洗い出す。
(……17時過ぎ、これか。一華の姿が映っている部分だけ……削除、完了。)
無機質な画面を消したあとも、シンの胸の動悸は静まらなかった。あのときすぐ一華を追いかけ、引き止めていれば――という悔恨がいっそう重くのしかかる。だからこそ、これ以上のリスクから一華を守り、自分のせいで生じた綻びを完全に拭い去らなければならないという焦燥感が、シンの行動を駆り立てていた。
◇◆◇
翌朝、夜が明けきる前の静寂の中。 一華が目を覚まさないよう、シンは「ジョギングに行ってくる」と偽装して、早朝の公園へと足を向けていた。
ブランコが映りそうな死角を慎重に確認する。出入口と奥に一台ずつ設置されたカメラのレンズを見上げながら、シンは昨夜の痕跡を思い返す。
シンは再び魔力を集中させる。
(……データ保存場所。この公園の管理は自治会か……あった。昨日の夜19時半ごろ……これだな……削除、完了。)
(ふぅ……)
他に足跡や魔力の痕跡がないかを入念に探索し、証拠のすべてを完全に消し去る。その几帳面な作業の裏には、取り返しのつかない事態を招きかけた恐怖と、『一華の日常を何としても守り抜く』という、不器用ながらも深い誠実さと愛情が込められていた。
その頃、マンションのクーラーが効いた涼しい自室では、一華がお姫様ベッドのふかふかな布団にすっぽりと包まれ、のんびりと熟睡を続けていた。
シンは一華を起こさないよう、足音を殺して静かに自室へと戻っていった。




