第18話 ルナ・セージ伝説
新月の日にコンビニへアイスを買いに行って数日後、月は再び夜空に満ち始めていた。
一華は、黒猫仁華としての初めての「お散歩」をシンに持ちかける。
一華は期待に満ちた瞳でシンに提案した。
「ねぇ、シン。月は出てきているけど、仁華として外に出る練習したいな。仁華としての初めてのお出かけ!」
シンはすぐに了承した。
「いいだろう。一華の精神的な解放にも繋がる。護衛を兼ねて、飼い主として一緒に出掛けよう。」
シンが準備を整えたことを確認し、一華はリビングの窓を開けた。夜空には三日月が確認できる。月の光が部屋に差し込んだ瞬間、一華の体内に衝撃が走り、小さな黒猫仁華に変身した。
シンは窓を閉め鍵をかけると、仁華を抱き上げ、パーカーの中へしまい込む。玄関の鍵をかけて、二人は静かに家を出た。初日は抱いたままの散歩とする。
黒猫仁華の話す声は、月夜の住宅街に猫語として響いているが、シンには魔力通信によって魔界語で正確に聞こえている。しかし、人間界で魔界語を発することはできないため、シンは人間界の言葉で返答する。
仁華は、シンのパーカーの胸元から顔を出し、星の少ない夜空をじっと見上げていた。
「にゃ~んにゃにゃ……(シン、月が綺麗にゃね。魔界の月と一緒かにゃぁ。)」
「変わらないな。同じく綺麗だよ。」
「にゃにゃん……(私たちと同じものを見てるのかにゃぁ?)」
「うーん、どうだろう。同じと言っても間違いないとは思うが、異世界というのは次元が違うだけで、同じところに存在している。同じと言えば同じか。」
「にゃん~……(そうにゃんだ)」
シンは、仁華をパーカーの中で抱きながら、住宅街を抜けて公園へと歩いていた、その時。
目の前の静かな住宅の玄関ドアが、「バンッ!」と激しい音を立てて開き、一人の人影が飛び出してきた。それは、まだ小学生の面影を残す、ブレザー姿の女子中学生だった。彼女は泣きじゃくりながら、制服のスカートも気にせず、全速力で駆けてきた。その顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっており、尋常ではない様子だ。
シンは慌てて警戒を強くした。
「うわっ!」
シンは慌てて道を空けたが、中学生は足元がもつれたのか、道の真ん中で派手に転倒してしまった。
「ううっ……っく……!」
彼女は起き上がろうと手はついたが、そのまま、さらに大声で泣き続けた。ただごとではない親子喧嘩か、あるいは学校でのトラブルだろう。
(どうする……? これは人間の、しかも中学生のプライベートな問題だ。俺が魔力で介入することはできないし、トラブルに巻き込まれるわけにはいかない。)
シンが立ち尽くしていると、パーカーの中にいた仁華が、素早く飛び出し、地面に飛び降りた。
「おい、仁華!」
シンは慌てて手を伸ばすが、間に合わない。
仁華は、シンが止める間もなく、転んで泣いている中学生のもとへ、トコトコと歩み寄った。中学生は、自分の目の前に小さな黒猫がいることに気づかず、ただひたすら泣き続けている。
仁華は、中学生の制服のスカートの裾に、そっと肉球を乗せた。
子猫のような、優しく、弱々しい甘える声で声をかける。
「にゃ~ん……(大丈夫にゃか~)」
中学生は、突然足元に感じた温かい感触と、小さな命の鳴き声に、ハッと顔を上げた。涙でぼやけた視界の中に、まん丸の金色の瞳をした黒猫がいる。その猫は、自分を心配するように、じっと見つめている。
仁華は、前足で、中学生の涙で濡れたスカートを、ポンポンと軽く叩いた。
「にゃんにゃあ……(大丈夫にゃよ。泣かにゃいで。)」
その優しげな仕草は、中学生の張り詰めていた心を、ふっと緩ませた。中学生は、すすり泣きながらも、小さな黒猫に手を伸ばした。
「ねこ……ちゃん?」
仁華は、彼女の伸ばした手に、そっと頭を擦りつけた。
「にゃにゃ~ん……(家に戻ろうにゃ? きっとママが心配してるにゃよ。)」
その時、仁華の体に、微かな金色の光の粒子が浮かんだ。
シンは少し離れた場所から、その光景を見ていた。彼の魔力感知が警告を発する。
(あれは、月華草の魔力と一華の感情が同調した際の光だ! 一華は、無意識に『感情の安定化』の魔力を放出しているのか……?)
中学生は、黒猫を抱き上げると、そのふわふわした温かさに、少しだけ笑顔を見せた。
「ありがとうね、ねこちゃん。もう大丈夫……かな。」
彼女は、黒猫を優しく撫で、来た道を振り返った。家の中から、心配そうな声で「ユマ!」と呼ぶ母親の声が聞こえてくる。
中学生は、黒猫を一撫でした後、そっと地面に下ろし、立ち上がると、自宅の玄関に向かって歩き出した。
仁華は、中学生が家の中に入っていくのを見届けてから、シンの足元に戻ってきた。
シンは仁華を抱き上げ、再びパーカーの中にしまい込む。
「お前……まさか、無意識に魔力で感情のコントロールまでしてるのか?」
「にゃにゃあ~?(ただ、にゃいてるのを見ると、放っておけにゃかっただけにゃよ。)」
ため息をつくシン。
「まったく、肝が冷えたよ。急に飛び出すな、一華。」
「にゃあ~にゃ(仁華にゃよ。シンは優しいにゃね。あの子を放っておけにゃかったんでしょ。)」
「俺が優しいんじゃない。お前が勝手に飛び出したんだろう。それに、あんな風に泣いている人間にどう接すればいいか、俺にはまだよくわからない。魔界には、微妙な感情を理解するための教育なんてないからな。」
シンは、そのまま公園へと足を向けた。夜遅く、当然ながら公園には誰もいない。シンは、ブランコに腰掛け、ゆっくりと空を見上げた。
シンは、パーカーの中の仁華をそっと取り出し、膝の上に座らせた。
「……なあ、仁華。さっき、お前があの女子中学生を慰めていたときのことだ。あの子が、お前の体に触れた瞬間、お前から微かな金色の光の粒子が立ち上ったのを、俺は見た。」
丸い瞳をさらに大きくした仁華。
「にゃにゃん?……(光の粒子にゃ? 魔力にゃか?)」
「おそらく、そうだろう。あの光は、月華草の魔力が活性化した時のような光だった。そして、あの光は、まるで『癒し』の波動を放っているように感じた。」
シンは、ブランコを止め、真剣な眼差しで黒猫仁華を見つめた。
「お前は、猫になったことで、人間としての『理性の壁』がなくなり、その奥にあった『共感の魔力』が解放されているのかもしれない。あの月華草の魔力は、お前の『治療』のためだけじゃなく、この『共感の魔力』を増幅させるために必要なものだったんじゃないか?」
シンは、かつて魔王ハオから聞かされた魔界の伝説を思い出した。
「魔界には、古くから伝わる『月の賢者』の伝説がある。彼らは、『感情』をエネルギーに変換し、他者の精神をコントロールする術を持っていたと。」
「にゃにゃ?……(私が月の賢者の血筋……?)」
「ああ。叔父上は、お前を元に戻すために『月華草』を届けさせたが、もしかしたら、叔父上の真の目的は、お前を元に戻す過程で、この『共感の魔力』に気づかせることだったのかもしれないな。」
シンは、パーカーの中に仁華をしまい込み、ブランコから立ち上がる。今日はここまでと家路につく。
◇◆◇
帰宅した仁華はパーカーから飛び出した。
仁華はペンダントに手をかざして心を落ち着け、「すーはぁー(すぅにゃぁ)」と深呼吸をすること数回、ペンダントの力だけで一華に戻ることができた。シンの力を借りずに戻れたのも毎日、飲み続けた月華草のお茶の力が蓄積していたからだ。
人間になった一華は、体を抱きしめる。
「はぁ……体が重い……。」
シンは心配そうに駆け寄る。
「どうした、一華。魔力の消耗が激しいのか?」
「魔力じゃなくて、心が消耗したみたい。 黒猫で共感の魔力が発動したら、心が疲れてるような。」
「心が消耗……?」
「うん。嬉しいことに共感することは、自分も嬉しくなってパワーをもらえる。でも、逆だった場合、誰かに傷つけられた人に共感したら、その人と同じく傷ついてしまう。さっきの子の悲しみが、まだ私の中に残ってる気がする。」
シンは表情を硬くする。
「そうか……共感とは、相手と同じ感情を経験することだ。回復する力を持ち合わせなければ、いずれ心が蝕まれるな。」
「そう! 回復させる術を身につけなくては……。何か方法ある?」
シンはすぐに脳内でデータを探す。
「俺たちは、魔界製のベッドで休むことで体力や気力を修復して回復させることができる。一華の魔界製のベッドも、叔父上がその機能を考慮して製作しているはずだ。」
目を見開く一華。
「そうなの!? そういう機能もあるなんて魔界製はすごいね。人間界のベッドは身体の事だけだもんね。思いもしなかったよ。なんだ、心配しすぎだったのかぁ!」
「杞憂だったな。安心したよ。」
笑顔になり、目の横で人差し指と中指を立て横ピースをする一華。
「今日は消耗しちゃったから、パワーを注入だわ!」
シンは一華を見て微笑み、一華と同じように目の横で人差し指と中指を立て横ピースのポーズをとる。
「ああ、パワーを注入しよう。」
一華とシンは、笑い合いながら『パワー注入』のポーズをして、魔界製のベッドに滑り込んだ。




